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 第4巻 第19章-後 藤原楚水著 省心書房

第十九章 宋時代の書道

四 宋代の書家とその書蹟(その二)

27 蘇轍 宝元2年2月26日(1039年3月23日)-政和2年10月3日(1112年10月25日)
蘇轍は字を子由といい、眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の人、蘇軾の弟。
嘉祐2年(1057)、19歳の時に兄とともに進士に及第し、商州軍事推官となるが父の蘇洵を首都で養うこととし、兄の蘇軾が任地の鳳翔府から帰ってきてはじめて大名府推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、王安石の青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。いわゆる烏台の詩案で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州塩酒税・績渓知県に落とされる。
哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず汝州知州に左遷される。袁州知州とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて筠州に到る。化州別駕・雷州・循州、徽宗に代が替わっても永州・岳州と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州に移った。
崇寧年間(1102-1106)に官を辞し、許州に室を築き、潁浜遺老と称し交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること10年にして74歳で没する。端明殿学士を追贈され、南宋の淳熙年間に文定と諡される。

與定國帖四通 與國博帖


28 朱長文 宝元2年(1039)-紹聖5年(1098)
朱長文は字を伯原といい、蘇州呉の人。未だ冠せずして進士に挙げられたが、足が悪く試に赴けず、室を楽圃坊に築いてその中で読書し著書に励精した。元祐中(1086-1094)、召されて太学博士となり、秘書省正字に遷って卒した。

29 王著
王著は字を知微といい、成都の人。孟昶の時の明経で、書を善くし、筆蹟甚だ優美であった。宋に入って隆平主簿、史館祗侯等に歴官し、累官して殿中侍御史に至った。
その書の墨縁彙観に著録されたものに草書千字文巻がある。

30 李公麟 皇祐元年(1049)-崇寧5年(1106)
李公麟は字を伯時といい、安徽廬州府舒城の大族で、元祐のとき進士となり、南康、長垣尉、泗州録事参軍を経て陸佃の推薦によって中書門下等に官したが、元符3年(1100)痺を病みて致仕し、龍眠山荘に老居し、自ら山荘の図を作り、爾の後はまた龍眠山人と号した。
李公麟は博学にして考古を好み、また詩にも長じ、又、多く奇字を識り、夏商以来の鐘鼎尊彝の類を愛蔵し、またこれを研究すること深く、世次を考訂し、款識を弁別し、古器記の一巻をも著わした。
その画は山水、仏像に長じ、山水は李思訓に似、仏像は呉道子に近いと称せられ、鞍馬人物の白描は古今独歩といわれ、哲宗の愛馬を写した五馬図巻は神品として乾隆以降、清の皇室に蔵された。

32 張耒 至和元年(1054)−政和4年(1114)
張耒は字を文潜といい、楚州淮陰の人。幼にして頴異、能く文をつくり、17歳の時「函関賦」を作りて已に人口に伝わったという。弱冠にして進士に第し、臨淮の主簿を歴て著作郎、史館検討に累官し潤州に知となったが、元祐党のことに坐して謫官せられた。徽宗召して太常少卿と為し、出でて潁・汝二州の知となったが、また党籍に坐して落職した。

33 薛紹彭 生卒年不詳
薛紹彭、字は道祖、長安の人。生卒年不詳、だいたい米芾と同年齡。翰墨で世に名高く、米芾とともに“米薛”と称される。
台北故宮博物院に所蔵されているものに危塗帖・得米老書帖・元章召飯帖・詩帖・致伯充太尉尺牘・雲頂山詩卷があり、個人所蔵のものに臨定武蘭亭序がある。

危塗帖 得米老書帖(昨日帖) 元章召飯帖 致伯充太尉尺牘


34 王安中 熙寧8年(1075)-紹興4年(1134)
王安中は字を履道といった。中山陽曲の人。進士に第し、瀛州司理参軍に調せられ、秘書省著作郎を歴、政和中(1111-1118)御史中丞に擢んでられた。が、蔡京を疏劾し翰林学士に遷された。金と通交するに及び、燕山府路宣撫使を授かり、遼の降将郭薬師と府の政治に当ったが、薬師専断を恣にし、安中は之を制することを得なかった。これによって象州安置に貶せられたが、高宗が即位するや、道州に徙り、紹興の初め左中大夫に復し幾ばくもなくして卒した。

