第3巻 第18章-5 藤原楚水著 省心書房八分は秦に萌芽し、後漢を以って最高峰に達し、その後は次第に降格し、王右軍の書聖を以ってするも、遂に隻字の伝われるなく、以って唐に及んだが、この時代の八分は体格愈々変化し、また漢隷の風味なく、世に之を唐隷と呼び、一種別様の趣を生じた。
欧陽詢の如きは、初唐に於ける正書の大家であったが、八分書をもよくした。
殷仲容もまた八分の名家と称せられ、玄宗もまた八分を善くされた。
玄宗が八分を好まれた結果、これが一般の書道界に影響し、開元・天宝には八分書の盛行を見るに至った。この間、八分を以って名のあるものに、盧蔵用・田羲晊・韓択木・蔡有鄰・梁昇卿・史惟則・張廷珪等の諸家が出た。
盧蔵用(664?-713)は盛唐の官人。字は子潜。幽州范陽県の人。進士に及第したが、官途に応じず、終南山に隠居した。長安年間、左拾遺として召された。中宗のとき、中書舎人・黄門侍郎などを歴任し、修文館学士となった。太平公主の一派として、昭州司戸参軍となり、ついで黔州長史に左遷された。
書は草隷・大小篆・八分を工にした。書碑の現存するのは、漢紀信碑、大通禅師碑、蘇壌碑の三つに過ぎない。
田羲晊は明皇の時の人、書は、唐乙速孤行儼碑・陜州孔子廟堂碑が伝わる。
韓択木は昌黎の人、国子四門博士、翰林院学士、集賢学士、礼部筒書、太子少保等に歴任した。
書碑は極めて多く、且つ書名また頗る高くあったが、その大部分の碑は夙に佚し、今世に伝わるものは、僅かに祭華岳文の一のみである。
蔡有鄰は済陽の人、漢の左中郎将菖が十八代の孫。翰林院学士、左衛兵曹参軍、集賢院待制、等に官した。
書碑は『宝刻類編』には17碑あるが、大部分は既に佚し、今は龐履温碑(開元24年2月(736))・尉遅公碑(開元26年有陰(738))・章仇元素碑(天宝七載立(748))を存するに過ぎない。
郭謙光は中宗の時の人。国子監丞大学助教。書碑の多くは佚し、今これを見がたいけれども、独り沁州刺史馮公碑は世に伝わっている。
襲杭は平州人、京掾。
張廷珪(658-734)は、字は温玉、河南府済源県の人、少にして文学を以って名を知らる。長安中、監察御史に累遷し、開元中、太子倉事に歴遷し、范陽県男に封ぜられ、諡は貞穆。李邕と親善にして、邕が撰する所の碑碣の文は、必ず廷珪に請うて八分書させた。廷珪、既に楷隷を善くし、甚だ時人に重んぜられた。
書碑は、『宝刻類編』に載するところに9碑あるが、碑石は多く佚し、唯、孔子廟の一碑を存するに過ぎない。
梁昇卿は殿中侍御史、中書舎人内供奉、河南少尹等に歴官した。八分体(隷書)に巧みで、当時の絶巧であった。『集古録』に御史台精舎碑、『宝刻類編』に16碑を数えるが多くは佚して伝わらず、わずかに御史台精舎碑・光禄少卿鄭曾碑の2碑を存するのみである。
御史台精舎碑 開元11年(723) 崔G撰 梁昇卿書 趙礼刻 御史台精舎碑・御史台名
精舎とは、一般に僧侶が仏道を修行し礼拝する祠堂をさすが、ここでいう御史台精舎とは御史台に仏舎があり、御史台の役人で仏を篤信する者達によって建てられた仏舎と言われている。
御史台とは、官吏の弾劾を任務とする監察官の役所で、名称は後漢から唐に及ぶ。
碑文によれば、長安の皇城・承天門街の西第六横街の北に御史台があっが、元和4年(804)に仏舎が焼けたが、ただちに御史の李膺が俸料した。碑表には、銘と序が、碑陰および碑側には、《御史台名》が刻されている。
史惟則、名は浩、惟則は字。広陵(江蘇省)の人。天宝中嘗って伊闕尉、集賢院待制となり、後に殿中侍御史に至った。勅命によって書画の捜訪に従事し、その功により粛宗の頃から、伊闕県尉を授けられた。その書は、日本ではあまり好まれないが、実は中国の書の主流をなすもの。
その書碑は、『宝刻類編』に見えるものは34碑を数えるが、その多くは既に佚しわずかに大智禅師碑・同碑陰記・営州都督李楷洛碑・龍角山玄元宮碑(開元16年(728))があるに過ぎない。
大智禅師碑・ 厳挺之撰 史惟則書並篆額 (開元24年・736) 大智禅師碑
1949年、前陜西省歴博より西安碑林に移管
大智禅師とは、玄宗から贈られた義福の諡号。義福の俗姓は姜氏で、上党銅の人。慈恩寺・福先寺などの諸寺を歴任し、開元24年に入寂した。この碑は禅師の功徳を頌して建てられた。
大智禅師碑陰記
碑陰に開元29年(741)の追刻があるが書風が多少ちがう。両碑側は、牡丹花系花唐草を背景として、それぞれ3体ずつの菩薩像・瑞獣に騎乗する楽人・迦陵頻伽・鳳凰・咋鳥などを線刻し、地はかなり深く沈めてある。均質で細緻な描線で白描画(線描のみで効果を生み出している画)に類する。
唐碑の絶作とまで言われ、碑の形式の変遷や、工芸史・絵面史の上でも極めて貴重な資料だ。
李潮は杜甫の甥だが、その八分書の伝わるものは宋の時すでに極めて少なく、今日は絶無で、その書の如何なるものなりしかは知りがたい。
篆書はその書体の完成した秦にその標準を置く。六朝以来、碑には多く正書を以ってし、隷書を以ってするは頗る少なく、篆書を以ってするは殆んどこれを見ず、僅かに、篆額にその名残りをとどめるのみ。而して篆法は全く中絶の状態であった。この時に当り突如として碧落碑というのが現われた。
