第4巻 第19章-中 藤原楚水著 省心書房23 蘇東坡とその書蹟
一 蘇東披の官歴および人物
北宋時代、太宗・真宗・仁宗・徽宗、みな書を論くし、臣下に於ても林逋(字は君復)・杜衍(字は世昌)・宋綬(字は公垂)・韓g(字は稚圭)・范仲淹(字は希文)・欧陽修(字は永叔)・蘇舜欽(字は子美)・王安石(字は介甫)・曾鞏(字は子固)・司馬光(字は君実)・秦観(字は少游)・薛紹彭(字は道祖)など皆書名があったが、要するに蘇・黄・米・蔡を以って四大家と為すに異説がない。また宋代の学者が多くは瞑想を行い、仏教的環境の影響を示せる如く、書道に於いても形似を軽んじ、古法を墨守することなく、摹倣を離脱して漸次に自己の精神的内容の表現形式へと移行せんとするの動きが多分に見られた。故に評書者は、晉人の書は韻を重んじ、唐人の書は法を尊び、宋人の書は意を尊ぶといった。
この傾向は蘇東坡や黄山谷に於いて特に著しいものがあった。
蘇軾 景祐3年12月19日(1036年1月8日)―建中靖国元年7月28日(1101年8月24日)
字は子瞻、東坡と号し眉州(四川省眉山県)の生まれ。諡は文忠。蘇洵の子。父の蘇洵、弟の蘇轍とともに「三蘇」と呼ばれる。
人物は剛直,高潔で,王安石の新法に反対し政治経歴は不遇であったが,学問は博学であった。 欧陽脩の古文復興を継いで詩文に優れ,豪放な詩,賦,詞によって一時期を画した。
政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。
絵画の分野において士夫画の提唱者であり、自身も墨竹画をよくした。 現存する自筆作品は限られるが、絵画に関して論じた文章や詩を多く残している。 その代表的な作品として『浄因院画記』・『伝神記』・『篔簹谷偃竹記』などがある。 また、題跋詩や題画詩にも蘇軾の絵画に対する思想がみえる。
二 蘇東坡の筆禍
嘉祐2年(1057)に、弟の轍とともに科挙に合格し、進士となり、鳳翔府僉判から、やがて中央官庁に入り、司馬光の旧法党に加わった。が、党争に敗れ地方に左遷された。
神宗(第6代皇帝)のときに、王安石の新法党との党争に敗れた結果、蘇軾が書いた詩に国政を悪く言った内容が書かれていたことが理由で、捕らえられて殺されそうになった。しかし、神宗皇帝が蘇軾の才能を惜しみ、罪が軽減され、黄州への左遷だけとなり、地方官を転々とした。
皇帝が変わると政治の中枢に復帰→左遷→中枢に復帰を繰り返した。
神宗の死後、次の皇帝哲宗(第7代皇帝)の政治の見直しによって、旧法党が復権したことから蘇軾は政治の中枢に復帰した。しかし、旧法党のトップである司馬光が亡くなると、旧法党が3党に分裂し、そのうちの蜀党の党首となって苦労した。元祐7年(1092)には、礼部尚書、端明殿翰林侍読学士しという要職につくが、2年後には章惇らの新法党に政界を支配されると、恵州(広東省)へ左遷され、さらに昌化軍(海南島)へ流された。
元符3年(1100)、徽宗(第8代皇帝)が即位すると、許されて中央へ戻されることになったが、戻る途中で病気により66歳で波乱の人生を閉じた。
三 寒食詩と赤壁賦
新法に異を唱えた蘇軾は新法党から憎まれ、元豊2年(1079)に天子を誹謗する詩を書いたとして逮捕された。厳しい取調べを受け、蘇軾も一時は死を覚悟するほどであった。
元豊5年(1082)、神宗の特別の計らいで黄州(現在の湖北省黄岡県)に流罪となり、食事にも事欠く生活を余儀なくされ同地で3度目の寒食節を迎え、身の不遇を嘆いた自詠の寒食の詩2首を、紙本に墨書した。時に蘇東坡47歳。1首目は思索的・空想的で、2首目は観察的・具体的である。2首あわせて120文字が16行にわたって書かれているが、書き進むにつれて文字が太く、かつ大きくなるのが特徴であり、蘇軾の感情の高ぶりを見てとれる。
