第3巻 第18章-2 藤原楚水著 省心書房欧・虞・褚の三家の外に、初唐には尚、名書が少なくなかった。即ち碑を以ってすれば、等慈寺・昭仁寺の諸碑があり、人を以ってすれば、薛純陀・趙模・殷令名父子・王行満・王知敬・高正臣・欧陽通・諸葛思槙・王紹宗・薛曜・盧蔵用、その他があり、初唐の書道界は、その国運の隆昌なりしが如く、冲天の勢あり、空前の巨観を呈するに至った。
1 等慈寺碑 (貞観年間 627-649) 河南氾水
碑中に年月の記載なし。
この碑が顔師古の書なりや否やは明らかでないが、勁利峻健は六朝に近く、かつ碑字完好、新に硼より発せるが如くであるから、多少の習気はあるが、楷書を学ぶには、最も適したものの一つであろう。
2 昭仁寺碑 (貞観4年11月・630) 陜西長武
碑文は朱子奢の撰で、筆者は虞世南といわれているが不明。ほかに欧陽通・王知敬が筆者という説もある。
この碑は初唐の諸碑中にあっても、殊にすぐれたものである。楷書体ではあるが、隷意を残した筆法が含まれ、六朝以来の異体字がかなりある。
この碑の書は、虞世南に及ばないが、虞書に余程近いものである。古人が此をもって孔子廟堂碑に代用して学んだというのも偶然でない。
薛純陀
薛純陀は名高く、書は今日見ることを得ないが、その一代の大家であったことは疑いない。
趙模
趙模は太宗の時の翰林供奉の搨書人で、貞観中、太宗命じて蘭亭叙を臨摹したことは世に名高い。
趙模は倣書を工にし、蘭亭叙の外、行書の帖に、趙模参軍模晉千文がある。石刻の高士廉塋兆記は、今もその石が存しているが、既に漫濾甚だしく、今は殆んどその文字を見がたいが、書法は欧・虞の長を兼ね、蘭陵公主碑に近いといわれている。
趙模参軍模晉千文
高士廉塋兆記
殷令名(生年不詳-596?)は、初唐に活躍した能書。本籍地は陳郡長平県。曾祖父は南朝陳の光禄大夫の殷不害。祖父は殷英童(殷不害の弟の殷不占の猶子)。父は殷聞礼。従伯父は殷嶠。欧陽詢や虞世南と同じ初唐の貞観年間に活躍した能書とされている。殷令名の子の殷仲容も高宗時期から武周にかけて能書として知られる。殷氏は名家で顔家と姻戚になり、殷令名の姉は欧陽詢の夫人と伝えられている。
3 益州刺史裴鏡民碑 (貞観11年10月・637) 山西聞喜
この碑は殷令名の書蹟の今存する唯一のものである。正式には『益州刺史裴鏡民碑』という。
裴鏡民は北周の裴漢の子。碑文によると、字は君倩で、初めは北周、ついで隋に仕え、晩年、西南道行台兵部侍郎・益州総管府司馬となった。開皇16年(596)、西南夷の追討に総司令官として向かったとき、陣没したといわれている。
没後42年目に聞喜県に在った裴氏の祠堂に建てられたのがこの碑である。撰文は李百薬で、書は字画精妙で欧陽詢・虞世南に劣らず、やや虞世南に近い楷書である。
殷令名の書蹟は当時頗る多く、昭陵四降王名姑臧郡夫人郁久閭氏碑・宗卿正趙宏智碑・鄭国夫人武氏碑・大興善寺舎利塔銘・高唐公馬周碑・則天幸流杯亭詩序・頴国公史継先墓誌がある。
殷仲容は八分書の専家と称せられ、その書碑も上記の如く多くは八分を用い、正書のものは極めて少ない。而もその正書も八分も、今存するは馬周碑の300余字だけである。仲容の八分書は、唐宋時代甚だこれを重んじた。しかし唐の八分は、今日に於いては書道史の研究以外に多くの価値はない。
馬周碑 上元3年(674) 馬周碑
許敬宗(開皇12年-咸亨3年(592-672)8月24日)
字は延族。高陽郡新城県(現在の河北省保定市徐水区の西南)の出身。陳の許亨の孫、隋の礼部侍郎許善心の子。彼は若くして文章に優れた。隋の大業年間に秀才に挙げられ、淮陽郡司法書佐に任ぜられ、また通事舎人をつとめた。
父が宇文化及のために惨殺されると、逃れて李密の下で元帥府記室となった。唐の武徳初年に、唐に帰順して漣州別駕に任ぜられた。秦王李世民に召されて、文学館学士となり、秦王府十八学士のひとりに数えられた。貞観年間に、著作郎をはじめ、中書舎人、給事中、黄門侍郎、太子右庶子などを歴任した。李治(高宗)の代になると、中書令に昇進した。やがて李義府と共に、武則天を擁立して、権力を振るい、政敵である同姓の許圉師を罪に陥れたりした。
さらに亡き太宗の腹心であった長孫無忌と褚遂良を流罪にして死を賜るように高宗に積極的に進言したのも、武則天の意向を受けた許敬宗だったようである。
咸亨3年(672)8月、81年の生涯を閉じて、「恭」と諡された。
陸柬之 (585?-638?)
