第5巻 第23章-1 藤原楚水著 省心書房 書道と不可分の関係にある文字や典籍の渡来について、その伝来には従来多くの説が見られる。
その一は秦の始皇のとき徐福が携え来ったという説であり、その二は『日本書紀』に、神功皇后が新羅を征したとき、その国に至って宝物庫に封印を施し、図籍文書を収めて持ちかえったそれが即ち書籍である。かく典籍なる語については異説も多いが、既に図書文籍を持ちかえったといえば、これを読むことができねばならぬ。それにはその前から漢字がわが国に伝っており、典籍も従って渡来していたものと解すべきではなかろうか。
既に日韓交通のことが神代史にあらわれているのに見ても、わが国と大陸との交通はよほど古いものと見ねばならぬ。また中国にわが国のことの知られていたのも想像以上に早く、徐福(BC.278生?-BC.208.2.8.71歳)の如きも夙にそのことを承知しており、秦の苛政を避けてわが国にのがれて来たのかも知れない。徐福が僊薬を求めて海に浮んだのは始皇の28年(前219)である。
漢字伝来以前の日本には固有の文字がなく、神話や伝説は口頭で伝えられていました。
中国の周辺部に位置していたため中国文化の圧倒的な影響を受け、4世紀後半に漢字が伝えられたと考えられています。
漢字が最初に日本に伝わったのは、多分、1世紀頃。 弥生時代の遺跡から発掘された新の王莽の作成した貨幣王莽銭の一種や、漢委奴国王の刻印がある金印(福岡県志賀島出土)や銅鏡、銅銭(長崎県シゲノダン遺跡出土)がその証拠となっています。いずれも中国大陸で製作された品で、金印には漢委奴国王、銅銭には貸泉という漢字が記載されています。
隅田八幡人物画像鏡銘
和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する、5世紀から6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料である。国宝に指定されている。(Wikipedia)
金印は、後漢書の卷八五列傳卷七五東夷傳に「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」とあり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ冊封のしるしとして賜ったとされる。福岡県志賀島で発見されました。
日本で発掘された3世紀頃の土器に書かれた漢字はどの程度文字として認識されていたか不明で、言語記号体系としての文字の伝来とは言い難いようです。
日本では、大量の木簡が出土していますが、新羅の木簡や朝鮮各地の石碑などとの比較研究が進み、漢字が朝鮮半島を経て伝わってきたことが次第にわかってきました。
藤原京出土木簡
持統帝8年(694)〜和銅3年(710)3月
六朝風=朝鮮半島の高句麗・百済・新羅・任那の諸国を介して中国の書風が伝えられた。
平城京出土木簡
和銅3年(710)3月〜延暦3年(784)11月
初唐風=隋・初唐になっての楷書の三節の骨法・力の均衡という条件を備えたもの。
長岡京出土木簡
延暦3年(784)11月〜同13年(794)
唐風の定着=ほとんど行書で、手慣れた筆遣いで見事な書きぶり。
漢字が使われ始めた痕跡は、5世紀ごろ日本で制作された鉄剣や銅鏡に、日本の地名や人名が漢字を用いて記載されるようになります。稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣の銘文には乎獲居(ヲワケ)、意富比垝(オホヒコ)という人名、斯鬼(シキ)という地名が刻まれています。江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄剣の銘文や、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)伝来の銅鏡にも人名・地名が漢字を用いて記されています。ただし、これらの品の製作には渡来人が関わっていた可能性が指摘されています。
漢字の伝来以後、日本人は漢字を使って日本語を書き表すことに様々な工夫を重ねてきました。そうして出来たのが日本語の音節文字であるカタカナ・ひらがなです。漢字使用の初期の例としては、稲荷台一号墳鉄剣銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘、江田船山古墳出土太刀銘、隅田八幡宮人物画像鏡銘などがあります。
稲荷山古墳出土鉄剣銘
1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。
わが国古墳出土品中の白眉(最も傑出)である。115字からなる銘文は、5世紀のわが国の古代社会が大きく変容をとげている時期のきわめて数少ない同時代史料で、現存最古の日本の文章といえる。その内容は、古代氏族の在り方を伝え、古事記、日本書紀に伝えられた日本古代国家の歴史を一層明らかにするもので、古代史研究上特に価値が高い。同時に伴出品も鉄剣銘との関連において、古墳時代遺物の編年研究上貴重な資料であり、その学術的価値はきわめて高いものがある。(出典
国指定文化財等データベース)
江田船山古墳出土大刀銘
1873年に熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した、銀象嵌による75文字の銘文が刻まれた大刀(直刀)。
朝鮮半島や日本列島では、中国・後漢(AD.8〜200)で成立した銘文様式を踏襲しながら、各地域の言語表現を採り入れて、新しい銘文様式を生み出しています。本銘文は、文中に独自の歴史的記述と古代日本語による人名表現を含み、5世紀の世界観や社会の様子が窺えて重要です。(出典 東京国立博物館)
文籍の舶載の外、わが国の書道史の上に於て重要なことは帰化人である。
3世紀初頭〜7世紀初頭にかけては中国、朝鮮(日本含む)とも動乱が起こり、それから逃れるために日本に渡来した人々も多かった。
応神の朝に阿直岐・王仁・辰孫王等
記紀などの伝承によれば、応神天皇のとき、百済王が阿直岐をつかわして馬 2頭を貢上した。阿直岐は経典に通じ、皇太子菟道稚郎子の師となったが、自分より秀でた者として王仁を推挙した。王仁は、冶工、醸酒人、呉服師を率いて来朝、論語(10巻)・千字文(1巻)を献上し、菟道稚郎子の師となった。その後、履中天皇のときに、官物を収納する内蔵が建てられると、阿知使主とともに出納の事務を取り扱ったという。子孫は河内国の古市のあたりに居住して西文首と称し、東文直とともに文筆、記録に関することで朝廷に仕えた。(出典 ブリタニカ国際大百科事典
小項目事典)
秦の始皇12世の孫と称する融通王は120県の人を率いて帰化し、わが国ではこれを弓月君といった。又後漢の霊帝の後裔と称する阿使智主はその子の都加使主と十七県の民を率いて来帰し、
日本書紀 応神天皇20年(289年)9月条には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」と伝わる。(出典 精選版日本国語大辞典)
魯公伯禽の後と称する奴理使主は百済より帰化した。
仁徳の朝(313−392)には漢族の劉言興と帝利とが高麗より転じて帰化し、
呉王孫皓の後と称する意富加牟招君が来帰し、
雄略天皇(457−479)の朝には魏の文帝の後裔安貴公が四部の衆を率いて帰化し、その子の辰貴は絵画をよくしたと伝えられている。
継体天皇(507−531)の朝には南梁の司馬達等が帰化して仏教を伝え、その子孫から鞍作止利(鳥仏師)などと称する仏師が出た。
欽明天皇(540−571)の朝には梁の武帝の孫の蕭聰が多くの典籍や、明堂の図、仏像、伎楽の調具などを携えて来朝した。
