第4巻 第19章-前 藤原楚水著 省心書房1 儒教経典の変貌
五季の分裂時代も遂に趙匡胤(在位960-976)によって終末が与えられた。趙匡胤は唐朝の官吏の家系に生れ、後周に仕えてその最高の軍職にのぼり、後に部下の将兵に擁されて皇帝の位に即き、遂に天下を平定してその朝廷を名づけて宋といった。史家はこの王朝を劉氏のたてた劉宋と区別する為に趙宋ともいう。趙匡胤は後世に太祖として知られる天子である。
宋の天下平定は半ば後周の世宗の力によって行われ、太祖は乃ち晏坐してその成を収めたとも見られるが、しかし又政治家としての手腕もあったらしく、よくその帝位を保持することができた。しかしそれでも彼が在位13年にして卒した時には、中国の全地域には尚、その支配が及んでいなかった。
東北の伝統的に中国の領土であった地方には契丹が蟠居し、山西には後漢の劉知遠の兄弟の建てた北漢と称する一国が存在し、また南部の沿岸には呉越の銭氏が今の杭州に都を置いて存続していた。従って太祖の弟で、その後継者であり、史上に太宗として知られる趙光義(後に昊と更名)の主要の任務は中国の全土を完全に統一することにあったが、太宗は武人というよりは寧ろ文雅の君主で、その任務を完全に果すことができなかった。
呉越はこれを併合し、北漢もこれを滅すことができたが、契丹(遼)を駆逐することには失敗し、宋室百年の患を残した。かくして宋と契丹とは中国の内地に於いてほぼ相匹敵する二つの国家として対立した。従って宋の領土は漢または唐に比して地理的には狭隘であり、政治的には無力であったが、その文化や思想の方面に於いては可なりに顕著なる活動が見られた。
その活動の特色ある一面は儒教の経典に対する新解釈であった。蓋し漢唐以来の儒教は専ら訓詰と注釈とに存していたが、宋朝の新儒教は、事実上、仏教と道教との総合であった。換言すれば宋朝の儒教は、仏教及び道教の影響の下に新に考え直された儒教であり、この新運動の尖端に立てるものに邵雍なる人物がいた。
邵雍は字を堯夫といい、宋の真宗の大中祥符4年(1010)に生れ、神宗の熙寧10年(1077)67歳を以って卒した。人となり聰明にして読書を好み、富弼・司馬光・呂公著など甚だこれを敬重し常に相従遊し、為に園宅を買い、彼は自ら耕種して以って衣食に供し、その居を名づけて安楽窩といい、自ら安楽先生と号した。嘉祐中(1060)、詔して遺逸を求め、留守王拱辰これを薦めて将作監主薄を授かり、又、逸士に挙げられ、潁州団練推宮に補されたが皆固辞して受けず、後には竟に疾と称して赴かなかった。卒後10余年、諡を康節と賜うた。著すところに『撃壌集』20巻、『観物内外篇』、『漁樵問対』等があって世に行われている。彼は従来の如き訓詁詞章の学に満足することなく、進んで仏老の説を極め、これによって更に性理の究阻へと進んだ。
邵雍につぐのが周敦頤である。敦頤は原名を敦実といい、字を茂叔といった。道州営道の人。宋の真宗の天禧元年(1073)に生れ、神宗の熈寧6年(1073)に57歳を以って卒した。安南軍司理参軍、桂陽令芝官し、煕寧の初、趙抃、呂公著の薦によって広東転運判官となったが労苦を辞せず余りにも職務に励精して疾を得たといわれる。廬山の蓮花峰下に家し、名づけて濂溪といい、世称して濂溪先生といった。濂溪がまた儒者ではあるが、道教と仏教から多くの影響を受けた。この周敦頤はまた後に出でた二人の重要なる人物、程(1032-1085)・程頤(1033-1107)の師でもあった。
邵雍及び周敦頤が先ず宋代に於ける理学の基礎を築き、二程子といわれる程(明道)程頤(伊川)によってこれが継承され、更に朱熹(1130-1200)に至ってその総合的な大成を見た。蓋し朱熹は前記の誰よりも後輩であり、従ってそれらの人々の思索し研鑚した学業の成果を利用することができ、又その生涯の或期間は仏教と道教とから大きな影響を受け、これと先学から得た思想とを渾一統合して、儒教の経典の全般的な註解を集大成し、その後、数世紀にわたって学者の大多数を支配した思想即ち朱子学なる体系を完成してこれを後世にのこした。
同時にまた陸九淵(象山)(1139-1192)が出で、別に一幟を樹てるなど、宋時に於ける思想界は甚だ活発なる動きを見せた。
