秦 滄浪 はた そうろう
   

柳家舊友緑如絲
飛向覇橋簡別離
清獨山中華幾嵐
氷姿不釋月明枝
柳家の旧友 (柳の枝の)緑 絲の如し
飛向う覇橋 別離の簡(=手紙)
清く山中に独り 華 嵐に幾(=幾許)
氷姿(=真っ白な梅の花)(=釈迦)にあらず 月 枝に明るし

=古の中国では、知人や友人の旅立ちの際には、必ず柳の枝を折って輪を作り、再会を祈る風習があった。また、楊(楊)は美しいものとして、垂楊はさびしいものとして愛でられてきた。

覇橋=中国の歴史上で最も古い大型の橋のひとつで、西安東部の交通の要衝。古代の潼関路、蒲津関路、藍田路の3つの街道が覇橋で合流していたため、東部から長安に入るとき・出るときは必ず覇橋を渡らなければならなかった。
秦の始皇帝が楚を征伐する王翦を見送った場所で、秦の子嬰が劉邦に投降した場所でもある。
125.5p×28.5p

宝暦11年4月8日(新暦 1761年5月12日)生〜天保2年7月1日(1831年8月8日)歿
 美濃(岐阜県)出身。名は鼎、字は士鉉。通称、嘉奈衞。滄浪、小翁、夢仙と号した。
 苅谷藩の儒者、秦 峨眉(1716-1791服部南郭門下、本巣郡真桑村の人)の長男。父に従い家学を承け、更に細井平洲に学ぶ。寛政2年(1790)尾張名古屋藩に仕え、翌年藩校明倫堂典籍,のち教授となる。
 校勘に優れ、著書に『春秋左氏伝校本』』『左伝周観』『国語定本』『左伝世俗解』『古詩記』『周易解』『荘子因』『世説新語補』『韓文起』『文選李善註』『詩韻含英』等々多数。
 また、詩文を善し、能筆の誉れも高かったが、狂草の甚だしきを以ってきこえた。その博識と驕慢は、毀誉褒貶を招き、やがて失脚した。
 「滄浪鼎」の下に、白文の「秦鼎之印」、同じく白文の「士鉉子」の落款印が押されている

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