第4巻 第20章 藤原楚水著 省心書房宋と金とが南北相対峙しながら不安定な平和が保たれていた際、更に急激に勃興せる北方よりする新なる侵入者は先ず金を併せ、遂に宋朝をも滅ぼして中国の全土を領有し、燕京に都し、人類が嘗ってこれまで経験したことのない程の大帝国を建てた。これが普通にいう蒙古族の一種、即ち喀爾喀族(Khalkas)出身で、新旧唐書に蒙兀室韋又は蒙瓦部と書かれているものの後裔で、昔は黒龍江の上流に住し、政治的には貧弱なる種族であったが、成吉思(チンギス)汗の出ずるに及び、遂に世界に名を馳するに至った。元の成功は成吉思汗のすぐれた戦術家としての手腕に因るものであり、その卓越せる用兵術と、厳格なる訓練とであったが、同時にまた彼及びその後継者達は、どこからでも学び得る限りの用兵術と、兵器とを利用することに極めて熱心であり、或ときはその攻城に回教徒が用いられ、また時としては独逸の一技術者までが使われた。
元はまた他民族の操縦にも或程度の手腕を示した。彼等の朝廷の一流の大臣の或ものは外国人であり、契丹人で中国化し、金の官職にあった耶律楚材も成吉思汗及び窩濶台の二人に仕えて勲功があり、回鶻人にも高い地位を与えられたものがあった。また漢民族の文化にも敬意を払い、またその助力を利用し、更に進んでこれを学び取ろうとする熱意をさえも示した。
その初めに於いては蒙古文字の学校を設け、その国字を分布して漢民族の文字よりは之を重視していたが、漸くまた中国の風習に染み、漢字、漢文を学ぶに至り、宮中にも名ある儒者を招いて東宮の侍講と為し、また中外に命じて孔子を尊崇せしめるなど、漢民族の文化の受容についての寛大さを示すとともに、更に進んでまた大にこれを奨励した。彼等の子弟は学校に入って儒教の経典を学び、また書道の学習にも励んだ。皇太子を始め、皆、漢字を学習し、仁宗、英宗などは、その宸翰をもって群臣に寵賜するなど、頗る書道にも熱心であり、文宗に至っては更にその書の妙をもって称せられた。
絵画では、神品に入る山水・木石・花竹・人馬描く趙孟頫(字は子昂、号は松雪)、趙雍(子昂の子、字は仲穆)、雲山を好んだ高克恭(字は彦敬、号は房山)、枯木・竹石を善くした李衍(字は仲賓、号は息斎道人)、山水が蒼潤な朱徳潤(字は沢民)、枯木・竹石を善くした柯九思(字は敬仲、号は丹丘)、画馬を以って称された仁発(字は子明、号は月山)、唐穅(字は子華)、山水をよくした元季四大家の一人の王蒙(字は叔明、号は黄鶴山樵)、人物の顔暉(字は秋月)、花鳥の王淵(字は若水)、山水の張遠(字は梅巖)、山水の盛懋(字は子昭)らがおり、銭選(字は舜挙)、曹知白(号は雲西)、呉鎮(字は仲圭、号は梅香道人)、黄公望(字は子久、号は一峰・大癡道人)、陸広(字は季弘、号は天游)、倪?(字は元鎮)、張雨(号は句曲外史)等は、皆妙絵を以って称せられた。
また元代の書道は趙孟頫を以って首と為し、次いで虞集、鮮于枢、ケ文原等の諸家があった。
二 元代の書家とその書蹟
1 趙孟頫
一 趙子昂の経歴とその書学
趙孟頫は字を子昂といい、松雪と号し、世にまた鴎波とも称する。宋の宗室で、五世の祖に至って邸を呉興に賜い呉興の人となった。よって趙呉興とも称する。宋が亡びて後、暫らく家居していたが、元の至元23年(1286)、行台侍御史程鉅夫が世祖の命を奉じて遺賢を江南に捜訪した際、20余人を得、孟?は首選をもって入朝した。時に年32歳であったが、風采秀異、殿廷に照耀し、世祖は見て以って神仙中の人なりといい、授くるに兵部郎中の官を以ってした。その後、成宗・武宗・仁宗・英宗の五朝に歴