また文章方面では司馬光・欧陽修・王安石・曾鞏・范仲淹・梅堯臣及び蘇文豪が現われ、又詩人には蘇東坡・黄山谷があった。
宗教界もまた乃ち中唐以来、盛んであった禅宗を継続して五家七宗の法幢が海内を風靡し、宋時の思想界は、周末春秋時代、諸子百家の競いが起った時代の活況を再現したかの如き観があった。
2 宋の太宗と帖学
一
宋の太祖は封建的な地方分権の弊を認め、且つは国家の基礎をかたくする為に、之に代うる鑑方長官の制度を以ってし、その建国の初めに於いて彼の擁立者たる主なる部将をして自らの軍職を解かしめ、これに変えうる別の待遇を以ってした。かくして国内には、中央集権的な専制制度を確立した。太祖はまたこれとともに、この制度を実施するに必要なる地方官を養成する為めの儒教の教育を奨励した。この太祖によって置かれた儒教教育は、更につぎの皇帝の太宗によって拡充整備され、大に文化的国家の隆盛を招来するに至った。
またこの時代に於いて特筆すべきことは印刷術の発達であった。この技術は唐代及び五代に於いて既にその応用が見られ、主として経典の印刷に使用されてはいたが、宋代に至って更にこれが益々盛んとなり、それがまた書道の方面にも利用され、歴代書道の大家の名蹟を石版や、木版をもって複製することが行われるに至った。即ち太宗の如きも、また深く翰墨に留意され、自らもまた書をよくしたことは唐の太宗と甚だよく似たところがあり、これまた王羲之の書蹟を最も深く愛好され、使を四方に遣して古先王、名臣の墨蹟を購募して侍書の王著に命じて禁中に摹刻し、納めて十巻とした。これが著名な淳化閣帖で数本をすって諸王及び大臣の二府(文事を掌る中書省と、武事を掌る枢密院)の長官に登れるものにこれを賜わった。これが又中国に於ける集帖のはじめといわれるものである。
法帖とは碑帖に対する語で、この二つはもともと別種のものであり、法帖は、本来が習字の手本としてその目的をもって刻されたものであり、碑帖はその目的は頌徳、紀功などが主であるが、その書がすぐれているところから、たまたまそれが拓本となり帖に仕立てられて学書用に転用されているに過ぎないのである。又この法帖というものにも単帖と紫帖または集帖と称するものがあり、単帖と称するのは、単一なる法帖即ち黄庭経とか、楽毅論、或は蘭亭序というが如く単に一種の墨蹟を刻したものであり、集帖又は彙帖と称するのは、多くの墨蹟を集めて刻したものであり、それにもまた一人の書のものもあり、数人の書を集めたものとがある。その起源についても、単帖の方は既に唐以前からその刻があったと見られるが、集帖の劾されたのは早くて、唐末五代の交であろうといわれる。
集帖の起源については南唐の李後主が侍中の徐鉉に命じて摹勒上石させた澄清堂帖が現存最古のものといわれ、徐鉉は字学に詳しく、書法にすぐれた人物であったから、その華刻したその法帖もまた甚だ精妙を極め、その神骨風致は宋の太宗の命を奉じて華勒上石した王著輩の到底及ぶべきところでない。澄清堂帖こそ王羲之の書の真髄を窺うべきものであるといい、これを以って集帖の祖と為し、孫退谷の旧蔵本三冊が伝わり、先年上海に於いて玻璃版にて転印されたが、これを見るにその精彩に富めることは全く淳化閣帖などの及ぶところでない。これにも清時耆英の翻刻本などがあり、わが国に於いてそれから転印されたものもあるが、甚だしく精彩にかけるところのものである。
宋時の多くの法帖も、淳化の原石本は勿論のこと、当時の翻刻本も今日は殆んど伝わるものがなく、その見られるのはいずれも明清時代の翻刻本であるが、宋時の淳化の原石本といわれるものが我国に舶載され、中村氏の書道博物館に蔵されている一本のみである。この帖はいわゆる銀錠未環本で、一面に蠧蝕(虫食い)が甚だしく、白紙の裏打ちがしてあるが、その白紙が虫の食った墨拓の下から表面に現われて六花(雪)が散らぼったように見えるので世に夾雪本と呼ばれている。この法帖は明代には顧従義の収蔵であったが、清朝に至って呉栄光の筠清館に蔵され、後にわが書道博物館の収蔵に帰した。莫雲卿や呉栄光の跋、また顧従義、朱竹坨などの名印がある。
