第3巻 第18章-4 藤原楚水著 省心書房1 李懐琳と孫過庭
盛唐の名家はその大部分が行書の専家であった。草書はわずかに則天の昇仙太子碑あり、その後はこれを継げるものなく、張旭の如き草書の専家すら、郎官石記を書するに楷書を用いた。故にこの時代の石刻には草書が殆んど無い。墨迹の今に伝わるものは、僅かに初唐に李懐琳、孫過庭があり、盛唐以後に至って張旭、賀知章、懐素の諸人があるに過ぎない。
李懐琳(生没年不詳)は、洛陽の人、字は不明。太宗のとき文林館待詔となった。
草書をよくし、古人の書の偽跡を多く作ったといわれている。太宗に『大急就』という写本を進上したことがあるが、これも彼が王羲之の書として偽作したものという。
李懐琳の書として尤も著名なのは絶交書である。
1 絶交書
竹林の七賢の一人として有名な嵆康が山巨源に送った与山巨源絶交書を李懐琳が臨書したもの。これも嵆康の名をかたって作った偽作で、模写本が伝えられ複製本が出版されているが、模写本の現在の所在は不明である。
この書は用筆王右軍に近く、羲之の書を学ぶのにはよい参考資料たるを失なわない。絶交書の刻本は停雲館帖の外に単行のものもあり、或は有正書局から雙鉤廓填の石印本が出版されている。
孫過庭(生没年不詳)は唐の垂拱の時の人、名は虔礼、過庭は字である。述書譜に富陽の人で、官は率府参軍録事に至ったとあるが、比較的低い官位にあったというだけで、ほとんど分かっていない。
好古博雅、文辞を工にし、翰墨を好み、最も草書を善くした。今その書の伝わるものに書譜・千字文・景福殿賦等があるが、書譜は最も著名。但その草書は王羲之に比すれば変化に乏しく沈着雄厚の趣を欠けりとの評もある。
2 書譜
古来著名の劇蹟で、宋以後、華勒上石して多く草書の手本に供された。
書譜の墨蹟は、宋の時、宣和の御府に藏せられていたことは確かで、現在の墨蹟本にも政和・宣和の二璽を存し、かつ、題籖の「唐孫過庭書譜序」の七字は徽宗皇帝の書と伝えられる。この墨蹟もおそらく宋朝が南渡の際に民間に流出したものであろう。
宋刻本としては、元祐2年(1087)に河東の薛紹彭によって摸刻されたいわゆる薛氏本(元柘本)が名高い。現在の墨蹟本ではすでに残缺してしまった部分がすべて完全である。
同じく宋刻本に大観太清楼本がある。大観3年(1109)に、徽宗皇帝が祕閣に蔵する墨蹟で未だ摹刻しないものを選んで刊石したもので、その中に書譜も收められたという。しかし、この太清楼法帖は完本が伝わらず、先年、上海の有正書局から石印にして出された劉鐵雲の跋のある太清楼本書譜と稱するものは、薛氏本の一別本とみられる。
書道博物館所藏の明の顧從義旧藏本は、一字の剥渤もないものであるが、刻法がぎこちなく、石刻というより木刻ではないかと疑われるもので、これもまた一種の別刻本であろう。
明代の刻本では、文徴明が停雲館帖に刻入した停雲館本が注目されなければならない。この本は前半「折其枝派。貴使文」までを薛氏本からとり、後牛「約理」以下を墨蹟本によって摹刻している。当時すでに墨蹟本は前牛と後牛とに分卷されていたことが知られる。
清代に入って、康煕年間に、朝鮮出身の安麓村が梁蕉林の許から墨蹟本を得て、呉門の顧嘉頴をして摹刻させたものが、すなわち天津本(安麓村本)である。安氏はまた陳香泉に囑して釋文(陳氏手書)を作り、これをも上石した。これは刻手に善なるものを得たので、その刻は精妙を極めている。
書譜の墨蹟は、やがて安氏から清朝内府に献上され、それによって刻されたものが三希堂本である。
