小野 鵞堂 おの がどう
   

      明治天皇御製 折りにふれてよませたまえる
      開けゆくみちにいでてもこころせよ
      つまづくことのある世なりけり
  
127.7p×34.7p

   文久2年2月12日(新暦 1862年3月12日)生〜大正11年(1922)12月7日歿
 駿河国(静岡県)藤枝の生まれ。名は鐗之助。字は間金。鵞堂は号。別号を斯華廼家・二柳居主人。田中藩の武道師範小野清右衛門の子。
 田中藩主本多正納は千葉県の長尾に国替になり、鵞堂も長尾で成長した。明治6年12歳のとき上京して成瀬大域に漢籍を学んだ。また国学を小中村清矩に学んだ。
 大域は安井息軒に経学を学んだ人で、書家として知られているが、鵞堂は大域から書法は学ばず、法帖・古筆・写経などによって漢字と仮名とを学んだといわれる。もとの主家であった本多家に『古今集』巻五(〈高野切〉第二種)が所蔵されていたので、初めは高野切第二種風の仮名を書いた。23年29歳のとき昭憲皇太后に『明倫歌集』を歌かるたに書いて献上し、害の名声が一時にあがった。同年斯華会を結成して書の振興と普及とに努めた。そしてその目的を達成するために『斯華の友』を刊行し、書道講習会を開催した。24年30歳のとき華族女学校(のちの女子学習院)教授になり、大正11年61歳まで31年間つとめた。華族女学校教授になってから鵞堂の書の名声はいっそう高くなった。鵞堂は仮名の書家といわれているが、仮名だけでなく漢字も教授した。鵞堂は漢字・仮名の手本をたくさん書いて出版し、また手紙文の手本もたくさん書いている。ことに女性向きの手本が多い。
 鵞堂の漢字の書風は和様である。和様書道は江戸時代には大衆化したが、明治時代になると当時の極端な欧化主義に反発して、わが国の固有の文化を守り進展させようという動きが起こる。1890年(明治23)、上代様の研究を目的として「難波津会」が創立された。
 難波津会自体は社会的には影響力はなかったが、ここに集まった人びとが、その後の展開に重要な役割を果たした。学術面では大口鯛二(1864−1920)、尾上柴舟(1876−1957)、田中親美(1875−1975)らが業績をあげ、多田親愛(1840−1905)、阪正臣(1855−1931)、小野鵞堂(1862−1922)らが新しい和様の普及につとめた。
 鵞堂は明治維新以後、次第にすたれていたこの和様を再び盛んにすることに努力した。そして漢字の書き方と仮名の書き方とにいろいろ工夫をこらして漢字と仮名とがよく調和した鵞堂独得の書風「鵞堂流」を完成させた。
 35歳のときの楷・行・草・仮名の〈四体帖〉、36歳のときの楷書の〈古今和歌集序〉、49歳のときの調和体の〈古今和歌集〉などはいずれも平明にして清楚であり、習いやすくて読みやすい書である。そのため万人向きであり、また実用的であったから鵞堂の書風は一世を風靡した。ことに斯華会の『斯華の友』と多くの手本が鵞堂流の普及に大きな影響力をもった。
 「鵞堂拝書」の下に、白文の「小野鐗印」、朱文の「鵞堂居士」の落款印が押されている。

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