その後、宋の大観3年(1109)に至って官刻された著名の法帖に大観帖と称するものがある。この法帖は淳化閣帖に誤りがあるということで、更に改刻したもので、淳化閣帖にくらべるとたけが二分ほど高く、内容にも幾分の異同はあるが、その改訂はなお充分とは行かず、大体に於いて淳化閣帖を踏襲したに過ぎない。しかし他の宋刻の法帖と異なり、淳化閣帖からの翻刻ではなく、みな宮中にあった墨蹟から新らしく摹入上石されたものであるから、他の翻刻本にくらべ甚だ精彩に富めるものとなった。この摹刻の任に当ったのは蔡京で、非難の多い人柄ではあったが、書学には造詣の極めて深い人であったから、王著の模刻した淳化閣帖にくらべ、よほどすぐれたものでなくてはならないが、実際には文字そのものが遒媚に過ぎ素撲渾厚の趣を失っているかに思われる。
この法帖の原石はその刻が成って間もなく靖康の変(1126)にあい、北宋が亡び、金人が大挙して侵入し、その石を携えて北方に持ち去った。従って当時の拓本は世に伝わるものが極めて少なく、その後は金人がこれを拓し、金と南宋との間に和議が成り、それぞれ権場(貿易市場)を設けて交易を行うに至って南人は再びこの法帖の拓本を見るに至った。これより前のものが即ち北宋本であり、その後のものが南宋本であり、これをまた榷場本とも称するのである。そしてこの榷場本は金主亮の諱を避けて之を除いた亮字不全本である。大観帖も淳化閣帖と同じくその原石本の伝われるは極めて少ないが、稀には榷場本や、北宋の旧拓本の零本の伝わるものがある。
先年上海に於いて玻璃版とされた商丘の宋氏旧蔵の第七の零巻本。またわが晩翠軒に於いて昭和5年に破璃版をもって出版され榷場第六巻本などがそれであり、また書道博物館にも宋時の旧拓と称する九巻本が収蔵され、大正年間宋刻大観帖と題して西東書房から金属版で出版された。昔人は大観帖には別刻がないといっている如く、宋時には覆刻を見なかったが、明以後には二、三の刻本が見られる。
二
宋時、淳化閣帖からの摹刻としては賈似道の刻本がある。これは賈似道がその門客に命じて淳化閣帖を翻刻させたもので、摹者は廖瑩中、刻者は王用和で、ともに当時に於ける能手であったといわれ、その刻本は殆んど淳化の原本と異ならぬとまで言われている。即ちその淳化の真本と異なるところは索靖の書が数行多いことと、丙舎帖の後の三行が完全であることで、これらはみな他本にないところであるといわれる。廖瑩中はまたみずから別に一本を刻して家に蔵し、名づけて世綵堂帖といった。賈似道本は辻本史邑氏が蔵し、先年これから転印したものがある。
この外、宋時の刻帖としては絳帖・汝帖・武陵帖(鼎帖)星鳳楼帖・戯魚堂帖・宝晉斎帖など、多くの法帖がつぎつぎに現われこれが宋代の書道界を支配した。
三
宋は法帖の刻が盛んであったから、書道もまた隆昌を極めたが、その書学は法帖を主とし、法帖に刻した書蹟は二王中心のものであったから、その書は王が主であり行草が多く、大楷は殆んど見なかった。即ち楷書をもって書かれた碑の書は顧みられなかった。この碑学に注意することのなかったことが、宋が楷書以上に於いては唐に及ばなかった最大の理由である。偶々、欧陽修が古碑の拓本を蒐集し、碑の書の良さを見て、楷書以上に於いては法帖の書の学ぶに足らざることを知るが、帝王が二王の書を好み、また宮廷に於いても法帖の刻を為し、これを学ぶことが大勢を成すのを見ては、あらわにこれを非難することを得ず、彼は単に蔡君謨(蔡襄)に向って書を論じ、書の盛んなのは唐より盛んなのはなく、書の廃されるのが今より甚だしいのはなしといい、帖学の弊については切言をはばかった。時主の好尚がかくの如くであり、その好尚がまた一般の世間を風靡したが、一人これは君主とのみには限らず、時の権力者の書風もまた多くの模倣者を出した。
終宋の世は帖学だけが盛行して碑学は影を潜め、書道は衰退を極めた。唯その間に於いて当時の儒学や禅などの物の考え方やまた他の一種の主張などによって書道の方面に於いても二王の伝統から離れて自由なる活動を試みようとするものもなくはなかった。宋の四大家といわれる蘇・黄・米・蔡の如きがそれであるが、唐に至らなかった。
中唐以後、宋に至るまで、その楷書が初唐の欧・虞・褚・薛に及ばなかったのは、唐の太宗が二王の書を好み、宋の太宗が法帖を刻したのに存し、この帖学の盛行したことが書道を不振した所以であった。
