相沢 春洋 あいざわ しゅんよう
   

先生一意若雲閑
潔白都無一點班
名字不須深刻石
暗香疎影滿人間
林和靖
  先生一意 若雲の閑
  潔白 都(ああ) 無一点の斑なし
  名字須(もちい)ず 刻石深し
  暗香疎影 人間に満つ
  
林和靖=林逋
 宋、銭塘の人。字は君復。諡は和靖先生。博学、詩書に巧み。西湖の孤山に廬を結び、20年も市に出ず、自ら墓を廬側に作る。娶らず、子なく、梅を植え、鶴を畜う。時に人、梅妻鶴子という。(『宋史』四百五十七)
133p×32.8p

明治29年(1896)生〜昭和38年(1963)歿
 神奈川県三浦郡浦賀町の生まれ。名は茂。字は硯卿。春洋は号、別名を二水・天心・酔硯。幼少より絵を好み、初めは絵をもって世に立とうとした。大正5年21歳のとき早稲田実業学校を卒業し、のちに早稲田大学商科に入学したが、中途で退学した。
 書は大正2年18歳のときから中村春堂に師事し、また小野鷲堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。24歳のとき東洋家政女学校に奉職し、のち慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校に転じ、さらに女子高等学園に転じた。関東大震災の12年28歳のときまで『習字之友』の主筆をしたが、その後は個人雑誌『春洋』を刊行(昭和五年頃に『手習』と改題)して書道の鼓吹に努めた。
 春洋は和魂漢才をもって書道の根本義となし、草仮名および古写経についても専心研究した。また硯石の鑑定においては山口寳ホの後継者と目されるほど造詣が深かった。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。また日展に書が参加するとともに審査員を数回つとめた。
 著書に、『書法早わかり』『洗硯賦』『古筆の見方』『女子手紙文集』『婦人消息文』『湊川帖』『観月帖』『東湖正気歌』および中等習字教科書などがある。
 「春洋生書」の下に、白文の「相澤茂印」、朱文の「春洋處士」の落款印が押されている。


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