碧落碑
この碑は、韓王元嘉の子訓等がその妣房氏の為に碧落尊像を龍興観に造り、文を像背に刻したもので、何人の筆であるかは明らかでないが、兎も角問題の碑で、李陽冰の如きも、碑下に信宿して、去らなかったとすら伝えられている。
この碑は、中には往々佳なる字もあるが、その篆法は多く見るに足るものがない。但これによって唐初の篆法如何を窺うことができ、書史学上また好参考たるを失なわない。
唐代の篆書の大家としては李陽冰が尤も著名であり、尹元凱、袁滋、瞿令問の諸家も名家たるを失なわない。
尹元凱は『旧・新唐書』に伝記がありますが、そこにはあざなや号を記していない。書碑と伝わる美原神泉詩碑の碑文によって、その字は戫、号は裕明子であることが知られる。彼は篆隷を良くした廬蔵用と親交があった。なお、石刻に号を記すことは、この碑に始まるという。
美原神泉詩碑 垂拱4年(688)4月 美原神泉詩碑
碑は、1924年、由富平県美原鎮(現在の陜西省富平県郊外東北地区)で発見され、1949年、前陜西省歴博より西安碑林に移管された。
碑面には韋元旦の序と、賈言淑の詩、及び無名氏の詩を刻し、碑陰には徐彦伯の序及び詩と、尹元凱、温翁念、李鵬の詩を刻し、書は皆、尹元凱の一手に成っている。しかし現在は石質によるのか、腐蝕も多く不鮮明になっている。
楊守敬は、篆法は石鼓文から出ている、といっている。一部に、篆体としてはおかしな結体も交じり、点画に固さがあるが、玄宗期以前の篆書の史料として、貴重な遺例といえる。
李陽冰は、字は少温。本貫は趙郡(現在の河北省邯鄲市)。 顔真卿との交流から開元年間の人物と考えられている。『新唐書』宰相世系表によると、将作少監の官にあったことが記されるほか、乾元2年(759)から宝応元年(76)、宣州当塗県の県令であった間、晩年の李白を庇護したことで知られ、『新唐書』李白伝にもその名が見える。李白の死に臨んで、彼から大量の詩稿を託され、詩集『草堂集』として編纂し、自ら序文を手がけている。
篆書の第一人者と言われた人で、唐代初頭の王羲之隆盛のとき、秦の李斯の後、廃れていた小篆の再興を志し、篆書に情熱を注ぎ、篆書を書道の一書体として復活させた。ケ石如など、その後の書家に多大な影響を与えた。
顔真卿の書碑には李陽冰の篆額が多いが、その外、諸家の碑に陽冰の篆額は少くない。李陽冰の篆書の刻石の伝わるものには、城隍廟碑、怡亭銘井序、李氏三墳記、栖先塋記、般若台記、謙卦、聴松、等がある。
1 城隍廟碑 (乾元2年(759)8月・宋宣和間重刻) 浙江縉雲
この碑は一に祈雨碑ともいう。唐の乾元2年、縉雲県令となり、七月雨ふらず、八月既望に至って、躬ら雨を神に祈り、神と約して曰く、「五日内に雨ふらずんばその廟を焚かん。」と。期に至って大雨あり、遂に西山の巓に徙してこれを祀った。
この碑はその事を記したものだが、宋代に碑は既に断欠して読めなくなった。今存するものは、宋の宣和5年(1123)、縉雲令呉延年が旧拓本を以って重刻したものである。
2 怡亭銘并序 (永泰元年5月・765) 湖北江夏
裴鷗が武昌(湖北省鄂州)に亭を建てた際の記念の銘文。李陽冰が怡亭と名付けて篆書で序を書き、杜甫の親友の裴虬が作った本文を李虬が隷書で書写した。
3 李氏三墳記 (大暦2年・767) 陝西西安 三墳記碑
同族の李曜卿ら兄弟三人を改葬した記念の刻石で、今の拓本ではあとの二人の名前がわからなくなっているか、集古録目によって叔卿・春卿であったことが知られる。そして、末弟の季卿が文を撰し、李陽冰に依頼して書丹せしめた。
碑は二面刻で、もと霸陵の李氏の墓域に建てられたものであるが、現在『西安碑林』に保存されている。
碑は中段で折れ、また上部が少し失われているが、字肌が非常によく保存されているため、重刻ではないかと疑う人もあるが、原刻のままである。
1949年、前陜西省歴博より西安碑林に移管された。
4 栖先塋記 (大暦2年・767) セン先塋記
塋とは墓のことで、碑文には、文学に優れ少壮にして仕官しましたが、天命を全うしないで没した李曜卿兄弟を、改めて葬った(塋=遷塋)ことが刻されている。最少弟の季卿が撰文し、季卿の甥の李陽冰が玉筋篆をもて書した。
この碑は原石已に佚し、今、存するのは宋の大中祥符3年(1010) 姚宗萼らの翻刻にかかるものであるが、それすらも剥げ落ち、碑頂は割れ落ち、碑も二つに割れている。1949年、前陜西省歴博より西安碑林に移管された。
5 般若台銘 (大暦7年・772)
この銘は南支方面に於ける最も珍らしいものである。
般若台銘とは、中国の唐代後期、李陽冰によってものされた福州烏石山の摩崖刻である。般若台記・般若台題記とも呼ばれる。現物は今も彫られた烏石山(烏山)の絶壁に存在する。
烏石山は山のあちこちに仏教寺院が建立されている信仰の山で、般若台もそのような寺院の一つであった。この般若台の周辺にかつて僧が訪れ、般若経を読誦したという伝説があった。これに基づき、著作郎・監察御史の李貢が大暦7年に般若台を建立。この時に記念としてすぐ近くの崖に刻まれたのが般若台銘である。
