曾禰 荒助 そね あらすけ
   

遊蜂狂蝶遂春場
京城風色興還長
次會休言果何處
當期殘夜水明樓
己酉晩秋録舊作 西湖
蜂遊び蝶狂って 遂いに春場
京城(=首都)の風色 興還長し
次会言を休んて 何れの処に果す
当期残夜 水明の楼
己酉晩秋録旧作 西湖
131.5p×33p

嘉永2年1月28日(1849年2月20日)生〜明治43年(1910)9月13日歿
制作年 明治42(1909)年 61歳
 長門国(現 山口県)出身。萩藩士宍戸潤平の三男で、のちに曾禰家の養子となる。藩校明倫校に学ぶ。戊辰戦争(1868〜69)に従軍し、維新後は軍人を志して明治3年(1870)大阪兵学寮幼年学舎に入学、明治5年 フランスに留学し、明治10年に帰国する。
 陸軍省を経て、明治14年に太政官へ転じ、法制局参事官、内閣記録局長などを歴任した。明治23年(1890)年に帝国議会が始まると衆議院書記官長に就任、議事運営の慣行作りに尽力した。明治25年、第2回衆議院議員総選挙で山口県第4区から当選、議会では副議長となる。中央交渉部・議員倶楽部にも所属して政府を援助し、国民協会にも参画。明治26年から明治30年まで、フランス駐箚特命全権公使としてパリに在勤し、条約改正に尽力。
 さらに明治31年(1898)には第3次伊藤博文内閣で司法大臣となり司法省の刷新、法典編纂に努める。その後、第2次山県有朋内閣の農商務大臣を務め、明治34年第1次桂太郎内閣の大蔵大臣に就任、日露戦争(1904〜05)時には困難な財政状況のなか、国内債・外債の募集、増税などにより戦費を調達した。
 明治35年(1902) 男爵に叙爵。明治39年には枢密顧問官に就任、5月17日 貴族院勅選議員を辞職。明治40年(1907)9月21日、子爵に陞爵・副統監となり、42年には伊藤博文のあとを受けて韓国統監となり、韓国併合には消極的な態度をとっていたが、明治43年に病気のため辞任し、まもなく没した。
 外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、長州閥の実力者に肩を並べるには至らなかった。このことから「器用貧乏」とあだ名された。(<参考文献>美濃部俊吉編『西湖曾禰子爵遺稿並伝記資料』)
 「西湖」の下に、白文の「曾禰荒助」、朱文の「西湖」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/117.html
http://kotobank.jp/word/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/26
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1883.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
http://www.c20.jp/p/sarasuke.html
http://nekonote.jp/korea/hito/jp/sone.html
http://www.weblio.jp/content/%E6%9B%BD%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
http://www.sakanouenokumo.jp/dic/archives/2006/02/post_435.html


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