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 第4巻 第21章-1 藤原楚水著 省心書房

第二十一章 明時代の書道

一 明代の書学

元は忽必烈(フビライ)の死後、1368年、朱元璋(太祖洪武帝)が元を倒して建国。都は当初南京であったが、永楽帝の1421年、北京に遷都。南海諸国を経略、その勢威は一時アフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は宦官かんがんの権力増大による内紛、北虜南倭に苦しみ、1644年、李自成に国都を占領され、滅亡。
明の文化の特色は一種の科学的特色はあったが、この時代の精神文化に於ては、明は甚だしく非考証的であり、唐朝及び宋朝の如き独創性を示すことなく、唯、先蹤者のやった仕事に幾分の変更を加えるか、或はその受取った典型に対する強い忠実さと、その機構を保存することをもって満足した。書学もまた帖学を以って主と為し、宋以後行われていた各種の法帖の摹刻が継続せられ、更に多きを加えた。
淳化閣帖の覆刻を始め、東書堂帖・宝賢堂帖・真賞斎帖・欝岡斎帖・余清斎帖・停雲館帖等多くの集帖が刊行せられ、彼等の学ぶところの書もまた多くは集帖に於てし、その他は蘭亭叙・集王書聖教序・楽毅論・黄庭経.宣示表・十七帖等に過ぎなかった。
祝枝山や文徴明は、元の趙子昴同様、書は晉唐に溯るべきと気づき、復古につとめたが、碑学以外の学習が得られず、晉唐に溯ることを知らず、法帖を中心としたので、その目標はどうであったにせよ、結局はその晉唐復古も、明人の晉唐に終り真の晉唐に達するを得なかったのみか、元の趙子昴にも及ばなかった。結果、明もまた行草、小楷の外は殆んど見るに足るほどのものがなく、もって清初へと移行した。

二 明代の書家とその書蹟

1 宋濂 至大3年10月13日(1310年11月4日)-洪武14年5月20日(1381年6月12日)
字は景濂。号は潜渓・無相居・竜門子・玄真子。浦江(浙江省金華市金東区)の人。唐宋の古文と朱子学を窮め、当時の経学・文学における正統派の代表者である。太祖に仕えて顧問となり、元史の編集を総裁し、翰林の要職を歴任するとともに、劉基とともに明朝の諸制度を定めた。高潔な人格者として皇太子を教育し、太祖の信任もきわめて厚かったが、のち孫の宋慎(1342―1382)が胡惟庸の獄に連坐して刑死したため、彼も茂州に流され、途中で自殺した。文章は典雅で明初随一と称される。

馮子振(居庸賦)


2 宋燧

宋燧は濂の第二子で、字を仲珩といい、詩を善くし、篆隷に精しく真・草書を工にした。宋克・宋燧・宋広の三人は三宋とよばれた。
洪武中、召されて中書舎人となり、その兄の子の慎もまた儀礼司の序班となり、祖父の濂と、孫と父子ともに宮中に官となったので、世人は皆もって甚だ光栄であるとした。しかしその後、慎が胡惟庸に党した故をもって罪を得るに及び、燧もまた連坐して誅せられた。父の宋濂が官位をおとされて、茂山に流される途中卒するなど、まことに一族の悲惨なる運命であった。
その書は、墨縁彙観に端粛帖というのが収録せられている。

敬覆帖


3 趙謙
字をヒ謙といい、余姚の人。幼にして孤となり、山寺に寄食し、長じて四方に赴き、諸名人と遊び、博く六経百氏の学を究め、尤も文字学に精しく、時人称して考古先生といった。

4 方孝孺 至正17年(1357)-建文4年6月25日(1402年7月25日)
字は希直・希古、号は遜志。寧海(浙江省象山県)の人。宋濂に師事し、門下の中で随一と評された。
著書は遜志斎集のみが残っている。

蓬囗手卷

5 沈度 至正17年(1357)-宣徳9年(1434)
沈度は字を民則といい、号は自楽。松江華亭の人。
三宋二沈(三宋は宋克・宋璲・宋広、二沈は沈度・沈粲)の一人。三宋の中では宋克が最もすぐれ、草書と楷書を好み、この楷書が沈度に受け継がれた。各書体に優れ、典雅な趣と柔和な美しさがある書風は館閣体と言われる。

四箴銘(上海博物館藏) 隷書七律詩
言箴 動箴 視箴 聴箴
謙益齋銘 敬齋箴(北京故宮博物院蔵) 繪・大参帖(三希堂法帖) 行書七律詩(北京故宮博物院蔵) 四留銘


