村瀬 太乙 むらせ たいいつ
   

奉詔跨鞍鞭月明
樹間顧影屡停行
忽鳴腰笛遥相答
認得琴心戀々聲
詔を奉じて鞍に跨り 月明に鞭(むちう)
樹間顧影 屡(しばしば) 停行
(たちま)ち 腰笛鳴いて 相答えて遥れる
認め得たり琴心 恋々の声  
132.5p×40p

享和3年7月7日(新暦 1803年8月23日)生〜明治14年(1881)7月3日歿
 名は黎(又は青黎)、字は泰乙、幼名を外次郎、後に泰一と称した。初め晦園または泰一・梅園・太乙堂・放屁先生と号し、後は専ら太乙と号した。
美濃国武儀郡上有知村(現 岐阜県美濃市)の豪農 村瀬周助の次男として生まれる。幼少期、曹洞宗善応寺晦巌善知に学ぶ。同村に有名な漢学者の村瀬一族、藤城・立斎・秋水三兄弟がおり、のち村瀬藤城の梅花村舎で学んだ。
 彼は藤城に愛され、その推挽で、文政8年(1825)23歳のとき、頼山陽の内弟子となり、8年間遊学して大成した。山陽没後、一時帰郷するが、天保8年(1837)、名古屋長島町に私塾を開く。
 弘化元年(1844)、犬山成瀬家の私学校、敬道館の督学となった。以後、明治3年(1870)まで名古屋に住む。明治維新によって、犬山藩が解散してからは、犬山の陋屋に隠棲し、悠々自適の生活の中で、数多くの作品を残した。その作品は、淡墨による軽妙・瓢逸とも言うべき独自の世界で、人気が高く、禅的な独特の画風で知られる。
 彼の詩・書・画は、尾張藩が招聘し藩校明倫館で詩を教授した清国の学者金華水をして、三絶(詩・書・画の三道に卓越した人)の刻印を自ら製作して贈らせたほどの実力を持っていた。太乙は自分の作品を自負して、弟子などの作る太乙偽作を問題とせず、また、落款印を押すことさえ黙認していたという。彼の作品の真偽は、その作品の線質・構図など全体を吟味する必要がある。
 彼は放屁の癖があり、人前でも平然として放ち、また、煙草が大好きで人並み外れた大きな煙管を使用し、その量も人並み以上であった。殿への進講中でも放屁御免・煙草が黙認されていたという。
 太乙の戯画賛の中には儒官の資質を問われるほどワイセツ風なものがある。また、封建時代では考えられないような反体制的ともとられる放言もある。晩年の太乙の風体は、名僧の如く、古武士の如く、また学者先生を絵に描いたような人であったという。無位無冠、老いた妻と生涯未婚の娘、出戻りの娘との貧しい長屋暮らしに少しも屈託することなく、犬山の人々から「タイホツさま」と敬愛され、街中を飄々と闊歩していた。彼は貧窮のどん底にありながら、超然として高士の風を失わなかったという。(参考文献『村瀬太乙 その生涯と作品』向井桑人著)
 引首印は白文の「行雲流水」、署名はなく、白文の「村瀬黎」「村瀬太乙」「放屁先生」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/taiitsu/taiitsu.html
http://www.library.pref.gifu.jp/map/fudoki/htm/207/207048.htm
http://www.geocities.jp/nagaragawagarou/taiotsu.htm
http://www.icm-jp.com/colldata/art7.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-921.html
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/tojo/murasebosho.html


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