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 第4巻 第21章-2 藤原楚水著 省心書房

第二十一章 明時代の書道

22 文徴明 成化6年11月6日(1470年11月28日)-嘉靖38年2月20日(1559年3月28日)

一 文徴明の家系と師友
蘇州府長洲県(江蘇省呉県)の人。初め名は璧、字は徴明であったが、のちに広く字で知られたため、さらに字を徴仲と改めた。号は衡山、停雲生など。祝允明、唐寅、徐禎卿とともに呉中四才子といわれ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。

二 翰林待詔となる
文徴明は、科挙には10回応じてついに合格しなかった。54歳で歳貢生として北京に赴いて翰林院待詔を授かり武宗実録の編修に参与したが、3年後には致仕し帰郷した。58歳のとき、玉磬山房を築き晩年は隠逸生活を送った。

三 文徴明と詩書
宋・元の書を学び、後に晋・唐の書を学んだが、趙孟頫からの影響が強い傾向がある。
行書・草書作品は、王羲之の集王聖教序や智永の真草千字文に基づくとされている。
小楷は、王羲之の黄庭経・楽毅論に基づき、諸家いずれも文徴明の小楷や大字草書の妙を極賞している。
長条幅は、黄庭賢風の大字の行書・楷書もみられ、
当時、隷書作品も有名だったが、文徴明の代表作として残る隷書作品はない。
詩文を呉寛(匏庵)に、書を李応禎(貞伯)に、画を沈周(石田)に学んで三絶と称賛され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、呉派の文人画を発展させた中心人物とされる。
代表作に江南春図(台北、故宮博物院)、著に甫田集がある。詩文の代表作に西苑詩が挙げられる。

草書詩巻


與希古帖(三希堂法帖)
與野亭帖(三希堂法帖)
雨中放朝詩
離騒
九歌
便面
尺牘(明代名賢手札墨宝)
赤壁賦(嘉靖己亥・1539)
行草書立軸
蘇州府学田記 送李愿帰盤谷序 真蹟千字文 上遊天池詩


四 文彭と文嘉 - その詩・書画・篆刻について
文彭(弘治10年(1497)-万暦元年(1573))は文徴明の長子で、蘇州府長洲県(江蘇省呉県)の人。字を寿承といい、三橋・漁陽子・三橋居と号し、南京国子監博士・北京国子監博士を歴任したので文国博と称された。少にして家学を承け、真・行・草を善くし、尤も草隷を工にした。特に篆刻に優れ、宋・元以来の曲がりくねった篆書を方正なものに改めて、刻印を芸術の域にまで高め、呉門派の領袖として近代文人篆刻を創始した。
弟の文嘉(弘治14年(1501)-万暦11年(1583))は、字は休承、号は文水。蘇州府長洲県の人。諸生のときに烏程県の教員をして、後に学正となる。文家の家学をよく継承し山水画を得意とし、石刻は明代の第一といわれた。また書画や器物の鑑定家として活躍した。
文徴明の一家は、書画・篆刻をよくし、その自然の結果として刻帖にも手を染めるに至った。停曇館法帖十巻は、文徴明が監裁し、文彭、文嘉の二子が手摹し、温恕、呉才鼎、章簡甫の三人が刻したもので、文徴明はその帖中で、通天帖、絶交書、祭姪帖、神仙起居法、簷孟挙書等の後に跋を書いている。文氏の名声は赫々たるものがあったので、この法帖は世間からひどく重んぜられ、これによって書を学ぶものが多く、書道の研究に寄与するところが絶大であった。

文彭 文嘉
五言律詩軸 七言律詩巻 便面(七言絶句) 尺牘(明代名賢手札墨跡)