6 陶宗儀 天暦2年(1329)-永楽10年(1412)?
字は九成。南村と号した。浙江省黄巌の人。科挙に失敗し、任官を断念。古学研究に専念した。
輟耕録・書史会要・南村詩集のほか、説郛の編纂で知られる。

7 王紱 至正22年(1362)-永楽14年(1416)
字を孟端、号を友石生・九龍山人・青城山人と称した。江蘇省無錫の人。
墨竹、山水画にすぐれたが、山水画は元末四大家、特に倪瓚、王蒙に学んだものが多い。元末・明初の蘇州画壇崩壊以後、元末四大家の様式を伝えた数少ない文人画家として注目される。書は墨縁彙観に叔訓帖というのが収録せられている。

復叔訓帖(三希堂法帖)


8 簷希元
字は孟挙。書学をもって世に名あり特に大書を善くした。洪武の初、中書舎人に官し、宮殿及び城門、坊扁等みな希元が書した。

9 楊士奇 至正25年(1365)-正統9年3月14日(1444年4月2日)
名は寓。字は士奇、僑仲。号は東里先生。諡は文貞。泰和(江西省)の人。
正統帝が9歳で即位し、太皇太后が摂政となると、同じく閣臣であった楊栄、楊溥とともに三楊と称され、内閣の権を確立した。
歴代名臣奏議・三朝聖諭録・文淵閣書目などの編著がある。

10 宋克 泰定4年(1327)-洪武20年(1387)
字は仲温、号は南宮生、長洲の人。書法は章草をよくし、小楷に優れた。
元の書風を受けた三宋二沈(三宋は宋克・宋璲・宋広、二沈は沈度・沈粲)の一人。三宋の中では宋克が最もすぐれた。
書は、杜甫詩枏木為秋風所拔歎巻・両得来書帖・陶詩并画竹石巻・韓昌黎雑説・孔文挙論盛孝章書草習烏絲闌紙本などがある。

杜甫詩 壮游詩卷

唐宋人詩卷(上海博物館藏)

11 解縉
字は大紳・縉紳、号は文水・春雨と称し、吉水(江西省)の出身。20歳の若さで科挙試験に及第した秀才で、早い時期から帝に認められ宮廷に仕えた。以降、代々の皇帝に重用され、永楽大典の編纂なども行なった。しかし、やがて漢王朱高煦と揉め、左遷されたのちに投獄され、獄中で悲惨な最期を遂げた。
晩年の不遇により、彼の詩文作品はほとんどが廃棄され、現在残された作品は少ない。連綿草を先駆けた。

游七星岩詩

草書自作雑詩帖


12 宋広
生没年不祥。字を昌裔といい、南陽の人。号は東海漁者・桐柏山人。三宋の一人。
墨蹟は李太白の詩の草書幅が墨縁彙考に著録されている。

李白詩月下独酌


13 沈粲 至正17年(1357)-宣徳9年(1434)
字は民望、号は簡庵。松江華亭の人。
三宋二沈の一人で沈度の弟で、兄の度と善書を以って称せられた。

古詩

致暁庵史詩札卷

梁武帝(草書状)


14 沈周 宣徳2年11月21日(1427年12月9日)-正徳4年8月2日(1509年8月17日)
字は啓南。号は石田・石田翁・白石翁・玉田翁・有竹荘主人・倚翠生。沈石田の呼称でも知られる。蘇州府長洲県相城里(江蘇省蘇州市相城区陽澄湖鎮)の人。
文人画の一派である呉派を興し、南宋文人画中興の祖とされた。門下より以後の蘇州画壇を指導した文徴明、唐寅などを輩出し呉派の祖として後世の画家に非常に重んじられた。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。代表作に杖藜遠眺図、著に石田集がある。

杖藜遠眺図(ネルソン・ギャラリー)

支y遇友図

畫跋(三希堂法帖)

米芾蜀素帖跋

化鬚疏(台北故宮博物院藏)


15 陳献章
宣徳3年(1428)-弘治13年(1500)
字は公甫、号は石斎・白沙子・石翁、陳白沙と称せられることが多い。諡は文恭。広東省新会県白沙里の人。のちに江門に居住した。王守仁の心学の先駆とされる。
書は、茅を束にして筆の代用とし、晩年はこれを用いて独自の様式を築いたと評される。

草書詩巻(呉栄光旧蔵、東京国立博物館蔵)

