宮原 節菴 みやはら・せつあん
   

跨海斬長鯨
海を跨いで 長鯨を斬る (李太白句)
133p×31p

文化3年(1806)生〜明治18年(1885)10月6日歿 
 備後・尾道の人。名は龍、字は士淵・季泉、号を節菴・潜叟・易安・栗村などと称し、初め頼山陽に師事して詩文を修め、師の死後、江戸へ出て昌平黌に遊ぶ。1841年京都に戻って学塾を開く。
 節庵の生活態度は、師山陽を忠実に学んでいた。山陽関連の短文が多くあり、世間は彼を先生の 遺業を伝える役目をしているように見ていた。節庵は、生活の中心に愛情を置き、愛情を信じて行動した人物である。
 幕末の変換期に」あくまで世に出る事を拒み通し、その心は強い愛によって、家族・師弟・友人と繋がっていた。節庵の生涯の夕べは、先師追慕のうちに暮れていったという。その書に、『節庵遺稿』四巻等がある。
 京都大徳寺中黄梅院に葬られている。
 「潜叟宮原龍」の下に、白文の「宮原龍印」、朱文の「潜叟」の落款印が押されている。

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http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-369.html


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