3 徽宗と書画道
一
徽宗皇帝は、趙宋8代目の天子で、神宗の第11子である。その書は所謂痩金体と言われ、わが国の刀剣の銘文に見られるような細い強い線の書であり、過去に見られない全く趣の違ったものだが、その画に至っては全くの天才であり、天与の奇才というべきもので、「天縦の精芸、将に神を極む」と評される如く、画道の蘊奥を極めており、山水画も工だが、特に花鳥が至妙で、その画風は徐氏体に属し、巧緻を極めた彩色画もあれば、また墨花と称する渇筆焦墨をもって画がき、叢密のところは微かに一道の白線を残すといった如き画も見られる。その作品の伝わるものに清室内府に蔵されていた臨古巻というのがあり、この巻は巻首に自家独特の画をえがき、次に漢の毛延寿以下17人の古画を臨摹させたもので、崇寧4年から大観元年(1105-1107)に至る3年聞にわたって書きあげたものである。
今日、わが国に伝わるものに『桃鳩の図』と『水仙と鶉との図』がある。桃鳩の図は小幀で、春の光をうけて咲いた一本の桃花の枝の上に鳩のとまっている極めて単純な作品だが、例の痩金体の自署があり、葉は花よりも一層打ち開いた気で春の光の中に一杯にのびている。
またその枝は鳩の体の重さに圧されてやや垂れている。この重量感が花の方向や枝の曲りぐあいでよく現わされており、鳩の感情はまるく見ひらいた眼と閉じている嘴とに集中しているが、体の重さの為に体がずりさがって回転しようとするのを、そうはさせまいとして尾をやや、前方にまげて不安定のうちに安定の釣合いを保させながら釣合いのとれた平和な感情は、またつぶらなる眼と、事もなげに閉じている嘴とにそれが見られ、足は鋼の如く強く枝をつかんでいる。
水仙と鶉の図は絹本の着色図で、画面の右の角から左の角に引いた対角線の下に鶉が居り、その鶉にのしかかるように水仙が咲いているが画面の大部分は空間で、そこには瓢形の大きな印がある。しかしこの空間は決して無意味のものではなく、鶉の住む、そして水仙の咲く季節の空間を示したもので、土地はわずかなる一線をもって描かれているに過ぎないが、茶色かかった沈んだ静かな色調のなかに初冬の慎ましやかな気分を漂わしており、その中に己の身に思い入るが如くに静かに立っており、その鶉の一つ一つの羽や爪などが丹念に描写され、足の方向や、のばし方によって大地の上に立っていること、またその土地は稍々堅いということまでも併せて示している。又水仙についても同じく、こまかいところまで忠実に描かれている。このささやかなる画の中に於いて悠々たる天地の心を感ぜしむるものがあるのである。
この外、徽宗皇帝の作と伝えられる秋景山水図・冬景山水図の二幅が京都の金地院にあり、又、これと同一性質の夏景山水図が山梨県の久遠寺にあり、また大徳寺に一羽の小鴨の図があって品位の甚だ高いものといわれる。この外春景山水図もあったが、これらはいずれも『桃鳩図』や『水仙鶉図』とちがって、いずれも水墨画である。
二
徽宗の画の優れていることは、その観察が精緻であったことがその理由の一つで、常に画房の廻廊や前庭に多くの草花を咲かせて、太陽の光の移るにつれてかわりゆく微妙なる変化を看守った。宋時に画院の盛んになったのも徽宗の力であるが、徽宗は単に書画を好めるのみでなく、特に物を観察することに驚くほど忠実であった。
徽宗は画院を振興し、、宣和書譜を編纂し、法帖に於いてはを刻するなど、書画に生涯を捧げた徽宗皇帝も、遂には臣下に誤られ、靖康の難にその身は金に捕われ、遠く朔北の地、王国城に送られ、金の天眷3年(1140)年、59歳にしてその地に崩じた。
中国に於いては、書家は絵をかき、画家もまた書をよくし、詩人にも亦書画を善くするの人が多い。そしてこの三つを善くすることを名づけて三絶と称する。更にまたこの三つに加えて学者にして詩書画を善くする人も多く、これらがそれぞれ密接に結びついて来ている。従って学者にして書を工にし、有名な詩人がまた画家であることが多かった。唐の王維の如きはその最も著しい例であり、画家は多く書家であり、書家は多く画家でもあり、書道のすべての原則はまた画道にも通じ、詩の高致はまた書にも画にも通ずるものであった。この傾向は宋・元・明・清時代に至って益々多く見られ、書家としては必ずしもその花が大きく咲き出でないまでも、百花燎乱として春の錦を織り出せる如くであった。