35 劉次荘
劉次荘は字を中叟といい、長沙の人。熙寧(1068-1077)の進士で、崇寧中、官、殿中侍御史に至った。博洽淹貫、詞翰絶倫を以って称せられた。元祐中、新淦に謫居し、室を東山寺の前に築いて、戯魚翁と号した。次
荘は古帖を臨摹し、最もその真を得たといわれた。

36 黄長睿
黄長睿は字を伯思といい、別字を霽賓、自らまた雲林子と号した。元符3年(1100)進士に第し、磁州司法参軍に調され、通州司戸に改められ、秘書郎に累遷し、冊府の蔵書を縦観することを得、寝食を忘れるに至った。古文奇字を好み、彝器の款識、悉く能く弁正し、六経より子史百家に及ぶまで精詣し、また画を善くし詩文を工にし、篆・隷・正・行・草・飛白、皆、絶妙をもって称せられた。

37 趙明誠 元豊4年(1081年)-建炎3年(1129年9月3日)
趙明誠は字を徳父といい、挺の子。知湖州軍州事に歴官した。詩文を工にし、卓然たる宋代の大家である。
嘗って所蔵の三代の彝器及び漢唐以来の石刻をもって欧陽修の『集古録跋尾』の例に彷い金石録三十巻を編纂したが、その完成を見ずして明誠は卒し、その妻の李清照が続纂した。

38 蔡京 慶暦7年1月17日(1047年2月14日)―靖康元年7月21日(1126年8月11日)
字は元長。興化軍仙游県(福建省莆田市仙游県)の人。
父は蔡準。弟は蔡卞。子は蔡攸・蔡鯈・蔡翛・蔡絛・蔡鞗・蔡脩ら。また、英宗の時期の蔡襄の同族にあたる。
徽宗の宰相となり、王安石の新法を復し保守派を弾圧した。靖康の変(1127)の原因になる金の来攻を招き、国を危くした六賊の第一にあげられて失脚。
行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。
書家として弟の卞と共に知られ、二王(王羲之、王献之)に迫るといわれた。

節夫帖 題聴琴図詩 宮使帖 元祐党籍碑 跋 趙佶雪江帰棹図卷


39 蔡卞 慶暦8年(1048)-政和7年(1117)
蔡卞は京の弟、字は元度。興化軍仙游県(福建省莆田市仙游県)の人。
王安石の門人で、その娘婿になり、一子の蔡仍(字は子因)を儲ける。
熙寧3年(1070)に進士及第。熙寧年間以降、国子直講・起居舎人・同知諫院・侍御史などを歴任したが、妻の父の王安石が宰相であったことを理由に短期間で職を辞退している。
哲宗の時期に遼への使者として派遣されて役目を果たすが、旧法党の政権の下で宣州知州・江寧府知府など地方官を転々とする。
紹聖元年(1094)に哲宗が親政を開始して新法党が復権すると、中書舎人兼国史修撰に任ぜられ、神宗の実録編纂を担当するが、王安石日録に元に新法党に偏った記述をしたことから、反対派の批判を受ける。紹聖4年(1097)には尚書左丞に任ぜられて章惇とともに新法復活政策の中心となった。
徽宗の時期に入り、旧法党の諫官陳瓘らに6か条の問題点を追及・糾弾されて、江寧府知府に左遷されるが、兄の蔡京が重用されると復権して知枢密院事に任じられた。だが、この頃には兄との関係は険悪になっていた。蔡卞は北宋が放棄して西夏の領域になった西方の領土の奪還に努めるが、蔡京がその政策のために必要な陝西制置使に自らの盟友である宦官の童貫を任じたことから対立が決定的となり、地方赴任を希望するようになる。崇寧4年(1105)、蔡京は蔡卞を河南府知府に左遷し、更に妖しい道術との関与を糾弾された。蔡卞は失意のうちに70歳で没した。