日中の交通は、推古天皇の15年(607)にわが国から小野妹子を隋に遣わせしを以って始めと為すが、これは王仁等が千字文を伝えた時から実に300余年後のことである。
彼ら帰化人は始皇の子孫といい、漢の霊帝の後裔であるといい、その他みなその国の貴族と称しているが、それは疑わしいとしても、その当時の帰化人は後世の移民と異なり、多くはその祖国が亡びるか、又は政治的亡命の徒で、大体が智識階級に属するものが多く、その専門とするところを以ってわが朝廷に仕えたものである。その結果として美術工芸を始め、学問、書道の方面にもそれが及んだものと思われる。
蓋しわが国の古代に於ては、職業を家伝とし、官職を世襲とする制度であり、ことに漢字が伝って間もない時代に於ては、漢文をつくることは彼等帰化人の手を煩わすの外なく、学問、文章を掌る役目は自然に漢・韓帰化人の手に独占せられるという状態であったから、かりに王仁の伝えた鍾繇の千字文があったとしても、未だもって当時の書道に影響を及ぼしたものとは考えられない。書道の一門もまた彼等帰化人乃至その子孫の手に委ねられ、彼等はまた必ずしも鍾繇の書をのみ学んだものではなかったであろう。
即ち現存するところの法隆寺の薬師仏造像記・釈迦仏造像記など、いずれも推古朝(593−623)のもので、その時代は中国で所謂六朝よりは稍々くだるが、なお六朝書道の風格を伝え、古雅険勁の趣を存し、本邦人の筆とは思われないものがある。
1 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 (推古天皇31・623) 仏師 鞍首止利 造
これは釈迦の像を造ると共に仏師その人か、或はその徒がこれを書したものにちがいない。
法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文の白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
大意
推古天皇29年(621)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。
文体は和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある。本銘文の筆者は不明である。書体はやや偏平で柔らかみを帯びた楷書体であるが、196文字中、35文字が今日の活字に存在しない上代通行の文字で、日本の上代金石文にしばしば現れる、いわゆる俗字を用いている。
銘文中に9文字ある「しんにょう」の書き方が特徴的で、「しんにょう」が右下に軽く消えるように流れている。
(出典 Wikipedia)
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背裏面に刻された90文字の銘文である。本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに特に著名である。本銘文には法隆寺の創建と薬師如来像の造像の由来が記され、推古天皇15年(607)の年紀を有することから、法隆寺の創建事情にかかわる基本的な資料の1つとなっている。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉。
要約
用明天皇が病気の時(用明天皇元年586年)、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607)に建立した。
本銘文の文体は、釈迦三尊像光背銘文の四六駢儷文とはかなり異なり、漢文の日本語化が進んでいる。従来、推古朝(在位 593 - 628)の当初からこのような日本語化の進んだ文章が存在していたとされてきたが、現在では否定されている。ただし、他の遺文から推古朝には日本語文が発生していたことは確かである。(出典 Wikipedia)
2 南円堂銅燈台銘 (弘仁7年 816)
この燈台銘には明かに「弘仁七載歳次景申」とあり、弘仁は嵯峨天皇の紀年であり、その7年は丙申であるが、その丙申を景申と書したのは唐の太祖の名が炳であるところから唐人は皆陣・晦・燐は避けねばならぬことになっていた。唐の諱を避けて丙を景とせしものであり、その書者は唐よりの帰化人か、或は当時は唐の勢力が朝鮮にも及んでいた頃で、朝鮮からの帰化人の書いたものかを推定せしむべきものであり、平安朝の初期に尚、帰化人書道が尾を曳いていたことを証拠だてるものである。
本燈籠は、興福寺南円堂の正面に建てられていた。鋳銅の円形燈籠で、台・基礎・竿・中台・火袋・笠などを別鋳してつくり、火袋と中台には鍍金を施している。現存する四枚の羽目板に鋳出された銘文は橘逸勢の筆と伝えられ、端麗にして格調の高い書体が古来有名である。よく整ったその姿は端正な美しさをあらわし、火袋格狭間や基礎の獅子の装飾をはじめ中台の蓮弁の意匠など、全体の構成と調和した見事な鋳技をみせている。なお、現在この燈籠は国宝に指定され、興福寺の宝物収蔵庫に収められている。(出典 国指定文化財等データベース)
3 那須国造碑
文首の永昌の紀年である。わが国には永昌なる紀年はない。この碑の文字を中国からの帰化人が書いたものとすれば何の不思議でもないのである。碑文の中に評督被賜の文字のあることである。評督の評字は朝鮮では昔から郡の意味に使われている。ことによっては朝鮮からの帰化人であったかとも思われる。中国の帰化人か、朝鮮からの帰化人か何れにしても日本人の書ではなく、これら何れかの他国の人の書とすれぽ永昌の紀年があっても一向に差支えのないことである。
永昌は、唐の睿宗李旦の治世に使用された元号。689年。武則天による実質的な権力掌握が行われ、一般的には武則天の年号として取扱う。栃木県大田原市湯津上にある飛鳥時代の石碑。国宝に指定されている。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。(Wikipedia)
船首王後墓誌
船氏王後首の経歴などを記録した銅製の墓誌です。江戸時代に松岳山の丘陵から出土したという伝承や記述がありますが、出土地点や、いつ発見されたのかは不明です。668年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌で
す。また、文字使いや内容などから学問的にも貴重な資料です。しかし、文体や用字などから、製作年代を7世紀末葉まで下げる説もあります。(大阪府柏原市文化財課HP)
船氏は渡来系氏族であり、代々文筆の才で朝廷に仕えたとされます。王後は舒明朝・推古朝に仕え、冠位十二階の大仁まで上りました。(ColBase)
小野毛人墓誌
慶長18年(1613)に今の京都市左京区上高野で古い墓が掘られ、石室の中から1枚の位牌がみつけられた。これが小野毛人の墓誌であった。その後、墓誌は元の墓に納められたが、明治年間に盗難にかかったこともあって、大正3年(1914)に保存のために取り出された。
墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金している。文字は両面にあり、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で正四位に相当する地位にあったことを記している。
しかし、この墓誌が作られたのは奈良時代になってからのことである。小野毛人は、かの遣隋使小野妹子の子であるが、墓誌に記された以上の事は分からない。(京都国立博物館HP)
墓誌の裏面に、営造歳次丁丑年十二月上旬、即葬とあり、丁丑年は天武天皇五年(677)。