以下、年衰として主なる人々の氏名を掲げ、その人物及び墨蹟について若干の叙述を試みる。このことは宋・元・明・清を通じていえる。また東坡の寒食帖の黄山谷の跋文の如ぐ、中国の書画にはその本紙につづけて歴代にわたる名家の題跋や観款の類が多く書き入れられている。これが又、それらの書画の評価の外に題跋者その人の書の鑒賞に資することが少なくない。これが宋・元以後には最も多く行われているのもその特徴の一つといってよいであろう。
1 徐鉉
徐鉉は字を鼎臣といい揚州広陵の人。十歳にして能く文を属し、妄に交游せず、韓煕と名を江東に斉しくし、韓徐といわれた。又、弟の錯と名を斉しくし、二徐と称し、鉉を大徐といい、鐺を小徐といった。呉に仕えて校書郎となり、南唐に仕えて官、吏部筒書に至り、李公主焜に随い宋に帰順し、太子率更令となり、散騎常侍に累官した。
鉉は文字学及び篆隷に精しく、嘗って詔を受けて説文を校し、続いて『文苑英華』を編した。今日、説文解字の書の世に伝っているのは、全く鉉の力によるものであり、澄清堂帖は徐鉉が李後主の命を受けて摹刻したものであり、これが中国に於ける集帖の矯矢であるといわれる。弟の錯もまた小学に精しく『説文繋伝』、『説文韻譜』等の書がある。
尺牘
2 句中正
句中正は字を坦然といい、文字の学に精しく、篆・隷・行・草を工にした。蔵書を好み、家に余財がなかった。孟蜀の時、進士に挙げられ、宋に入って後は曹州録事参軍に補せられ、太平興国2年(977)八体書を献じた。太宗もとその名を聞き、召して直作佐郎を授け、史館に直した。詔を被り篇韻を詳定し、又、徐鉉とともに説文を校定し模印して頒行した。又徐鉉、楊文挙と『雍煕広韻』凡そ一百巻を撰し、特に虞部員外郎を拝し、淳化元年(990)改めて昭文館に直し、三度、屯田郎中に遷った。書もまた工で『宋史』本伝にも、「字学に精しく、古文・篆・隷・行・草・工ならざるなし」といっている。
3 李建中 開運2年(945)-大中祥符6年(1013)
字は得中。先祖は京兆の人であるが、祖父のときから蜀に移り住んでいた。宋が平和を恢復すると、文官試験を受け、大平興国8年(983)進士に及第して、やがて金部員外郎に進み、のち西京留司御史に任ぜられた。「李西台」と呼ばれるのはその為である。洛中の風土を愛し、園池を構えて静居と名付け、また自から巌夫民伯と称した。太常博士に累進し、四州を歴知し、工部郎中を加えられたが、性恬淡で名利を求めず、山水の遊を好み、留題するところ多かったという。書札を善くし、人々は争ってこれを習い、また篆隸までよく書いたとある。彼は宋初第一の大家とされていたから、諸種の法帖にも刻され、これに対する評語もいろいろある。
書諮(土母帖)
この帖の受取人は不明だが、晩年の書と推測される。全体の結構は謹厳で、丸みを帯びた方形の用筆、線には豊かな潤いがある。顔真卿と楊凝式の影響が強いが、二王の影響も見え、五代宋初の書風が反映されている。台北故宮博物院藏。
同年帖 20-463
「金部同年」に書いた手紙で、主に東京の碧亮で義理の息子である劉中茂と次男の李周石の世話をするように依頼している。
同年帖はもともと李建忠の「六巻物」の1つであり、明王朝末期と清王朝初期に分割された。
この投稿以外にも「貴宅帖」や「土母帖」が残っており、残りの物の行方は不明。台北故宮博物院藏。
貴宅帖
李建中が64歳のときに書かれたもので、文体は落ち着いていてシンプルで、独特の芸術的美しさがある。台北故宮博物院藏。
4 郭忠恕
郭忠恕は字を恕先といい、河南洛陽の人。小学(文字学)研究者。また,北宋第一の界画作家としても知られる。不羈奔放の言動が多く,政治的には不遇であった。しかし,小学研究の分野では,字形の変遷と字音・字義との関係について重要な業績を残し,美術史的にも,界画に潑墨山水画を組み合わせて,界画の歴史に新生面を切り開く画期的な存在であった。
著書に『汗簡』『佩觽』、伝称作品に『雪霽江行図』(台北故宮博物院,ネルソン美術館)などがある。
5 林逋 (乾徳5年(967)-天聖6年(1028))