雪意帖 題唐玄宗鶺鴒頌 曹娥碑 楞嚴經


40 米友仁 熙寧7年(1074)-紹興23年(1153)
米友仁は字を元暉といい、小字を虎児といい、海嶽後人、晩年は懶拙老人と号した。襄陽(江蘇省鎮江市)の人、米芾の子であり、父の米芾を大米、友仁は小米と称された。
幼い頃から学問に努め、書画をよくし、書画ともに父からの影響が強い。書は父の特徴をよく伝え、父には及ばないが風格がある。
米友仁の画の様式は米法山水と呼ばれる。米芾、米友仁親子により創り出された山水画様式だと言われ、数点現存している。水墨山水画が得意で、作品の多くは長江以南地区でよく見かける風景を描き、技法の面では五代時期の画家董源や巨然の画風を多く参考にし受け継ぐが、新たな分野も切り拓いた。米友仁は水と墨が溶け合い渾然一体となることを十分に利用し、朦朧とした天地を表すことを得意とした。米友仁の絵画技術は自然に対する感受性の反映であり、大自然を全体的に作品の中に濃縮し、山水雲海によって胸中に持つインスピレーションと気韻を発揮したので、自らの画風の変化も技術革新の必要から出たものであり深い感受から直接来たものである。
北宋滅亡のあとの金宋戦争の影響で各地を放浪し、後に地方官を歴任したあと工部侍郎、敷文閣直学士となり、高宗皇帝のコレクションの鑑定を行った。米友仁の署名や跋が高宗皇帝のコレクションだった書画に屡々残っている。

動止持福帖 呉郡重修大成殿記


41 鄭樵 崇寧3年(1104年)-紹興32年3月7日(1162年4月26日)
鄭樵は字を漁仲といい、興化軍清田の人。書を著すことを好み、人事を謝して夾潦山に居り、之を久しくして名山大川に遊び、訪古捜奇し、蔵書の家に遇えば必ず借留して読み尽せば乃ち去った。経書の学に深く、礼楽、文字、天文、地理、蟲魚、草木、方書の学、ひとしく造詣あり。紹興中、薦によって召対し、右迪功郎を授かった。後、著すところの通志の書成るや、入って枢密院編修官となった。学者称して夾漂先生といい、自ら溪西逸民と号した。著述極めて多く、巳に成ったもの41種あり、未だ成らなかったもの8種。そのうち最も世に通行せるものは夾漂遺稿3巻、通志200巻、及び爾雅注、礼経奥旨、六経奥論等である。

42 賈似道 嘉定6年8月8日(1213年8月25日)―徳祐元年9月19日(1275年10月9日)
字は師憲。悦生・秋壑・半閑老人と号する。台州(現在の浙江省臨海県)の出身。
寧宗朝(1194-1224)に制置使として淮南の防衛に活躍した賈渉の子。姉が理宗の貴妃となったことから中央官僚に抜擢され、以後1259年に丞相、67年に平章軍国重事となり、文字どおり国家最高の実力者として権勢を振るった。いわゆる進士官僚による政治の独占と彼らの間での派閥抗争の激化が、かえってその規定のコースから外れた彼への皇帝の異常な信頼となり、その委託を受けて困難なモンゴルとの外交交渉にあたる一方、もはや救いようのない国内の幣制や土地問題の解決に大胆な改革を断行した。しかし、結果は裏目に出て、成果があがらぬままに南宋は瓦解し、彼もまた亡国の責任を一身に負う形で福建省漳州の木綿庵に落とされ、途上、監送人の手によって殺された。

43 洪适 政和7年(1117)-淳煕11年(1184)
洪适は字を景伯といい、饒州鄱陽県(江西省上饒市)の人。洪皓の子で、紹興12年(1142)博学宏詞科に及第。累進して司農少卿、翰林学士、参知政事、同中書門下平章事(宰相)に進んだ。
父洪晧の著である松漠紀聞を刊行。盤洲集などの著書がある。

44 楊万里 建炎元年9月22日(1127年10月29日)- 開禧2年5月8日(1206年6月15日)
字は廷秀、号は誠斎。吉州吉水(江西省吉水県)の人。紹興24年(1154)の進士。金国に対する抗戦派で、剛直な性格と時政への直言のため、中央ではあまり出世できず、地方官を転々とすることが多かった。
范成大・尤袤・陸游とともに南宋四大家の一人。著に誠斎集がある。

