山田 親良 やまだ ちかよし
   

登極儀何盛
百官會舊都
九衢佳氣溢
雙闕景雲紆
黼座鐫麟鳳
華旛繍鵄烏
壽詞徐奏讀
万歳歘歡呼
尋擧大嘗典
顓依神代模
吉蠲陳醴糈
微妙響笙竿
酺謙晝連夜
賜飧豊且腴
君臣情藹々
中外樂愉々
紹述維新業
張皇興國謨
南洋開版籍
東土勞禽俘
武烈乾坤震
仁聲遠邇敷
陋哉流俗士
歌頌比唐虞
大禮恭賦
登極(天子の位につく)の儀 何と盛んなことよ
百官 旧都に会す
九衢(都にある九つの大路) 佳気溢れる
双闕(宮殿の門外に建てられた一対の望楼) 景雲紆(め)ぐる
黼座(天子の御座所)(麒麟)(鳳凰)を鐫え
華旛(美しい旗) 鵄烏を繍す
寿詞(天皇の御代の長久繁栄を祝って述べる言葉)(おもむろ)に奏読し
万歳歘(たちまち)歓呼す
挙を尋ねる 大嘗典(天皇が最初に行う新嘗祭・おおにえのまつり)
(うらやましい)依って 神代模す
吉蠲 醴糈(神に供える精米)を陳べ
微妙に笙竿響く
(さかもり)は謙(あまんじる) 昼連夜
飧を賜って 豊且つ腴(こえる)
君臣 情藹々(うち解けてなごやか)
中外(朝廷と民間)は 愉々(和らぎ喜ぶさま)を楽しむ
紹述(事業制度を引き継ぎ) 新業に維(つな)
張皇(広げて大きくする)たり 興國の謨(政府の企画)
南洋(太平洋の諸国)は 版籍(領土とその人民)を開き
東土は 禽俘(とりこ)を労(ねぎら)
武烈(軍事上の功績)は 乾坤(天地)を震わせ
(仁徳を備えた人)の声は遠迩(遠近)に敷(あまね)
(せまい)哉 俗士(見識が低くつまらぬ人)に流れるを
(賦)は唐(陶唐=堯)(有虞=舜)に比して頌(たたえ)

21.1p×18p

天保14年(1843)生〜不明
制作年 大正4年(1915)
 大礼とは、天皇の即位の儀式のことで、大嘗祭のことです。明治4年(1871)と大正4年(1915)に行われました。
 親良についての資料は、ほとんど見つかりませんが、日下部鳴鶴が交流した菘翁の門人の中に畑柳平・吉田公均・越智仙心・内村鱸香・松田雪柯らとともに名があります。
 また、「笠取尋常高等小学校沿革史」(笠取村役場)に、「明治17年(1884)4月26日、移転開校式に宇治郡長山田親良の来臨を得た」とあります。
 このことから、この作品は大正4年(1915)に行われた大礼の際に書かれたと推測されます。この年は、第一次世界大戦の始まった翌年に当たります。詩文に見られる「南洋開版籍、東土勞禽俘」とも結びつくと思います。
 とすれば大正4年に(数え)73歳ですから、生年は天保14年(1843)となります。
 「七十三叟親良」の下に、白文の「親良」の落款印が押されている。

末裔の徳光都妃子様からメールを頂き
旧家のご先祖の名前は、「山田親良」(号を石叟)といいます。
「山田親良」は、江戸時代まで醍醐寺の坊官でした。
神仏分離令の後に、醍醐寺を離れ各地の郡長や知事をされました。
退職後は、京都市伏見区醍醐の実家で、書画にふける生活を送ったようです。
その中で、様々な文人との交流があり、漢詩添削を受けて至り手紙のやり取りがあったようです。
特に長尾雨山とは親しかったように思います。
とありました。


参考文献一覧      HOME