碑文は、最初の行は3字、最後の行は5字で、文字数は全部で24字となる。また1行目の下の部分には楷書で住持僧惠攝と刻まれている。
内容は「般若臺。大唐大暦七年。著作郎兼監察御史李貢造。李陽冰書」と寺院名と建立者の名前を記しただけの簡潔なものである。
少字数であるが、篆書による本格的な書道を創始した李陽冰の面目躍如の書である。
6 謙卦
この碑は書刻の年月が明らかでない。
7 聴松
石は江蘇無錫の恵山にある。楊守敬は、これを極推している。
瞿令問は唐書に伝はない。
陽華巖銘・晤台銘を始め、元次山の撰銘は大抵瞿令問の書すところであったが、今その多くは伝わらない。
1 陽華巖銘 元結撰 瞿令問正篆隷三体書 (永泰2年5月・766)
元次山銘を撰し、瞿令問に書かせたもので、湖南江華県(現在の江華瑤族自治区)にある。
『集古求真』に「瞿令問の三体書にして、大小篆と八分と、各自行を成せり。また元結の撰なり。巖は江華県にあり。瞿は江華の令たり。故に次山書を以って之に属せしなり。銘に序あり八分書。末行の年月はまた篆書なり。」とある。
2 晤台銘 (大暦2年6月・767)
元結撰、湖南祁陽(現在の湖南省永州市)にある。
この銘には書者の姓名がなく、或は瞿令問といい、或は季康であるともいう。
袁滋(749-818)は、字は徳深、陳郡汝南(現在の河南汝南)の人。書は、唐尚書省新修記・唐軒轅鋳鼎原銘があるが、今は、軒轅鋳鼎原銘を存するのみである。
3 軒轅黄帝鋳鼎厚銘 (貞元17年正月・801) 河南承郷 (第543図)虎州刻史王顔の撰、華州刺史袁滋の籀書。
畢沅『中州金石記』には、「碑は『広川書跋』に見ゆ。その字甚だ劣れりといい、碑中の異字を挙げてその誤を指摘し、唐書に、袁滋工籀書。雅有古法などいえるは、蓋し耳食者の言なり。」と評している。
1 顔真卿の家系
顔真卿(709-785)、姓は顔、名は真卿、字は清臣。顔昭甫の子である惟貞の第六男。母親は殷践猷の妹で、幼名は羨門子、字は清臣、別に応方と号した。歴官して魯国公に封ぜられ、よって世に顔魯公と称する。京兆長安の人。幼いころに父親を亡くし、特に母と伯母の真定(昭甫の娘)の手で養育された。
中国史でも屈指の忠臣とされ、また唐代随一の学者・芸術家としても知られる。
顔氏は、琅邪郡臨沂県を本貫とする名家であり、六朝時代以来、多くの学者を輩出した。『顔氏家訓』の著者である顔之推の末裔で、『漢書』注の著者である顔師古は孫にあたる。
顔氏一族は、経書の一つである『周礼』と『春秋左氏伝』を家学とし、また『漢書』の学でも知られ、特に訓詁の方法を用いて古典の研究を行ってきた。そこで世に学家と称された。また、祖の之推の祖父の顔見遠、兄の顔之儀ら、節義をもって知られる人物が多いことでも知られる。
2 安祿山の叛
顔真卿が平原太守に移ったのは、安禄山がまさに反乱の意志を固めつつある頃であった。真卿は、安禄山の不穏な動きを見て、城壁の修理や濠の整備、食糧の準備などをひそかに行っていた。
天宝14載(755)、安史の乱が勃発し、安禄山は洛陽を目指して挙兵した。その頃、常山郡太守を務めていたのは族兄の顔杲卿(真卿の伯父の元孫の第二子)であり、真卿は彼とともに安禄山に反抗する決意を固め、義兵を挙げた。河北や山東の各地が安禄山の勢力下に帰属する中にあって、真卿・杲卿が味方として軍を挙げたことに玄宗は驚喜したという。
天宝15載(756)、常山郡は落城し、顔杲卿は安禄山によって惨殺された。一方顔真卿は、清河郡(河北省清河県)の李㟧と結び、魏郡を占領していた安禄山の軍を撤退させることに成功した。しかし、河北の戦局はしだいに不利に傾き、史思明の攻撃によって平原・清河・博平(山東省聊城市)以外の郡は陥落した。顔真卿はこのまま座視しても敗北するだけであると考え、平原城を捨て、当時霊武に避難中であった粛宗のもとへと向かった。
至徳2載(757)、顔真卿はようやく粛宗のもとにたどり着き(粛宗は更に鳳翔へと移動していた)、謁見が叶った。真卿は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫として職務に当たった。この頃、安禄山が息子の安慶緒に殺され、同年に粛宗は長安に帰り、顔真卿もこれに従って長安に戻った。
3 顔真卿の歴官
開元22年(734)、26歳にして進士に及第した。その2年後、科挙及第者を対象に吏部が主催する任用試験に合格し、秘書省の校書郎に任命された。ここでは典籍の校訂を職務とした。さらに、天宝元年(742)、34歳のときに文詞秀逸科の試験に合格する。これにより、京兆府醴泉県(陝西省礼泉県)の県尉となった。その後、長安県の県尉に移り、やがて真卿は監察御史に昇進し、再三にわたって地方の査察を命じられる。たびたび不正の弾劾を行い、殿中侍御史に昇進するが、これによって吉温と対立し、彼と繋がりのあった権臣の楊国忠に疎んじられ、東都畿採訪使の次官に転出させられる。しかし、再び殿中侍御史に任命されると、天宝9載(750)には玄宗御製の書を下賜される栄誉を受けた。
