長 梅外 ちょう ばいがい
   

東風従是託餘生
放浪江湖無限情
殘月斜陽倶不悪
煙波影裏結鷗盟
東風 是れに従って 余生を托す
放浪 江湖(=世の中) 無限の情
残月 斜陽 倶に悪からず
煙波(=靄の立ちこめた水面)の影裏 鴎 盟を結ぶ
107.4p×28.8p

文化7年4月6日(新暦 1810年5月8日)生〜明治18(1885)年10月28日歿
 幼名は加脳、名は允、字は允分・允文・世文、梅外・南梁と号した。
 医者の従超(後に長谷良民)の長男として生まれ、初め医学を学び、医者を生業としていたが、のち廣瀬淡窓に学んだ。経史・字学にも精通し、詩・書を能くした。
 天保10年(1839) 豊前彦山の座主甘露明王院に招かれてその祐筆となって入山し、心遠処塾を開いて僧徒に経学や詩文を教授している。
 江戸末期の頃世情不安から尊皇思想が高まり、梅外もこれを奉じて衆徒達に説いた。天保の末から梅外は京阪・九州各地を巡って志士と交わり、嘉永3年(1850) 長崎・天草・柳川・稙田(大分市)で子弟を集めて教育した。
 安政2年(1855)には宇佐郡四日市に茂園学舎を開き、文久2年(1862)には速見郡石垣村(現別府市) へ移った。

 梅外は長男光太郎(三洲)、次男愛次郎(春堂)、三男倉之助(子翼)、四男綱吉(古雪)と皆咸宜園に入門させた。
 文久3年(1863) 長男三洲と次男春堂が攘夷活動を行ったため、一家は代官窪田鎮勝の追跡を受けて四散した。
 慶應2年(1866)頃になると勤皇活動している長男三洲への日田郡代の追求が厳しくなり、その関係で梅外・春堂にも及んだ。梅外は春堂の連絡により難を逃れて毛利藩萩の藩校明倫館の教授となったが、春堂は捕われの身となり慶應3年10月11日風邪をこじらせ31才で獄死した。征討軍に従った三洲は明治新政府に出仕した。

 梅外は還暦を迎え、又一と改名し、三洲に迎えられて東京に移った。明治13年斯文会を起こして講師となり指導にあたった。
 著作に『左伝彙箋』『在迩録』『古今異字叢』『梅外詩抄七巻』『唐宋詩醇抄5巻』『詩書評釈』『同拾遺』『春堂遺稿』がある。

 「梅外小史」の下に、朱文の「長允」と陰刻の「長世文」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/chou_b.html
http://www.hita.ne.jp/~city/his/baigai.htm
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=ti&s=20
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1033.html
http://graveofcelebrity.web.fc2.com/Tama/Cho1211722.html


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