23 王陽明 成化8年9月30日(1472.10.31.)-嘉靖7年11月29日(1529.1.9.)
王陽明は名を守仁、字を伯安といった。自ら陽明子と号し、世称して陽明先生といった。遠祖は秦の将軍王離の長子の王元の末裔といわれる王吉を祖とし琅邪郡臨沂県を本貫とする琅邪王氏の家系で、王羲之の32代の孫。
官は南京兵部尚書・兼都察院左都御史にいたる。文臣としては明代を通じて武功第一と称され、江西福建の賊乱、宸濠の反乱(寧王による皇位争奪の挙兵)、広西ヤオ族の乱などを平定。
はじめ朱子学を修めたが、宦官劉瑾に反対して流された貴州省竜場山中で、南宋の陸象山の心即理説をうけ、これを根本原理とし、知行合一・万物一体・致良知を主張する陽明学を確立。陽明学は客観的哲学である朱子学とは対照的に主観的哲学の色彩がこく、朱子学と並ぶ儒学の2大潮流の一つとなった。
弟子との問答・書状を収録した伝習録がある。
陽明学の三大綱領と四句教
陽明は幾度か叛乱を討平し、匪賊を剿絶し、蛮族を宣撫し、赫々たる勲功をたてたが、この間また講学を怠らず。朱熹と同時代に生き、その論敵として知られる陸象山を距ること殆んど400年にして象山の心即理の説を継述し、致良知を説き、知行合一の説を述べ、当時の学界に新旗幟をたて、所謂陽明学派の始祖となり、後世に与えし影響は甚だ大なるものがあった。

陽明学は要するに心即理、知行合醐、致良知の三大綱領に帰納し得られる。その意に以為らく、宇宙の本体は理であり、理は天地に充満せる霊妙不可思議のものであり、この理が人に寓せるが心で心即理である。
故に心の本体もまた虚霊不昧で、これを良知と称する。良知は霊妙にして感じて通ぜざるはなく、物として照さざるはない。唯、この至妙霊活なる心も、時として私欲の掩うところとなって、そのはたらきに障礙を来し、天の理を滅することがある。故に人たるものは努力してその私欲を除き心の本体たる天理を存養しなければならない。これが致良知で、致良知によって一点の私欲なきを致し、私慾なければ心の本体が障蔽を被ることなく、知行自然にして合一となるというにある。

陽明はこれを学者の記憶に便にする為に四句の口訣(四句教)を編成した。
無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり)
有善有悪是意之動(善有り悪有るは是れ意の動なり)
知善知悪是良知 (善を知り悪を知るは是れ良知なり)
為善去悪是格物 (善を為し悪を去るは是れ格物なり)
理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。
その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ。

ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける無は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。
認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また知は行の始めにして、行は知の成なりとする。これが知行合一である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし知と行が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学ではが先にあってが後になると教える(知先行後)が、知行合一はこれへの反措定である。
王陽明の思想の特色は、己の良知の霊妙なることを信ずるに尤も厚く、良知は之を実行に移してこそ初めて之を真の知ということができるという考え方であるから、この派の学者には、果断にして実行力に富んだ達見の士が多く輩出した。

何陋軒記 家書 嘉靖6年(1527)


24 陳淳 成化20年(1484).6.28.-嘉靖23年(1544).10.21.
字は道復、また復甫、号は白陽山人。長洲大姚村(江蘇省蘇州)の名家の出身。若いころより文徴明に師事して学芸を学び、入室の弟子と称され、呉派隆興の一翼を担った。画は米法山水のほか花卉画を得意とし、ことにその水墨による花卉はのちの徐渭、八大山人ら写意派の画風の先駆となった

尺牘(明代名賢手札墨宝) 採蓮曲 嘉靖癸卯(1543) 草書千字文 嘉靖14年(1535) 尺牘(明代名賢手札墨跡)


