長町 竹石 ながまち ちくせき
   

宝暦7年正月29日(新暦1757年3月18日)生〜文化3年8月15日(新暦1806年9月26日)歿
20.5p×17.5p
 高松城下の南新町の薬屋に生まれる。名は徽、通称は徳兵衛、竹石の号で画家として知られた。江戸にでる。
 磊落な人柄で、客を愛し、池大雅や凌岱の風格を慕っていた。中国の古画によって画法を研究し、一家をなした。とりわけ、山水に秀でていた。
 野呂介石、僧愛石(池大雅の高弟)に竹石を加えて、世に三石といわれた。僧愛石は初め野呂介石に学び、のち元・明諸家の遺蹟、先哲の画風を研究して一家を成す。池大雅を慕い、山水を能くした。野呂介石は伊藤蘭嵎に儒学を学び、紀伊藩御用絵師となった。
 享和3年、高松八代藩主・松平頼儀の知遇を受け、のちに1年あまり江戸にとどまっているあいだに、諸名家と交わった。その名声は、ひろく江戸でも高まった。酒を愛し、酔えばフクロウの真似をしたり、ハトのなき声をしたり、サルの表情をまねたり、ユーモラスな一面もあった。微酔で筆をとれば、描くところ、ますます妙、詩をつくれば、酒の酔で、これまた妙、しかも愛酒は、長寿につながる妙薬であった。そこで世の人たちは、竹石の三徳といっていたという。
 竹石の没後、50年近く経った嘉永6年(1853)発行の『古今南画要覧』には、最上段にその名が見える。また、文化9年7回忌法要を、霊源寺でつとめた際には、全国の雅人の書画300が集まったといわれる。
 この絵は古賀精里・皆川淇園・河村文鳳・与謝蕪村らとともに屏風に貼られていたもので、周囲に糊の後が残っている。
 「竹石」の下に、朱文の「竹石」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/tikuseki/tikuseki.htm
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/2nmts001.html
http://72.14.235.104/search?q=cache:qXZSorKxlMwJ:www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php%3Fkey%3Dna%26s%3D180+%E9%95%B7%E7%94%BA+%E7%AB%B9%E7%9F%B3&hl=ja&ct=clnk&cd=11&gl=jp&lr=lang_ja
http://72.14.235.104/search?q=cache:TwpHCiKiVcQJ:www.ms-machi.com/story/+%E9%95%B7%E7%94%BA+%E7%AB%B9%E7%9F%B3&hl=ja&ct=clnk&cd=18&gl=jp&lr=lang_ja


参考文献一覧      HOME