45 陸游 宣和7年10月17日(1125年11月13日)―嘉定2年12月29日(1210年1月26日)
字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)の出身。范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家の一人。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。中国の大詩人の中に最も多作である。
その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。同年代の辛棄疾と共に、愛国詩人として広く知られている。

致仲躬侍郎尺牘
拜違帖
陸游尺牘(平遠山房法帖)
與原伯帖 劄子 陸放翁書 尺牘

46 范成大 靖康元年6月4日(1126年6月26日)―紹熙4年9月5日(1193年10月1日)
范成大は字を致能といい、石湖居士と号した。蘇州(江蘇省)呉県の人。
紹興24年(1154)の進士に合格。のち広西や四川の軍政長官を歴任し、参知政事(副宰相)にのぼった。初期の地方官時代、義役法を創設するなど、総じて良心的実務官僚に属する。詩人としては、農村の四季の風物をうたった晩年の連作〈四時田園雑興〉が有名で、一般に陶淵明以来の伝統を受けた田園詩人とみなされている。しかし、農民の生態を鋭く観察し、社会制度の矛盾をついた若年の作品や、使命を帯び当時の敵国金へ往復した体験をうたった壮年期の作品は、単なる田園詩人以上の視野の広がりを示唆する。陸游、楊万里と共に南宋の三大家の一人であり、従来の江西詩派の硬直した詩風を一掃した。

向蒙垂誨帖 西塞漁社図卷跋


47 周必大 靖康元年(1126)―嘉泰4年(1204) (第255-256図)
周必大は字を子允、一字を洪道といい、廬陵(江西省)の人。
孝宗、光宗、寧宗に仕え、正義派官僚として韓侂冑、曾覿らと対立した。陸游と親しく、彼を李白に比したという。詩文に優れ、随筆にも多くの作を残し、著の多くを周益国文忠公集に収める。

48 朱熹 建炎4年9月15日(1130年10月18日)-慶元6年3月9日(1200年4月23日)
字は元晦、晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽などと号した。朱子学の創始者。朱子と尊称。諡は文公。朱子と尊称される。
本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。
19歳で進士となり、71歳で没するまで約50年間官界に身を置いたが、出仕すること少なく、家居して学に励んだという。初め儒学を修めたが、のち仏教や老荘の学にも興味を示し、24歳の時、李侗(延平)に師事するに及び、北宋の道学、ことに程頤(伊川)の思想に接して自己の思想的方向が確立された。
儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。
「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

易系辭

致彦修少府尺牘

呈提舉中大契丈劄子

致教授學士尺牘
(嚮往帖 朱熹65歳時墨蹟)

書翰文稿(允夫帖 月六日帖
致表弟程詢允夫書翰文稿)

二月十一日帖 城南唱和詩巻 秋深帖(致會之知郡尺牘) 奉告審聞帖(與承務帖 論語集注残稿


49 婁機 紹興3年(1133)−嘉定4年(1211)
婁機は字を彦発といい、嘉興(浙江省嘉興市)の人。書学に深く、漢隷字源を輯した。

50 楼鑰 紹興7年(1137年)-嘉定6年4月18日(1213年5月10日)
楼鑰は字を大防といい、自ら攻魄主人と号した。慶元府鄞(浙江省)の人。
直言の士で,中書舎人となったが,韓侂冑に反対して辞職,侂冑の死後,翰林学士に用いられ,のち参知政事にいたった。経,史の考証に長じ,詩文に優れ,書をよくした。
著書に攻媿集・范文正公年譜・北行日録がある。

51 陸九淵 紹興9年(1139)- 紹熙3年(1192)
陸九淵は字を子静といい、存斎と号し、象山先生と称された。撫州金溪(江西省)の人。
心の内省を重んじて「心即理」説を唱え、朱熹の「性即理」説と対立する一派をなした。その思想は王陽明に継承され、陽明学の源流となった。

52 葉適 紹興20年(1150年)-嘉定16年1月26日(1223年2月27日)
葉適は字を正則といい、温州永嘉(浙江省永嘉)の人。淳煕五年(1178)進士に合格。中央と地方の官を往復したが、晩年は官界を追われ郷里で著述に専念した。
陳傅良などとともにいわゆる永嘉学派の代表的人物。同時代の朱熹や陸九淵らとは異なり、その学問の特色は実用性や経済性を重視する点にあった。
またすぐれた政治論の書き手としても知られ、水心先生と称し、卒して忠定と諡せられた。著書に、水心集、習学紀言、賢良進巻等がある。