事し、官、翰林学士承旨に至り、魏国公に封ぜられ、卒して文敏と諡せられた。
孟頫は王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提示した。詩文をよくし、音楽にも精通したが、特に書画に優れ元の書画に足跡を残した。
趙孟頫は、1日1万字を書くと言われる練習量で、篆書・隷書・楷書・行書・草書をよくした。楷書・行書は、王羲之・王献之を学び、その細部までの完成度は他の追随を許さない。南宋の高宗、その後鍾繇と王羲之・王献之、最後に李邕へと変化した。
元の時代の巨碑は、ほとんど趙孟頫によるもので、徐浩・李邕以来の巨匠と言われている。
又、わが日本の書道界にも大なる影響を与えた。
二 趙子昂の主なる書蹟
1 玄妙観重脩三門記
白紙本 真蹟。文敏の碑書中第一の傑作であるといわれる。
この巻物は、玄妙観という寺院の正門を改修した際の記念碑に記した碑文の原稿。玄妙観は、中国東南部の蘇州市に現存する道教の寺院で、その始まりは西晋時代3世紀にさかのぼる。そののち何度か名前を変え、元時代13世紀末には玄妙観という名称に改められた。その際、玄妙観の正殿である三清殿と正門である三門を順次改修し、2つの記念碑を建立することとなった。文案は牟巘が作り、それを趙孟?が書にあらわした。本作は書写年代を記さないが、碑文の内容や趙孟?の官職などから、趙孟頫が49歳から56歳の間に書いたものと考えられている。冒頭の題額は端正な篆書です。これに対して本文は強くしなやかな線質と均整のとれた形が特徴的な、実に優美な楷書で記される。東京国立博物館蔵。
2 陰符経巻
白宋紙短巻 真蹟。筆・法妍媚、視ること久しければ愈々窮りなし。書法の妙を尽せる此の如し。
3 清浄経巻
絹本、真蹟。小楷、字の大さ三分許。沈着端厳、体勢裕如、称すべし極品。
4 汲黯伝巻
淡黄蔵経紙本、烏絲界闌、真蹟。前漢の名臣汲暗の生涯伝記で、延佑7年(1320)に書かれたこの作品は後世に趙孟頫伝世の楷書の神品として崇められた。現在は日本東京永青文庫に所蔵されている。
この作品は明代に伝えられた時に1ページが失われ、6ページ12行(1、7、8ページ)が文徴明補書である。
5 書嵆叔夜絶交書巻(三希堂法帖)
黄色紙本、烏絲界闌、真蹟。嵆康と山濤の絶交の手紙である。 趙孟頫は何度もこの文章を書いたことがあり三希堂法帖に刻まれた3点のほか、延佑6年の66歳の時に緑の絹に縦21・8センチ、横254・7センチの墨跡を書いたことがある。この墨跡楷書、行、草、章草は雑然としていて混然一体、韻度は老けていて晩年の精品力作である。
6書陶淵明帰去来辞帖(三希堂法帖)
白宋紙本、真蹟。筆法潤秀。
7 書陶靖節飲酒詩
白宋紙本、真蹟。淵明の秋菊有佳色の五言一首、筆法蒼古、深く二王の風度あり。
8 草書千字文巻
白宋紙本、真蹟。
9 書韓昌黎和盧郎中送盤谷子詩
白宋紙本、真蹟。李北海を法とす。
10 書蘇東坡道場何山詩
牙色宋紙本、真蹟。筆法精妙。巻は項氏の収蔵を経た。
11 次山総管帖
白宋紙本、真蹟。筆法峭抜、公の合書。帖は項氏の収蔵を経た。