字は君復だが、卒するに及び仁宗から諡を和靖先生と賜わり、和靖先生の方が通りがよい。杭州銭塘の人。詩人として有名である。彼も宋初の書の大家に数えられ、本伝に行書を善くすと書かれてある。彼の書は清勁をもってすぐれているというのが、衆評の一致するところだ。浙江省の銭塘の人で、西湖の孤山に隠棲し、二十年も町へ足を入れず、梅を植えて妻とし、鶴を飼って子としたという話はよく知られている。
致珞兄座主尺履
雑詩巻
この巻は彼が友人のために自作の詩を書いたもので、病をおして筆を取ったというが、殊に気持よく書いたもののようだ。宋初を飾る名品として逸せないものである。
自書詩
6 杜衍 太平興国3年(978)-嘉祐2年(1057)
字は世昌。北宋越州山陽(現在の浙江省紹興)の人で、大中祥符元年(1008)の初め進士に抜擢され、諸郡に知となり、仁宗が特に召して御史中丞とし、ついで枢密使を拝し、富弼、韓碕、范仲淹と事を共にし、同平章事を拝し、太子少師を以って致仕し、祁国公に封ぜられ、卒して正献と諡せられた。
題懐素自叙帖后
仲冬嚴寒帖
停雲館法帖 巻五
7 范仲淹 端拱2年8月29日(989.10.1)-皇祐4年5月20日(1052.6.19)
范仲淹は字を希文といい、蘇州呉県(江蘇省蘇州)の人。唐の同鳳閣鸞台平章事の范履冰の末裔にあたる。いわゆる「名臣」の代表的存在。大中祥符8年(1015)進士に合格。晏殊に認められて政界で活躍した。「慶暦の新政」を推進した革新派の中心人物の一人である。韓gとともに陝西で西夏の侵攻を防いだ。官位は参知政事(副宰相)に至り、没後に文正と諡された。
道服賛(停雲館法帖 巻六)
岳陽樓記
岳陽樓記は、慶暦6年(1046)の作。政治上のつまずきから慶暦4年(1044)に中央から地方の巴陵郡の守へ左遷された滕宗諒が、翌年、領内にある名勝の岳陽楼の修復を手掛けた際、楼上に古今の詩賦を刻むこととし、同じく左遷され河南鄭州にいた同年の進士范仲淹に作らせた文章。范仲淹は岳陽楼も、そこから眺める洞庭湖の景色も見たことはなかったが、滕宗諒から贈られた「洞庭晩秋図」を見て、以前遊んだことのある太湖の思い出を結び付けて書き上げた。いわゆる「先憂後楽」の、政治家としての守るべき態度を述べた文章としてよく知られている。
致師魯舎人尺牘
8 晏殊 淳化2年(991)-至和2年(1055)
字を同叔といい、撫州臨川県沙河(現在の江西省南昌市進賢県文港鎮)の出身。政治家、文学家。文章贍麗、尤も詩詞を工にした。神童と呼ばれ、7歳で文を作った。14歳で宋代最初の童子のための進士の試験を受け、翌年廷試を受けて進士となり、皇帝真宗から秘書省正字に任じられた。明道元年(1032)、参知政事になった。同年、李宸妃の墓誌銘に関して仁宗の怒りに触れ、亳州知州に降格された。
慶暦2年(1042)に中央政界に復帰し、宰相になった。しかし慶暦4年(1044)、李宸妃の一件を契機に再度多くの非難を受け、収賄を理由として潁州知州に降格された。
子の晏幾道と共に二晏と称される。
9 石延年
石延年は、字は曼卿といい、先世は幽州(今北京市一帯) あったが、後に家を宋城に徙した。。著名な文学者であり詩人でもある。英雄的な詩風の代表であり、彼の書道は歐陽修・范仲淹等から、顔筋柳骨と高く評価称賛されている。官は太子中允まで出世したとある。
彼は豪放な上に、酒豪で、言い伝えによると、宋の仁宗帝が、この石延年の才能を高く買っていたが、彼がいつもかなりの酒を飲むと聞いて心配し、酒をやめるよう勧めたが、やはり止められず、それが祟ってか、やがては体を悪くし、中年でこの世を去ってしまった。
杜甫 籌筆驛詩
寄尹師魯
鬱弧臺法帖
古松詞典網
瀑布詞典網
陳搏 十字巻碑 石延年題跋
長城葆光題名
10 宋庠
宋庠は初名を郊といい、公序といった。安州安陵の人で、後に雍丘に徙った。読書老に至るも倦まず、弟の祁とともに文学をもって名を捷にし、人、称して二宋といい、庠を大宋、祁を小宋といった。天聖の初め進士に挙げられ、大理寺評事に擢んでられ、襄州に通判となり、累官して兵部筒書、同平章事に至り、枢密使に充てられ、菖国公に封ぜられたが、英宗の立つや、鎮武軍に移され、封を鄭国公に改められ、司空を以って致仕し卒して元献と諡せられた。
致宮使少卿尺牘
11 宋祁