この書譜の墨蹟本がわが国に紹介されたのは大正の末年で、北京の延光室からコロタイプ複製が出され、鮮明な焼付写真がもたらされた。書譜の墨蹟本が紹介されたとはいえ、書家の間では依然として刻本、ことに薛氏本がもてはやされていたが、松本芳翠先生は河井筌廬翁から借覧した墨蹟本の焼付写真を研究する間に、「書譜中に散見する、字画の節勢が、料紙の折目に起因するものである」という節筆説(seppitu.pdf)を発表された。この説により墨蹟本がすべての刻本の原本であることが立証された。同時に、随所に見える塗抹改竄のあとから、墨蹟本が疑いもなく過庭の真蹟か疑問であるとされた。
谷村憙齋先生も「書譜が草稿であるにせよ、その随所に見える塗抹改竄のあとを仔細に檢討すると、筆写の際の重複、もしくは腕落した文字を抹淌または補足したものに過ぎず、その文を推敲し改竄したあとは殆んどないといえる。中には非常にかけ離れた箇所の文句を誤って書いたところなど、自撰の文章を筆写したものと考えるには甚だ躊躇せずにはおられぬものがある。」とされている。
私見
芳翠先生は「書譜はその料紙に約八分の間隔を取った折目をつけて揮毫したもので、最初は行儀よく折目と折目の間に揮毫した。」とされましたが、唐で用いられていた尺の物差し唐小尺(東京国立博物館蔵)は、長さ24.3p
幅1.5p 厚さ0.25pで、10等分されています。先生の指摘された約八分(2.4p)の間隔と一致します。
唐小尺(東京国立博物館蔵) |
あるいは、「小尺に基づき、トースターの金網のような下敷きを使用したのでは?」と考え、半紙の下に竹串を置いて臨書してみました。
因みに、唐当時の通貨『開元通宝』の直径も2.4pです。
3 千字文
孫過庭の千字文は嘗って宋の宣和の御府に蔵ぜられた。垂拱2年(686)の書で、餘清齋法帖と墨妙軒法帖に収録されている。
餘清齋法帖本この本ははじめに千字文と題し、本文は九十八行あり、律呂の呂字を欠いている。款記に「垂拱二年寫記過庭」とある。
この草書は隋の智永の眞草千字文の草書に照合すると、よくその草体と筆意を承けていることがわかる。
孫氏の草書が王書から出ていが、書譜の草書は比較的軽捷に書かれて変化に富んでいて、藏鋒という点ではこの本と趣を異にしている。
孫過庭の書した千字文としてはなお疑問の点はあるが、唐代の書としても差し支えはなく、どちらかといえばこの本を取るべきであろうと思われる。
墨妙軒法帖のものは、刻本であるせいもあろうが、筆致には精彩がなく、あるいは眞蹟を臨模したものに依つたのではなかろうか。
明の董其昌は、孫氏の書とは認めていないで懐素ではないかと言っている。
清の張篤行(石只)は、この本は孫書の千字文を王升が臨したものとしている。王升(字は逸老)は宋の徽宗朝において呉説などとともに書人として知られた人である。
王升には別に草書千字文があり、書風も墨妙軒本に類似しているし、本文において玄黄を元黄に作り、桓公を齊公に作り、垣墻を圍墻に作り、紋扇を團扇に作り、骸垢を骸汗に作り、遼丸を遼彈に作るなど、みな墨妙軒本と同樣である。これらの諸点から考えても、墨妙軒本は王升の書とするのがよいであろう。
この本では天地玄黄の玄を元に作る。これは宋の始租玄朗の諱を避けたもの。また、桓公を齊公に作るのは宋の欽宗の諱桓を避けたもの。垣墻を圍墻に作つたのも同樣と思われる。これらの諱字の点からこれを唐代の孫氏の書と見なすことはできない。宋の欽宗朝以後のものとしなければならない。
4 景福殿賦
景福殿賦は何晏の作で最も長篇である。この賦は嘗って董其昌の戯鴻堂帖に刻されたが、僅かに20行、400余字に過ぎなかった。依って乾隆帝は墨妙軒法帖中にこれを刻入した。
2 張旭と賀知章
張旭は字を伯高といい、呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
書をよくし、また酒豪であった。酔えば号呼狂走し、筆を求めてて揮灑し、変化窮りなきものである。又頭を水墨中に濡して書し、世人は呼んで張顛と称したと伝えられる。従ってその書は酒勢をかりて一気に書きなぐった狂草で、尋常の規矩を以って律し難きものであるかの如き印象を与えるが、事実は必ずしもそうではない。蓋しその狂怪と縦逸とは、規矩の中より生じ、所謂法に入って法に縛られず、法を出でて規矩を離れざるものである。
