藤森 弘庵 ふじもり こうあん
   

雨霖々泥滑々
牛汗滴耙牛腰没
揮鞭叱々何急遽
平隴草生不得齕
昨日吏来戒税期
今日吏来嗔税遲
芸臺未晒麦未苅
牛々兮々莫言疲
漢家丞相燮理勉
何時一来問汝喘
牛耕  弘庵大雅
  雨霖々(=やまない)として 泥滑々(=滑る)たり
  牛汗滴らし 耙(スキ)牛腰没す
  鞭を揮って 叱々(=しかる) 何ぞ急遽
  平隴(=地名)草生ずるも 齕(=噛む)を得ず
  昨日 吏来たりて 税期を戒め
  今日 吏来たりて 嗔税遲を嗔る
  芸臺(=あぶらな)未だ晒(=乾かす)さず麦未だ苅らず
  牛々兮々として 疲を言う莫れ
  漢家丞相 燮理(=やわらげ治める)勉め
  何の時か一び来りて 汝の喘(=あえぎ)を問う
   
130p×57.5p

寛政11年(1799)生〜文久2年(1862)10月歿
 名は大雅、字は淳風、通称は恭助と称す。弘庵はその号で、天山とも号した。父は義正小野侯に仕え、母は堀越氏の娘で、信濃国諏訪廟視某に生まれる。
 幼くして学を好み、志を貫いて一心に励み、下位にあっても天下の憂を忘れず、弱冠にして父の後を承け祐筆となった。世子侍読を兼ね、世子嗣立した。
 弘庵は事を論じて権威に逆らい、職を辞した。始め柴野碧海・長野豊山・古賀穀堂・古賀?庵等に従って学んだ。最も詩を善くし、また書も巧みだった。訓詁にとらわれず、常に気骨のある文章で自らを評して、「士不幸にして当世に志を得ざれば即ち宜しく言を立てて不朽に伝う可し。夫の一身存滅の如きは世の軽重する所取るに足らざるなり」と。
 土浦侯土屋相模守は彼を賓師として迎え、学政・郡務を兼ねさせ、郁文館教授として文教を興して吏弊を改めた。しかし、反対に遭い、弘化の始め(1844頃)江戸に居を移し、門人が益々増加した。
 嘉永6年(1853)黒船来航にあたり、幕府の対応に憤激して、『海防備論』二巻を著わした。そして水戸烈公を奉じて時務を建白し、『芻言』六巻を上した。烈公は嘉奨し、大藩も禄を厚くして招く者もあったが、「吾れ二君に仕える欲せず」と固辞して断った。
 井伊大老は安政の大獄で、弘庵は人心を鼓動するとして重刑をもって処すとしたが、実際は田野に隠居させた。四方の士は争ってその門に赴いたという。
 巻き止めに森春濤の識があり、引首印は「弘庵」。「弘庵大雅」の下に、白文の「弘庵大雅」、同じく白文の「淳風氏」の落款印が押されている。

推奨サイト
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