宋祁は字を子京といい宋庫の弟で、兄の庠と共に進士に挙げられ、家を復州軍事推官より起し、龍図閣学士、史館修撰に累遷し、欧陽修とともに『唐書』を撰修し、やがて出でて毫州に知となったが、これより十余年の間、内外に出入せるも、常に史稿を以って自ら随えた。『唐書』が成るや、左丞に遷り、工部筒書に進み、月を踰えて翰林学士承旨を拝し、卒して景文と諡せられた。
12文彦博
文彦博は字を寛夫といい、汾州介休の人。仁宗の時に進士に弟し、翼城齢に知となり、杯州に通判となり、同中書門下平漁事に累官し、灘国公に封せられたが、熙寧中(1068-1077)王安石の忌むところとなり、力引して去り、司窒、河東節度使を拝し、尋で太師を以って致仕して洛陽にいたが、元祐(1086-1094)の初めにまた平章軍国重事を命ぜられたが、居ること5年にしてまた致仕した。卒して忠烈と諡せられた。
三帖
尺牘
13 蘇舜元
蘇舜元(1006-1054)は字を子翁といい、一に才翁ともいう。梓州銅山の人。蘇易簡の孫で、蘇舜欽の兄。人となり精悍任侠、歌詩豪健で、官、尚書度支員外郎、三司度支判官に至った。弟とともに甚だ短命であった。
停雲館法帖巻六
14 欧陽修 景徳4年6月21日(1007年8月6日)-熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日)
欧陽修、字は永叔、晩年六一居士と号した。おくりなは文忠。
北宋の仁宗から神宗時期の政治家・詩人・文学者・歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。諡号は文忠。唐宋八大家の一人。祖先は、欧陽詢。
数え年4歳で父を失い、以降は叔父の欧陽曄が住んでいた随州で育った。正規の教育によらず自学自習で、天聖8年(1030)に進士に及第、包拯を継いで、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。また、少年時代に知人の家で韓愈の文集に接し強く影響を受けている。以後、館閣校勘等を歴任するが、景祐3年(1036)、改革派の范仲淹を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。
約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、慶暦5年(1045)には誹謗されて滁州知州に再び左遷された。
数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。嘉祐2年(1057)権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の一人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の熙寧5年(1072)、隠棲先である潁州にて没した。子は欧陽発・欧陽奕・欧陽棐・欧陽辯がいる。
集古録跋尾
致端明侍讀留臺執事尺牘
自書詩文稿
15 章惇 景祐2年(1035)-崇寧4年11月25日(1106年1月2日)
北宋の政治家。字は子厚。建州浦城県(現在の福建省南平市浦城県)の人。王安石の新法に与し、哲宗の時代には宰相となるが、徽宗の即位に反対したため失脚する。
尺牘
16 蘇舜欽 大中祥符元年(1008)-慶暦8年(1048)
蘇舜欽は字を子美といい、梓州銅城の人。少にして慷慨大志あり、容貌怪偉であった。好んで古文歌詩をつくり、一時の豪俊多く之に従って游んだ。進士に挙げられ、大理評事に累遷し、後また范仲淹の推挙によって集賢校理に召試せられ、進奏院(官署の名。その官を進奏官という)に監となったが、故紙鬻げる公銭をもって妓楽を免ぜられ、蘇州に流寓し、水石を買いて槍浪亭を作り自ら渣浪翁と号し、益々読書し、時に憤満の気を歌詩に発したが、その体豪放で、往々人を驚かすものがあった。舜欽はまた草書を善くし、酒酣にして落筆すれば争って人の伝えるところとなったという。後に湖州の長史となり以って卒した。
停雲館法帖 巻六
17 韓埼