53 薛尚功
薛尚功は字を用敏といい、銭塘の人。紹興中、通直郎を以って江軍節度判官庁の事を僉定した。
古篆を善くし、深く篆籀に通じ、歴代鐘鼎彝器款識、鐘鼎篆韻の著がある。

54 岳珂 淳煕10年(1183)-淳祐3年(1243)
岳珂は字を粛之といい、倦翁と号した。湯陰(河南省)の人で、嘉興(浙江省東北部)にいた。岳飛の孫。
著に宝真斎法書賛がある。

55 張即之 淳煕13年(1186)―咸淳2年(1266)
張即之は字を温夫といい、樗寮と号した。和州(安徽省)の人。
寧宗朝の参知政事張孝伯の子。地方官を歴任し、直秘閣を授けられて官を辞した。善書をもって聞こえた伯父張孝祥の影響をうけたものか、米芾を学び、さかのぼって褚遂良などの筆法を加味し、一種独特の書法を案出した。
宋に渡った日本の禅僧によって、鎌倉時代に張即之の筆跡が多くもたらされ、その後の日本の書に大きな影響を与えた。

杜詩断簡 杜律二首
杜詩断簡 七律三種
與殿元帖(従者来帰帖、適閑帖、致殿元学士尺札)
仏遺教経巻
李伯嘉墓誌銘 棐名帖 金剛経冊(金剛般若波羅蜜経) 方丈二大字額


56 劉克荘 淳熙14年(1187)-咸淳5年(1269)
劉克荘は字を潜夫といい、後村と号した。興化軍莆田(福建省莆田県)の人。淳祐(1241〜1252)中に同進士出身を賜り、官は竜図閣直学士に至った。
初め徐照ら永嘉の四霊の影響を受け、ついで晩唐詩風の近体詩を多くつくった。晩年農村に隠棲してからの詩は陸游に似る。江湖派の代表的詩人であるが、
理宗のとき筆禍事件を起し、淳祐の初め許されて秘書少監となり、江東提刑などを経て竜図閣直学士に進んで引退、農村で余生をおくり、文定と諡せられた。
著に、後村集、後村詩話などがあり、書道についてのものに後村題跋がある。

57 趙孟堅 慶元5年(1199)-元貞元年(1295)
宋の太祖 11代の子孫で、趙孟頫の従兄にあたる。字は子固、号は彜齋居子。海塩(浙江省海塩県) の人。宝慶2年(1226)年の進士。官は翰林学士承旨にいたった。
博識で詩文、書をよくし、画は水墨、白描の水仙、蘭、梅、竹に優れた。
著書に梅譜、彜齋文編などがある。

58 文天祥 端平3年5月2日(1236年6月6日)―至元19年12月8日(1283年1月9日)
もとの名は雲孫。字は宋瑞または履善。号は文山。吉州廬陵県富川(江西省吉安市青原区富田鎮)の人。
宝祐3年(1255)20歳で進士に第一位で及第。開慶元年(1259)モンゴル軍が四川に侵入し、遷都説が強まると、一地方官にすぎなかった彼は強くこれに反対し、官を追われた。のち復職したが賈似道と対立して辞職。76年元軍が首都臨安に迫ると、義勇軍1万人を率いて奮戦したがかなわず、宋は元に降服した。講和のため元の丞相バヤンと会見、口論して拘留されたが脱走、福州で益王を奉じ、宋の残兵を集めて転戦した。ふたたび元に捕らえられ、毒を仰いだが果たせず、大都(北京)に送られた。元への仕官を切望されたが拒否し、在獄3年ののち至元19年(1282)、81年獄中で作った長詩正気の歌を残して処刑された。