4 顔真卿の大節
しかし、直言を憚らない顔真卿は再び煙たがられ、蒲州刺史・饒州刺史・昇州刺史など地方を転々と異動することとなった。「祭姪文稿」「争座位帖」などはこのころ作られた作品である。その後、一時期中央に復帰したが、永泰2年(766)にz州の別籠の職になるなど、再び地方を転々とした。
大暦3年(768)からは撫州刺史を務め、この頃に「麻姑仙壇記」「魏夫人仙壇碑」「華姑仙壇碑」など道教ゆかりの作品を多く残した。大暦7年(772)からは湖州刺史を務める。
大暦12年(777)、69歳の時、湖州を離れて長安に戻り、吏部尚書となった。顔真卿は、朝廷の儀礼の再整備を行い、『礼儀集』を著した。しかし、宰相の盧杞(盧奕の子)は真卿を極度に嫌い、反乱を起こした淮南西道節度使李希烈を説諭する特使に任じた。顔真卿は周囲に行かないように説得されたが、皇帝の命であるとしてこれに応じ、向かった先で李希烈に捕らえられた。
李希烈は真卿を利用しようと試みたが、真卿の唐王朝への忠誠心は不変であった。真卿は蔡州の龍興寺に身元を移され、「蔡州帖」を著すと、殺された。貞元元年(785)8月3日、真卿は77歳であった。
以上がその経歴の大要であり、これを見ても顔真卿の如何の人物たるかが知られる如く、いかにも誠忠無比の人であった。即ちその書が後世に尊貴される所以の原囚が、こうした点に存し、唯、その書の技巧のみでないことが窺われるのである。
顔真卿はその人物が既に尋常でなく、天下のあまねく景仰するところであったのみならず、学問がすぐれ、且つ書道の大家でもあり、且つ書刻を好み、官地に赴くにも到るところ佳石を載せ随えたといわれる程であるから、その書碑は天下にあまねく、その数は恐らく今日知られているよりは遙に多くのものがあったであろう。
『宝刻類編』に載せたものに、周醴泉令張仁蘊徳政碑・贈工部尚書減懐恪碑・殷履直夫人顔氏碑・河南府参軍郭揆碑・西京千福寺多宝塔感応碑・工部尚書郭虚己碑・東方先生画賛・画賛碑陰記・祭婬文・祭伯文・刻逍遙楼詩請御書碑額表・華岳廟題名・鮮于氏離堆記・贈太保郭敬之廟・顔允南父母贈告二・贈太常卿韋鎮神道碑・夫人碑・東林題名・贈華州刺史顔顕甫碑・贈太子少保鮮于仲通摩崖碑・鮮于氏神道碑・靖居寺題名・富平尉顔喬卿墓碣・立晉紫虚元君南岳魏夫人仙壇記・麗正殿学士殷践猷墓碣・大斌令殷摂碑・国子司業顔□□碑・麻姑仙壇記・小字麻姑仙壇記・大唐中興頌・立晉顔含大宗碑・律蔵院戒壇碑・項王碑陰述・右丞相宋環碑・八関斎会記・干祿字書・放生池碑・乞御書放生池碑額表・乞御書放生池碑額表碑陰記・贈李太保顔杲卿碑・商州刺史欧陽堆碑・射堂記・玄靖先生後碑・太保昭武公李抱玉碑・梓州刺史杜済碑・台州刺史康希銑碑・懐円寂上人詩・贈司徒馬璘新廟碑・顔魯公残碑・容州都督元結碑・顔公神道碑・粛宗女和政公主墓誌・尚書大丞相韋m碑・薛王友顔惟貞家廟碑・明州刺史王密徳政碑・元魯山墓碣・華陰□節度馬公碑・濠州刺史顔元孫碑・工部尚書郭福善碑・蔡明遠帖・与李夫人乞米帖・鹿脯帖・寒食帖・馬伏波帖・二十二字・薦福寺碑・雁塔題名・送劉太沖序・贈和州刺史張敬因碑・上定襄郡王郭知運坐位帖・撫州刺史杜済墓誌・夔州都督府長史顔勤礼碑・興唐寺大慧禅師元偘師碑・扶風郡王君璘碑・臧民糾宗碑・清遠道士詩・湖州石記・顔処士残碑・崇仁令元子哲遺愛碑・離堆山鮮于氏読書記・開元寺僧残碑・十五代祖汝陰太守黙碑・与盧八帖・華厳寺鑒法師碑・千金陂碑・穎川残碑・県残碑・大字慈竹詩・宝応殿記・江陰少尹顔臧碑
『輿地碑目』には、この外に、晉謝太傅塘碑・横山廟碑広徳・謝康楽翻経台記・張景倩清徳碑・宝盖山記・祖亭碑
『寰宇訪碑録』には、更に宋以後に発見したものとして、謁金天王神祠題記・孔子廟残碑・逍遙楼三大字・青原山祖開二大字・茅山玄静先生李君碑・宋環碑側記、
又真蹟の伝えられているものも少なくない。
米芾の『宝章待訪録』には、送辛子序・乞米帖・頓首夫人・郭定襄争坐位第一帖・祭叔濠州使君文・疎拙帖・与李大夫奏事張淑二帖・嶺南刺史綾告真蹟・寒食帖
『清河書画舫』には、自書吏部爾書誥・瀛州帖巻・祭姪季明文稿・送裴将軍北伐詩
『式古堂書画彙攷』には、『清河書画舫』の四つの外、更に鹿脯帖・争坐位稿・与李君帖・祭伯父濠州刺史文稿
『大観録』には自書吏部尚書誥巻、朱巨川告身巻、祭姪季明文稿巻、瀛州帖巻
『諸家蔵書簿』に、宋・元・明・清の諸家に逓蔵されたものに、顔魯公自書誥・頓首夫人帖・顔光祿帖・劉中使帖・湖州帖・展叙帖・魯公鹿脯帖・魯公江外帖
法帖に刻されたものに至ってはその数は頗る多く、中には顔真卿の書のみを刻した忠義堂帖(第583-609図)の如きものもあり、これは宋の嘉定間(1208-1224)に刻されたものであるが、今、完本は見がたい。現在往々見る忠義堂帖は何時何人が刻したものか明らかでない。またその内容や順序は刻本によって必ずしも同一でないが、大要は次の如きものである。
大字麻姑仙壇記・送裴将軍北伐詩・天下放生池碑銘・送劉太沖序・奉命帖・蔡明遠帖・鄒游帖・与夫人帖・華厳帖・文殊帖・広平帖・中夏帖・乞米帖・鹿脯帖・峡州帖・寒食帖・八倉曹帖・乍奉辞帖・朝廻帖・捧袂帖・修書帖・守政帖・鹿脯後帖・一行帖・訊後帖・書馬伏波語帖・移蔡帖争坐位稿
