山田 親良 やまだ ちかよし
   

一自元兇出境奔
風雲漸復奪乾坤
頻傳和議慶得到
那識聯盟争所存
禁弛人々初買醉
兵歸戸々遣通婚
窮言戰勝諸強國
須記天戈應援恩
時事偶帖
巳未三月
石叟時七十七
一自の元兇(=悪事の中心人物) 出境に奔(はし)
風雲 漸(=次第に)復た 乾坤(=天地)を奪うも
(しき)りに和議を伝え 慶こび得るに到たる
(いかんぞ)識る連盟(=国際連盟) 争所 存するを
禁を弛(ゆる)めて人々 初めて酔(=酒)を買い
兵 帰って戸々に 通婚(=結婚)を遣(や)る
言を窮める戦勝諸強国
(すべか)らく記す天戈(=帝国軍) 援恩に応ず

巳未(=大正8年 1919)
139p×34.5p

天保14年(1843)生〜不明
制作年 大正8年(1919)
 親良についての資料は、ほとんど見つかりませんが、日下部鳴鶴が交流した菘翁の門人の中に畑柳平・吉田公均・越智仙心・内村鱸香・松田雪柯らとともに名があります。
 また、「笠取尋常高等小学校沿革史」(笠取村役場)に、「明治17年(1884)4月26日、移転開校式に宇治郡長山田親良の来臨を得た」とあります。
 落款に「巳未三月 石叟時七十七」とあり、 巳未(=大正8年 1919)から逆算し、数え年を考慮すると生年は天保14年(1843)となり、収蔵する同氏の作品と一致します。
 「石叟時七十七」の下に、白文の「山田親良」、朱文の「伯榮氏」の落款印が押されている。

末裔の徳光都妃子様からメールを頂き
旧家のご先祖の名前は、「山田親良」(号を石叟)といいます。
「山田親良」は、江戸時代まで醍醐寺の坊官でした。
神仏分離令の後に、醍醐寺を離れ各地の郡長や知事をされました。
退職後は、京都市伏見区醍醐の実家で、書画にふける生活を送ったようです。
その中で、様々な文人との交流があり、漢詩添削を受けて至り手紙のやり取りがあったようです。
特に長尾雨山とは親しかったように思います。
とありました。


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