上宏斎帖 書謝敬斎坐右自警辞


59 釈夢英
夢英は、衡州の人で、宣義と号した。十八体書を学び、特に篆書に巧みだった。夢英の詳細な記録は見付からないが、道因法師碑の碑陰に贈夢英大師詩が刻されている。このことからして、太宗の頃の有名な僧侶と思われる。
  夢英十八体篆書碑 抄高僧伝序 篆書千字文碑 篆書目録偏旁字源碑 夫子廟堂記碑

60 (金)党懐英
党懐英は字を世傑といい、馮翊の人。大定の進士で能く文を属し、尤も篆籀を工にした。翰林待詔に累除せられた。

61 (金)王庭筠 紹興26年(1156)-嘉泰2年(1202)
字は子端、号は黄華山主。遼陽府蓋州熊岳県の出身。漢民族ではなく、渤海人といわれている。
翰林修撰に至った。詩文書画に通じ,書法は米芾に学んで金代第一と称される。また山水墨竹をよくした。行草書による自跋をともなう幽竹枯槎図は書画一致を標榜する文人画の現存作品のうちでもっとも早い時期に属するものの一つである。

重修蜀先主廟碑 五絶二首 題幽竹枯槎圖卷


62 (金)趙秉文 紹興29年(1159)-紹定5年(1232)
趙秉文は字を周臣といい、聞聞老人と号した。金朝磁州滏陽(河北磁)の人。大定の進士で、興定の初(1217)、礼部尚書に累官し、哀宗の時、翰林学士に改められた。書画詩文を工にし、五朝に仕え、六卿に官したが、自ら奉ずることなく、学を好んだ。著すところに、易叢説、中庸説、資暇録、刪集論語、孟子解、濫水文集等がある。

赤壁圖卷題詩(正大5年70歳時墨蹟) 趙霖昭陵六駿圖題跋(興定4年62歳時墨蹟)


63 (金)元好問 明昌元年7月8日(1190年8月10日)-憲宗7年9月4日(1257年10月12日)
元好間は字を裕之といい、遺山と号した。太原府忻州秀容県(山西省忻県)の人。
官は行尚書省左司都事。金の滅亡後、仕官せず、金朝の事跡採録、著述に専心した。著に元遺山先生文集、中州集などがある。


五 宋代の法帖

宋代以前の法帖

1 昇元帖
南唐の李後主が昇元2年(938)、秘府所蔵の墨蹟を建業の文房に摹勒上石し昇元帖と名づけ、また建業帖ともいったといわれる。これは淳化の前にあり、当に法帖の祖たるべしといわれるものだがこの法帖は、今、世に存せず、刻否についても諸家の説が一致しない。

2 澄清堂帖
相伝えて南唐の後主李焜の刻という。しかしこれについては学者の説が一定しない。

二 宋代の刻帖

1 淳化閣帖(十巻) 淳化3年(992)摹勒上石(原刻本)
賈似道刻本・上海潘氏本・顧氏本・王文粛本・粛府本・西安碑林本・宣統三年石印王筠本・乾隆御刻本・道光乙未重刻本・日本刻本
淳化閣帖は宋の太宗の淳化3年(992)に翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編したものと伝承されている。全部が十巻で、第一巻は歴代帝王法書。第二、第三、第四巻が歴代名臣法帖、第五巻が諸家古法帖。第六巻から七、八の三巻が王羲之の書。第九、十巻が王献之の書となっている。
この法帖が出でて後はこれを基本として多くの法帖が刻せられ、帖学全盛の時代を画した。

2 太清楼帖
宋の哲宗の元祐5年(1090)、秘書のもの奏して淳化閣帖に未だ刊刻していない遺墨を入石することを請い、徽宗の時に始めて太清楼下に置いた。これが太清楼帖の所以だが、一にまた淳化閣帖にないものを続刻したものなので争続秘閣帖とも称する。

3 大観帖(10巻) 大観3年(1109)筠勒上石
この法帖は大観の初、徽宗が龍大淵・蔡京らに命じて、淳化閣帖の板がひび割れし、また王著の記述に誤りが多かったため訂正し、偽跡の明白なものを削除した。さらに内府所蔵の書跡を出して補刻させた。しかし、靖康元年(1126)に靖康の変があったため、拓本の伝わるものが極めて少ない。