1 張旭真迹四帖
草書古詩四帖。梁の庚信の「歩虚詞」二首と宋の謝靈運の「王子晉讃」および「巖下一老公四五少年讃」を五色牋に書いたこの一卷は、宋の徽宗の收藏目録「宣和書譜」には謝靈運の書とされ、その卷十六に「古詩帖」とじて登載してある。
庚信歩虚詞 二首
謝靈運王子晉讃
巖下一老公四五少年讃
2 張伯高虎児等三帖
楮紙。真迹にあらず。王読が家にあり。蘇氏の物也。
3 張伯高賀八清鑑帖
楮紙真迹、字法勁古、他書に類せず。世間の伯高が第一の書也。蘇液が家にあり。世に石刻多し。後、章惇が家に帰せり。伯高の全本千文は曾孝蘊云う、京師の謝氏が処にありと。謝氏は景温宝文の遠族也。
4 伯高五帖
黄経紙。少時の書なり。辞に云く、往往興来、五指包管等これ也。楊傑が家にあり。傑が父、草を学べり。故に収得し、遂に語の断処より剪って一軸と作せり。黄油拳経紙、王仲至の千文と一に同じ、並に古印、跋なし。伯高の名、廟諱の字を犯せり。余、皎然の詩集中に於いて之を得た。
5 草書千字文 断狂草千字文
張旭の千字文は、宋以後の著録に多く見えているから、恐らく真蹟は数本あったのであろうが、現在、真蹟は勿論、刻本さえ完全なるものは伝わらず、わずかに、西安の碑林に二百数十字の残石を存するに過ぎない。
6 肚痛帖 肚痛帖
石刻は西安の碑林にあり。前記千字文の前に刻し、古くより張旭の書と伝えられているが、肚痛帖も千字文もともに張旭の書ではなく、高閑の書であると王弇州は断定している。
肚痛帖及び千文断碑を以って既記の淳化閣帖・大観帖等に収められた旭の帖と比べるに、その書趣は全く異なるものあり、弇州の説の如くであるが、未だ確証すべきものがない。
7 郎官石柱記
正しくは「尚書省郎官石記」と呼ぶべきであるが、この簡称で通っている。開元29年(741)、行右司員外郎・陳九言が撰し、張旭の書で、ここに見る拓本はその序の部分である。原石は早く佚亡し、明代には一孤本を伝えるのみであった。張旭は狂草をもつて名高いのに、このような謹厳な楷書は珍らしいので、古くから注目されていた。
賀知章(659-744)は、字を季真、または維摩という。会稽郡永興県の人。玄宗に仕え、開元年間に礼部侍郎となり、集賢院学士を加えられ、転じて工部侍郎に移り、秘書監を授けられた。晩年には官を辞して帰郷し、四明狂客と号して自適の生活に入り86歳で歿した。
賀知章は詩文で知られている。また書では、狂草で有名な張旭と交流があり、草書・楷書を得意とした。
酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文をつくり、紙のあるに任せて大書したところから、杜甫の詩「飲中八仙歌」では八仙の筆頭にあげられている。
賀知章の書は、中国に於いては殆んど伝世するものがないが、現存する書蹟に隔日不面帖・東陽帖・敬和帖・孝経がある。
孝経
孝経の全文を草書で書いたもので、賀知章の署名はないが、末尾に「建隆2年(961)冬重粘表賀監墨蹟」と小楷で書かれていて、古来賀知章の真蹟と伝えられる。江戸時代中期に日本に舶載され、近衛家熙の収蔵するところとなり、久しく近衛家にあったが、明治のはじめに皇室に献納されて御物となった(現在は三の丸尚蔵館蔵)。書風は王羲之風の重量感があり、切れ味も鋭い。概して用筆勁利、しかも秀麗洒脱である。
3 懐素と高閑上人
懐素(開元13年(725)-貞元元年(785)は、中国唐代の書家・僧。字は蔵真、俗姓は銭、零陵の人で、詩人として有名な銭起の甥にあたる。
幼くして仏門に入り、その後、長安に移る。修行の暇に好んで書を学んだが、貧乏だったので芭蕉をたくさん植えてその葉を紙の代わりにし、それが尽きると大皿や板を代用して磨り減るまで手習いした。また、禿筆が山をなしたので筆塚を作って供養したという。