12 明遠提挙帖
元黄紙本、真蹟。筆法精謹、着意の作。
蘭亭十三跋 |
仇鍔墓誌銘 |
天冠山題咏詩帖 |
蕭山県学重建大成殿記 |
行書大学帖 |
行書千字文 |
臨書帖(停雲館法帖) |
尺牘与中峰明本 |
佑聖観碑 |
闍助 |
朱子感興詩 |
?突泉詩 |
蘇軾古詩 |
禊帖源流 |
臨王羲之書 |
七札(致埜堂提挙友旧執事尺牘) |
雪晴雲散帖 |
前赤壁賦 |
後赤壁賦 |
急就章 |
三 趙子昂の画風
趙子昂は書家としては晉唐復古を唱えた復古派で、言わば古典派に属すべき人だが、その画に於いても徽宗以来、極端なる写実的、技工的になった作風を慊らずとして画には写実の外、その中心となるべき詩情・詩趣がなくてはならぬとした。それには書と同じく画もまた晉唐に溯るべきであると為し、宋代画院の様式化せられた画風に反対し、その結果、技巧を軽視し、非写実的傾向を強調するのにつとめた。子昂は、絵画には古意がなくてはならない、いくら線がうまく引けても、美しい色が塗られてもその奥にただようところの詩情があり、あふるるところの情感がもられていなくてはならない、と主張した。
この主張は後の元末の四大家の画風に大なる影響を与え、野逸蕭散、磊落なる新画風を生ぜしむる大なる原因となったのであるが、しかし趙子昂その人の作品について見れば、彼自らは却って宋代の画風の祖述者でさえあるかに見えるのである。即ち彼の作品には自然がなく野趣余韻がなく、院体風に堅く閉された印象を与え、その画いた山水でも、画馬でも堅くるしく形式的であり又宮廷趣味を湛えたもの
であった。
しかし彼の主張そのものが後の四大家に与えた影響は甚だ大であり、彼の画風が依然として古典的な画院風のものであったのに反してこの四大家に至って全く異なった画風を生んだ。元末に至って中国の絵画史上に重要な地位を占めていた画院風の画に代って文人画が抬頭して来た。然してこれが思想的な背景を為せるものが趙子昂であり、これを絵画の上に実現したのが元末の四大家であった。
2 鮮于枢 宝祐4年(1256)-元:大徳6年(1302)
鮮于枢は字を伯機といい、困学民と号し、また直寄老人・虎林隠士とも号した。薊県漁陽(河北省)の人で、至元の間(1335-1340)、江浙の行省都事に官し、太常寺典簿に至ったが、気性が豪放で、仕事のことで意見が合わないと、素知らぬ顔で役目を去ろうとしたという。官を退いてからは、西湖畔の虎林に一室を営み困学斎といい、読書研究をもって一生を終った。
書は張天錫に学び、晋・唐の楷・行書を体得し、張旭・懐素風の草書に長じ、当時、趙孟頫と並び称された。
1 遊高亭山記巻
行書。牙色紙本。
2 草書杜少陵茅屋為秋風所破歌巻
大徳2年(1298)9月晦日、42歳時の書作。筆法清韻、体勢平穏。鮮于枢の行書はこの巻が第一。
3 書襄陽煙江畳嶂二歌巻
淡黄蔵経紙本。大徳4年(1300)の書。
4 草書千字文巻
白宋紙本。
十詩五礼
東京国立博物館蔵。鮮于枢の詩文10首と5札の尺牘に、書画に優れた友人の趙孟頫に絵を、文章に優れた戴表元に伝記を依頼して、それらを1巻に合わせて装丁した巻物。詩は、鮮于枢が杭州の虎林に新居「困学斎」を構えた際、荒れ田で得たお気に入りの老松をその傍らに植え、これを支離叟と名づけて詠じたもの。快活な運筆でありながら、沈鬱な響きに特色がある。