4 緯帖(20巻)
全10巻で,巻1は歴代帝王法帖,巻2〜4は歴代名臣法帖,巻5は諸家古法帖,巻6〜8は王羲之,巻9〜10は王献之をおさめている。法帖の権威として認められ,宋代に絳帖、潭帖、大観帖その他多くの翻刻本または増補校訂本が行われ、明代以後にも多くの翻刻本ができている。

5 偽終帖(12巻)
真絳帖の20巻の外、12巻本がある。これは世に偽終帖と称されるもので、後人が宋時の諸帖から重筠合成したもので、明の嘉靖7年(1528)に南陽の郡守の陽応奎が筠刻したものだという。

6 戯魚堂帖(10巻) 元祐4年4月(1089) 劉次荘筠於戯魚堂
この法帖は劉次荘が呂和卿収蔵の淳化閣帖に別帖を加え、石に臨江に刻したもので、臨江帖または臨江戯魚堂帖ともいう。

7 星鳳楼帖(12冊) 曹彦約刻 柳公権跋
この法帖は宋の曹彦約が南康軍に刻し、その子の士冕が之を続刻饐成したものであるという。淳化閣帖を中心とし、それに別帖を加え、分って12巻と為し、12時(時刻の石)を巻の下に記し、巻尾に「紹聖3年(1096)春王正月墓勒上石」と刻してある。
曹彦約は字を簡斎といい、都昌の人で、官、省書に至り、文簡と諡された。

8 武岡帖(20巻)
武岡帖は武岡軍に絳帖の公庫本を用いて重筠上石したもので、これにも新旧の二本がある。

9 武陵帖(22巻)
この帖は南宋の紹興11年(1141)に武陵の郡守張斛が淳化閣帖、潭帖、絳帖、臨江帖などの諸帖を合せ、雑採して武陵の郡斎に刻したもの。この法帖を鼎帖とも称する。この帖もまた全巻の伝わるものがない。


10 汝帖(12巻) 王鬚(臨図)
この法帖は宋の大観3年(1109)汝州の太守の王宷の刻したもので、夏禹、皇頡より郭忠恕に至る歴代の書跡を雑纂して之を石に刻し、郡の役所の壁にはめ込んだものであるといわれるが、汝州志にはもと望嵩楼にあったともいっている。

11 宝晉斎帖(10巻)
この法帖は米芾が二王以下の真蹟を摹してこれを無為軍に刻したものであり、既に淳化閣帖中にあるものはこれを摹入しなかったという。初めは巻数もなかったが後の宝砧年間(1253-1258)に至って曹之格が無為に通判となり、纏めて10巻としたものであるという。

12 博古堂帖 27種
石邦哲(字を熙明といい会稽の人)の刻。この石氏本はその孤本が臨川の李氏に蔵せられ、上海に於て石印
せられたものがある。

13群玉堂帖(10巻)
この法帖は韓侘胄がその家蔵の墨蹟をもって入石したもので、原名を閲古堂帖といい、頗る精善をもって称されたが、開禧の末、韓が罪を得て籍没せられ(1207)、嘉定の初めにこの帖もまた内府に入り群玉堂帖と名を改められた。

14英光堂帖(残冊)
この法帖は、倦翁がその家蔵の米芾の墨蹟を勒石したものだが、世に完本の伝わるものがなく、その幾巻なのか明かでない。

15淳熙閣帖
この法帖は宋の孝宗の淳熙12年(1185)に内府所蔵の淳化閣帖をもって禁中に刻石せしもので、規模は原石と大差ない。

16 甲秀堂帖(5巻)
盧山陳氏刻。この帖には石鼓文を始め泰山の篆譜、秦の権量銘など他刻にないところがある。
この帖の刻者は廬山の陳氏といい、又は廬江の李氏であるともいい、明かにしがたい。

17忠義堂帖
嘉定8年(1215)に劉元剛が顔魯公の書を魯公祠に刻石し、越えて2年丁丑、東平の鞏蠑がまたこれを続刻したがその帖数は明かでない。

18西楼帖(10巻)
この法帖は汪聖錫が蘇軾の書を蜀の成都の西楼に刻したもので、すべて10巻であるが、伝本は甚だ少なく全帙は最も得難いといわれる。近世、端方の所蔵本があり、称して十巻本というも実は多く残欠して完本ではない。上海に石印本がある