なお、寒食節とは、春秋戦国時代に晋の文公(重耳)の忠臣であった介之推が焼死したことを悼み、冬至の後105日目に火の使用を禁じ、煮炊きをせずに作り置きの料理のみを食すという習わし。
蘇軾の詩の後ろには、蘇軾の弟子でもあり友人でもある黄庭堅による跋文があり激賞している。この跋文もまた高い評価を受けている。
この黄州寒食詩巻は澄心堂紙に行書で17行に書いたもので、蘇東坡の傑作としてのみならず、中国書史の中でも最高の名品の一つとされている。現在は台北市にある国立故宮博物院の所蔵。
東坡は寒食詩を作った同じ年の7月に赤壁の下に遊んで前赤壁賦を作り、10月再び赤壁に遊んで後赤壁賦を作った。即ち寒食詩と赤壁の両賦が、同じ歳に前後して作られたというのも興味深いことである。
前赤壁賦
四 蘇東披の書蹟
東坡は当時の学界の影響を受け甚だしく自由主義者であり、「わが書は意造もと法無し」とはいっているが、必ずしも伝統を無視せしものではなかった。
東坡の書道に対する研究は頗る精到であったが、他人より下位に居るのを欲せず、つとめてその範疇を脱し、独自の面目を打出しようとした。そのためまた往々にして縦逸放恣に陥り、これによってまた遂にその書に古意なきに至り、或はまた浅薄ならざるを得なかった。
五 東披の墨蹟の災厄
東坡の一生は党争の為に禍せられ、その墨蹟の如きも毀滅の厄に遇ったが、その書は寧ろ北方に於いて金人の為に愛蔵され、又、後の南宋の天子である孝宗も尤も東坡の文を喜び、常に左右に置いて終日瀏覧されたといい、その書もまた愛するところとなった。
そのころ趙襲が東坡の詩の注をつくり、乾道9年(1173)孝宗が東坡の為に詩文集を刊行した。乾道(1165-1173)より淳熙(1165-1189)にわたり約数十年の間、東坡の文体が盛行し、考試場裡に於ける一種の程式となり、称して乾淳体といい、その墨蹟もまた漸く宝愛保存するものが増加した。
1 洞庭中山二賦巻
この巻は洞庭春色(1091)と中山松醪(1093)の自詠の五言古詩2首で、黄州に降格して3年目に書かれた作品。
この書は澄心堂紙に濃墨を使い、やや姿勢を低くした字形、左に伸び右に縮む線、弾力に富んだ筆遣いによる美しい線が特徴。
洞庭春色
中山松醪
2 書杜工部榿木詩巻
杜甫の七言律詩「堂成」を書き、識語を加えたもの。堂成は杜甫が建てた草堂の周辺の様子を詩に詠み、穏やかに描写している。
蘇軾は蜀の出身で、「榿の木がもたらす木陰に風があたれば葉が吟じるだろう」とあり、草堂のまわりに植えられた榿の木の性質をよく知っていた。
郷土への愛着と杜甫への敬慕から書いている。
3 寒食詩巻
東坡が黄州(現在の湖北省黄岡県。武漢から70キロほど長江を下った北岸の町)に流謫されていた時に、自詠の寒食の詩2首を書いた作。時に蘇東坡47歳。
黄州寒食詩巻の訳
1首目は、思索的・空想的。
黄州に来て3年目の寒食節を迎える。
毎年春を去るのを惜しむのに、春は容赦なく過ぎ去っていく。
今年は長雨にも苦しめられ、秋を思わせる寒い日ばかりだった。
海棠の花の香りも燕色の花が散って泥にまみれている。
暗い夜が春を連れ去ってしまった。
病が癒えたら、頭が白髪になってしまったようなものだ。
2首目は、観察的・具体的。
春の岸辺から水が押し寄せているが、雨は一向に止む気配がない。
小屋は漁船の如く、水煙の中で漂っている。