透光古鏡歌
杜工部行次昭陵詩卷
行書五絶詩頁
行書真蹟(杜甫詩 酔時歌)
3 ケ文原
ケ文原は字を善之・匪石といい、綿州(四川省綿陽市)の人、後に銭塘に流寓した。博学善書で、宋末、浙西転運使の試に応じて魁選にあたった。至元の間(1335-1340)、杭州路儒学正に辟せられ、翰林待制に累遷し、至治中(1321-1323)集賢直学士に遷り、国子祭酒を兼ね、卒して文粛と諡せられた。著すところに、内制集・素履斎稿があったが、今は僅かに巴西文集一巻を存するのみである。
その書は初め二王を学び、後に李北海を法とした。
1 清居院記
白宋紙本、烏絲隔闌、正書大字。巻は項氏の収蔵を経、往年わが国に舶載し、山本二峰氏の収蔵に帰したが、今、所在不明。筆姿流麗、風神疎宕、趙孟頫の妙厳寺記と似たところがある。
家書二通(三希堂法帖)
4 袁桷
袁桷は字を伯長といい、号は清容居士、諡は文清公。 慶元(浙江省)の人。14世紀の初め、大徳年間に成宗の招きに応じて朝廷に入り、麗沢書院山長となり、のち翰林国史院へ移って、侍講学士まで昇進した。王応麟の弟子で、学識が深く、詔勅、辞令の起草などにあたったが、その詩も力強い描写で、むしろ唐詩に近い高い風格をもつ。著書に、清容居士集・延祐四明志・易春秋説等がある。
1和一庵首坐四詩帖(三希堂法帖)
行書七言律詩4首。書法豊潤。
2 雅譚帖
黄紙本、字法精妙。
5 黄公望 咸淳5年8月15日(1269年9月12日)-至正14年10月25日(1354年11月10日)
黄公望は字を子久といい、一峰と号し、また大癡道人と号した。蘇州常熟県に生まれる。両親が早世したため、温州永嘉県の黄家に養子に出され、本姓は陸だが、永嘉の黄氏を嗣いだ。
倪瓚・呉鎮・王蒙と並び元末四大家と賞され、その中でも、もっとも広い画風をもち、後代に与えた影響も一番大きいと言われる。あるいは董其昌・陳継儒・王思任・楊龍友・倪瓚・王時敏・夏雲鼎・孔尚任などとあわせて金陵九子とも呼ばれた。
6 柳貫 咸淳6年(1270)-至正2年(1342)
柳貫は字を道傅といい、浦陽(浙江省浦江)の人。黄潜・虞集・掲便斯と名を斉しくし、儒林四傑といわれた。
7 虞集 咸淳8年2月20日(1272年3月21日)-至正8年5月23日(1348年6月20日)
字は伯生、号は道園、邵庵先生、諡は文靖と称された。
臨川(江西省)に生まれ、幼時より逆境のなかで学問に励む。開朝以来のモンゴル至上主義は、元代なかば以降ようやく緩和し、伝統的漢文化尊重の気運が上昇するが、そのなかで指導的役割を果たした。大都(北京)の宮廷に儒臣として仕え、とくに文宗創設になる学問所奎章閣にあっては経世大典の編集を主宰した。元末の文壇の重鎮であり、格調の高い詩文は第一と称され、柳貫・黄溍・掲傒斯とともに儒林四傑と称せられる。楊載・掲傒斯・范梈とともに元詩四大家ともいわれる。
1白雲法師帖
淡黄紙本真蹟。草書十七行。台北故宮博物院蔵。
8 掲僕斯
掲僕斯は字を曼碩といい、龍興富州の人。早く文名あり。程鉅夫・盧蟄、朝に薦めて三たび翰林に入り、天暦の初(1328)韲章閣を開くと、首として擢せられて経郎を授かり、元統の初(1333)翰林侍講学士に累遷し、遼・金・宋の三史を総修し、官に卒し、予章郡公に追封せられ、文安と諡せられた。著すところに、文安集14巻あり、その文、厳整簡当、詩は尤も清婉麗密をもって称された。