25 楊慎 弘治元年(1488)-嘉靖38年(1559)
字は用修、号は升庵。別号に博南山人・博南戍史がある。諡号は文憲。先祖の本貫は吉安府廬陵県(江西省)、成都府新都県四川省()生まれる。
正徳6年(1511)進士に及第、翰林修撰となった。のち世宗嘉靖帝が即位したとき、その亡父の処遇について帝に反対したため激怒を買い、平民として雲南永昌衛に流され、約 35年を配所で過して没した。
非常な神童で、詩は李東陽に認められ、博学で雲南にあって奔放な生活をおくりながら多くの著述を残した。その研究は詩曲、小説を含めはなはだ多方面にわたるが、特に雲南に関する見聞、研究は貴重な資料となっている。

26 王履吉 弘治7年(1494)-嘉靖12年(1533)

一 王履吉の人物
字は履仁、のち履吉、別号に雅宜山人。江蘇省蘇洲の生まれ。諸生となり、度々科挙に応じたが終に及第しなかった。

二 王履吉の孝友
王寵は明の弘治7年(1494)に生、嘉靖12年(1533)に卒した。同時に書を以って知られた者に祝枝山、文徴明があったが、祝枝山は天順4年(1460)に生、嘉靖5年(1526)に卒し、文徴明は成化6年(1470)に生、嘉靖38年(1559)に卒した。乃ち文徴明は王寵より24歳長じ、祝枝山は文徴明よりまた10歳の年長であった。
文徴明との親交が深く、文徴明の後継者とされる。また篆刻は文彭と並び称された。

三 王履吉の詩書
王寵は詩・書・画を能くした。詩については文徴明などと互いに匹敵するものと思われる。王寵の最も得意とするところは書で、明代中葉呉門書派名家の一人。その小楷は鍾繇、王羲之、虞世南を、行草は王献之、李懐琳、孫過庭を模範とし、独自のものを打ち出した。
王寵は画を以って称せらなかったが、黄公望倪瓚の画法に学び、山水を得意とした。

韓愈送李愿歸盤谷序 台北故宮博物院藏 巻子

栞操十首 嘉靖4年(1525)

宋之問五律 嘉靖8年(1529)

七言律詩二首 題跋唐寅溪山漁隠図 草書五言詩 尺牘 與文徴明書


27 王世貞 嘉靖5年11月5日(1526年12月8日)-万暦18年11月27日(1590年12月23日)
字は元美、鳳洲と号し、また弇州山人とも号した。蘇州府太倉州(江蘇省蘇州市)の出身。嘉靖26年(1547)の進士。官は南京刑部尚書に至った。
李攀竜と交わって詩社を起こし、文は必ず西漢、詩は必ず盛唐という復古の主張は、たちまち一世を風靡し、多くの追随者を生んだ。李夢陽、何景明らの前七子に対し、この李・王と謝榛、呉維岳、梁有誉、呉国倫、徐中行を後七子と呼ばれる。

28 趙南星 嘉靖29年(1550)-崇禎元年(1628)1月23日
字は夢白、儕鶴と号し、清都散客とも号した。直隸高邑県(河北省)人。万暦の進土で、文選員外郎に官し、考功郎中、左都御史などに歴任し、吏部省書に進んだが魏忠賢の為めに構えれ、遂に代州に戍せられ、その地に卒したが、崇碵の初め(1628)忠毅と追諡せらた。

29 邢侗
字は子愿、臨邑(山東省徳州市)の人。万暦甲戍の進士で、官・行太僕寺少卿に至った。その書二王を規撫して之をよくし、ほとんど真を乱るといわた。明末の大家で、董其昌・米万鍾・張瑞図と並称せられた。

邢侗臨王献之鵞群帖 尺牘 便面(洛神賦)


30 董其昌 嘉靖34年1月19日(1555年2月10日)-崇禎9年9月28日(1636年10月26日)
字は玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いている。禅に帰依していたため香光居士ともいった。松江府上海県董家匯(上海市閔行区馬橋鎮)の人。
書に優れ、邢侗・張瑞図・米万鍾とともに邢 張米董、米万鍾とともに南董北米と言われた。
清朝の康熙帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝において正統の書とされた。
また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董其昌が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた。また、黄公望・陳継儒・王思任・楊龍友・倪瓚・王時敏・夏雲鼎・孔尚任とあわせて金陵九子と呼ばれる。
また早くから禅に参じており、その書の根底に禅味があるとされている。
鑑定にも優れ、収蔵も豊富。董其昌が刻した集帖に戯鴻堂帖・餘清斎帖がある。