台所で野菜を煮ようと、湿った葦をくべてかまどを起こす。
今日は何の日か、鳥が紙をくわえているのを見て寒食節だと知った。
朝廷に帰りたいが、余りにも敷居が高く、故郷も万里の彼方。
阮籍の作品を学びたいが、心は灰のようにやるせない。
2首あわせて120文字が16行にわたって書かれているが、書き進むにつれて文字が太く、かつ大きくなるのが特徴であり、蘇軾の感情の高ぶりを見てとれる。
寒食詩巻と諸家の跋文
これには黄山谷のこれまた見事な跋がついていて、文字通りの合璧をなしている。この巻はその印記に見る通り、乾隆以來清の内府にあったものであるが、威豊10年(1860)円明園が焚けた際に人間に流出した。やがて馮譽驥の藏するところとなったが、馮の没後盛焜の手に渡り、盛の没後景樸孫が買い、更に顔韵伯に渡った。大正11年にわが菊池惺堂氏はこの巻を携えて來遊した顔から譲りうけ、翌年の関東大震災には、先代以來の收藏をことごとく劫火に附したが、ただこの巻と李龍眠の瀟湘巻の二軸を持って遁れたということである。
円明園と関東震災と両度の危を免れたこの巻は、今次大戦にも幸に事なきを得たが、先年王世杰氏の得るところとなり現在は台北市にある国立故宮博物院の所蔵である。
| 自敍帖 |
祭黄幾道文卷 |
成都西樓帖鵬 |
李白仙詩卷螂 |
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| 與夢得祕校札捫 |
書林和靖詩後齪 |
明州阿育王山広利寺宸奎閣碑嫻 |
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| 表忠観碑 |
羅池廟碑 |
酔翁亭記 |
||
| 致坐主久上人尺牘 |
致主薄曹君尺牘 |
致子厚宮使正議尺牘 |
致知縣朝奉尺牘 |
致長官董侯尺牘 |
| 致杜道源尺牘 |
致夢得秘校尺牘 |
致季常尺牘 |
遺過子尺牘 |
新歳展慶帖 |
| 次韻三舍人省上詩 |
次辯才韻詩 |
潁州祈雨詩 |
答謝民師論文帖 |
致定國承議使君尺牘 |
24 黄庭堅とその書蹟
1 黄庭堅とそり書論
黄庭堅は字を魯直といい、浩翁と号し、又潔皖、山谷寺、石牛澗に遊び、その泉石の勝を楽しみ、因って自ら山谷道人と号した。士大夫、政治家・書家・詩人・文学者で、洪州分寧県(現在の江西省九江市修水県)の人。宋の仁宗の慶暦5年(1045)に生れ、徽宗の崇寧4年(1105)年60歳をもって卒した。
治平3年(1066)に23歳で進士に及第した。黄庭堅は王安石の新法派と意見を対立させたため、葉県県尉・北京国子監教授・太和知県・徳平鎮監などに赴任させられている。元豊8年(1085)に新法派を支えた神宗が没すると旧法派が権力を奪取し、黄庭堅は首都汴京にて校書郎・著作左郎・起居舎人など中央官僚として活躍した。34歳のころ蘇軾と知り合い、秦観・晁補之・張耒とともに蘇軾門下となり蘇門四学士と称された。汴京ではこの他にも多くの文人達と交友した。
しかし、紹聖元年(10949)以降、新法派が再度実権を握ると黄庭堅は左遷され、夔州路の涪州・黔州、梓州路の戎州に貶謫されてしまう。崇寧2年(1103)に讒言を受けて宜州へ流刑となり、崇寧4年(1105)にその地で病没した。享年61。南宋の度宗のとき名誉が回復され文節の諡号が贈られた。
地方への赴任は、自然を愛でて詩書画に耽溺する時間が許され、必ずしも不幸であったとはいえない。また仏門に帰依し老荘思想に傾倒するような自由な精神活動が行えた。むしろ黄庭堅の革新的な芸術を開花させるに理想的な環境であったといえる。
