菅 茶山 かんちゃざん
   

晩見児産走柴荊
却剋集有捕蟲情
捕來且枚南窓下
徹夜啾々上壁鳴
晩に児を産するを見 柴荊(あばらや)を走る。
(しりぞけ)け剋(か)ち集まる有りて 虫を捕らえるの情
捕来たりて且(まさ)に枚(声を立てないように口にくわえるもの) 南窓の下
徹夜で啾々(しくしく泣く様子)として 上壁で鳴く
124.5p×20.7p

延享5年2月(1748)2月2日生〜文政10年8月13日(新暦1827年10月3日)歿
 名は晋帥、字は礼卿、通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。農と酒造を業とする豪農・菅波久助(樗平)の長子として生まれる。
 18歳の時 学に志し、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。
 故郷に帰り、1781年(天明元年) 34歳の時、神辺(現在の福山市)に私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。村童に初等の学問を教え、皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され「廉塾」と名が改められた。
 また、1803年(享和3年)襲封した阿部正精は、茶山に急ぎ出府を命じたので、茶山は1804年(文化元年)1月から10月まで江戸に滞在して藩主につかえた。10年後の文化11年にも彼は再度出府を命ぜられて、江戸に9ヶ月止まっている。
 化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。著書に『黄葉夕陽村舎詩(初編・後編・遺稿)』・『筆のすさび』などがある。廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭、北條悔堂、河崎敬軒などがいる。
 「晋帥」の下に、白文の「菅礼卿」、同じく白文の「菅晋帥」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E8%8C%B6%E5%B1%B1
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/kan-tyazan/kan-tyazan.htm
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/sakusya/kan-chazan.htm
http://oak.zero.ad.jp/teru/gakusyu/nihonkansi/tyazan/index.html
http://www8.ocn.ne.jp/~chazan/
http://www8.ocn.ne.jp/~chazan/kinenkan.htm
http://www.kyosai.or.jp/~kannabe/kan.html
http://www.saitama-u.ac.jp/kanshi/kansazan/touya.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E8%8C%B6%E5%B1%B1_(%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F)


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