淡海 槐堂 おうみ かいどう
   

菊図

秋涼霜已重 黄筆滿籬笆
爲厭春醜(女+其)艶 只載正色花
       天江査客

江馬天江
 秋涼已に霜を重ね 黄筆 籬笆(=笆籬 竹垣)に満つる
 爲に春の醜い艶に厭(あき) 只だ正色(=本来の色)の花を載せる

  (兄弟合作)
槐堂の落款はなく、「臣緝印章」「頑仙史」の印が押されている。
あるいは、「臣」とあることから、明治以降の作品で、天江も菊華(=天皇家と解されるので)を「黄筆」としたのかもしれない。
129.9p×44.3p

文政5年(1822)生〜明治12年(1879)歿
 本名は緝、別称は重涂・緝・敬天・頑山。坂田郡下坂中村(現長浜市)の医師下坂篁斎の子として生まれた。龍馬より13歳年上になる。勤王の詩人・江馬天江は実弟。「下坂」家は、中世浅井氏の家臣として活躍した豪族。3歳にして京都の薬種商・武田家に養子に入った。「武田家」は「おひや薬」という薬で有名で、『都の魁』(明治16年)という絵入りの京都案内にも載るくらい立派な薬舗だった。槐堂は志士に対し資金援助をしたが、この養子縁組があったからこそ可能だったと思われる。資金援助は、政変落ちの七卿や、天誅組・長州藩などにおこない、中岡慎太郎が慶応3年10月11日に金300両を借りた覚えも残っている。
 安政2年(1855)に、醍醐家に仕え板倉姓を賜い、従六位に叙し筑前介に任じられた。これから幕末維新の時期まで「板倉筑前介」を名乗る事になる。彼は尊王攘夷派の志士として坂本龍馬・中岡慎太郎らと共に倒幕運動に奔走し、京に出入りする志士たちから慈父のごとく敬慕されたという。

 龍馬が中岡慎太郎と近江屋で暗殺されたときに、部屋にあった寒椿と白梅図の掛軸「梅椿図」は、槐堂が龍馬の誕生祝いに自ら描いたもの。龍馬らのものとされている数箇所の血痕が残るこの掛け軸は国の重要文化財に指定され、京都国立博物館に所蔵されている。
 池田屋事変にも板倉筑前介が絡んだ。土佐の野老山吾吉郎(輝郎)・藤崎八郎(誠輝)の二人は池田屋事件の犠牲とされますが、池田屋に集合していたわけではない。同日(元治元年六月五日)、三条小橋付近で新撰組(あるいは会津藩兵とも)に誰何をうけ、20名に囲まれ重傷を負った。野老山は長州藩邸に逃れるものの27日刀傷で死亡し、藤崎は寓居に帰り着き、後に大阪藩営に移されるが死亡した。この二人が尋ねようとしたのが板倉筑前介だった。『淡海槐堂先生略伝』には「元治元年甲子六月五日、三条池田屋ニオイテ闘争アリ…此時ニ微傷ヲ負ヒテ逃レタル土藩ノ藤崎某ナル人ヲ先生ノ家ニテ創ヲ治シテ後ニ他ニノガレシメル」とある。

 一方、板倉筑前介が鳩居堂七代目当主熊谷直孝を撮影した写真は、京都最古の写真として京都市有形文化財に指定された。3枚の内2枚は湿板写真、1枚は印画紙への焼き付け写真。写真が収められた木箱に『安政6年撮影』(1859年)とあり、これは、この2年前に写された『島津斉彬像』(銀板写真)に次いで古い写真と考えられる。熊谷直孝は熱心な勤皇家で志士への援助はもとより教育にも力を入れ柳池小学校の基礎を築いた。
 また、このほど淡海槐堂の肖像写真の原本が、同市内で見つかった。撮影年は不詳だが、幕末研究者や写真専門家らの間で関心を呼んでいる。ガラス板に塗った感光剤が湿っている間に撮影する湿板写真で、大きさは縦10.5p、横7.5p。片ひざを立てた板倉は、ちょんまげを結って刀を差し、鎧や、家紋の入った陣羽織などと一緒に写っている。同市内に住む板倉の子孫が霊山歴史館(東山区)に寄贈した。市文化財保護課では「当時の写真は年代を経るにつれ小型化する傾向にあった。板倉の写真は熊谷のものより小さいので年代は新しいだろう」という。写真史家の中村邦昭は「板倉は日本最古の写真を取った薩摩藩とも交流があり、彼らから学んだ技術や知識で撮影したのでは。熊谷の写真に比べて不鮮明なのは、自分で調合した薬品を使用したかもしれない」と話している。

 板倉筑前介は長藩兵禁門の変に敗れ捕えられたが、のち赦された。慶応4年(1868)3月に大津裁判所参謀を仰せ付けられたことから醍醐家を退身している。この時点で板倉姓を返上し淡海姓と改め、「淡海筑前介」と称した。が、その方針と相容れないところがあったらしく直ぐに辞職し、明治3年には位記を返上して悠々自適の生活に入り、槐堂を号した。この時期から「淡海槐堂」を名乗る事になった。太政官から士族に仰せ付けられたときの記録に「淡海槐堂」とある。
 なお、槐堂の姓名を変えていく経緯を見ると、板倉姓を止めた後に槐堂を使い始めているので「板倉槐堂」と名乗れる時期はなく、「板倉槐堂」と称するのは誤り。
 その後は静かに暮らし明治12年(1879)58歳で没した。


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