また別本に、裴将軍詩・送劉太沖序・郷史帖・南李帖・江外帖・朝廻帖・乞米帖・鹿脯帖・峡州帖・捧袂帖・文殊帖・与夫人帖・華厳帖・鹿脯後帖・守政帖・広平帖・中夏帖・訊後帖・草篆帖・送書帖というような内容や順序のものもある。
更に清の光緒13年(1887)長洲の呉念椿が集次したものに後忠義堂顔書というのがあり、全部で4冊となっているが、内容は前記のうちのいずれかに属し、新らしいものはない。
顔真卿の書学については、郵子経の『衍極書法伝流』の図に、李陽冰も、徐浩も、顔真卿も同じく張旭の門人であったとある。張長史筆法十二意は、顔真卿が張旭を西安に訪ねて授かったものである。
張長史筆法十二意は、顔真卿が張旭の説(『観鍾繇書法十二意』)を聞いてこれを筆記したもの。張長史とは張旭の別称で、彼が左率府の長史になったことによる。
張長史筆法十二意は、古今の書道の異同を分析して鍾繇の「筆法十二意」に対して詳しく説明して一つ一つ論証した。その説の平、直、均、密、鋒、力、転軽、決、補、損、巧、称の十二意は、梁の武帝の観鍾縣書法十二意にも既に説いてあることであり、宋の朱熹の如きも、この法は張旭に始ったものではなく、古来伝っていたものを偶々張旭が得て魯公に伝えたものであろうといっている。
顔真卿はその指授に因って書学を大成するに至った端緒を得たと見るべきであろう。
顔真卿の書については、古来これを評論するものが少なくないが、これを一般的な評価と、各書蹟についての評論との二種に分かれる。
歴代の評書家は皆、顔魯公の書の特異の風格に論及し、その楷書は従来の諸家が八分の筆意を以ってするに異なり、全く篆書の筆意を以って書き出したものとして、その雍容迫らざる襟度の大と、その書法の妙を賞しているが、中には反対にこれを以って俗書と為し、漢・魏以来の遺法蕩然として地を掃えりと評するものもある。
1 多宝塔碑 正書 (天宝11載8月・752) 多宝塔感応碑
この碑は陜西長安にあり、顔書としての最先のものであるが、この碑を書いた天宝11載は魯公の年44歳である。
この碑の書に対する批評は区々であるが、後年の顔書の趣は全く見られず、寧ろ欧・虞に近いところがあり、楷書の手本に適するところから、中国では専ら少年の学書に供せられているという。わが国にもこの碑の拓本は早くから伝わったものと思われ、明治前期の書家の長三洲の如きは専らこの碑の書を学び、その門人の日高秩父、山口半峰など、皆この碑の書風をよくした。
2 東方朔画像賛 正書 (天宝13載12月・754)
東方朔画賛は、漢の武帝に仕えた東方朔という人物の画に、西晋の夏侯湛が賛文を加えたもので、古来、東方朔画賛を書いた書跡としては王羲之の細楷と、この顔真卿が45歳の時に書いた大字の楷書との二つが有名。
全称『漢太中大夫東方先生画賛碑』。晋夏侯湛文、顔真卿楷書、碑陽額はその篆書である。碑陰記は顔真卿が文章を書いて楷書し、額はその隷書である。四面に彫る碑陽、碑陰各15行、碑側各3行、行30字。碑は山東陵県にあるが、既に原刻ではないといわれ、原石旧拓本の伝わるものもあり、またそれからのコロタイプの複製本もあることであるから、それについて学んだがよい。この碑帖もまた旧く徳川時代からわが国に舶載したものと思われる。この碑には和刻本や、木刻本もあるが、それらは俗悪で見るに足るものがない。
3 麻姑仙壇記 大字本 正書 (大暦6年4月・771)
麻姑仙壇記には大字本、中字本、小字本の三種があるが、その著名なのは大字本である。その大字本も原石は久しく佚し、唯、装本を伝えるのみで他は皆翻刻本である。
4 麻姑仙壇記 小字本
この小字本については何子貞が八項にわたって述べている。さすがに最も詳細を極め委曲をつくすものがあり、書に老いたる人の言であるだけ耳を傾くべきものが多い。
7 顔氏家廟碑 正書 (建中元年7月・780) 顔氏家廟碑
この碑は四面刻で、碑表、碑陰ともに各24行、行47字。両側は各6行、行52字で両側の文字は稍、小である。書風は麻姑仙壇記に似、魯公の楷書の標準的な形のものであり、顔碑の多くが剥落又は磨滅しているのと異なり、この碑のみ独り今に至るも甚だしい剥渤がなく、魯公の書の最も完全なるもので、公の自書の建中告身の真蹟本などと併せ見たならば得るところが少なくあるまい。原拓も多く伝わっている。
8 八関斎会報徳記 正書 (大暦7年・772)
これは碑ではなく石柱と称せられるもので八角形の石の柱に八面に各5行、28字の文字を刻してある。
王世貞は、その書の妙を賞しながらも世俗の仏に諂うのを慨しているが、このような文を魯公が何故に書いたものであろうか。この石柱はその後排仏のことがあって撃破され、後に崔倬なる人がこれを補刻したともいうが、孫退谷は曾って親しく碑下に至りその石の筒、完好したのを見たが、後30年、拓本を得たるに已に下段は尽く渤していたといっている。しかし今日も爾、旧拓本の伝わるものがあり、その書は顔氏家廟碑などと全く同じである。