初唐の書家で、虞世南の甥にあたる。江蘇省の人で、官は朝散大夫・太子司議郎・崇文侍書学士となる。
ちなみに張旭は、陸柬之の子(彦遠)の甥にあたる。
若い時から虞世南や欧陽詢の書に触れ、後に王羲之・王献之を学んだ。飾り気のない素直な書で、華美を好まなかった。模倣には巧みであるが、創作は劣るという評もある。
文賦
文章の才をもって一代に冠絶した西晋の陸機の、『文選』にも収める著名な一篇を書し、典型的な王羲之風の正統的行書で、質朴で端正な姿態のうちに秀麗な趣をみせる。現在は台湾に現存する。
五言蘭亭詩
宋の宣和書譜に、陸柬之の書として、(行書)蘭若碑・頭陀寺記・蘭亭詩・千文・臨王羲之蘭亭叙、(草書)急就章。とあつて、以上六點が宋室に保存されていた。この中で、今に伝わっているのは、蘭亭詩の一卷のみのようである。
諸葛思槙はまた太宗の時の人で、瑤台寺碑と溝川李孝同碑がある。
諸葛思禎については、諸書に記載なく、その伝記は明らかでないが、当時著名の書家であったことは、許敬宗の撰文にかかる瑤台寺碑を書した事に徴するも、これを知るに難くない。『金石録』には、瑤台寺碑の立年を貞観18年(644)と記している。孰れが正しいか調査するに由がない。
溝川李孝同碑
王行満もその伝は明らかでないが、門下録事であったことは、『宝刻類編』に見え、且、当時に書名の高かった人であることは疑いない。またその書碑のうちでは、聖教序(第276図)が最も著名である。行満の書は龍蔵寺碑に似て、而も褚に近い善書である。
王行満の書した碑は、招提寺聖教序・韓仲良碑・周護碑がある。
周護碑 周護碑
周護碑は歴代の金石学者の著録に記載されている。しかし北宋時代には、その所在がわからなくなり、1965年の探測を経て、1974年出土した。
碑は上下2つに割れてはいたが、土中に埋没していたため風雨の浸食や人的破壊から免れ、碑文はほぼ完好。26行、行84字、2000余字のうち半分近くが新刻のように見える。このことから、書道芸術の珍品であるばかりか、唐の歴史研究の重要資料とも言われる。
招提寺聖教序
于立政(617-679前)は字を匡時といい、京兆高陵(現在の陝西省高陵)の人、于志寧の子で、太僕少卿・鯱州刺史に官した。
その書碑に、贈司徒河間元王孝恭碑・司徒王仁蕨碑・太子少師崔敦礼碑・于志密丁神道碑の諸碑がある。
高正臣については、宰相世系表に、正臣は都官員外郎・志廉の子、襄州刺史に官した。
その書碑に、夏州都督姜協碑・荘厳寺行虔法師碑・摂山明徴君碑の諸碑がある。
暢整の名は、『歴代名画記』の歴代能画人名中に見え、その書碑は、転法輪寺仏石跡図伝碑・金吾衛大将軍梁敏碑・清河公主碑・西明寺忍辱闍梨塔銘・阿弥陀経・司農寺主簿梁幹碑・盧国公程和知節碑・邠州三水丞梁師敬墓碑・趙国太妃楊氏碑があるが、現存するのは程知節碑と清河公主碑の外は、皆佚して伝わらない。
清河公主碑 清河長公主李敬碑
清河長公主は太宗の娘で名は敬、あざなは徳賢。貞観2年(628)に清河郡公主に封ぜられた。高宗即位後長公主に封ぜられ、清河長公主となる。太宗・高宗に仕え、麟徳元年(664)に亡くなった。
撰文は李儼、筆者は暢整。李儼は、宰相の張濬の子で、昭宗から姓を賜わった。
この碑は、昭陵の他の碑と趣を異にしていて、「勁峭奇偉」とか「勁抜にして、千鈞の弩を張り、殼満ちてのち発するが如し」とか評されている。しかし、字形・書法に褚遂良の影響を受けたと思われる点があり、楊守敬は『平碑記』で、「上は登善(遂良)を承け、下は薛曜を開く」と評している。宋人の書を思わせる自由な書きぶりだ。