その書名は若い時から知られたようで、当時の社交界の名士から多くの詩を寄せられており、『書苑菁華』などにかなり収録されている。大暦12年(777)、洛陽にのぼり、そこで顔真卿に会い、盧象・張謂などが懐素のために作った詩『懐素上人草書歌』を示して真卿に序を求め、真卿は『懐素上人草書歌序』を書いたという。懐素の名声と実力のほどをうかがわせる一件である。
彼は従弟の鄔彤や顔真卿から張旭の書を授けられ、さらに風まかせに変化する夏の雲の姿を見て、極まりない形の変化やその自然な布置から悟入したと伝えられる。特に草書に優れ、その作風は狂草と呼ばれる草書のなかでも奔放な書体を得意としているが、法を逸脱したものではなく、その実は王羲之の書法を基盤にしている。彼は酒を愛し、酔いに任せて壁や垣根などに辺り構わず草書を書き散らしたので、世に狂僧と呼ばれた。その行動も草法も張旭に学ぶものであり、張旭と合わせて張顛素狂(顛張酔素・顛張狂素とも)と並称された。
懐素の後世に与えた影響は大きく、唐末から五代にかけて僧侶に草書をよくするものを生み、文人の率意の書の規範となった。また、日本においては良寛が好んで習ったといわれている。
狂草体の出現したことは唐代の書道界に一つの新生面を開いた点に於いて、楷書における顔真卿とほぼ同様の立場にあり、これが代表的なものが張旭と懐素の二人ということになるのである。
1 清浄経 草書紙本
款に「貞元元年八月廿有三目。西太平寺沙門懐素蔵真書。時年六十一歳。」と署している。が今、その真蹟は所在を知らない。停雲館帖には草書千文を刻するのみである。
2 懐素千文巻
懐素の千字文には大小数種あり。宋の御府に蔵したもの四本あったというが、そのうち黄絹の一本は、明の中葉に至って姚公綬の収蔵に帰し、姚の歿後、文徴明の子の文嘉の得るところとなり、これを停雲館帖に刻した。それには文徴明及び文嘉の長跋がある。その題跋に、「右唐懐素の絹本草書千字文真跡はもと嘉興の姚公綬の家に蔵す。公綬蔵する所の法帖甚だ多し。嘗て自ら此巻を定めて第一となし、曰く一字一金に直しと。故に当時目して千金帖と為す。」と記されている。以来、『千金帖』の名で世に知られるようになった。
文氏の後、この真蹟は諸家の逓蔵を経て、清の畢秋帆の収蔵に帰し、経訓堂帖に摹入された。畢氏の歿後、その収蔵の金石書画は尽く散佚し、懐素のこの真蹟も一時所在を失なったが、道光に至って僧六舟の得るところとなり、六舟は又これを石に刻した。よってこの小草千文には、文刻、畢刻、六舟刻の三本あるに至った。而して真蹟本はその後上海の徐小圃氏の収蔵に帰した。中国・日本とも玻璃版の複製本がある。
3 夢遊天姥吟巻
夢遊天姥吟は、詳しくは夢遊天姥吟留別と題せるもので、その詩は『式古堂書画彙考』に載っているが、今、真蹟の所在を知らない。
4 懐素酒狂帖
帖の後に、五代の楊凝式の鑒定、黄庭堅の観款、倪遊の題記がある。これもまた『清河書画舫』を援用するだけで、その後の所在は審でない。
5 素師論書帖
9行の草書で、懐素には珍しいおだやかで上品な書で、王羲之を祖とした伝統的な書法による正しい風格の草書。
6 懐素題北亭草筆
『広川書跋』に曰く、「懐素、書に於いて自ら言えり。筆法三昧を得たりと。唐人の評書を観るに、張旭に減ぜずと謂えり。素は縄墨の外に馳騁すと雖も、而も、回旋進退、節に中らざるはなし。旭は則ち蹊轍の擬すべき無し。超忽変化、未だ嘗って山谷の険原隰の夷を覚えず。此を以って異なりとするのみ。今その書、自ら真は鍾に出で草は張に出つといえど、真字は世に見ず。惟、草独り伝われり。手筆調和の時に当り、忘神定気、徐に起ちて郷うところ前なきを視る。故に能く迥に唐の諸子の右に出で、奄に晉・宋・陳・隋に薄りて之を兼有し、その体製該備せり。顧うに後世加うる能わざる也。北亭書するところ、適々その鴻濛を逐うて太虚を問うの時に当れり。その会処に至りては、乃ち浪仮山岷、江の津に放たるがごとき也。」。