また親孝行でも有名であったらしく、二十四孝の一人として知られている。
2 黄山谷の書蹟
1 墨蹟
黄山谷の書蹟の世に伝わるものに、前記、東坡の寒食詩巻の跋が最も名高く、これを転印せしものが多いが、この外にも真蹟または石刻として伝わり、卞永誉の式古堂書画彙考をはじめ、それが著録に見えるものに次のものがある。
曹植詩帖・懶残和爾歌・陰長生詩三篇・法語巻・釈典巻・范滂伝・緑菜賛・李太白憶旧遊詩蹟・贈元師詩冊・与趙景道札並絶句八首巻・秋浦歌并題・題元上人此君軒詩答王周彦巻・水仙花詩・三言詩帖・王長者墓誌銘稿・宋故濾南詩老史翊正墓誌銘稿・手簡二通・与立之手簡・雑録冊・諸上坐帖・自賛并序・劉賓客馬伏波廟詩・大江東去詞・発願文・頭陀賛・漫郎詩帖・苦笋賦・竭力田園帖・花気詩帖・伏承帖・董宜伝・開堂疏帖・梅花賦巻・与趙景道絶句詩巻・廉頗藺相如伝巻・松風閤詩巻・秋浦歌・大雅堂記・此君軒巻・曹植詩帖・家書帖・斉君帖・雲夫帖・黄山谷書東搬大江東詞巻・王長者詩老史摹誌銘・華厳小疏巻・観音賛・焼香賛巻・手札・宝積経発願文巻
石刻
以上の墨跡の外、石刻として伝わるもののうち、主として擦古録及び芸風堂金石文字目等に著録されているものに次のものがある。
金剛経・黄龍晦庵和尚開堂疏・南山順済龍王廟記・伯夷叔斉墓碑・盧山七仏偈・狄梁公碑・食時五観・此君堂詩・南浦黄庭堅題名・青原山詩・溪詩・珸溪欸乃曲・黄山谷捜剔珸廏銘題記・禹太伯季子伍員碑・少林寺初祖達摩頌・墨竹賦・雲亭宴集詩・范滂伝・澹山巖詩・梨花唱和詩・黄山谷次韻子瞻郭熙画秋山詩残刻・緑菜賛・達摩頌・大慧禅師礼観音文・蒙泉二字・雙井二字・帰雲堂三字・寿仏嶽「南極老人無量寿仏」八字・広利禅寺四大字・楊皓任栞題名・鈎深堂三字
25 米芾とその書蹟
米芾(皇祐3年(1051)― 大観元年(1107))は、北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。
初名は黻。字は元章。官職によって南宮、住拠によって海嶽と呼ばれ、号は襄陽漫仕・海嶽外史・鹿門居士などがあり、室名を宝晋斎といった。子の米友仁に対して大米と呼ぶ。襄州襄陽県の人で、後に潤州(現在の江蘇省鎮江市)に居を定めた。
米家のルーツは隋・唐時代にかけて、中央アジアのソグディアナ地方に存在していた9つのオアシス都市国家(昭武九姓)の一国の米国(マーイムルグ)に住むソグド人で、中国に移り住んで「米」を姓とした。
先祖は代々山西の太原に住み、後に襄陽に移った。母の閻氏が英宗皇后(宣仁聖烈高皇后)の乳母として仕えていたことから、米芾は科挙を受験しないで官途につくことができた。
地方の低級の役職を転任するものの南方が多く、米芾は江南の山水を愛した。彼は非常に書画がうまかった上に鑑定に秀でていたため、崇寧3年(1104)の書画学(宮廷美術学校)設立の際には書画学博士となった。そして、徽宗の側近に仕えて書画の鑑定にあたり、のちに礼部員外郎に抜擢された。徽宗の厖大な書画コレクションを自由に利用できたことにより、古典を徹底的に組織的に研究した。彼は名跡を臨模し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多くの記述を残した。その著録はきわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるものである。
崇寧5年(1106)に知淮陽軍となり、翌年、淮陽軍の役所で没した。
