巌谷 一六 いわや いちろく
   

一鼓九連降
鳳皇唾手取
僅々不経旬
二城旭幟樹
一鼓 九連降りる
鳳皇(=鳳凰) 唾手(=簡単に出来ることのたとえ)取る
僅々 旬を経ず
二城 旭幟樹す
132.7p×50.8p

天保5年2月8日(新暦 1834年3月17日)生〜明治38(1905)年7月12日歿
 滋賀県近江の人。名は修、字を誠卿、通称を辨治・立的、別号を古梅・迂堂・金粟道人などと称し、一六と号す。家は代々水口藩の待治(医師)であったので16歳の時、医学を三角東園に、経史詩を皆川西園・家里松涛に、書を中沢雪城に、画を藤本鉄石に学ぶ。
 江馬天江・富岡鐵齋らと幕末の国事に奔走し、明治維新後、政府に仕えて内閣書記官・元老院議官・貴族院勅選議員など歴任し政治家として活躍した。
また、書家として有名で、初め雪城に菱湖流を学び、趙子昂に私塾したが、楊守敬が來日すると日下部鳴鶴・松田雪柯と共にその門を叩き六朝風の書体を会得し、別に一六流の一派を開いた。著に『一六遺稿』がある。
 引首印は朱文の「華甲以後所作」、「一六居士修」の下に、白文の「修字誠卿」、朱文の「金粟」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E8%B0%B7%E4%B8%80%E5%85%AD
http://fine-vn.com/cat_7/ent_78.html
http://www1.ocn.ne.jp/~go79dou/zatsuwa13.html
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen39.htm


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