奈良朝以前、推古帝あたりまでのものには、帰化人またはその子孫の手に成ったものが大部分を占めその書風の如きも、中国に現存せるこの時代の碑文や墓志銘などと酷似し、殆んどその差を認め難く、これをもって鍾繇の影響などといわんよりは、寧ろ中国に於ける六朝書の一般的影響がこれに及んでいるものと見るべきものであろう。従ってこの時代に於てわが国に中国にあるが如き碑碣・造象の類が多くあったならば、それらの書もまた皆中国に現在せるものと少しのちがいもなかったであろう。
漢字がわが国に伝った当初にありては、前述の如く書道方面のことも、他の仏像や絵画などとともに帰化人の手に委ねられていたが、その後本邦人の中にも漢字を読み、又はこれを書くものができ、漸次にこれに習熟するに至り、文権もまたその移動を見た。
聖徳太子の如きはこの過渡期に於ける尤もすぐれた一人であった。聖徳太子のお書きになった文章としては十七箇条の憲法が特に名高く、これを外にしては伊予の道後の温泉碑。また仏教関係のものでは法華経・維摩経・勝曼経の三疏があり中でも取わけ太子自筆の法華経義疏が日本人としての最古の肉筆である点で、書道史上最も注意すべきものである。
上宮聖徳太子伝補闕記に拠れば、この書は推古天皇の22年(614)正月8日に稿を起し、あくる年の4月15日に脱稿せられたもので、太子の41歳より42歳にかけての御著述である。諸処に刀をもって紙面を削って書き改めたところや、削り過ぎて紙が破れ、そこにまた裏打ちをして書いたところなどもあって、その草稿本であることは疑いなく、また用紙や書風などから見て、恐らく太子の御自筆であろうといわれている。この草稿本はもと法隆寺に伝っていたが、大正年間に至って帝室に献納になり御物となった。
原本は四巻で、題して法華経疏四巻御製といい、開巻第一丁、右方下端に、「此是大委国上宮王私集、非海彼本」と記されている。この14文字に至つては、尤も善く這裏の消息を物語るものではあるまいか。此の義疏こそ真箇に太子の御製で、決して海外なる支那等より伝えたるものではないとの意味が明瞭しているからである。なほ此の外に附属の竹帙の牙籖にも、御製法華経疏四巻と記されてあるが、其の書風が前の十四文字と共に高古の趣に於いて孰れも奈良朝の初期を下るものではないことは推定に難くない。
聖徳太子法華経義疏
伝承によれば推古天皇23年(615)に作られた日本最古の肉筆遺品である。一般に聖徳太子自筆とされている法華義疏の写本(紙本墨書、4巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753)までに行信が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878)、皇室に献上され御物となっている。(出典
Wikipedia)
伊予の道後の温泉碑は推古天皇の4年(596)に聖徳太子が百済僧の恵聰や葛城臣(蘇我大臣)などとともに温泉にお遊びになり、後にその文を書いて石に刻せられたもので、世に湯岡の碑文といわれ、わが国に於ける最古の石刻である。この温泉碑は、その後亡佚して所在が不明であったが、寛政年間(1789−1800)農夫が地を耕し、偶然出土を見たが、偶々温泉が濁り里人はこれは之を以って聖徳太子の御罰であろうと恐怖し、再びこれを土中に埋めたと伝えられている。従って今日では碑石の実物は、これを見がたいが碑の文は伊予風土記に載せ、それが釈日本紀に引用せられてあるから、これを見ることができる。唯拓本は伝わるものがないからその書の如何は知りがたい。
文章は多くの故事をふまえ、駢儷文的な特色をもち、背後に中国六朝時代に作られた温泉碑の類の影響があるとされている。ただこの文が実際に当時のものであるか否かは疑問とする説もある。(コトバンク)
伊予の道後の温泉碑から約五十年後の碑刻に宇治橋断碑(646)がある。書者は勿論異なるが、道後の碑も或は帰化人などの書いたもので、この断碑の書に似た六朝風のものではなかったかと思われるのである。
宇治橋断碑
京都府宇治市の橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑の断片で、大化2年(646)に僧道登が架橋したと記す。日本現存最古の石碑のひとつと考えられる。重要文化財。(出典
Wikipedia)
那須国造碑
大田原市湯津上の笠石神社に祀られる石碑で、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」ともいわれています。花崗岩(かこうがん)が用いられ、碑文は19字8行、全152字からなります。国宝。
(出典 大田原市HP)
そのころはまた仏教の伝来に伴い、中国や朝鮮から多くの経巻が伝来したが、尚多く不足し、未だ印刷術の開けない当時としてはこれを書写する必要を生じた。即ち天武天皇(673−686)の朝には、諸国に詔して家ごとに仏壇をつくりて仏像や経巻を安置せしめたが、聖武天皇(724−748)の神亀5年(728)には金光明経六十四帙、六百四十巻を書写して各国に一部ずつを頒ち、ついで天平13年(741)には、全国の国ごとに国府のある近くに国分寺と国分尼寺とを建てしめられ、国学に国博士を置いたと同じく、国分寺には国師、読師を置いて仏書を講読させた。
この聖武天皇を中心とした所謂天平文化は、奈良朝文化の極点を為すもので、唐招提寺の金堂、法隆寺の夢殿などが代表的なものとせられている如く、この時代の文化は悉く仏教的信仰を基本としたものであった。既に仏教が中心であり、従ってこれが経典の多くの筆写が要求せられ、また写経をもって功徳とするという信仰からも、当時写経の盛行したことは寧ろ当然であり、写経生の養成もまた行われた。
その書風は、これを唐人の写経の中に入れても見わけがつかぬほどである。或はその多くは先方の写経生か又は帰化人などの子孫の手に成ったものかも知れない。この写経の書と、普通の書とでは勿論同一ではない。従ってこれをもって直ちに書道が盛んであったとはいえないが、この写経の流行がまた書道の勃興を促すに至った原因の一つであったことは考えられないことではない。
然してこの時代に於て文墨に親み、書道でもやろうというものは、皇室か、或は皇室に近い貴族、僧侶の外にはなく、当時の一般の国民は無学で生活の水準も低く、またこれに必要な手本の類を見る機会もなかったのである。
従って帰化人書道につぐわが国の書道は皇室を中心とした宮廷書道時代ということになり、またこれを代表せるものとして聖武天皇を挙げねばならぬのである。聖武天皇の能書については、当時第一と称せられたが、今その書蹟として伝わるものに正倉院御物の宸翰雑集及び同御物の銅板勅書がある。その他、宸筆と伝えているものに賢愚経がある。
宸翰雑集は古文書時代鑑にその影本が載っているが、これには天皇の宸翰と称せらるるもの数種あるも、本書の外、確実なるものなしと註記せられている。
宸翰は、天皇自筆の文書のこと。宸筆、親翰ともいう。(Wikipedia)
聖武天皇宸翰雑集
「雑集」とも。正倉院に伝わる六朝から唐にかけての仏教に関する詩文145首を記した書巻。天平勝宝8年(756)の東大寺献物帳に「雑集一巻、白麻紙、紫檀軸、紫羅褾、綺帯、右、平城宮御宇 後太上天皇(聖武天皇)御書」と記載されるものにあたり、奥書に「天平三年九月八日写了」とあることから、聖武天皇31歳の宸筆とされる。白麻紙47枚を貼り継ぎ、繊細な筆致で書かれる。(コトバンク)
銅版勅書もまた宸翰雑集とその筆致が酷似し、痩勁なること褚遂良の雁塔聖教序に近いものがある。
明治初年、東大寺より多数の文書等が皇室へ献納され、それらは正倉院へ納められた。現在も伝わる東南院文書の中に一枚の銅板があった。いわゆる聖武天皇勅書銅板である。(CiNii)