9 宋環碑 正書 (大暦7年9月・772)
宋文貞公碑ともいう。
この碑の書は魯公の他の書、即ち顔氏家廟碑や麻姑仙壇記等にくらべると、その形も多少異なり、又その線も細痩であり、褚遂良の伊闕仏寵記を見る如き感じもなくはない。筆あたりが軽く、他碑の如き荘重さがなく、書品も決して高いとはいえないが、何故か翁覃谿などもこれを推して顔書第一であるといい、これを唐碑選の中に列している。
10 玄靖先生李含光碑 正書 (大暦12年5月・777)
この李含光は陶隠居の子孫である。碑は四面刻で、碑陽、碑陰ともに各19行。両側は各4行。1行はいずれも39字である。この碑の書は結体家廟と同じく遒勁欝淳、柳公権の書の鼻祖であるといわれる。碑は宋時、風に吹倒されて折れ、明時、再び雷火に裂けて20余片となったが、乾隆中(1736-1795)、注志伊なる人が蒐集して23片を得たが、なおその時、全半字あわせて1040十字を得たという。その後、咸豊の兵乱に破砕散失し、ただ15片、197字を存し、後3小石を失去し、又2石を訪得し、あわせて279字を存しているという。今、茅山に覆刻本があり、姚東樵が又一本を刻したが舛訛が多いといわれる。蘭亭叙の定武本の収蔵家として知られた汪容甫は断後の宋拓本を蔵していたが、これは僅かに30余字を損しただけであったという。臨川の収蔵家の李氏には未断本を蔵しこれは僅かに数字を欠くのみであり、この拓本は上海に於いて石印されたものがある。
11 中興頌 正書 (大暦6年6月・771)
これは摩崖に刻したもので碑ではない。魯公の書の中では最も大字である。原石は湖南祁県にあるが、蜀の資州の東北の二巖にも各1本が刻され、又鶴鳴山と銅梁の江上にも刻されているという。
12 容州都督元結表墓碑 正書 (大暦□年10月)
元次山墓表碑銘ともいう。四面に環刻してある。年月は渤しているけれども銭竹汀は大暦7年(772)の後にありといい、また10年11月(775)であるともいう。石印本がある。
13 祭姪稿 行草書 (乾元元年9月・758)
安史の乱で非業の死を遂げた顔杲卿・顔季明ら一族、中でも姪である顔季明を追悼するため記された弔文の原稿。
稿の字が示すとおり弔文の原稿であり、塗りつぶしや修正などの跡が見られるが、国家に忠義を尽くした顔真卿が一族を哀悼する気持ちをも露わに記した書は中華史上屈指の名書とされ、歴代の皇帝が至宝として蔵した。
現在は台北の国立故宮博物院に所蔵されている。
15 与蔡明遠帖 行書 (乾元2年・759)
文意を案ずるに、この帖は蔡明遠に与えたものでなく、鄒游に伝言を委嘱するものの如くである。
16 送劉太沖序 行書真蹟 (韓元2年・759)
『宣和書譜』に見ゆ。刻本があって世に伝わっている。年月はないけれども、『竹雲題跋』によれば乾元2年(759)であろうという。
17 乞御書天下放生池碑額表批答碑 正書 (上元元年7月・760)
この碑は湖州(現在の浙江省呉興県)にあるという。
18 鮮于氏離堆記 正書 (宝応元年4月・762)
『輿地記勝』には蓬州(現在の四川省蓬安県)にあるという。
今その石は砕けて残石五段となり、すべて47字、半字7を存すという。
19 争坐位稿 行草書 (広徳2年11月・764) 争座位文稿
郭僕射に与えたもので、魯公の三稿の一であり、三稿ともにその書は酷似している。
20 臧懐恪碑 正書 (広徳元年10月・763)
陜西省三原にある。
21 郭家廟碑 正書 (広徳2年11月・764) 郭氏家廟碑
正しくは贈太保敬之家廟碑という。粛宗の八分書の題額がある。
22 放生池碑銘 正書 (大暦8年・773)
碑は浙江省呉興県にあり、『金石録』・『宝刻叢編』には大暦9年(774)正月立とあるが、碑陰には、大暦8年7月の追建となっている。
22 贈太子保顔呆卿碑 正書 (大暦9年・774)
この碑の文は魯公の文集に見えないが、『宝刻叢編』によれば、もと外姪廬佐元の書したものであったが、大暦9年に魯公が重書してこれを建てたとある。この碑はその後折壊し、元和元年(806)魯公の孫の証が重立したという。
26 顔勤礼碑 正書 (大暦14年・779) 顔勤礼碑
この碑の文は文集に収めていない。碑は陜西省長安にある。
25 自書告身 正書 (建中元年8月・780)
建中告身とも、自書太子太師告身ともいう。その真蹟が清の宮室に伝わり、今、中村不折翁の書道博物館の収蔵に帰している。この書は各集帖にも刻され、また真蹟本から転印されたものも少なくない。
顔法の用筆法を研究するには是非とも一見せねばならないものである。
唐も元和以後(806)は沈伝師、柳公権など現われたが、最早その書は降下の一方で、また初盛唐の如ぎ趣は見られなかった。
沈伝師の遺蹟は多く伝わらず、今日では羅池廟碑の孤拓本(第456図)を見るのみであるが、書風雍容にして温雅遒潤、結体は時風に近きも、書品は、はるかに柳公権の上にある。
