深田 精一 ふかだ せいいち
   

餘閑一尺是摩尼
即向茲中覓句時
蹔令家庭停啓事
念頭恭捧未園詩
餘閑(=暇・すきま)一尺 是れ摩尼(=宝珠の一つ)
即 茲の中に向かう 覓句(=作詩にあたり苦しんで良い句を探し求める)
(しばらく)(=命令)す 家庭の啓事(=申し上げる事柄)を停するを
念頭(=こころ・考え)恭捧(=恭しく捧げる) 未だ園(=まどかな)詩ならず
130p×42p

享和2年(1802)生〜安政2年(1855)12月27日歿
 深田家七代。尾張藩儒官深田香実の長子として生まれた。名・字・通称ともに精一といい、百信庵・放下叟・木石居と号した。
 幼い頃から父香実に従って江戸で学び、特に漢詩にすぐれて10歳の頃には神童と呼ばれた。兵学は中山訓練に学び、この方面でも頭角をあらわした。
 天保10年、尾張藩では11代藩主斉温の死去に際し、斉温に子がなかったことから将軍家斉の11男斉荘(実は斉温の兄)が12代藩主となったが、これを是とする江戸勤番の藩士と幕府より藩主を迎えることに反対し、支藩の高須家から松平秀之助(のちの14代藩主慶勝)を擁立すべきだとする在藩の者たちの間に対立が生じた。
 松平秀之助を推す一派は金鉄組とよばれ反幕府の姿勢を示したが、精一も首謀者の一人となり、『踰等放言』を著して同志に示した。
 また、この頃(40歳頃)には、父香実と学風が異なるとはいうものの多く尊敬を集め、学者・文人たちとも頻繁に交流し、小田切春江の『善光寺道名所図会』の序文など、彼らの求めに応じて序・跋文などに筆をとることが多かった。特に、岡田文園・野口梅居などによる『尾張名所図会』に多大な協力を寄せたことが伝えられている。煎茶法にも詳しく、『木石居煎茶訣』(1849刊)を著した。
 安政2年、病床にあった時は14代藩主慶勝から氷砂糖など見舞の品が届けられたという。
 引首印は「庚戌歳揮」、「百信居士精一」の下に、朱文の「深田精一」、朱文の「字号?精一」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/01_soutai/06-3_hu/02-1_ka/owari_hukada/hukada_seiiti.html
http://www.ne.jp/asahi/kotouji/suenokomichi/urahp/senchakiwotanosimu/senchakiwotanosimu.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:mZS2aeX6a5gJ:www.mytown-nagoya.com/zue/index.html+%E6%B7%B1%E7%94%B0%E7%B2%BE%E4%B8%80&hl=ja&ct=clnk&cd=4&gl=jp&lr=lang_ja
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http://plaza28.mbn.or.jp/~takasuhan/kougitu.html
http://mokusai.web.infoseek.co.jp/kaiinkikou/kimongakumyakukeihu.html


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