永坂 石埭 ながさか・せきたい
   

題餻落帽未為難。
欲插茱萸鬢已殘。
明日登高用何典。
風々雨々一樓寒。

菊花図
(=草餅)に題す落帽 未だ為し難たし。
欲茱萸(=ぐみ)を插(す)げんと欲すれど 鬢(=髪)已に残らず。
明日 登高 何の典を用いん。
風々雨々 一楼寒し。
123.5p×32p

弘化2年(1845)9月生〜大正13年(1924)8月24日歿
 名は周、字は希壮、通称は周二・徳彰、石埭はその号、別号は玉池星舫夢楼斜庵・又一桂堂である。名古屋の人。家は代々医者で、石埭も医を業とした。明治7、8年ころに上京し、神田松坂町(俗称お玉ケ池)の梁川星巌の邸祉に居を求め、「玉池仙館」と称した。ここには多くの文人・墨客が出入した。また診察所を経営し、かたわら帝国大学医学部の教授に出たこともあった。
 少時から詩文を好み、森春涛、鷲津毅堂について学んだ。森春濤門四天王の一人、漢詩界の泰斗である。書画・篆刻に秀で、書は一種独特の筆法で、石隷流の名で知られる。ことに看板の文字には異常な評判をとり、市中石埭の看板を見ざるものなきまで広められたという。また、南画を修め、詩書画三絶の雅名をほしいままにした。
 かれが40余年住み馴れたこの「玉池仙館」は中国文人風で中国趣味を凝らしたものであったが、晩年、親戚のものに譲り、名古屋に帰った。医業はまったくやめて、文墨をもって余生を楽しみ、80歳で没した。
 「石埭七十七老人」の下に、白文の「石埭氏」、同じく白文の「永坂周印」の落款印が押されている。

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http://www.kowado.net/jinmeinn.htm


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