聖武天皇勅書
天平感宝元年(749)閏五月廿日に聖武天皇が下した勅書。続日本紀によると、聖武天皇は天下太平と万民和楽を祈願するため、東大寺など十二大寺に絁、綿、墾田等を寄進した。本文書は、このときの施入願文で、現存する事例はこの平田寺所蔵のものが唯一とされる。また、勅の大字は、聖武天皇の宸筆である。(しずおか文化財ナビ)
賢愚経
古来天皇の宸筆として伝えられたもので、この外、同じ書風の写経が三種あって、文字の大小によって大聖武・中聖武・小聖武と区別せられている。これを宸翰雑集と比較するに、その書風も迥かに異なっている。
賢愚経は賢愚因縁経ともいわれ、種々の譬喩因縁を収集して62品より成る。いま国宝に指定されているその残巻に、東大寺(一巻467行)、前田育徳会(三巻419行 146行 18行)、東京国立博物館(一巻 262行)、のものがある。これらはいずれも聖武天皇の御筆といわれるところから大聖武とも呼ばれ、そのわずかな断片すらつねに古筆手鑑の巻頭を飾るほど珍重されているもので、荼毘紙に一行11字−13字の端麗な大字で書写され、おそらく奈良時代の渡来中国人か、あるいは写経生の名手の筆になるものと思われる。(国指定文化財等データベース)
聖武天皇についで、この時代の能書家として挙ぐべきは天皇の妃の光明皇后である。皇后は藤原不比等の第三女で、幼にして聰明であり、光明皇后と呼ぶのは、その容貌が端麗で、光輝があったからだといわれる。天資仁慈に富み、またあつく仏法を尊信せられた。聖武天皇が国分寺を始め東大寺を建てたのも皇后のおすすめによるものといわれる。悲田院、施薬院を置いて人民の救済にもおつくしになった。皇后の御書としては多くのものが残っているが、そのうち最も著名なものは楽毅論と杜家立成とである。楽毅論は光明皇后が王羲之の書を臨書せられたものであろうが、筆力勁健で甚だ力強く女性の筆とは思われぬほどのものであるが、その書風はまた前記の聖武天皇の宸翰雑集とも一脈相通ずるところがある。楽毅論を書せられたのは「天平十六年十月三日」で、皇后はこのとき44歳であられた。
楽毅論
光明皇后(701―760)44歳の筆と知られる。白麻紙3帳を継ぎ、紙背よりへらのようなもので界を引いた縦簾紙とよばれる紙を使用。中国より舶載された王羲之の法帖を臨書したもので、筆力が強く、格調の高い筆致を示している。この光明皇后の楽毅論は、わが国奈良時代の書が、中国の王羲之尊重の風潮をそのままに受け継ぐものであったことを、よく物語っている。(日本大百科全書)
杜家立成
詳しくは杜家立成雑書要略と題せるもので、楽毅論とともに東大寺献物帳に皇太后御書と記載せられ、光明皇后の真蹟と伝えられる。その書風もまた楽毅論とよく似ている。
杜家立成雑書要略は杜家(杜正蔵 隋の文人)が編纂した速成手紙の模範例文集の意味で、書簡往復2通を1組として36組の模範例文が記載されている。書写された時期は明らかではないが、筆致から前述の楽毅論より後と考えられる。元々は碑文と楽毅論を合わせて一巻であったが裁断され、杜家立成の部分のみが残されたと考えられる。(Wikipedia)
つぎに宮廷書道の時代に於て書道の手本として如何なるものが舶載せられていたかであるが、これも充分にはわからぬが、唯、東大寺献物帳によってその大略は之を知ることができる。東大寺献物帳は聖武天皇が崩御になった8年後の天平勝宝8年(756)、光明皇后が天皇の遺愛品を東大寺に施入になった目録書で、その中に書法廿巻と題せるものがある。
この外、東大寺に献納になったものに大小王真跡書一巻。同、屏風一具十二扇の中に欧陽詢真跡というのがあるが、これらは当時舶載せしものの一部分に過ぎず、尚この外にも少なくなかったであろう。
東大寺献物帳は聖武天皇の菩提を弔うなどの目的で光明皇后(当時は皇太后)が東大寺に奉献した宝物の目録である。東大寺献物帳は5通あり、それぞれ国家珍宝帳、種々薬帳、屏風花氈等帳、大小王真跡帳、藤原公真跡屏風帳と通称される。東大寺献物帳は単なる目録に留まらず、正倉院宝物の来歴や用いられた技法などを記した貴重な記録であり、またそれ自体が宝物である。(Wikipedia)
当時の宮廷が此の如く二王の名蹟を多く収蔵した結果として、その影響がまたその周囲の貴族、僧侶にも及んだことは、今伝わるところの藤原仲麿(恵美押勝)、僧道鏡などの遺墨について見るも、これを知るに難くない。之を要するに奈良朝時代、宮廷書道の際にありては、全く晉唐の模倣であり、その書風はその頃中国の一般を支配していた二王の書であったのである。
7世紀後半から8世紀後半になると、日本最古の和歌集万葉集が編纂されましたが、和歌も漢字だけで記されています。5・7・5・7・7という歌の1拍1拍の音を記す表記法(万葉仮名の音仮名)であっても、漢字という文字だけを使用しています。
万葉仮名は、古代の日本で日本語を表記するために漢字(真名)の音を借用(仮借)して用いられた文字である。片仮名や平仮名の誕生前の日本において、漢字のみで日本語を記述するために用いられ、万葉集での表記に代表されるため万葉仮名と呼ばれる。
万葉仮名は、漢字(真名)を使った仮名の始まりとされ、真仮名、真名仮名とも言い、用法上は仮名の一種だが、字形としては漢字である。9世紀に入ると、この万葉仮名をもとに片仮名や平仮名が考案され使われ始めた。(Wikipedia)
法隆寺五重塔組木落書
昭和22年、奈良の法隆寺五重塔を解体した時に発見されました。一階の天井組木の裏側に記されていたもので、建築当時の工人の落書であろうかといわれています。肉眼では判読しがたく、赤外線写真により明確に読まれました。
「奈尓波都尓佐久夜己」の九字が書かれ、これは古今和歌集序文のなかにある、おおさざきの帝(仁徳天皇)をそえたてまつれる歌、難波津に咲くやこのはな冬ごもり今は春べとさくやこの花という、帰化人、王仁が詠んだ歌の一部であることがわかります。
五重塔建立以前に流布されていた歌を、当時の大工などが筆のすさびに書いたものとみられ、能書家の筆ではありません。しかし漢文そのままでなく、わが国の人が自主的態度で国語を写し出そうとした苦心がみられる尊い遺産でありましょう。
このあたりを源として、万葉仮名を使った流れはいよいよ一般に普及していったものと思われます。大陸との交通がようやく盛んになり、彼の地の諸文物・仏教・経典・書蹟の舶載到来によって、諸文化の興隆が一層進むにしたがって、わが国の人が日本的生活に即した受け取り方で消化していった姿の一面を見ることができるわけです。(日本書学体系・法書篇)
正倉院文書紙背落書和歌
韓藍の歌として有名なものです。天平勝宝元年(749)8月に提出された写経手実(紙数記録)の一通の紙の裏に書かれています。紙の上端を失ったために初めの一、二字が欠けていますが、武田祐吉博士は、「妹が家の韓藍の花、今見ればうつし難くもなりにけるかも」と補読されています。
愛人を失った意味であろうと解されています。写経所にいた者が、手すさびに書きつけた落書でありましょうか。前項の法隆寺五重塔の落書とともに、わが国最古の歌の筆蹟と考えられ、貴重な資料です。(日本書学体系・法書篇)
正倉院万葉仮名文書
奈良時代における数少ない仮名専用文で、全文一字一音式に書かれています。意味不明なところもありますが、手紙か解文(平安時代から中世初期にかけて下級身分の者が上申する際に用いた文書の様式)と思われます。宛名も差し出し人の名もなく、年紀もありません。
その紙の裏面に、造石山寺所の食物用帳などの公文書と推定されるものが記されており、その調査から天平宝字6年(762)ごろのものとされています。