蘇軾や黄庭堅と交友関係にあり、米芾が一番若かったので彼らは米芾を可愛がっていた。米芾は傍若無人で、奇矯な性格で、しばしば狂人扱いされて米顛(米芾の変わり者)とか米痴などと呼ばれ、さまざまな逸話が生まれた。服装も唐代のファッションをかたくなに守ったという。
書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は4人の中で最も書技に精通しているとの評がある。他の3人はエリート政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家であった。彼の題跋は今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料になっており、その鑑識眼は中国史上最高ともいうべきものである。画においては米法山水の創始者として知られ、多くの人に模倣された。また、従来、専門家が行っていた篆刻を作家自ら始めた人物とも目されている。
米芾の書は古法の探求を土台にしているため、品位と規模において南朝や初唐の大家に匹敵し、この後、彼以上の書家はついにあらわれなかった。その書は初め唐の顔真卿・褚遂良を学び、のち東晋の王羲之、魏・晋の諸名家に遡って研究をすすめた。古来、彼ほど臨模のうまい者はいないといわれ、その精密さは古人の真跡と区別がつかなかったと伝えられる。よって、今日に伝わる唐以前の作品の中には、彼の臨模が混じっている可能性もある。
作品として多くの真跡が残り、また多くの集帖(群玉堂帖・余清斎帖・戯鴻堂帖・快雪堂帖など)、専帖(宝晋斎帖・英光堂帖など)、単帖(龍井山方円庵記)に刻されている。
著録に見える書蹟に次のものがある。
多景楼詩冊・淡墨秋山詩帖・秋暑憩多景楼・穣侯出関詩帖・府公帖巻・三呉詩帖・三帖巻・鶴林甘露帖・伯老台坐帖・苕渓詩巻・蜀素帖・行書三帖(張季明帖・叔晦帖・李太師帖)・草書四帖(元日帖・吾友帖・「中秋詩帖・目窮帖」・海岱帖)・楽兄帖・二帖冊(珊瑚帖・復官帖)・虹県詩巻・海寧県雙仁祠弐顔公碑・沂水帖・臈白帖・米南宮臨王右軍至洛帖
| 苕渓詩巻 |
蜀素帖 |
行書三帖(李太師帖) |
行書三帖(叔晦帖) |
行書三帖(張季明帖) |
| 草書四帖(元日帖) |
草書四帖(吾友帖) |
草書四帖(中秋詩帖) |
草書四帖(目窮帖) |
草書四帖(海岱帖) |
| 楽兄帖 |
二帖冊(珊瑚帖) |
二帖冊(復官帖) |
虹県詩巻 |
海寧県雙仁祠弐顔公碑 |
| 龍井山方円庵記 |
多景楼詩冊 |
臈白帖 |
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26 蔡襄とその書蹟
蔡襄(大中祥符5年2月12日(1012年3月7日)-治平4年8月16日(1067年9月27日))は字を君謨といい、興化仙遊(現在の福建省莆田市仙游県)の人。宋の真宗の大中祥符5年(1012)に生れ、天聖8年(1030)に科挙に合格して進士となり、仁宗皇帝からの信頼が厚く、翰林学士などの要職に就いたが、英宗皇帝になると、皇帝からの嫌疑を受け、端明殿学士として、杭州(浙江省)に退けられ、その地で病気により英宗の治平4年(1067)に56歳で没した。忠恵と諡され、吏部侍郎を追贈された。
書を善くし、宋の四大家の一人。顔真卿・王羲之・王献之、そして唐時代の諸家を学び、篆籀・飛白・狂草にいたるまで、いろいろな書体をこなした。しかし、残っている作品は楷書・行書・草書のものしかみられない。
蔡襄の書は『墨縁彙観』に謝賜御書詩・持書帖・暑熱帖・離都帖・山居帖・八帖・大研帖・思詠帖・謝郎帖・陶生帖の10帖が著録されている。他に台北故宮博物院蔵の宋蔡襄澄心堂紙などがある。