行草書巻
臨自叙帖
項墨林墓誌銘
日月詩巻
三世誥命
輞川詩
呂仙詩
邠風図詩巻
行書唐人詩
臨懐素自叙帖巻
草書書論冊
崑山道中書(王述帖)
万歳通天進巻
臨徐浩張九齢告身
月賦(玉煙堂董帖)
周子通書
送李愿帰盤谷序帖 仿顔真卿楷書 秣陵帖 李白詩月下独酌 真蹟


31 張瑞図 隆慶4年(1570)-崇禎13年(1640)以後
字は長公・无画といい、二水・果亭山人・白毫庵・平等居士などと号し、万暦35年(1607)、進士の試験に及第して翰林院に入り、熹宗時期では天啓6年(1626)のときに礼部尚書となって内閣に参与した。泉州府晋江県(福建省)の出身。
画は山水・書は行草が優れ、特に書は、邢侗・米万鍾・董其昌とともに邢張米董・明末の四大家などと称される名家であった。
画は黄公望を学んだが、奇逸な書の出自の詳細は不明である。
彼の書風は、ナイフで切りつけるような鋭いタッチや筆圧、筆の遅速の変化に富んでおり、内側への収束と外側への放散の小気味よい造形が特徴で、独創性に富んでいる。王鐸・傅山とともに長条幅の連綿書を書いて名高い。

詩巻三種(驄馬行 月下獨酌 詩巻)
西園雅集図記
王維終南山詩
七言絶句 張説幽州新歳作 感遼事作六種 後赤壁賦 異石詩


32 趙宦光
趙宦光は字を凡夫といい、呉県の人。読書を好み、篆書に精しく、妻の陸卿子と寒山に隠て足、城市を踏まず、夫婦ともに時に有名であり、役人などが行って下山をすすめても一向に山を下ろうとしなかった。

文嘉詩 渓山消夏図 杜牧詩 江南春


33 李日華
李日華は字を君実、竹懶と号し、また九疑ともいった。嘉興の人。万暦20年(1592)の進士で官、太僕少卿に至った。性、淡泊、人と忤うことなく、書画を工にし、鑑賞に精しく、世に博物の君子と称せらた。

34 莫雲卿 嘉靖18年(1539)-万暦15年(1587)

一 莫雲卿の家世と青年時代
莫雲卿は松江府華亭県(上海市西部)の人。はじめ字を雲卿としたが後に廷韓に改めている。
当時有名な書家で高級官僚であった莫如忠を父に持ち、14歳で諸生になりさらに貢生なったが科挙にはついに及第できなかった。しかし、天賦の文才があり詩書画に優れた。

二 莫霙卿の人物
莫雲卿の人となりは、一代の才人だったが、決して単なるの才人ではなく、また大の読書家でもあり、蔵書家でもあった。

三 莫雲卿の詩画および画説
莫雲卿の詩は唐を宗とし、華贍にして敏給、觚を操れば立どころに成り、まことに天才的であった。
画は黄公望に私淑したとされるがその作風は文徴明ら呉派の影響が色濃い。16歳年下の董其昌に画法を伝授し、その後、董其昌らと松江派(華亭派)を興し革新的な芸術運動の中心メンバーとして活躍した。
書画の鑑定・画論にも長け、法帖崇蘭館帖を刻している。

四 莫雲卿の書蹟
書は、鍾繇・王羲之・米芾に影響を受け、小楷や行草に気品の高い趣きがあり、王世貞に激賞される程だった。

山居雑賦
詩書巻
七言絶句軸
陳淳自作詩帖跋
草書軸
便面(與孟端書)
便面(與亹庵書)
便面(與董原正書)
柳公權蘭亭詩 陶潛移居詩軸 半塘寺訪鏡泉上人詩軸 録晉書王羲之與謝萬書 三竺