7 僧蔵真書七紙 蔵真・律公二帖
藏眞・律公帖、いずれも懐素の書とされ、西安の碑林に現存する。
懐素の書の法帖に刻されたものには、原本の面目をどの程度伝えているか、はなはだ疑わしいものが多い中で、この藏眞・律公帖などは、書風や来歴からいってもまず上品に属し、彼の書を考えるときには、一つの基準として缺くことのできないものである。
藏眞帖
6行の草書で、顔真卿の影響を感じる書。
懐素が顔真卿に会い、張旭から伝えられた筆法を受けたことを書いている。
律公帖
「律公好事者」にはじまる4行と、「貧道頻患脚氣」にはじまる9行の二帖で、草書で書かれている。
第一帖は、律公というものが懷素に書を求めたので、懐素は書いて与え、それに書きそえたものであろう。
第二帖は、おわりに「沙門懷素白」とあって書簡文の体裁をなしている。初めに自分は脚氣を患って健康のすぐれないことを言い、律公がわざわざ懐素の狂怪な草書体を求めてきたことを述べている。内容の上から第一帖と関連するものであろう。
8 自叙帖
この帖は今尚その真蹟と称するものが数本伝わっている。そのうち二本は北京の故宮博物館に蔵され、わが国にも断片が伝わっている。
内容は、懐素が自らの学書の経歴を草書で書いている。
狂草の中の狂草で、明末連綿草の起点となった。筆毫が倒れ斜めに紙に切り込む角度筆と、筆毫を立てて垂直に切り込み、書きつなげる垂直筆の二種類の筆法を使うことにより、西洋古典音楽のような劇的表現が可能になった。角度筆のみによる二折法の単純な強弱の対立法からはるかに高度化し、筆画の肥痩、字形の大小からなる複雑で味わい深い表現を形づくっている。
9 苦筍帖
全文2行14字の短い草書の尺牘であり、懐素の真跡とされる。これもかつては清朝の秘府に蔵され、今は故宮博物館に保存されている。
激しく変化にとんだ書で、艶やかさと優美さがあり、書風は米芾の草書に似ている。
10 食魚帖
これも懐素の尺牘で、草書、八行ほどのものである。
懐素は僧でありながら、公然人に向って食魚食肉のことを挙示して隠蔽するところなく、胸中一毫諱憚なきところ、これその書の妙なる所以であると、これが一般の評である。この帖もその真蹟が現存し、丁氏韻香館の収蔵に帰し、写真を以って世に伝えている。
11 客舎等帖
この帖は、宋の時、開封の曹用が家に伝わり、薛紹彭の題記がある。
12聖母帖 東陵聖母帖
この帖の刻石は長安の碑林にあって今も尚完好である。
懐素56歳の書と言われており、おおらかで遅筆で女仙人の聖母の廟を改修したときのことを書したもの。章草の法を交えたあたたかでつややかな草書。
釈高閑は烏程の人、懐素を師として草書を善くした。
釋高閑は唐の宣宗(在位846-859)の頃の人であるというだけで、生卒年は詳らかでない。湖州鳥程(今の浙江省呉興)の人で、幼少のころ出家して湖州の開元寺に住み、のち長安にのぼって、薦幅寺・西明寺などで修業し、晩年郷里に帰って開元寺で卒した。
懷素とほぼ同時代の人で、ともに書僧としての名が高い。ここに紹介する千字文の
殘卷は數少ない唐人の眞跡資料として、書法を研究するものにとっては誠に得がたい
ものである。
高閑の書としては、千字文以外の五原帖・中丞帖・雨雪帖・令狐楚詩などは伝わっていないようである。
13 千文
今伝わっている残卷千字文は元の時代に鮮于樞が所藏していたもので、宋代には趙明誠のものであったことが知られる。元代においてはすでに「莽抽條」以下八紙を存するのみであつた。鮮折樞は欠けた部分を自から補書して愛藏していた。その後この千字文は卞永譽の有に帰した。後、安岐に帰し、近年葉恭綽などの手をへて、上海博物館に入った。