竇懐哲は、慶州刺史、鮒馬部尉に官した。その書碑はわずかに蘭陵長公主碑の一碑を録すのみであるが、この碑は幸にして今尚、原石が存在している。但、惜しいことは撰書人の名氏が已に磨勒していることである。
蘭陵長公主碑 蘭陵長公主李淑碑
李淑は太宗の第19娘で、あざなは麗貞。唐代では、皇帝の姉妹のことを長公主と呼んだ。公主とは皇帝の娘をいう。李淑は、7歳にして書を学び、鍾繇・張芝の妙を得たといいう。
貞観10年(637)に蘭陵郡公主に封ぜられ、永徽元年(650)高宗が帝位につくと、長公主を拝した。
李淑は、竇懐哲に下嫁した。竇懐哲は、高祖の皇后(太穆皇后)の孫にあたり、銀青光禄大夫・少府監・上柱国の竇徳素の子。官は附馬都尉・慶州諸軍事・使持節・慶州刺史に至った。
顕慶4年8月、竇懐哲が兗州都督の時、李淑は32歳で亡くなった。
立碑年月は不詳で、撰書人の姓名も残損して不明。
この碑は、結構も整い、勁健であることは、その筆者の力量が凡庸でないことを示している。品位の高い、厳格な内に伸びやかさを感じる書だ。
王知敬の伝記は王友貞伝に附記されているが、他には、逋書賦下、書斷下などに散見する程度でその生卒年は判然としない。
王知敬は懷州河内(河南省)の人(新唐書)とか、太原(山西省)の人(述書賦)などといわれる。
貞観13年(639)、太宗は天下の王羲之の書を購求し、起居郎の褚遂良と校書郎の王知敬等に鑑別させたというのをみれば当時よりすでに書名が高かったのであろう。また、高宗時代には、唐王朝開國以来の名臣李靖のためにこの碑を書く名誉に浴し、則天武后の時には麟臺少監という官についている。
王知敬の書碑は、贈司徒李靖碑・司衛卿尉遅宝琳碑・武后少林寺詩・武后発願文・武后幸閑居寺詩・右衛大将軍泉府君碑・少林寺金剛経がある。
李靖碑 李靖碑
李靖を称えた碑で、李靖(571-649)は、唐王朝開国以来の名臣。
はじめ隋に仕えた後、唐で武人として活躍しただけでなく、書にもすぐれた人で、虞世南・欧陽詢・褚遂良の書の影響を感じられる。全体的にバランスよく、美しく整っている。点画はシンプルで、左はらいは力強く、右はらいはあまり抑揚がない。ハネは、短く鋭い。
敬客は河東の名門だが、史に徴すべきものは無く、ただ王居士磚塔銘によって、当時の名書家たるを知るのみである。
王居士磚塔銘 (顕慶3年(658)10月12日刻)
この磚塔銘は、明の万暦年間、終南山の楩梓谷から出土した。旧くは著録に見えない。
原石は後に端方の収蔵に帰したが、『陶斎蔵石記』には載録されていない。
欧陽通は、欧陽詢の晩年の第4子で、欧陽詢から直接書の指導を受けられず、母から欧陽詢の書法を授かった。道因法師碑は欧陽通の代表作だが、品格の高さでは欧陽詢には達しない。
父の欧陽詢を大欧陽、欧陽通を小欧陽と言われている。
書蹟としては、道因法師碑と泉男生墓誌銘のみ。
1 道因法師碑 (龍朔3年10月・663) 陜西長安 道因法師碑
李儼の撰文。現在は西安碑林に保存されている。
2 右衛大将軍卞国公泉男生墓誌 至徳真撰 欧陽通書蓋篆書 (調露元年12月26日・679) 河南博物館蔵石
40余年前、この泉男生墓誌が洛陽から出土した。。欧陽通の書は、道因法師碑の外、全く存在しなかったが、この墓誌の出土によって古人未見のものを見得るに至った。これ今人の幸福というべく、然も誌石は土中にありたるを以って、殆んど剥渤なく、新に硼より発したものの如し。欧陽一家の書を学ぶ者は、これを見逃してはならない。
薛曜と薛稷とは、ともに初唐に在って書名高く、欧・虞・褚の三大家に薛を加えて欧・虞・褚・薛といい、これを以って初唐の四大家とし、また褚・薛と称して、褚遂良と並べ称することがある。この場合の薛は、薛曜ではなくして薛稷であるという。