35 程嘉燧
程嘉燧は字を孟陽といい松円と号した。休寧の人。少にして不覊、挙子の学を棄てて剣を学んだが成らず、乃ち節を折りて書を読み、最も音律に精しく書画を工にし、尤も詩に長じ、世称して松円詩老といった。
嘉定に僑居し、歙に帰老した。詩集あり『浪陶集』という。

36 米万鍾 生没年不明
字は仲詔、号は友石、石隠など。米芾の後裔といわれ、祖先は陜西省関中の人で、父の代に北京に移る。万暦23年(1595)進士となり、官は太僕寺少卿にいたった。
絵は范寛、王蒙を学んだと評されたが、現存作品の様式的振幅は大きく、浙派を学んだと思われる作品や、きわめて個性的な画風を示すものも多い。書家としては 邢侗、張瑞図、董其昌とともに邢・張・米・董あるいは南董・北米と並称された。著書に澄澹堂文集などがある。

尊拙園詩之二
登岱詩之七
舊作(扇面)
題画(扇面) 山居之四 題画


37 何良俊 正徳元年(1506)-万暦元年(1573)
字は元朗、柘湖と号し、直隸松江府華亭縣華亭(上海奉賢柘林)の人。作家、戲曲家。

38 李流芳
字は長蘅、檀園、香海、滄庵、慎娯居士などと号した。歙縣豐南(安徽省黄山市徽州区西溪南囗西溪南村)の出身で嘉定(今属上海市)に流寓した。銭謙益と親交があり、唐時升、婁堅、程嘉燧と嘉定の四君子と称せられた。
万暦34年(1606)の挙人となったが、宦官の専横を嫌って出仕せず、詩書画に自適の生活を送った。
元の倪瓚、呉鎮を学んで独特の逸気を表した画風を開き、画中九友の一人に数えられる。

39 倪元璐 万暦21年閏11月16日(1594年1月7日)-崇禎17年3月19日(1644年4月25日)

一 倪元璐の人物および歴官
字は玉汝、号は鴻宝。浙江上虞の人。貧民の出身で多芸多才であった。
天啓2年(1622)に科挙に合格して進士に及第し、庶吉士になった。後、翰林院編修となった。崇禎年間、しばしば上書して三朝要典の廃棄を請願した。崇禎8年(1635)、国子監祭酒に上った。大学士の温体仁とそりが合わず、妻の陳氏を捨てて妾の王氏を本妻にしようとしたことを暴露され、非難を受けて離職した。
崇禎15年(1642)、兵部右侍郎と侍読学士として呼び戻された。翌年、戸部尚書に任ぜられた。李自成軍が北京を落とすと、自ら縊死した。

二 倪元璐の書画について
倪元璐は詩文にすぐれ、更に書画に於てすぐれていた。明季の書家としては倪元璐、黄道周、王鐸の三人が並称せられ、王鐸が専ら王羲之一本の相伝の書風を継承せるとは反対に倪元璐、黄道周は二王以外、別に一条の径路をひらける点に於て特色が見られ、就中倪元貉の書には更に一層の鋒稜があり、字裏行間に厳正の気の横溢せるのが見られる。

選房士稿成作 似楽山辞丈 集清源馬太学園亭作 題畫詩冊(鶏鳴山) 題畫詩冊(再至飛来)


40 陳洪綬 万暦26年(1598)-順治9年(1652)
字は章侯、号は老蓮、勿遅と号した。諸曁県楓橋鎮(浙江省)の人。官吏を出した家系に生れ、自身も科挙に応試したが失敗。崇禎15年(1642)頃、絵をもって供奉を命じられたが辞して帰郷し、放縦な生活をおくった。
画ははじめ浙派の画師である藍瑛や孫杕に学んだ。当時すでに孫杖に激賞された。その後、李公麟・周ムなどに師法し、唐宋の古画の臨模を通じて技法を学び、デフォルメされた形態と線描による奇矯な様式を完成した。