程「秋日偶成」 邵雍「極論」


16呉寛 宣徳10年(1435)-没年不明
呉寛は字を原博といい、匏菴と号した。長洲(江蘇省蘇州市に唐から清まで存在した県)の人。
30代の頃に科挙試験に主席で合格して官に就き、太子への学問の指導も経て、大臣にあたる礼部尚書を任せられた。温厚で人望の厚い人柄であり、故郷では文人画家として名高い沈周など、友人らと共に後進を牽引し、都でも同郷の者たちの集まるサロンの中心となって活動した。
詩・書・画に巧みで、書は蘇軾の書を好んだが、その書風は蘇軾に倣いながらも独自の重厚な書風を確立した。

種竹詩

17 朱存理
朱存理は字を性甫といい野航と号した。長洲(江蘇省蘇州)の人。博学にして文を工にした。仕進に淡く、布衣をもって終った。

18 李東陽 正統12年(1447)-正徳11年(1516)
字は賓之、号は西涯。原籍は茶陵(湖南省)だが、北京の人。幼少の頃から書の神童で、18歳で進士になり、その後内閣大学士・礼部尚書・吏部尚書などを歴任した。
当時体制派であった台閣派の詩文の平板さを破り、唐宋八大家の文・盛唐の詩を理想とすべきであるという格調説を唱え、茶陵派と呼ばれ文壇の主流となった。
著書に懐麓堂集・懐麓堂詩話がある。

詩巻


19都穆 天順3年(1459)-嘉靖4年(1525)
都穆は字を玄敬といい、南濠居士と号した。原籍は呉県相城(蘇州市相城区)、のち蘇州府呉県南濠里(江蘇省蘇州)の人。

20祝枝山 天順4年12月6日(1461年1月17日)-嘉靖5年12月27日(1527年1月28日)

一 祝枝山の経歴および人物

祝允明、字は希哲、号は枝山・枝指生。長洲県(江蘇省蘇州市)出身。
多指症のため生まれつき右手の指が6本あった。弘治5年(1492)郷試に合格したが、進士の試験には落第し続けた。正徳9年(1514)広東省興寧県(興寧市)の県令を経て、正徳16年(1521)首都南京の応天府の通判に任ぜられたが、病気を理由に1年足らずで帰郷した。
詩文をよくし、唐寅・文徴明・徐禎卿とともに呉中四才子の一人に数えられる。

二 祝枝山の書学 ・ 三 祝枝山の書品

祝允明は、母方の祖父である徐有貞から懐素流の草書を学び、妻の父である李応禎から鍾繇・王羲之流の楷書(小楷)を学び、古風な小楷の名手として有名だった。魏、晋の書風をよく学んだが、性格的に豪放であったためか晩年は小楷を書くことが少なくなった。狂草に優れ、筆勢鋭く奔放な作品がもてはやされた。臨書を怠らず、晩年に至るまで古今の法書の研究に努めたといわれている。

四 祝枝山の主なる書蹟

祝枝山の書の法書に刻されたものは停雲館帖の外、宝翰斎法帖、三希堂法帖に前後赤壁賦を刻し、鄰蘇園法帖に臨黄庭経、また鵬賦を。嶽雪楼鑒真法帖に陶淵明の飲酒詩。安素軒法帖に四十二章経、詩話、札一、詩一を。餐霞閣法帖には黄庭、洛神賦を刻してあるが、その他にも数多い。

草書真蹟(蜀道難)

出師表

赤壁賦・帰田賦

嘉靖5年(1526) 上海博物館蔵 帰田賦

臨黄庭経(澄懐堂文庫蔵) 赤壁賦(三希堂法帖) 劉基詩(三希堂法帖) 閑居秋日 晩間

燕喜亭記 雲江記 劉君文威聴泉記 信息 牡丹賦


21 唐寅 成化6年2月4日(1470年3月6日)-嘉靖2年12月2日(1524年1月7日)
字は伯虎、のちに子畏と改めた。号は六如居士、桃花庵主など。呉郡(江蘇省呉県)の人。
書画に巧みで祝允明・文徴明・徐禎卿と並んで呉中四才子と呼ばれた。

集賢賓等詩卷(北京故宮博物院藏)

集賢賓 錦衣公子 山坡羊

致若容札(美国大都会芸術博物館藏)


七言律詩軸(北京故宮博物院藏) 呉門避暑詩(遼寧省省博物館藏) 絶句四条屏 贈周良温詩巻 旧作七絶二種