井部 香山 いべ こうざん
   

人間家室輕離合
昨日東隣今日西
莫道二星相見少
千年長是焦夫妻
七夕有感
人間の家室(=夫婦) 離合(=離れることと合わさること)軽し
昨日東隣 今日は西
(い)う莫(なか)れ 二星 相見ること少しと
千年の長き是れ 夫妻と焦(こが)れる
    
133p×28p

寛政6年(1794)生〜嘉永6年4月8日(新暦1853年5月15日)歿
 西野嶋村の村役人 井部佐平治の三男で、幼名は万三郎、名は鳴、字は子鶴、香山・五華山人と号した。学問を志し、子供のころ変わり者といわれながら二十歳代後半まで独学で学問を収めた後、文政3年(1820)27歳の時、江戸の葛西因是(林述斎の門人)の門を叩いた。が、三年後、因是は亡くなった。
 天保年間の始め(1830年頃)、築地軽子橋(東京都中央区)辺りに独立した家塾(香山塾)を開いた。天保14年(1843)には、水野忠邦に招かれ、領地の浜松に赴き、藩校の教授を務めた。これ以後三年間、香山は江戸と浜松を行き来し、浜松藩士3000人を教育したといわれている。
 香山の名は諸大名たちの中にも次第に広まり、飯山藩の本多家・岸和田藩の岡部家など大名の江戸藩邸で講義することが多くなった。また、高田藩で『明史稿』の翻訳・出版にあたった木村愚山の師であることから、高田藩にも招かれ、翻訳・出版事業の指導にあたった。
 香山は江戸で三度の火災に遇い、多くの書物や文具を失った。しかし、これを特に惜しむこともなく、淡々とした性格で、むしろ人に施すことを好んだという。
 香山には多くの門弟がおり、木村愚山・森休郷・井伊宗孚・井部健斉等がいる。井部健斉は田中潜蔵であり、井部見・井部潜とも名乗り、子供の亡かった香山の養子となり、昌平黌の教授となって活躍した。
 清貧に甘んじ、気管支系の病気にかかりながら、厳しい学究生活を続けたが、嘉永5年の冬、ついに倒れた。翌嘉永6年(1853)4月8日、60歳でその生涯を閉じた。
 「五華山々人鳴」の下に、朱文の「井部鳴」、白文の「子鶴之印」の落款印が押されている。

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