大槻 磐溪 おおつき ばんけい
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挾山 壑を帯びて 陣営成す 捍禦(=ふせぐ)機に応じ 善用(=うまく使う)の兵 八十萬人 攻 陥いらず 忠臣の一膽 是れ長城 |
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168p×48p |
享和元年5月15日(新暦1801年6月25日)生〜明治11(1878)年6月13日歿 制作年 明治8年(1875) 75歳 |
仙台藩儒医大槻玄澤の次男として江戸木挽町に生まれた。本名清崇、字は士廣、通称は平次、号を磐溪、卍翁と称した。 昌平黌で松崎慊堂について儒学を学んだ。文政10年(1827)長崎奉行近習となり、近畿・長崎に遊び、頼山陽らと交遊した。のち江戸詰めの仙台藩学問稽古人に抜擢された。高島秋帆の門人大塚瑪蜂に入門、その後江川太郎左衛門塾の学頭となった。 また天然痘で長男順之助を失った痛手から、残る4人の子供には皆種痘を施すなど、この時期から次第に蘭学へ傾斜していった。 一方で、『楠芹微衷』を記して、親露排英説を唱え、攘夷派から敵視された。文久 2年(1862)仙台に移り帰藩して藩校「養賢堂」の学頭副役となり、藩士に多大な影響を与えた。 1868年、奥羽列藩同盟を支持、文書の起草に当り、のち投獄されたが、のちに許されて東京本郷に住み、詩文に親しみ、文筆風流の日々を過ごした。 「磐溪」の下に、白文の「磐翁」、朱文の「乙亥七十又五愛古翁」の落款印が押されている。 推奨サイト http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Otsuki.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%A3%90%E6%B8%93 http://fine-vn.com/cat_12/ent_50.html http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_a0275/index.html |