乾 淡江 いぬい たんこう
   

夕陽數峯遠
靄々江南思
煙外有鐘聲
山僧獨歸寺
辛酉秋日
夕陽 数峯遠し
靄々(=もや)たり 江南思う
煙外 鐘声有り
山僧 独り寺に帰る
辛酉(=大正10年)秋日
138.4p×34.5p

明治7年(1874)4月10日生〜昭和4年(1929)4月11日歿
制作年 大正10年(1921) 48歳
 山梨県東山梨郡山村に大村藤兵衛の次男として生れる。名は角太郎、字は蔵角、角、かく然ともいい、又、百芝山房道人、無礙光斎とも称した。
 甲府中学より済世学舎(医学校)に入学、医師を志す。明治27年大阪府三島郡安威村乾家の養子となる。日清戦に海軍軍医部に配属され、旅順に赴いた。中国に在って用務の傍ら研究した書学と法書、古碑の探求とが、後日の淡江の書法理論の根幹をなしたと見ることが出来る。
 淡江は杜逢時・洪以南・許鈞(当時台湾の三筆といわれた書家)等と親交があり、書に対する基本的な問題を検討する機会を得た。この頃から淡江と号した。明治39年帰国、東京神田一ツ橋に書法学院を設立し書法の教授を始める。大正の中頃、淡江社を結成した。
 「淡江書」の下に、白文の「蔵角」、朱文の「淡江海外歸来之書」の落款印が押されている。

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http://www.tankousha.jp/about/tankou/index.html


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