藤田 小四郎 ふじた こしろう
   

琵湖驚衆著鞭先
綽々致身何傑然
翻怪諫争無殉■
侠名空與寶珍傳
琵湖 衆を驚かして 鞭先(=功名を争う)著し
綽々(=ゆったりとして)に身を致して 何ぞ傑然(=人より優れている)
怪を翻し 争いを諫め 殉■無し
侠名空しく与して 宝珍伝わる
詩の内容からして、石山合戦(天王寺の戦い―元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけての、浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い)を詠んだと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
http://1582nouzi.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/70_1a90.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/tennoujinotatakai.htm
http://tenkafubu.fc2web.com/honganji/html/tennoji.htm
http://ncode.syosetu.com/n0231b/48.html
128p×28p

天保13年(1842)生〜元治2年2月23日(新暦 1865年3月20日)歿
 幕末の水戸藩士。藤田東湖の四男。藤田幽谷の孫。名は信、字は子立。東海・天行と号し、一時期小野贇男と変えたこともある。母は東湖の妾であった土岐さき。
 幼児より父の薫酔を受け、文久3年(1863)藩主徳川慶篤の上洛に随従した際に、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流した。これにより更に尊皇攘夷の思想に拍車をかけ、水戸藩過激派の首領格として台頭し、東西呼応しての挙兵をはかったが果たせなかった。
 そこで元治元年(1864)3月、朝廷より攘夷の勅が出されながらも無策を続ける幕府に憤り、尊王攘夷の同志など60人余りが集結して筑波山で天狗党を挙兵(天狗党の乱)。しかし、戦い利あらず、
 武田伊賀守(耕雲斎) を盟主として佐幕派の藩士に占拠された水戸城奪還を目指すも、救援にやって来た幕府軍によって敗れ去り、一橋慶喜(水戸藩主の実弟)を頼って中山道(木曾路)を経て京都に向かった。が、当時禁裏守護職にあった慶喜は彼らを不穏分子として捕縛、小四郎ほか23名の天狗党幹部は越前国敦賀で処刑された。明治24年(1891)贈正四位。
 「天行健」の下に、白文の「藤健之印」、朱文の「天行居士」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B0%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/mitogaku/s02a.html
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/kaiten06.htm
http://spysee.jp/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B0%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E
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http://fine-vn.com/cat_41/ent_52.html
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu2/kosirou.html
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%93%A1%93c%8F%AC%8El%98Y/
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi03/chi03_03535_0043/index.html
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi06/chi06_03890_0173_0005/index.html
http://shouin1859.gifulog.com/e42599.html


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