野村 素軒 のむら そけん
   

山枕長江積翠分
一邨秋色日将曛
収人來問總寧寺
芙葉碧蘿埋古墳
國府臺
山枕に長江(=江戸川) 積翠(=青々と重なり合った山々)分ける
一邨の秋色 日将に曛(=たそがれ)
人を収め来たりて問う 総寧寺
(=蓮)葉 碧蘿(=青緑色の薄い絹)のごとく 古墳に埋まる
  国府台
安国山 総寧寺 (市川市国府台)
 1383年、通幻禅師を開山として滋賀県坂田郡近江町に建立された曹洞宗の寺院。
 1575(天正3)年、小田原城主北条氏政が寺領二十石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移築。
  徳川家康は宗門統一支配の面から、住職を十万石大名の格式をもって遇し、全国曹洞宗寺院の総支配権を与えた。
 1663(寛文3)年、たびたびの水害をさけるため、4代将軍家綱に願って国府台に移築。
  そのおり、寺領として百二十八石五斗余、山林六万七千余坪を賜った。
 1872(明治5)年、学制の施行によって境内に第一大学区の大学校舎を建設。
 その後、陸軍用地となり、昭和33年現在の里見公園となった。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%BD%E5%AF%A7%E5%AF%BA
http://iseki.travel-way.net/itikawa1.htm
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kikaku/cityvoice/city_pdf/vol28/p29-p31/p30-p31.pdf
132p×32.4p

天保13年5月18日(新暦 1842年6月26日)生〜昭和2(1927)12月23日歿
 名は素、字は絢夫、通称は素介、素軒と号した。周防吉敷郡長野村に山口藩士、有地留之介の次男として生れ、文久3年(1863)に同藩の野村正名の養子となった。安政6年(1859)に上京し、桜田藩邸の有備館に学び、ついで塩谷宕陰の門に入り詩文経史を学んだ。文久2年(1862)には帰国し、山口藩黌の明倫館舎長を勤めた。のち、江戸に出て塩谷宕陰に宋学を学んだ。
 明治維新に際しては藩主をたすけて国事に奔走し、山口藩参政兼公儀人、軍政主事、権大参事を歴任。明治4年(1871)には官命により海外を視察した。
 帰朝後は茨城県参事、文部大丞大督学、文部大書記官、元老院大書記官、明治13年(1880)には、元老院議員となり、さらに亜細亜大博覧会組織委員、内国勧業博覧会審査官・評議員を務めた。のち貴族院議員に勅選され、33年(1900)には男爵、錦鶏間祇候を拝命し、政治家として大成した。
 詩書を巧みにし、書は小島成斎について学んだといわれる。日本書道会幹事長、書道奨励会会頭、選書奨励会審査長などを経歴し、能書家としても活躍。明治の三筆(杉聴雨・長三洲)の一人である。京都霊山の木戸公神道碑は彼の代表作。享年86歳。
 「素軒居士」の下に、白文の「野村素印」、朱文の「雪泥鴻爪」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://sr400.port5.com/04/4e-004.html
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=x&s=1780
http://www.city.hagi.yamaguchi.jp/hagihaku/event/0612tegamiten/senderlist.htm#nomuramotosuke
http://www.osumi.gr.jp/isin/weblog/2006/10/post_5.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-359.html


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