土井 聱牙 どい ごうが
   

半生生虱愧徒捫
人事如棋未易論
且曳藤管去尋句
薫風諾後水邊村
半生(=人生半ば) 虱(しらみ)生ずるも 徒(いたづら)に捫(なで)るを愧(はじ)る
人事 棋(=囲碁)の如く 未だ論じ易からず
藤の管を曳いたり 尋句を尋ねて去ったり
薫風 諾後 水辺の村
  捫虱=無頓着で辺りを構わない
139p×31p

文化14年(1817)生〜明治13年(1880)歿
 幕末・維新期の儒学者・書家。伊勢津藩儒医土井篤敬の次男として生れる。名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔、聱牙と号し、別号は松径。兄の没後12歳で家禄190石をつぐ。藩儒川村竹坡・斎藤拙堂に学び、藩校有造館助教・講官となり、弘化2年「資治通鑑」校訂(有造館版資治通鑑)をおこなう。明治2年、督学となる。経学は清朝考証学を好み、歴史地理にも通じる。
 一方、詩文・書画等、文人・趣味人として、また勝れた教育家として知られ、多くの著述を残している。聱牙は竹が大好きで、家のまわりにいろいろな種類の竹を植えた。障子に映った竹を手本にして、墨でたくさんの竹の絵を描いている。紀州高野山、僧大鵬の描いた墨竹巻物の研究にも熱心で、研究書も書き残している。

 津藩では漢文を学び始めた子どもたちが早く漢文や漢詩を覚えることができるようにと「百人一首」と同じように百枚の漢文のカルタをつくり、ゲームのように楽しんで覚えられるようにした。カルタは非常に盛んに行われ、いろいろな漢文のカルタが作られた。今も聱牙が作ったカルタの実物がのこっている。
 同様に、今、私たちが楽しんでいる「五目ならべ」は、江戸時代の終わり近くにブームになったという。「五目ならべ」は、「五石」などさまざまな呼び名があるが、聱牙は、「格五」と名付け、そのルールや理論、そして実戦譜(実際の闘いの記録)の本『格五新譜』を著し、出版した。聱牙の塾に各地から集っていた門入たちによって「五目ならべ」は全国にひろまった。(「五目ならべ」は、現在は「連珠」の名で呼ばれている)
 聱牙の勉強のモットーは「大読書」だった。津の城に聱牙の漢詩を彫った石碑が建っている。その詩は「書生に示す」という題で、「たくさんの本を読む人は、聖人・賢人というべき立派な人である。努力だけが自分の力を補うことができる。だから朝も夕も、そして夜は明かりのもとで精神を集中して本を読みなさい。そうすればさまざまな多くの本を読み解くことができる。」と書かれている。聱牙は、まず第一に読むべき本は『資治通鑑』だと言う。そして何度も読むようにとも言っている。しかも読む時には大きな声で音読をさせた。聱牙の家の前を通るといつも、塾の生徒たちが読む大きな声が聞こえた、という。
 明治13年に聱牙が亡くなったあと、次男の楓井古斎が後を継いて、「涑水舎」という漢学の塾を開設した。「涑水舎」という名は、聱牙が最も尊重した『資治通鑑』を書いた司馬光が、中国の涑水郷で、「涑水先生」と呼ばれたことから名付けられた。この塾は、楓井古斎がなくなったあと、聱牙の弟子の芽原白堂が自宅で引き継ぎ、昭和4年まで続いた。(参照サイト)
 「聱牙詩畫」の下に、白文の「土井恪印」、同じく白文の「士恭氏」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/bunkaka/article.php?articleid=466
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/goga/goga.html
http://homepage1.nifty.com/nagaragawagarou/modern-doigouga.htm
http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/bunkaka/article.php?articleid=453
http://www.edoshoga.jp/new05july2.html
http://www.edoshoga.jp/new05july3_1.html
http://www.edoshoga.jp/new05july3_2.html


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