韓碕は字を稚圭といい、自ら鞭叟と号した。相州安陽の人。天資樸忠、識量英偉。天聖中(1027-1032)進士第二に挙げられ、将作監丞を授かり、滔州に通判(官名、宋初藩鎖の権を削り、朝臣に命じて府州の軍事を通判せしめた)となった。後、枢密直学士に進み、陜西経略安撫招討使に歴官し、范仲淹と軍にあること久しく、名、一時に重く人心之に帰し、朝廷が重きを為した。枢密副使、同中書門下平章事等に歴任し、英宗の時、右僕射を拝し、魏国公に封ぜられ、神宗が立つや、司徒を拝し、侍中を兼ね、相州に判したが、相人之を愛すること父母の如くであったという。卒して忠献と諡せられた。
18 蘇洵
蘇洵は字を明允といい、世に老泉先生と称する。眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の人。老翁井という泉のそばに亭を結んだことから老泉と称された。年27、始めて憤を発して書を読み、歳余にして進士に挙げられ、又、茂才異等に挙げられたが、皆中らず、乃ち悉くつくるところの文を焚き、戸を閉じて益々書を読み、遂に六経百家の説に通じ、筆を下せば頃刻にして数千言を成した。至和―嘉祐(1054-1063)の間、蘇軾・蘇轍の二子を連れて都に行き、翰林学士であった欧陽脩に著書のうち「権書」「衡論」ほか22篇を献呈し、宰相の韓gの計らいで舎人院に召されることになったが、病気を理由に辞退し、秘書省校書郎となる。後に太常寺の命を受け、覇州文安県主簿の禄を受け、陳州項城県令の姚闢とは、建隆(960-963)以来の礼書を編纂し、太常院革礼100巻の完成間もなくに没した。特に光禄寺丞を贈られる。
蘇軾・蘇轍の二子と共に三蘇と称せられ、また蘇軾を大蘇、蘇轍を小蘇というのに対して、老蘇と称せられる。三蘇は共に唐宋八大家。
致提舉監丞尺牘
19 劉敞 天禧3年(1019)−熙寧元年4月8日(1068年5月11日)
劉敞は字を原父といい、臨江新喩の人。
北宋の仁宗時期後半と英宗時期に活躍した経学者・歴史学者・政治家(官僚)・文人(文章家)で、当時において無類の博学を誇った。字は原父。私に号して公是先生とも呼ばれた。北宋中期の代表的な士大夫。主として経学者として知られ、宋代経学の新機軸を切り開いた代表的学者の一人。
弟の劉攽・子の劉奉世とともに三劉(新喩三劉)と呼ばれた。
20 曽鞏 天禧3年8月25日(1019年9月30日)-元豊6年4月11日(1083年4月30日)
北宋の散文家。字を子固といい、建昌南豊(江西省撫州市)の人。諡は文定。建昌軍南豊県の出身。唐宋八大家の一人。父は曾易占。兄は曾曅。弟は曾牟・曾宰・曾布・曾肇。
21 文同 天禧2年(1018)-元豊2年(1079)
文同は字を与可といい、梓川梓童(四川省綿陽市)の人。自ら笑々先生と号し又、石室先生、錦江道人とも称した。湖州刺史という地位にあったので「文湖州」と呼ばれる。
もっぱら墨竹画を描いた。また詩文をよくし、政治家としても活動した。皇祐元年(1049)に進士となり、地方官等を歴任する。絵画としては同時代に活躍した蘇軾と親交があり、彼と共に墨竹画の流派である「湖州竹派」の祖として知られる。
元豊2年(1079)、陳州にて死去。
22 王安石 天禧5年11月12日(1021年12月18日)−元祐元年4月6日(1086年5月21日)
王安石は字を介甫といい、半山と号した。撫州臨川の人。少にして読書を好み、また書画を工にした。毎に文を属するや、動筆飛ぶが如く、初めは経意せざるがごときも、既に成れば、人、皆その精妙に服した。友人曾鞏、携えもって欧陽修に示し、修これが延誉(その人の美をほめで人々に賞揚すること)を為し、進士上第に擢んでられ、諸種の官に歴任し、神宗の時、相となり、青苗、水利、均輸、保甲、免役、市易、保馬、方田等の諸法を制定して制度の改革を行ったことは周知の如くであり、時に世論沸騰し、時の名臣は皆斥けられたが、この新法は遂に充分なる効果を見ずして王安石は罷めて鎮南軍節度使となり、元豊中(1078-1085)また左僕射を拝し、荊国公に封ぜられ、哲宗が立つや、司空を加えられ、卒して文と諡せられた。
著すところに『臨川集』一亘二十巻及び『周官新義』、『唐百家詩選』等がある。
書は『墨縁彙観』に楞厳経旨要巻と過従帖の二種が著録せられている。
致通判比部尺牘墨蹟
楞厳経旨要巻