辻本 史邑 つじもと しゆう
   

   風そよぐ 奈良のおかばの
      夕暮れは
        禊ぞ夏の
           しるしなりけり
                  史邑かく
  
127p×31p

明治28年(1895)生〜昭和32年(1957)歿
 奈良県磯城郡川東村の生まれ。本名は勝己。字は士礼。史邑は号、別号を寧楽庵主人・江村。吉田熊吉の次男。
 明治43年16歳のとき奈良県師範学校に入学し、大正4年に卒業。ただちに附属小学校訓導となり、小学校『書き方』教育に専念した。傍ら書法を近藤雪竹・中村春堂に学び、井原雲涯・丹羽海鶴・山本竟山などからも教えを受けた。7年24歳のとき、中等学校習字科教員検定試験(文検)に合格し、奈良県師範学校教諭となった。13年奈良県立奈良中学校教諭となり、翌14年31歳のとき月刊誌『書鑑』を発刊した。昭和2年高等官六等の待遇を受け、3年34四歳のとき教員を退職した。同年戊辰書道会の第二審査員を委嘱され、書壇で注目を浴びるようになった。7年泰東書道院を脱会し、東方書道会の創立に参画した。
 21年52歳のとき、日本書道院を結成し執行委員長になった。翌年日本書道院の会頭になり、23年日展に書が加わって審査員を委嘱された。24年日本書道院は日本書芸院と改称され、会頭に重任された。翌年奈良学芸大学講師となり、28年59歳のとき日本芸術院賞を授与された。31年、朝日新聞社の現代書道二十人展に作品を出品した。日展参事(初代審査委員)・日本書道作振会幹事。
 門下から村上三島・広津雲仙・今井凌雪らが輩出し、関西書壇の興隆に大きな影響を与えた。著書に『習字教育の根本的革新』などがある。
 史邑は、50代後半までは明・清の書に注目し王鐸風、劉?風・何紹基風・金農風を書いたが、晩年近くの60歳前後になって富岡鉄斎・仙屋の書に私淑として鉄斎風の顕著な書に変化した。63歳のときの〈杜甫・1中八仙歌〉と〈白楽天五絶三首〉は、鉄斎風の酒脱な書で史邑の書の特色がもっともよく表われている。
 「史邑かく」の下に、朱文丸判の「史邑」の落款印が押されている。

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http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/tsujimoto-shiyuu/tsujimoto-shiyuu.htm


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