本書の貴重性は、当時における一字一音式の万葉仮名の散文であることで、日常体の国語を毛筆で書写したものは、この文書のほかにはみられません。字体は仏足石歌碑のように真仮名でなく、行と草で書かれ、当時の万葉仮名の生態がまざまざと看取されます。これがやがて平安時代の、百花繚乱の上代様仮名へ発展する仮名書道の源としてみると、まことに興味の尽きないものであり、このこ書の存在はまことに尊いといわなければなりません。(日本書学体系・法書篇)
薬師寺仏足石歌碑 (天平勝宝四年・752)
仏足跡歌碑は、奈良県奈良市の薬師寺に伝わる奈良時代の歌碑。仏(釈迦)の足跡を礼拝する功徳などを詠んだ和歌21首から成る。その歌を仏足跡歌(仏足石歌)といい、そのすべてが仏足跡歌体と呼ばれる特殊な形式で作られている。文字は、平易な漢字に統一された一字一音式の万葉仮名で表現され、上下2段に刻まれている。
本歌は、1句に6字、8字の字余りが多くあるが、総じて短歌(57577)の末尾に1句7字を加えたものといえる。ただし、歌の意はみな5句31字で完結している。最後の1句は、大方は上の句の意味を添加補足するような語気になっており、いずれも注釈のように小字で書き添えている。ゆえに、仏足跡歌は短歌の一変形と見ることができる。(Wikipedia)
仏足跡歌碑は、仏足石と同じ頃に作られたもので、幅50cm弱、高さ158cm、厚さが4cmほどの粘板岩という裂けやすい性質の石に、仏足石や仏教を讃える歌が21首彫られている。
これらの歌は全て、和歌の最後に7音を付け足した5・7・5・7・7・7で作られ、漢字の意味を考慮せず音のみで仮名のように使用する「万葉仮名」で書かれている。(WANDER
国宝)
書は一字一音の万葉仮名風(真仮名)です。書体は六朝様の細楷で、石面に直接墨書したらしく、細字ながらも毛筆の動きのよく見えるものです。全体としてよく整い、刻石の技術も進んでいることがよくわかります。歌は五七五七七の終わりに、繰り返しまたは補読的な一句を加えた六節の和歌であるのも面白いものです。(日本書学体系・法書篇)
第一首 御足跡作る 石の響きは 天に到り 地さへ揺れ 父母がために 諸人のために
美み阿あ止と都つ久く留る 伊い志し乃の比ひ鼻び伎き波は 阿あ米め尓に伊い多た利り 都つ知ち佐さ閇へ由ゆ須す礼れ 知ち々ち波は々は賀が多た米め尓に 毛も呂ろ比び止と乃の多た米め尓に
讃岐国司解有年申文
太政官符にもとづき奏上した、改姓上申書の巻首に添えられた一通の仮名書きの文書で、貞観9年(867)、讃岐介をしていた藤原有年の書です。有年申文とも称されます。当時この文体は男子の通用文として、すでに公私ともに用いられ、その字体は万葉仮名(草体)で書かれています。
いわゆるこの草仮名の姿は、古くは前述の万葉仮名文書と、下っては自家集切、秋萩帖、賀歌切などとの中間において、きわめて確実な位置を占めています。わが国特有の音標文字としての仮名が、きわめて親しみ深い姿で書かれており、特にその線や字形は、むっくりとした厚みを持ちながらべたつかず、筆はよく立っていて暖かい感じを与えます。注目されるべき魅力を多くそなえています。(日本書学体系・法書篇)
讃岐国司解に添えられた申文。当時,讃岐国の那珂・多度両郡に居住していた因支首一族6家が,伊予別公の子孫であることにちなみ和気公に改姓することを上申した文書に有年が添書したもの。草仮名で書かれているものの、字形はさらに簡略化されている。東京国立博物館蔵。(コトバンク)
此は何せむにか、官に申し賜はむ。見賜ふばかりとなも思ふ。抑、刑大史宣(のたま)ひて、定め以って出し賜はむ。いと良からむ。
許こ礼れ波は奈なに世せ无む尓に加か、官かん尓に末ま之し多た末ま波は无む。見み太た末ま不ふ波ば可か利り止と奈な毛も於お毛も不ふ。抑(そもそも)、刑大史(ぎょうのたいし)乃の多た末ま比ひ天て、定以出賜。以い止と与よ可か良ら無む。
伝紀貫之筆自家集切
紀貫之が、みずから自分の歌集を書写したものとして伝えられています。字体・書体・仮名遣い・様式・料紙などからみて、貫之の時代に近いものとされています。仮名が平安上代様に向かってどんどん洗練されていく過程の前の、素朴な原形を保っています。草体から女手へ移行するなかで、草の体が確実に示されながら、仮名らしい略体化がなされています。字体は扁平で、右上がりを抑え、穏やかであり、特別工夫された連綿もなく、続けてあっても一字一字を単独的に書いています。(日本書学体系・法書篇)
紀貫之が自らの歌集を自筆で書写したと伝えられることから、自家集切と呼ばれる。国宝秋萩帖(東京国立博物館蔵)などとともに、草仮名の典型として注目される。文字は扁平で筆力は強く、時に連綿を見せ、草仮名から女手への移行時の姿を示す。(九州国立博物館)
もと巻子本で素紙に草仮名を主体に書写する。古くより、貫之自筆と伝えられたため自家集切の名で呼ばれるが、その確証はない。草仮名から女手への移行時の姿を示しており、貴重である。(文化遺産データベース)
人の家に女の桜の花見たる 飛ひ止と能の以い部へ尓に遠を无む奈な能の左さ久く良ら能の波は奈な美み多た留る |
移ろはぬ 常磐の山に 降る時は 時雨の雨ぞ かひなかりける 紅葉葉の まなく散りぬる 木の下は 秋の影こそ 残らざりけれ |
7世紀後半から8世紀後半になると、日本最古の和歌集万葉集が編纂されましたが、和歌も漢字だけで記されています。5・7・5・7・7という歌の1拍1拍の音を記す表記法(万葉仮名の音仮名)であっても、漢字という文字だけを使用しています。
万葉集は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)。成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。(Wikipedia)
元暦校本万葉集
巻第20に元暦元年(1184)に校合したという奥書があることによる。これらの中でもっとも歌の数が多いこと、能書による寄合書になることなどから、特に重要視される写本である。(e国宝)
藍紙本万葉集
藍で染めた紙の繊維を漉きかけにし、銀の砂子を撒いた料紙に万葉集巻第9を書写したもので、藍紙本と通称される。(e国宝)
桂万葉集
皇室御物。平安時代中期の書写と推定されており、現存する最古の写本である。巻4の3分の1ほどの109首を収める1巻のほかに、断簡(栂尾切ともいう)が66首と37首分の目録が残る。源兼行筆とされるが、ほかに紀貫之、源順、藤原行成、源俊房とする説がある。次点の影響が少なく、古点本の面影を残している。花鳥草木を描いたきわめて美しい継色紙が使われ、紙背継目の花押から伏見天皇の御物といわれる。その後、前田利家室芳春院の所有となり、子の利常が桂宮家に献上した。名はこれによる。明治14年(1881)、桂宮家断絶により皇室に入った。断簡は石川武美記念図書館、五島美術館、出光美術館、梅沢記念館ほか諸家が所蔵している。(Wikipedia)
その後、奈良朝から平安朝に入るに至って、後世「三筆」として知られる嵯峨天皇・空海・橘逸勢が出ずるに至っても、更にまた平安朝の第二期「三蹟」として知らるる小野道風・藤原佐理・藤原行成に至るも、いずれもその書は奈良朝をうけ伝えたもので、その源を王羲之に発していることはいうまでもないが、この間、三筆より三蹟と書風の変化があり、国粋論者は之を以って漸次に中国書道から離れてわが国独特の書風が確立せられたものであるといい、中国の書を標準とする者の眼より見れば、漸次に和臭を生じ、後世御家流への堕落の一段階を画したものともいえるであろう。然してこの宮廷書道の一派の書が、平安朝以後も、鎌倉期、室町時代より徳川時代に及び、以って明治維新に至るまで一般の書道界に和様として存続し、公文書にもまたこの体の書が広く用いられ、わが国書道の本流として最も長くその生命を維持したのである。