梅花書屋詩 詩軸 詩軸


41 馮武
馮武は字を竇伯といい、江蘇常熟の人。生卒不詳。詩を能くし、書を善くし、その著に遙擲集、書法正傅がある。

42 豊坊
字は存礼、後に名を道生と改め、人翁と字し、南禺外史と号した。浙江省鄞県(寧波)出身の明朝の書法家、篆刻家、蔵書家。嘉靖2年(1523)の進士で吏部主事に除せられたが、事をもって通州同知に謫せられたが辞して帰った。

八月四日遣興 謙斎記(天龍寺妙智院蔵) 草書唐詩長巻(李太白) 草書唐詩長巻(岑参) 草書唐詩長巻(王維)


三 明代の法帖

1 東書堂帖
永楽14年(1416)刻
東書堂帖は明の周憲王朱有燉が世子であった時に摹刻させたもので、詳しくは東書堂集古法帖といい、淳化閣帖を中心とし、これに秘閣続帖及び宋元名人の書を加えたもの。

2 宝賢堂集古法帖
12巻 弘治2年(1489)刻石本 康熙19年補刻本 民国重印本
この法帖は堂の名宝賢堂を帖名としており、単に宝賢堂帖ともいう。明の晉府の靖王(朱奇源)が弘治9年に山西太原で集刻された12巻の石刻叢帖。宋の大観帖を基本とし、それに淳化閣帖、絳、太清楼、宝晉斎帖等を加え、蔵していた宋・元・明人の佳蹟を以って刻したもので、形体は大観帖と同じく淳化閣帖よりは二字分ほどたけが高い。

3 真賞斎帖
3巻 嘉靖元年(1522)華夏刻 
真賞斎帖は、華夏(華東沙)が、嘉靖元年(1522)に家蔵の万歳通天進帖などの優品を刻して刊行したもの。華夏は弘治11年(1498)頃の生まれで、字は中甫、東沙と号した。江蘇省無錫の名家で、王守仁に師事。家には金石書画の所蔵が多数あり、祝允明、文徴明、沈周など当時の有名な文人との交流があった。
最初木に刻したが火災で焼失し、石に刻しなおした。文徴明が鉤摹:し、章簡父が刻し、紙墨も精良で、明代第一の法帖との評価もある。
上中下3巻の内容は、上巻は鍾繇の薦季直表、中巻は王羲之の袁生帖、下巻は万歳通天進帖。
万歳通天進帖とは、王氏一族の書簡を唐人が模したもの。王羲之の子孫の王方慶が万歳通天2年(697)、同家に伝わる王羲之および一門の書を則天武后に献上した。武后はその模本を作らせ真跡は返還している。しかし、真跡は失われ、模本の一部のみが遼寧省博物館に現存する。

4 欝岡斎帖
10巻 万暦39年(1611)刻
王肯堂が万暦39年(1611)に作成した。鍾繇・王羲之から蘇軾・米芾まで、晋唐宋の名品を集めたのも。
王肯堂は、字は宇泰、号は損庵、また念西居士とも号した。明の金壇(江蘇省金壇)の人。明の文化が栄えた嘉靖・万暦年間に活躍した。
刻者は、管駟卿という名手で、明代の集帖中、第一の精拓といわれる。

5 余清斎帖
8冊 万暦24年(1596)刻
書画商人の呉廷が、自身が所蔵した王羲之から米芾までの諸帖を、万暦24年(1596)に刻したもの。
その8巻の内容は、1.王羲之十七帖、2.王羲之張金界奴本蘭亭序・楽毅論・黄庭経など、3.王羲之行穣帖、王献之鴨頭丸帖・洛神賦十三行など、4.王c伯遠帖、王献之中秋帖など、5.王羲之胡母帖、謝安六十五字帖など、6.孫過庭草書千字文、顔真卿祭姪文稿、7.蘇軾赤壁賦、米芾千字文、8.米芾評紙帖など。
十七帖以外は多く真跡から刻したという。刻者は楊明時などによる名帖。