墨縁彙観には、その書の雑詩巻の真蹟を著録している。
9 吾丘衍 咸淳8年(1272)- 至大4年(1311)
字は子行、号は竹房・貞白居士、吾衍ともいう。衢州開化県に生まれ、杭州銭塘県に住んだ。
博学であったが生涯仕官することなく、個人教授などで生計を立て、著述に励んだ。18歳年長の趙孟頫と交流し、篆刻理論を伝えた。著書の学古編は中国最初の篆刻理論書として篆刻芸術の在り方を示した。その著で尚古主義を唱え、漢銅印への復古を説いて九畳篆の陋習を打破した。
10 張雨 至元20年(1283)-至正10年(1350)
字は伯雨、天雨といい、貞居子と号した。銭塘(浙江杭州)の人。年二十余にして家を棄てて道士となり、華陽、雲石の間を往来し、自ら句曲外史と称した。詩詞を能くし、書画を工にし、虞集・楊維槙の輩均しく之を唱道した。その著に句曲外史集、補遺、集外詩、元品録があり、書は墨縁彙観に、道士張雨並陸友合巻、次天鏡上人送柑二詩帖、行書七言詩帖がある。
11 黄溍 至元14年(1277)-至正17年(1357)
字は文晋、晋卿。婺州路義鳥(浙江省金華市)の人。
延祐(1314-1320)の進士で、諸曁州(浙江省)の判官を経て、侍講学士、知制誥、同修国史に累擢され、朝廷にあって抜きんでて、史はその高風清節を称した。卒後、江夏郡公に追封せられ、文献と諡され
た。
12 呉鎮 至元17年7月16日(1280年8月12日)-至正14年(1354)
字は仲圭、号を梅花道人(梅道人)・梅花和尚。嘉興府嘉興県魏塘(浙江省嘉興市嘉善県)の出身。黄公望・倪瓚・王蒙と並ぶ元末四大家の一人。元の山水画様式を確立した。
画の真蹟の伝わるもので墨縁彙観に見えるものに、釣隠図、梅松竹憲四友図、為松巖作墨竹巻
江雨泊舟図、墨竹坡石図の五点がある。
13欧陽玄
字は原功、号は圭斎。延祐2年(1315)の進士。翰林学士に累進し、経世大典・四朝実録の編纂にあたり、また遼・金・宋3史の撰修総裁官となる。著書に圭斎文集などがある。
14 康里巎巎
1康里子山の人物と官歴
元代に於て書画の大家と称されるのは、殆んど漢民族の出身であったが、独り康里子山に至っては、西域の出身で、漢民族ではなく、これ全く特異の存在であった。
康里子山は名を巎巎といった。子山は字で、正斎また恕叟と号し、諡は文忠。父は不忽木(ブフム)。康里(カンクリ)は地名で、漢の高車国である。高車は種族の名で、匈奴の別種といわれる。
幼少の頃から多くの書籍に通じ、文宗のときに承直郎集賢待制となり、累進して翰林学士承旨にいたった。順宗に最も信任され側近にあって治道を説き続け、学問の発展に努め、また中止されていた科挙の復活に貢献。書をよくし、趙孟頫の影響を受けて晋、唐代の書法への復古主義をとり、みずからは草書をよくし、元代の代表的書家とされる。
二 康里子山の書品と主なる書蹟
1 柳子厚謫龍説巻
白宋紙本、真蹟草書。
2 柳子厚梓人伝
草書巻白宋紙本真蹟。筆法超逸、謫龍説と雙美。
15楊維槙 元貞2年(1296)-明:洪武3年(1370)
字は廉夫といい、抱遺老人ともいった。浙江諸贊の人。父の蔵書で読書し、32歳で官に就くが、自分の意志を曲げようとしない性格が災いし、出世はできなかった。元時代末期の動乱で一時放浪生活を送るが、晩年は詩文、書画を楽しむ風流な余生を過ごした。彼は唐から宋時代の書を学んだようで、そこに章草の筆意を加味し、さらに厳しい筆使いで独自の境地に至った。