三跡は、書道の能書家として平安時代中期に活躍した小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名を指す。用字は三蹟とも綴られる。入木道の三蹟ともいう。彼らの生きた平安時代には三賢といわれた。三蹟はそれぞれ、和様の大成者。名はそれぞれ音読みで読まれることもあり、その通称を片仮名で示す。
小野道風(おののみちかぜ/トウフウ)は、小野の「野」をとって、野跡(やせき)と呼ばれる。藤原佐理(ふじわらのすけまさ/サリ)は、佐理の「佐」をとって、佐跡(させき)と呼ばれる。藤原行成(ふじわらのゆきなり/コウゼイ)は、権大納言であったので、権跡(ごんせき)と呼ばれる。(Wikipedia)
嵯峨天皇 延暦5年(786).9.7.−承和9年(842).7.15.
第52代の天皇。桓武天皇の第二皇子。母は藤原乙牟漏。大同4年(809)〜弘仁14年(823)在位。
即位の翌年いわゆる薬子の乱が起こったが、そののちは平穏な治世であり、宮廷を中心に唐風文化が盛んで、弘仁格式・新撰姓氏録・凌雲集・文華秀麗集などが編まれた。天皇自身多くの漢詩を残し、また、能筆家としても有名で橘逸勢、空海とともに三筆といわれた。陵墓は京都嵯峨山上陵。(精選版
日本国語大辞典)
光定戒牒
最澄の法弟、光定が弘仁14年(823)比叡山の延暦寺一乗止観院において大乗菩薩戒を受けた時、嵯峨天皇が自ら光定のために宸筆を染められたもので、現存する嵯峨天皇の宸筆として疑いのない唯一のものとされています。本書は現在延暦寺の勅封となっているもので、一様の書風で書かれたものではなく、峻厳な部分と寛博なものが実にうまく融合しています。前者には欧陽詢、後者には空海の影響を十分に窺うことができます。
どちらかといえば空海の風を筆意とした意図的な作意が感じられますが、その筆致は実に堂々としたもので王者の風格があります。(日本書学体系・法書篇)
李嬌百詠断簡
唐の詩人李嶠の百二十詩を行書体で書写した断簡である。用筆は変化に富み、純粋な唐風の書である。古来嵯峨天皇宸翰と伝えるが、現代の書道史では異筆とみなされている。(Wikipedia)
金光明最勝王経註釈(飯室切)
褪せた浅葱の紙に、本文を大字に、註を双行に書写しており、平安初期の雄勁なる書風を伝える。ところどころに胡粉の書き入れがあり、古来本文の書写を嵯峨天皇とし、胡粉の書き入れを弘法大師と伝えるが、書風は嵯峨天皇の宸翰として知られる延暦寺の光定誡牒とは異なり、また胡粉の書き入れも弘法大師の筆との確証はない。金光明経最勝王経は奈良時代以来数多く書写されており、比叡山横川飯室別所に伝わったので、その断簡は飯室切と称されている。(
文化遺産オンライン 根津美術館)
この経は特に字間に書き込まれている胡粉点に、万葉仮名が用いられているので、国語学の資料として重視されています。(日本書学体系・法書篇)
金光明最勝王経は、東大寺創建の際の根本経典とされたもので、諸国の国分寺にも紺紙金泥の経巻が置かれ国家鎮護が祈願された。この種の断簡は、飯室切と称して珍重されているが、もと比叡山の飯室谷に所伝したことによって、その名がある。(MOA美術館)
これらは、法相宗の学僧明一(七二八―九八)が唐の慧沼の疏を中心に集註した『金光明最勝王経註釈』全十巻の断簡であり、もと比叡山横川の飯室別所に伝えられていたとされるので、飯室切の名で呼ばれている。筆者は嵯峨天皇といわれているが、もちろん伝承にすぎない。(e国宝)
空海 宝亀5年(774)-承和2年3月21日(835年4月22日)
空海は日本書道界の祖として重視され,嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ,また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。(改訂新版 世界大百科事典
)
日本天台宗の宗祖である最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。
書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である。真言宗の祖かつ三筆に数えられる能書家であることから、後世、謀書も作られたと言われている。例えば、天長3年(826)3月5日に、高弟の真雅に唯授一人の印信(奥義伝授の証明書)を授け、その天長印信というものが中世まで真言宗醍醐派の醍醐寺の至宝として伝わっていたが、後の研究では天長印信は謀書の一つと考えられている。謀書とは、近代以前の日本において、公私の文書を偽造することもしくはその文書のこと。謀書とともに、文書に据えられる花押・印章が併せて偽造されることがあり、偽造された花押・印章のことを謀判と呼び、謀書とセットにされる場合がある。(Wikipedia)
風信帖
国宝指定名称は弘法大師筆尺牘三通(風信帖)。空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで風信帖と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年献上したことが巻末の奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として灌頂歴名とともに絶品とされる。流麗な草書体である。全体は王羲之の体である。東寺蔵。(Wikipedia)
灌頂記
空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁3年(812)11月、12月、翌年3月の3回分の記録。結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である。また、最澄、空海が決別する原因のひとつとなった泰範の名が記されているのも興味深い。わが国宗教史の上で重要な古記録であるとともに、心覚えのために書き流した書であるため、空海の自由闊達な書風を知ることができる貴重な資料ともなっている。
灌頂暦名はその後、天仁元年(1108)、白河院の御所のおまもりに取り上げられた。そして鳥羽離宮内の勝光明院宝蔵に収められていたが、徳治3年(1308)に後宇多法皇によって神護寺に返還された。このことは、それに付属する後宇多法皇の施入状によって明らかである。(高雄山神護寺)
聾膂指帰
三教指帰の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる。空海の出身地を実証する資料とされ、嵯峨天皇へ献上されて嵯峨離宮、仙洞御所、大覚寺、西芳寺、仁和寺を経て、天文5年に堺の前田仲源五郎が金剛峯寺へ寄進する。現・金剛峯寺蔵。国宝。(Wikipedia)
金剛般若経開題
開題とは、経典の題名を解説し、またその経典の要旨を示した書物のこと。金剛般若経開題は、六種の漢訳がある金剛般若経について解説した空海の著作である。空海はその経題に浅略と深秘の二つの解釈があるとし、密教の深秘の立場を重視して、その経典題が無量無辺の教えを蔵すると説く。
弘仁4年(813)に空海は、かつてともに唐に渡った遣唐大使の藤原葛野麻呂(755−818)による金剛般若経供養に願文を寄せており(性霊集巻第六)、本書の成立をこれに関連づける説があるが、本書には弘仁9年頃の空海の著作と共通する内容が含まれるとし、成立はその頃に降るとする見解もある。