6 停雲館帖
12巻 嘉靖39年(1560)文徴明刻
文徴明とその子文彭・文嘉が嘉靖16年(1537)に第1巻を作り、以後、名跡を得るごとに順次模刻し、嘉靖39年(1560)に刊行された。
10巻本、12巻本の2種がある上、章藻功の重刻本など、種類も多いといわれる。
10巻の内容は、1.晋唐小楷、2.万歳通天進帖、嵆康絶交書(李懐琳臨)、3.孫過庭『書譜』、4.懐素『千金帖』など唐人の書、5.宋人の書、6.宋人の書、7.宋人の書、8.元人の書、9.元人の書、10.明人の書。
12巻本は徴明没後、祝允明・文徴明の2巻が加えられたものである。
1巻の王羲之の小楷を除く他は、文徴明父子が真跡から鉤模し、章簡父などの名手に刻させたという。選択は極めてよく、真行草の各書体を備えて、明代の最もすぐれた法帖である。停雲は陶潜(淵明)の詩語にもとづく文徴明の書斎の名。

7 墨池堂帖
五巻 万暦30年(1602)-万暦38年(1610)刻
1.王羲之黄庭経、遺教経、東方朔画聲、楽毅論、曹娥碑、墓田丙舎帖、鍾観宣示帖、王献之洛神十三行。2.王羲之快雪時晴帖、袁生帖、瞻近帖、奉橘帖、平安帖、得告帖、鶻等帖、定武蘭亭、王徽之、王操之、王渙之、王献之、索靖、隋僧智永臨右軍告墓文等、2.虞世南千人斎疏、汝南公主志銘、褚遂良蘭亭序、欧陽詢化度寺碑、心経、徐浩宝林寺詩、柳公権、薛稷、顔真卿、李靖上西嶽書等、4.には蘇軾、黄庭堅、米?、蔡襄、薛紹彭、瓸岬等宋人の書、5.元の趙孟頻道徳経、隅玉枕蘭亭、陰符経、洛神賦等を刻してある。

8 戯鴻堂帖
16巻 万暦31年(1603)刻
董其昌が、晋唐宋元の名品を集め、作成した。

9 快雪堂法帖
6巻 崇碵14年(1641)馮銓刻
琢州の馮銓の集刻したもので、王羲之の快雪帖の真蹟を得て帖に名づけたという。

10 晩香堂帖
明 陳継儒刻
専ら蘇東坡の書を集刻したもの。

11来儀堂帖
明 陳継儒刻
専ら米元章の書を集刻したものだが、その全本の伝わるものが見がたく、内容については詳しいことがわからない。

12玉煙堂帖
24巻 万暦40年(1612)刻
海寧の陳瓛(息園)が刻したもので、漢・魏より宋・元に至る名跡が集刻されている。刻は精巧さに欠くが他帖に見られない作品が含まれ貴重である。巻首に董其昌の序がある。

13秀餐軒法帖
5冊(4巻?) 万暦47年(1619)頃刻
陳息園が、魏晋から南宋の張即之までを集め、作成した。

14渤海蔵真帖
8巻 崇禎3年(1630)以後刻
陳息園が魏・晉・唐・宋人の書を刻してあるが巻首に目録を附してある。彙帖に目録のあるのはこの法帖が始。これによって後人の偽刻の麟入を防ぎ又目録を検することによってその法帖の完不完を知ることができる。

秀餐軒帖
4巻 万暦47年(1619)頃刻
陳息園が、魏晋から南宋の張即之までを集め、作成した。

宝翰斎帖
16巻 万暦13年(1585)刻
茅一相が作成した。

来禽館帖
巻数不詳 万暦20年(1592)?刻
邢侗が作成した。