薛曜の書に、封祀壇銘、石淙夏秋両序が伝存し、当時書法に於いて、また相当の大家であったことが知られる。
1 封祀壇碑 武三思撰 薛曜正書 (万歳登封元年11月・696) 河南登封
この碑は武三思の撰文、薛曜の書であるが、下截は磨滅し、その上截、三十八行、毎行四十余字を存するのみである。額に篆書を以って大周封祀壇碑の六字が題してある。
2 夏日游石淙詩并序 諸臣撰 薛曜正書 (久視元年5月・700) 河南登封
武盾が夏日群臣と石淙に遊んだ時の詩を刻したもので、石面を三截に分ち、上蔵の前部に序を刻し、次に武后及び従遊臥繭臣の詩が刻されている。
3 秋日妻石淙序 張易之撰 薛曜正書 (久視元年・700) 河南登封
この序には歳月、撰書者の姓名ともになく、但、奉宸令張の四字を見るのみであるが、説嵩には張易之の撰としている。また『中州金石記』には、大足元年(701)5月といい、孫星衍の『寰宇訪碑録』には、久視元年としている。
薛稷の書は、周封中岳碑・周査冥君銘・周洛陽令鄭君碑・周福昌令張君清徳頌・信行禅師興教碑・贈孟州都督王美暢碑・洛州告成県令盧長道徳政碑・襄城令贈魏州刺史李公碑・散騎常侍侍中趙郡成公碑・封府君碑・偃師令瞿府君徳政碑・周昇仙太子潮碑陰・石仏跡図伝・陀羅尼経であるが、今は多く湮没して伝わらない。僅かに昇仙太子碑陰に、数十字の題名が存する外は、信行禅師碑の孤拓本が伝わっているのみである。
薛稷の書は褚遂良と見間違うほどの力量があったといわれるが、伝世の作品はきわめて少ない。
4 昇仙太子碑陰 鍾紹京・薛稷・相王旦等正書 又武后遊仙篇 蓐曜書 河南偃師
昇仙太子碑の陰に、薛稷と鍾紹京の書蹟がある。聖暦2年(699)6月、立碑と同時に刻されている。
5 信行禅師碑 神龍2年(706)8月
信行禅師は隋の著名な高僧で、その事蹟の石刻中に見えるものに、唐慈潤寺霊珠禅師塔銘・光明寺慧了法師塔・化度寺僧海禅師方墳記・道安禅師塔記・都督孫管真墓志・沢王府主簿梁寺並夫人唐氏墓誌・太常協律郎裴公妻賀蘭氏墓誌・珍州栄徳県氷梁師亮墓誌等があり、その碑も、唐立隋信行禅師興教碑を九つまでも載せており文は皆越王貞であるが書者は張廷珪、薛稷などと皆ちがっている。
この碑は神龍2年(706)8月に建てられ、宋代まで現存したらしいが、そののち佚して、その拓本の伝世も明らかではない。
6 杳冥君銘 (神功元年丁酉歳10月1日・697)
この銘の原石は今見ることを得ない。
沮渠智烈・王紹宗兄弟は、また初唐の末季に於ける名家であった。
沮渠智烈は、沮渠蒙遜の後である。蒙遜は臨江盧水の胡人(中国北方に住む胡国の人)。
その祖先は殴々匈奴の左沮渠であったが、遂に宮を以って氏とした。
智烈はその後裔で、書を工にし、初唐の末に於いて、王紹宗、王玄宗と鼎足して三名家を以って称せられた。
その書碑に、少姨廟碑・啓母潮碑・奉仙観老君像碑がある。
前の二碑は宋の時既に佚し、拓本の伝わるものもないが、幸に奉仙観の一碑は存し、その書の如何を知ることができる。
沮渠智烈と殆んど時を同じくし、盛名のあった王紹宗は、揚州江都の人。少にして勤学し、経史を偏覧し、尤も草隷を工にした。
紹宗の兄玄宗は、嵩山に隠れ、太和先生と号し、黄老の術を伝えた。
王玄宗の書蹟の伝わるものに、華陽観王先生碑がある。
1 華陽観主王軌碑 于敬之撰 (乾封2年11月立・667)
この碑は『金石録』・『宝刻類編』等、宋人の著録に見えるも、石は已に佚して伝わらず。明以後、之を著録せるものを見ない。特り孤本が有って、諸家に逓蔵せられ、今は三井家聴氷閣に秘蔵されている。
2 王徴君臨終□授銘 (垂拱2年4月・686)
これは王玄宗(徴君)の□授銘を、弟の王紹宗が書いたもの。