柳公権(778-865)は、字は誠懸。宮至太子少師、故世は「柳少師」と呼ばれた。京兆府華原県(現在の陝西省銅川市耀州区)の出身。本貫は河東郡解県。家系は河東の名族の柳氏の一派に属し、父の柳子温は丹州刺史、兄の柳公綽は河東節度使を経て兵部尚書に至り、端厳な楷書を書く能書家でもあった。柳道茂(柳敏の従祖弟)の末裔にあたる。
独自の柳体を創り、後世の百代の模範となる。柳公権は書名の高かったにも拘らず、その書碑の伝わるものはまことに少ない。
1 金剛経 (長慶4年4月・824)
金剛般若波羅蜜経、金剛般若経とも呼ばれる。この石刻は宋時既に毀し、宋人はその名を聞くのみで、これを見たものがなかったが、1908年に発見された敦煌文献の一つで、今はその影印本が見られる。款記に「長慶四年四月六日、柳公権が右街僧録の霊準のために書き、邵建和が刻した」とあることから公権の書と考えられている。原拓本は今、パリの図書館に蔵されている。
現存する最古の拓本は、温泉銘・化度寺碑とこの金剛般若波羅蜜経の唐拓3種であり、極めて貴重である。
2 西平郡王李晟碑 (太和3年4月・829)
この碑は既に明時にあって漫滅したところが多かったと思われる。近拓に至っては石花満布しているが、注意して読めば読めないことはない。唯、その書は筆法拘窘、殆んど挺抜の意がない。恐らく後人が旧石を磨して重剣し、真を失したものであろう。
3 大達法師玄秘塔碑 (会昌元年12月・841) 玄秘塔碑
大達法師玄秘塔碑・和尚碑とも言う。裴休撰、柳公権書並篆額。大達法師端甫(770〜836)の埋骨塔の由来を記す。
この碑は原石か否かはわからないが、その拓本には文字の完好なものが多く伝わっている。
鋭い直線的な筆致で、横画と縦画の太さを変え、美しさと力強さを兼ね備えている。柳公権64歳、その書風の完成期の代表作である。
1949年、前陜西省歴博より移存、陝西省博物館(西安碑林)に保管されている。
4 沂州普照寺碑 (皇統4年10月・1144)
これは金に於いて柳公権の書を集字したものだが、集字ではあるが出来がよく、集書第一といっている。
楷書は六朝より隋を経、初唐に至り欧・虞を以って最と為し、その後、漸く逓下してまた振わず、開元、天宝の際、顔真卿が出るに及び、やや異色ある書風を見せたが、その後はまた降下の一途を辿り、以って五代、宋世を迎えた。
唐朝の滅亡につぐ中国には再び分裂と内乱とが起り、約半世紀にわたって国内には多くの小国が割拠して興亡常なき時代が続いた。しかもその或ものは、非中国系の君主の支配するところとなった。この唐の滅亡(907)と宋朝の創設(960)との中間の時期に於いて五つの国が相ついで興亡し、そこで帝位の継承が行なわれたと考えられ、一般にこれを五代といっている。
その五つの国とは、梁・唐・晉・漢・周で、史家はその国名の上に後の字をつけて呼んでいる。
後梁は朱全忠が唐を奪って帝位に即いた国で、初めは汴に都し、後に洛陽に徙った。その領土は今の河南全省及び湖北の中部、陜西の北部にわたり、伝えて滇に至り、後唐の滅すところとなった。
後唐は李克用が黄巣を討平した功によって晉王に封ぜられ、子の存劼が襲爵し、後梁を滅して帝位についた。洛陽に都し、河南・山東・山西・河北・陜西・甘粛・湖北・四川の諸省及び安徽省の北部を領有し、伝えて廃帝従珂に至って後晉の滅すところとなった。
後晉は石敬塘が契丹の兵を率いて後唐を滅して建てた国で、契丹を立てて帝とした。汴に都し、河南・山東・陜西・甘粛の四省及び安徽省の北部、河北・山西の南部を領有したが、後に契丹の滅すところとなった。
後漢は劉知遠が後晉に代って自立した国で、汴に都したが、後周の滅すところとなった。
後周は郭威が後漢に代って帝となった国で、河南・山東・陜西・甘粛・湖北の諸省及び河北の南部、安徽の北部を領有したが、威は帝位を柴后の姪、柴栄に伝えた。これを世宗といい、世宗の子の恭帝(宗訓)に至って位を宋に譲り、両姓三世、三主、九年にして亡びた。
この五代の間は、いずれも小国で、興亡常なぎ貧弱国家であったが、その都城としたところが中国の歴史の多くを通じて帝国の首都であり、中国文化の伝統的な故郷である中原の地であったから、史家によってその価値以上に評価されているが、その支配した領土は狭く、国力も極めて貧弱であったから、中国の他の地方の豪族にはその権威は認められず、これと時を同じくして他の地方には尚多くの豪族が割拠し、その中のあるものは自ら帝或は王と号し、その国土を子孫に伝え、その国祚は却って五代諸国よりは長きに及んだものもあり、その数、前後十国に及んだ。
十国の興亡についていえば、
呉は楊行密が淮南に拠り、江西の地を兼有した国で、三伝して楊溥に至り、徐知誥が奪い取った。
前蜀は始祖王建が唐の僖宗(874-888)のとき四川の節度使となって蜀の地を支配し、後に蜀王に封ぜられ、また帝を称した。四川全省及び甘粛省の南部、陜西省の西南部、湖北省の西部の地を領右し、伝えて子の衍に至り、後唐の滅すところとなった。
南漢は始祖の劉隠が唐の昭宣帝(904-906)のとき、清海節度使となり、梁の太祖(907-912)のとき南海王に進封された。隠が卒し、弟の韻が嗣立し、帝を称し、国を越といい、後改めて漢(南漢)といった。今の広東全省及び広西省の南部、福建省の南隅の地を領し、伝えて銀に至り、宋の滅すところとなった。