晩節堂詩頁(北京國立故宮博物院蔵)
16 倪瓚 大徳5年(1301)-洪武7年(1374)
倪瓚は字を元鎮といい、雲林と号した。江蘇無錫の富裕な資産家の家庭に生まれたが、幼時に父を失い長兄の倪昭奎に養育された。倪昭奎の没後、倪瓚は28歳で家産を相続し勤倹に務めたという。仕官することはなく、邸内に清悶閣を築き数千巻の書籍や多くの古書画、古器物を秘玩し隠逸的生活を送ったが、52歳ころ、突然家財を整理し近親者に分け出郷した。以後20余年にわたる困難に満ちた流寓生活の末に帰郷し、貧困のうちに病没した。幼少より学を好み琴や詩文書画をよくしたが、非常に個性が強く極度の潔癖家で多くの逸事奇行を残している。全真教に帰依したが晩年は禅に深く傾倒したといわれる。山水、墨竹画に逸気あふれる独自の境地を示したが、特に出郷後に確立された蕭散体といわれる簡率な水墨の平遠山水様式は後世に大きな影響をあたえた。著に清閟閣全集がある。
元末四大家の一人に挙げられ、あるいは董其昌・黄公望・陳継儒・王思任・楊龍友・王時敏・夏雲鼎・孔尚任などとあわせて金陵九子とも呼ばれた。
17 泰不華 大徳8年(1304)-至正12年(1352)
泰不華は伯牙吾台氏。字を兼善といった。台州(浙江省臨海)の人。諡は忠介。
書は篆・隷を善くし、元史本伝には、温潤遒勁であったと記されている。
18 薩都刺
都刺(サドゥラ)は字を天錫といい、直斎と号した。もとイスラム系タシマン部の出身だが、祖父の代から山西雁門の人となった。泰定4年(1327)の進士。河北廉訪司経歴などを授けられ、飢民を救い陋習を改めるなど治績をあげたが、官途は不遇で、そのため退いて杭州に寓居し、景勝の地をめぐって、詩作に没頭した。詩は艶麗清新のうちにも、唐詩の風格を備え、多くの愛好者をもつ。また書画にも秀で、厳陵釣台図・梅雀が残る。著に雁門集がある。
19 王蒙 至大元年(1308)-洪武18年(1385)
字は叔明(叔銘)、号は黄鶴山樵、別に香光居士とも号す。湖州(浙江省呉興県)の人で、趙孟頫の外孫。初め官職についたが、兵乱にあって黄鶴山(浙江省杭州市北東)におよそ30年間隠居し、明の洪武初年(1368)ごろに至り仕官し、泰安州(山東省泰安市)の知州となったが、胡維庸の謀反事件に巻き込まれて78歳で獄死した。
黄公望、呉鎮、倪瓚とともに元末の四大家と称され、南宗画大成者の一人。
20 柯九思
柯九思は字を敬仲といい、丹邱生と号した。台中仙居の人。文宗の即位して奎章閣を置くにあたり、学士院鑒書博士を授けられた。九思は鑒古に精しく、内府に蔵するところの書画は皆命じて鑒定せしめられ、秘庫に自由に出入することを得たが、これによってまた他の忌むところとなり、文宗の卒して後は呉中に流寓したが、至正癸未(1343)に至りて風疾を得、数年の後に卒した。
九思は写墨竹を善くし、また墨花を工にした。
21 釈溥光
溥光は元の僧。大同の李氏の子で、字を玄暉といい、雪窗、又は雪庵ともいう。趙孟類之を朝に薦めて特に昭文館大学士に封じ、号を玄悟大師と賜うた。書画ともに之を善くし、詩もまた冲淡清美であり、書は真・行・草ともに之を善くしたが、特に大字を工にした。