本品は38行分の残巻で、有栖川宮家から高松宮家へと伝来、昭和36年に文化財保護委員会から当館に管理換された。当初は300行近くあったと推定される空海の自筆本の一部であり、合わせて150行分あまりの残巻・断簡が各所に現存する。墨抹や行間の書き込みによる修正のあとから、草稿本であることが知られ、軽妙な独草体(一字一字を続け書きしない草書体)で筆記されている。多様な書体を使いこなした空海の、高い技量に裏づけられた自然体の書であり、かつ空海の思索過程を伝える真蹟として貴重である。(奈良国立博物館)
崔子玉座右銘
後漢の崔瑗の座右銘100字を草書で2、3字ずつ、数十行に書いたものである。もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院の蔵であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は大字切と称している。(Wikipedia)
真言七祖像賛
空海が在唐中,その師恵果から李真らに描かせた真言五祖 (金剛智,善無畏,不空,恵果,一行)
の画像を贈られ,帰朝 (821) 後,これに龍猛・龍智像を描き加えさせて七祖とし,それに空海みずから名号,題字と,七祖の行状文などの賛を書いた。上部の名号,題字は飛白。行状文はみな草書を基調とし雑体書を混用したもので,画像の荘厳にふさわしい相をなしている。京都教王護国寺蔵。7幅。国宝。なお,のちに空海も加えられて真言八祖像として転写本も多く作られた。(ブリタニカ国際大百科事典
小項目事典 )
三十帖策子
弘法大師空海が入唐中に青龍寺の恵果和尚らから修得した密教経典・儀軌などを書写し持ち帰ったもの。空海以外に同時に入唐した橘逸勢、唐の写経生らが書写しています。第14帖の空海自筆の総目録によれば、本来38帖あった事が記されていますが、現存は30帖のため三十帖冊子と呼ばれています。(仁和寺)
空海自身の書写もあるが、多くは中国人の書写になる。はじめ東寺に納められたが、現在は京都仁和寺に所蔵。国宝。(精選版 日本国語大辞典 )
橘逸勢 生?−承和9年(842).8.13.
平安時代初期の官人,書家。入居の子,奈良麻呂の孫。延暦 23年(804)遣唐使に従って空海,最澄らと入唐。唐人から橘秀才と称賛された。帰国後,従五位下に叙せられ,承和7年(840)但馬権守となる。承和の変で捕えられ,本姓を除いて非人逸勢と呼ばれ,伊豆に流罪と決ったが護送の途中遠江で病死。のち嘉祥3年(850)罪を許された。空海,嵯峨天皇とともに三筆といわれる書道の名人で,隷書を最もよくし,平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成るといわれる。また御物で逸勢の書と伝えられる伊都内親王願文は,書道史上高い位置を占め,9世紀の逸品といえる。(ブリタニカ国際大百科事典
小項目事典)
在唐中、書は柳宗元に学び、唐の文人から橘秀才と賞賛された。隷書に優れ、宮門の榜題などを書いたという[3]。ただし、逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。その中で、空海の三十帖冊子の一部分、興福寺南円堂銅燈台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされていて、確証は未だ見つかっていないものの、逸勢以外の書家から書風の可能性を見出すこともできないため、逸勢の筆との説が有力視されている。(Wikipedia)
伊都内親王願文
桓武天皇の第8皇女・伊都内親王が生母・藤原平子の遺言により、天長10年9月21日(833年11月6日)、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進した際の願文である。楮紙に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大と評されてもいる。御物。(Wikipedia)
三十帖策子第二十九帖
三十帖策子の中に、橘逸勢の書写したものがあるといわれております。すなわちその第二十九帖、大方広菩薩蔵経中文殊師利根本一字陀羅尼法がそれであります。
帰国を前にして空海は鋭意、三十帖策子を整えましたが、逸勢がその書写に手を貸したかどうか、逸勢には自らの任務があったでしょうから、それだけの余裕があったかどうか、消息は知るべくもありません。ただこの非凡な筆蹟を見て、比田井天来は逸勢筆に違いないと断定を下したのであります。以来逸勢真蹟説が通説化されております。(Wikipedia)
小野道風
小野道風は和様書道の口火を切った人であったことがわかります。奈良時代以後、日本人の好みに合った王羲之(307?−365?)の書がもてはやされ、人々に尊重されました。中でも能書として有名な空海(弘法大師)は、羲之風を根底にしながら、重厚で新鮮な自己の書風を完成させました。
当代屈指の能書の活躍する平安時代初期は、王羲之を中心とした中国大陸の強い影響を受けながら、それを基礎にして日本的気風のある書へ発展させる足がかりを築いた時代といえます。
寛平6年(894)菅原道真の建議によって遣唐使が廃止されたこともあり、何世紀にもわたり続いてきた中国大陸の文化を脱し、ようやく日本独自の文化を築き高めようとする自覚がめばえてきました。これまでの漢詩・漢文は急速に衰えはじめ、日本人の感情や生活様式に合った和歌が盛んに作られるようになってゆくにしたがって、書も必然的に和様化が進みました。
小野道風(寛平8(894)−康保3(966)・73歳)は、大宰大弐葛絃の子として生まれ、小野篁の孫にあたります。遣隋使の小野妹子を先祖にもつ道風の家系は、当時名門の家柄であって、書道史上多くの能書家が輩出しています。
智証大師諡号勅書
延長5年(927)12月27日に醍醐天皇(885〜930)が、延暦寺第五世座主で園城寺を再興した円珍の没後36年に際して、法印大和尚位と智証大師の諡を下賜した勅書である。本作は寺に渡された控えだが、書き換えられないように「天皇御璽」の内印が字の上に13顆捺されている。円珍にかかわる大部の文書典籍とともに園城寺が大切に伝えてきたもので、明治時代に園城寺の別当であった北白川宮家より、昭和23年、当館(東京国立博物館)に譲渡された。
小野道風が揮毫したと記されている。小野道風は、和様の書の礎を築いたとされ、その書は、各時代を通して尊重されてきた。本作の書は、肉厚で豊潤でありながら全体的に緊張感のある小野道風34歳の筆跡である。(e国宝)
屏風土代
大江朝綱の詩を屏風の色紙形に書くための下書。小野道風の筆。延長6年(928)醍醐天皇の宮廷に新調された屏風の下書で,当時,少内記の道風は35歳。揮毫のための構想からか,随所に細字で書き入れした推敲の形跡がある。その書は和様ではあるが,藤原佐理・藤原行成の書にみられる繊細さはなく重厚である。御物。(山川 日本史小辞典 改訂新版)
三体白氏詩巻 正木美術館所蔵
平安三蹟の一人である小野道風が、三つの書体で白氏文集の詩を二編ずつ写している。穏やかで謹厳な楷書、重厚かつ流麗な行書、そして自由闊達な草書で揮毫された本作は、王羲之の書法をもとに和様の基礎をつくった道風の書風を現代に伝える代表作である。道風の真蹟はいくつか知られるが、本作は道風の楷書を伝える唯一の作例である点でも貴重といえる。(正木美術館)
玉泉帖
冒頭 玉泉の文字により呼ばれ、小野道風が白氏文集を抄出したもの。楷・行・草の三書体で、肥痩、潤渇、大小を興にまかせて自由に書いている。明治11年近衛家献上。(皇居三の丸尚蔵館)
藤原佐理 天慶7年(944)−長徳4年(998).12.15.
