草場 佩川 くさば はいせん
   

窓前移数箇。
堪作納風媒。
苦熱三庚日。
對君呼快哉。
窓前 数箇を移す。
堪えて作す 風を納めて媒す。
苦熱三庚の日。
君に対し 快を呼ぶ哉。  
27p×100p

天明7年(1787)生〜慶応3年(1867)歿  
 肥前多久の人。名は鞾、字は棣芳、若い時は善三郎、通称を瑳助、号は佩川、宜齋・索綯・濯纓堂主人・玉女山人等とも号した。嘉永3年(1850)頃から、それまで使用した「珮川」という号を「佩川」に改めている。草場船山は子。
 多久の東原庠舎ついで弘道館で学び、東原庠舎の教職を勤めたが、儒学、漢詩のほか、絵画でも抜きんでた才をもち、多久領から派遣されて長崎の江越繍浦に入門したほどであった。のち南宗画に転じ、「墨竹画」を得意として「詩・竹の佩川」と称された。また、武術にも優れていた。
 江戸で古賀精里に入門し、昌平黌に入学した。文化8(1811)年、対馬における幕府の朝鮮使節仕出迎えにあたった古賀精里に同行し、絵入りの『津島日記』を著わした。
 多久に帰郷後は東原庠舎教授として生徒や村方の教導にあたり、また、多久領主茂澄の側近、有能な経済吏として領の政治を担った。
 学者、漢詩人として、古賀穀堂、井内南涯、正司考棋、秀島鼓渓ら佐賀、唐津の藩儒、民間学者だけでなく、頼山陽、篠崎小竹、広瀬淡窓、広瀬旭壮、菅茶山ら著名な学者、文人とも広く交友した。また谷文晁との交流も知られる。
 天保6(1835)年7月、佩川は佐賀の弘道館教職の命をうけた。親交の深かった古賀穀堂の推薦があったのだろう。陪臣から本藩の藩儒・直臣への登用だが、自身の病弱、主人の茂澄と藩主直正との確執などがあって気がすすまなかった。おりしも、佐賀藩は本格的な藩政改革と学政改革に着手した時であり、弘道館教育を担う者としての重要な役割が期待された。あれこれ悩んだ末の、弘道館赴任であった。
 佐賀では弘道館教職の傍ら私塾を営み、本・支藩士や陪臣を教育した。また、支藩の学校への出張講義、支藩主や重臣の屋敷での講義など、藩内最高の碩学として遇された。のちには幕府儒官の要請もあったが高齢を理由に辞退した。安政6(1855)年には教授に昇格した。佩川は下記の漢詩にあるような真摯な朱子学者であった。
 血気盛んで時代の変動に鋭敏な大隈八太郎、大木民平ら秀俊の学館生たちは、弘道館教育に飽き足らなさを感じ、朱子学ひいては儒学の有効性を問いかけ、行動を起こした。彼らから佩川は堅物の学者と煙たがられ、不満の対象ともなった。しかし、弘道館教育の徹底によって佐賀藩の興隆がありえたと考えれば、藩士の基礎学力、教養、精神、徳性の育成をしっかり担った草場佩川の功績は極めて大きかったといえる。
 引首印は「竹香」、「佩川鞾」の下に、白文の「佩川」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www2.saganet.ne.jp/ko-si/kenjin/kenjintati.htm
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-198.html


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