谷 如意 たに にょい
   

一片澤光溢於面
數升瓢醁滿其胸
呼號無事知何意
霏似主人靜坐容

野逸市田兄所愛蔵一巨瓢
容温厚質堅實端然
靜坐有似君子容
儀戯○此以似
野逸兄一粲
兄宣命此瓢曰無事也
一片の沢光 面に於いて溢れ
数升の瓢醁(うまざけ) 其の胸に満つる
無事を呼号(盛んに言い立てる)す 何の意 知る
霏々として主人の静坐の容に似たり

野逸市田兄 所愛蔵の一巨瓢
(=姿)は温厚 質は堅実端然
静坐有り 君子の容に似たり
儀戯○ 此れを以って似たり
野逸兄一粲
兄 命を宣べる 此の瓢曰く 無事也
153.5p×35p

文政5年3月25日(新暦 1822年5月16日)生〜明治38(1905)年12月26日歿
 名は鐵臣、字は百練、大湖と号し、晩年には如意山人と号した。江州彦根藩士、澁谷周平の長男で、少時より学を好み、才名があり、若年にして江戸に上り、林復齋・佐藤一齋の門に入り経義を受け、のち諸国を遍歴し、長州に至り、和蘭の医術を修めて郷里に帰り、家業の医を継いだ。
 幕末に際しては、諸名家と交り、勤王の主義を固持し、藩政に参画し、しばしば藩主を助けて功をたてた。
 明治2年(1869)朝廷より徴士に召されたが、これを固辞し、専ら藩政につとめた。廃藩の後、大蔵大丞に任ぜられ、ついで左院の一等議官になったが、明治6年一切の官を辞し、住居を京都に移し、如意山人と号し、儒雅風流をもって過ごした。
 明治18年(1885)には宮内省支庁の御用掛を命ぜられたが、間もなく罷めた。
 はじめは朱子学を修めたが晩年には陽明学に転じた。西村茂樹が弘道会を起すや、その京都支部長となり、その教化につとめ、たびたび講演などをした。
 「瓢逸人谷鐵臣」の下に、白文回文の「谷鐵臣印」、朱文の「瓢逸」の落款印が押されている。

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