花房 義質 はなぶさ よしもと
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人一たび之を能くすれば己之を百たびし、人十たび之を能くすれば己之を千たびす。 果たしてこの道を能くすれば、愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強なり。 |
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『中庸』二十章 | ||
123.5p×39.8p |
天保13年1月1日(新暦 1842年2月10日)生〜大正6年7月9日(新暦 1917)歿 |
明治時代の外交官。岡山藩士・花房端連の長男で、岡山県出身、初名は虎太郎、長嶺居士と号した。佐久間象山に私淑し儒学を修め、緒方洪庵の塾で蘭学を学ぶ。幕末維新期に藩主の命を受け国事に奔走する一方、慶応2年には香港・インドを経てフランス・イギリス・アメリカを外遊した。 明治3年(1870).7月 対等条約締結の調査のため清国に差遣された柳原前光に随行、同5年(1872).8月 朝鮮国釜山に遣わされる。明治6年(1873)10月 ロシア公使館書記官として榎本武揚公使を助け、同8年(1875)樺太千島交換条約を締結する。明治9年(1876).10月 外務大丞として朝鮮に赴き、釜山の倭館敷地を特別居留地とし、次いで同12年(1879).3月 公使として朝鮮に駐在し、外国使臣として初めて国王高宗に謁見した。 壬午事変(1882)により公使館が襲撃を受け脱出帰国したが、再び赴任して済物浦条約(1882)を締結し、公使館護衛の名目で駐兵権を得た。のちに駐露公使を務め、明治20年(1887) 7月 農商務次官、同21年(1888).11月 宮中顧問官、同28年(1895).7月 帝室会計審査局長を歴任する。次いで明治36年(1903).8〜明治42年(1909).6月まで2度にわたり宮内次官を務め、明治40年(1907).9月 子爵、さらに明治44年(1911).12月 枢密顧問官、大正元年(1912).12月 日本赤十字社社長を歴任した。 日本の対朝外交の干渉的路線を敷き、積極外交の先鞭をつけた。 次男の松田重直は、甲州流軍学師範松田重徳の養嗣子となり、後に海軍少匠司(造船技官)となった。三男の花房直三郎は法学博士・統計学者で、初代内閣統計局長として第一回国勢調査を担当した。 「長嶺居士書」の下に、白文の「花房義質」、朱文の「長嶺荘主」の落款印が押されている。 |