平安中期の公卿・書家。右近少将、参議、大宰大弐などを歴任。正三位に至る。小野道風、藤原行成とともに三蹟の一人。上代様書道の創始者道風を受け継ぎ、さらに発展させた。能書として最大の名誉である悠紀主基屏風色紙形の揮毫を三度拝命。真跡として「詩懐紙」「離洛帖」などがある。(精選版 日本国語大辞典)
詩懐紙
この懐紙は右近衛権少将在任中26歳の作品で、老成の趣を示し円熟した字を書いている。誠に感嘆するばかりである。同賦とあるのは詩歌会の席上で同じ題でよんだものである。懐紙とは懐中の用紙のことで当時男は普通陸奥紙を、女は色紙をふところに持っていて、詩歌の会合の席上その紙を取り出して書いたものである。現存する詩懐紙としては最古の遺品で貴重なものである。晋の王羲之の風をはなれ、温雅で流麗な和様独自の境地を開かれた。(高松市
高松の文化財)
恩命帖
藤原佐理(944〜998)の書状で、書き出しの佐理謹奉恩命によって呼ばれる。冒頭と差出所に佐理の草名があり、本文は袖書まで一連のもので全文。天元5年(982)正月、射遺所の役に関連するものと考えられている。明治11年近衛家献上。(皇居三の丸尚蔵館)
国申文帖
平安時代中期を代表する能書、藤原佐理の自筆の詫び状である。伊予権守在任中に申文に奉の字を一字抜かしたこと、正月の大饗を早退した非礼、そして叔父の関白藤原頼忠の娘が円融天皇の女御として入内する際の女車にお供をしなかったことの3件について詫びている。
宛名の丹波守は藤原為雅(藤原頼忠の家司)。天元5年(982)、佐理39歳の時に為雅を通じて叔父の頼忠に宛てた書状である。淡墨を用いた自由闊達な筆遣いで、線の抑揚や流れは仮名美を感じさせる。書き出しの一文から国申文帖と呼ぶ。また、本文中に女車という一語が見られることから女車帖という名称もある。藤原佐理の真蹟には懐紙が1点、書状が5点知られているがそのうちの1点である。(書芸文化院)
離洛帖
小野道風・藤原行成とともに三跡にあげられる藤原佐理(944〜998)の書状。佐理が正暦2年(991)に太宰大弐に任ぜられて九州へ下向する途中の5月19日、長門国赤間関(現下関市)より甥の春宮権大夫藤原誠信に宛てたもので、出発に際し、殿下すなわち時の摂政藤原道隆に赴任の挨拶を怠ったので、その侘びの取りなしを依頼した内容である。書き出しに、謹言 離洛之後とあることから離洛帖と命名されている。佐理48歳の書。(荏原 畠山美術館)
頭弁帖
藤原佐理の最晩年の書。書き出しに、佐理、謹んで言す。頭弁昨日参閣の由…とあるため頭弁帖と呼ばれている。彼が何事かを天皇に奏上したところ,天皇の筆頭秘書官にあたる頭弁によって留め置かれたままになっていることへの嘆きや訝しく思う心情がつづられている。冒頭では落ち着きがみられる筆致が,次第に自由に,そして最後には奔放に書き流されている。直筆で書かれた線には丸味があり温雅であるが,内に秘めた力強さが伝わってくる。佐理老筆の円熟の書である。(福山市)
古今和歌集断簡 筋切
金銀の揉箔を撒いた料紙に、古今和歌集巻第19の和歌4首を書写した断簡。もとは粘葉装の上下2冊の冊子本。上巻は昭和27年(1952)までは完本として伝来したが、その後分割された。切名は、飛雲や羅紋を漉きこみ、金銀の揉箔を撒いた料紙に、銀泥の線が引かれているため筋切と称される。もともと料紙は横紙として巻子の仕立てに用いられるはずのものであった。銀泥の線は5本横に引かれ、その線の間に下絵を銀泥で描いたものだが、古今和歌集を調製するために90度回転して竪紙として用いられた。そのため線が縦方向となっている。本来は両面書きで、その裏面は篩に似た、荒い布目の跡があるので、その断簡を通切と呼ぶ。
本品では優美な料紙に流麗な書風が展開される。伝承筆者を藤原佐理とするが、佐理の筆跡とは異なる。書風から藤原定実筆と推定される。(九州国立博物館)
藤原行成 天禄3年(972)-万寿4年12月4日(1028年1月3日)
平安時代中期の公卿。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(寛弘の四納言)の一。世尊寺家の祖。
行成は道風に私淑し、その遺墨にも道風の影響がみられる。その追慕の情はかなり強かったらしく、権記に、夢の中で道風に会い、書法を授けられた、と感激して記している。
行成の書風は道風や佐理よりも和様化がさらに進んだ、優雅なものであり、行成は和様書道の確立に尽力した、世尊寺流の宗家として、また上代様の完成者として評価されている。(Wikipedia)
白氏詩巻 国宝。
行成47歳(寛仁2年(1018))の筆跡。色変わりの料紙に、白氏文集巻第65から8篇の漢詩を、瀟洒で明るい書風で書き進めた調度手本。奥書で行成は、経師の筆を借りて書いたため普段とは違っており笑わないでほしい、と述べている。(東京国立博物館)
後嵯峨院本白氏詩巻 国宝。正木美術館蔵。
中国唐時代の詩人白楽天の詩集白氏文集の詩を書写した巻子で21篇の詩が写されている。小野道風の書風を発展させた、端正で優雅な行成の能書ぶりが見て取れる。紙の継ぎ目に文字が乗っていることから、長大な巻子を仕立ててから揮毫したことがわかる。(正木美術館)
本能寺切 国宝。本能寺蔵。
小野篁,菅原道真,紀長谷雄の漢文の一節の書写。本能寺に伝わるのでこの名がある。藤原行成筆。紙本1巻,素紙に雲母で文様が刷られている。行草体で前半4行は文字が小さく,後半 29行は文字がやや大きく書かれている。行成の白氏詩巻と同筆と認められる。書は端麗温雅で和様の典型を示している。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)