閩は唐末、王潮が武威軍節度使となり、潮が卒し、その子の審知がその職を継ぎ、閲王に封ぜられ、今の福建全省の南隅の一小部分を除くの外、これを領有し、伝えて子の延政に至り、号を股と改め、南唐に降った。
呉越は始祖銭鏐が唐の昭宗(889-903)のとき鎮海節度使となり、後梁の太祖が封じて呉越王としたが、尋で自ら称して呉越国王といい、今の浙江全省及び江蘇省の西南部、福建省の東北部の地を領し、伝えてその孫の俶に至り、その地を宋に献じ、国除かれた。
楚は馬殷が長沙に拠って建てた国で、今の湖南全省及び広西省の東部の地を領し、後に南唐の滅すところとなった。
南平は一に荊南とも称する。始祖高季興、初め後梁に仕え、荊南節度使となり、後唐の荘宗(923-925)のとぎ封ぜられて南平王となり、今の湖北省の江陵、公安、監利、松滋の諸県を有し、後晉・後漢・後周を歴、伝えて継沖に至り、宋の併合するところとなった。
後蜀は始祖孟知祥が後唐の荘宗のとき剣南、西川節度副使となり、明宗(926-933)のとき蜀王に封せられ、関帝(934)の時に帝を称し、国号を蜀といった。今の四川省及び陜西省南部の地を領有した。知祥卒し、子の拠が立ち、宋の併するところとなった。
南唐は始祖の李昇(即ち徐知誥)が呉の禅をうけ帝を金陵に称し、国を斉といい、尋で改めて唐といった。その疆土は後晉の時にあって今の江西全省及び江蘇、安徽の二省の境内、淮水以南の地を有し、後周に至って南、王閲を滅し、今の福建省の地を併有し、伝えて孫の焜に至って宋の滅すところとなった。
北漢は後漢の隠帝が害に遇い、劉旻が漢を継ぎ、帝を晉陽に称し忻代蔚沁等の諸州を併有し、伝えて孫の継元に至り宋の滅すところとなった。
此の如く五代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)、十国(前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢)は小国が四方に分立割拠して干戈不安の間にあったが、文芸や美術は各地に根を張り或は成長していた。
山水画に於ける荊浩・関仝、書に於ける楊凝式、道釈に於ける禅月大師貫休、花鳥画に於ける徐熙・黄荃、篆文に於ける郭忠恕・徐鉉・徐錯、いずれも唐をうけて宋をひらいた著名の人々である。
楊凝式は後周の渉の子で、官、太子太保に至った。文詞を善くし狂草を工にした。洛下に居ること10年、凡そ琳宮、仏祠の墻壁の間、題記殆んどくまなしといわれた。五代随一の大家で、宋代の書家は多くその影響を受けたと称せられるも、その作品は多く伝わらず、唯、韮花帖・歩虚詞・廬鴻草堂図跋等を見るに過ぎず、草書には夏熱帖・神仙起居帖があるのみである。
郭忠恕は洛陽の人、字は恕先。河南府洛陽県の出身。尤も篆籀を善くしたので知られ、後周の広順中(951-953)召されて朝散大夫宗正丞兼国子書学博士となった。風景・建造物の絵で著名。文字学を研究する一方、新たな画風を開いた。
徐鉉は字を鼎臣といい、揚州広陵の人。政治家・学者・書家。字は鼎臣。
弟の徐鍇とともに篆書によく通じて二徐と並び評され、弟に対し大徐と呼ばれた。篆書を中心とした後漢代の漢字字典『説文解字』の校訂者として知られる。
二徐の外、南唐に於いて篆書を工にしたものに王文秉があり小篆を工にし、自ら王逸老と号した。
徐煕はまた花果を善くし、神韻生動を以って称せられ、前蜀・後蜀の黄筌とともに花鳥画の二大流派の徐氏体を創始した。
蜀は西南に僻処して戦禍を受けることなく、且、国富み、社会も安定していたから、その主の王建・孟昶前後ともに意を文教に致し、自らまた書画を愛好し、翰林院に待詔を設け、供奉、祗侯等の官職を置き、書画を奨励した。著名な花鳥の大家黄荃の如きも、前蜀に仕えて翰林待詔となった人である。蜀にはまた石経の刻があり、その刻経は刻した年号によって広政石経といい、また朝名によって孟蜀石経、後蜀石経ともいい、またその所在の地名によって成都石経、益都石経とも呼ばれる。この石経は漢の熹平石経、魏の正始石経、唐の開成石経につぐ大規模のもので、孝経・論語・爾雅・周易・筒書・周礼・毛詩・儀礼・礼記・春秋左氏伝に及び、各々その書者(張徳釧・孫逢吉・張紹文・周徳貞・孫朋吉の五人)及び刻者の名を署している。
この石経は南宋の初めまで爾完好で、成都の府学の石経堂に保護されていたといわれる。
この外、五代には雕板も相当に行なわれたらしく、後唐は蜀を平らげ、明帝、太学博士李鍔(玉海作鶚)に命じ、五経を書し、その製作に倣い板に国子監に刊した。李鶚もまた当時の名家で、五代のとき揮翰を以って名を当世に馳せた。
その他、呉越は東南、山水佳麗の地に偏処し、比較的平和を保ち、文芸も栄え、その国主の武粛王銭穆、忠懿王銭俶ともに狂草体の書をよくした。彼等の得意とした書は、その遺墨についてこれを見るに、いずれも懐素風の狂草で、武粛王の子の銭伝瑛・銭弘儀、皆、草書を工にし、銭氏の一門は宋初の銭惟治・銭易・銭昆・銭旻など、皆、草書を以って称された。