亀井 雷首(三苫源吾) かめい らいしゅ
   

彭澤秋將暮
先生未必貧
黄金花潤屋
白首酒沾巾
彭澤(=長江に臨む江西省北東部に在る県で、陶淵明の県令としての任地。) 秋 将に暮
先生(=陶淵明) 未だ必ず貧なり
黄金花(=根が薬用の多年草) 屋を潤し
白首(=老人)酒 巾を沾(うるお)
29.2p×131p

寛政元年(1789)生〜嘉永五年8月23日(1852年10月6日)歿
 筑前国(福岡県)怡土郡井原村に生れた。本姓は三苫氏、名は源・復、字は應龍、号を雷首山人、通称は源吾。
 亀井昭陽に学び、その学才を認められ、文化13年27歳の時、昭陽の娘少?と結婚し、医業の傍ら、妻と共に儒学を子弟に教えた。
 雷首の医学修業は、南冥(妻の祖父)直伝によると思われるが、南冥の師の水冨独喘庵が再三長崎に遊学して蘭方医術を志していた影響を多分に受けたようである。雷首直筆の薬購入覚え等を見てみるとモルヒネやキニーネ等の現在でも使用されている先進的な薬を処方していた。
 金持ちには薬代を相当に頂くが、貧しい人たちに差別のない診療と高価薬も惜しまず与えた。酒好きで、元々の生れ育ちが農家のせいか、武士身分に出世しながら腰の刀を忘れることがあったという。庶民に好まれ話題になり人気があった。まさに「赤ひげ先生」的な雷首像がつくられ、好感を持たれる。少?の文人画作品に、多くの雷首賛が加わるのも、両人に対する世間の篤い人気に他ならない。
 その書は、朝鮮の書に影響を受けたシャープな書体と、力強い打ち込みの大胆な図柄の絵を描き、独自の世界を開拓している。
 文政7年(1824)、三苫源吾は昭陽の求めで亀井姓(亀井雷首)を名乗り分家した。
 「雷首山人」の下に、陰刻「龜井復印」と陽刻「應龍」の落款が押されている。

推奨サイト
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E4%BA%95%E9%9B%B7%E9%A6%96-1067222
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1745.html
http://ameblo.jp/mini1046/entry-12155264732.html


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