後藤 松陰 ごとう しょういん
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梧竹森々として 松柏青し 此中何者ぞ 幽清を占う 相す 它(蛇)と白鶴 旧時の観 彷彿として碁石の声を聞く如し 山水の画に題す |
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130p×45.5p |
寛政9年(1797)生〜元治元年(1864)歿 |
名は機、字は世張、通称は俊蔵・春草、松陰、鎌山人、兼山人と号した。安八郡森部村に医師、後藤玄中の二男として生まれる。16歳で菱田毅斎の私塾の塾長を務めた。 毅斎のすすめにより、山陽が京都で私塾を開いたときの最初の弟子となる。九州の旅行にも荷物持ちとして付いて行き、長崎で母の病気の報に接して、渋々、美濃の故郷に帰った。山陽は、この性質の優しい従順な弟子を 愛していて、故郷に居る彼にたびたび手紙を送って指導・激励をした。 文政3年、大阪に塾を開く。文政8年朱子学者、篠崎小竹の娘町子と結婚。大阪時代、詩の広瀬旭荘、文の松陰と呼ばれた。村瀬藤城と並ぶ山陽の高弟で、山陽の死後、その遺稿を公判し『日本外史補』を著したり、若い弟子達を統率したりした。 引首印は白文の「松陰」、「松陰主人機」の下に、白文の「後藤機」、朱文の「世張」の落款印が押されている。 推奨サイト http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/shouin/shouinten.html http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/shouin/shouin.html |