柴野 粟山 しばの りつざん
   

忽看霞色照西樓
夜檻精華暎乎流
何處玉峯修真島
紫凝紅散暮天秋
忽ち看る 霞色 西楼を照らす
夜の檻(=欄干) 精華(=麗しく) 流に暎る
何処の玉峯 真に島を修める
紫を凝らし 紅を散らす 暮天の秋
126p×50.2p

元文元年(1736)生〜文化7年(1807)歿
 修して柴という。名は邦彦、字は彦輔。讃岐高松の人で、八栗山の近くで生まれたので栗山と号した。また古愚軒とも号した。
 18歳で江戸に出て昌平黌の林復軒に学び、阿波藩につかえて儒員となる。のち1788年(天明8)幕府に召されて昌平黌の教官となり、朱子学を厚く信奉して、古学を排斥し、松平定信による「寛政異学の禁」は、彼の建議がいれられたものである。また、古賀精里・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」といわれ、林述斎とともに、官学昌平黌の学問を復興させた中心人物の1人であった。
 栗山は池大雅、韓天寿、高芙蓉などとも交わり、書画法帖の鑑識にも精しく、その文集にも書のためにかいた多くの題跋が残されている。
 彼が68歳のとき、市河米庵の『米家書訣』のために序文を書いている。それによると、自分では古法帖を観たり、筆をとって書いたりするのは好きであるけれども、実際はあまり手習などをしたことはなく、ただ自分の好きなままに楽しみで書いているにすぎない。それでも人から頼まれると断わりきれないので、月に幾十百枚となく書いているといっている。
 多少の謙遜の言葉もあろうが、書名は高かったと見えて、このようにたくさんの揮毫をしていたと思われる。それでもまた書家ではないのでいたって気らくな気持で書いていたようである。
 漢文作家としても、唐宋八家の古文をよく消化し、荻生徂徠の古文辞派が衰えてのち、格の正しい漢文をはじめて書いた人で、文集に『栗山文集』6巻がある。
 一面また勤王家であったともいわれ、その識見は『栗山上書』にみられる。
 引首印は「古愚心」、「栗山」の下に、白文の「柴邦彦」、同じく白文の「柴彦輔」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E6%A0%97%E5%B1%B1
http://www2.plala.or.jp/rituzan/rituzan/index.html
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http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20061121000111
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-274.html


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