HOME                           學書指針INDEX

 第3巻 第17章 藤原楚水著 省心書房

一 中国の地勢と南北の対立

西晋が亡んで(317)浬水の役を経(383)、苻堅未だ残晉を統一すること能わず、約百余年(420)にして、南朝は宋(420-479)となった。
その間、北魏にあっては五胡を併呑し、十余年にして、北涼は魏に降り、南北二朝に分轄された。これ宋の文帝の元嘉16年(439)であった。
これより後、南朝は斉(479-502)、梁(502-557)、陳(557-589)、北朝は東魏(534-550)、西魏(535-556)、北斉(550-577)、北周(556-581)に分かれ、隋が斉・周を併せ、陳を滅す(589)に至って、天下始めて統一された。これ実に永嘉を距ること270余年、その間、南北の対峙したこと150年であった。
然し中国に於ける南北文化の交流は、隋の統一に始まった訳でなく、これより前、暗遷黙移のうちに、文化は絶えず交流し、思想、宗教、経済等、相互に影響し、北派の書道の如きも、南朝に影響されるところの多かったが、隋に至って南北が政治的に統一された結果として、その交流は一層盛んとなったのである。
隋が天下を統一した結果として、文化方面に於いても、また南北の混合が一層盛んに行なわれた。而してその交流を更に一層頻繁かつ容易にしたものは、実に運河の開鑿であった。

二 南北書派の融合

隋の文帝、陳を滅して宇内を統一するや、頗る心を政治に留め、節倹を尚び百姓を愛撫し、大に治績の見るべきものがあったが、二世煬帝に至って、その富強を惜んで、大に土工を起し、讐を置くこと40余所・江南の奇材異石を徴し、海内の嘉木異草、珍馨獣を求めて苑囿を実たす等、驕奢を極め、外にまた遠略を事とした。この時に於いて国力は大に伸展し、南は林邑を平げ、西は西域を定めまた自ら将として楡楸を巡り・域外の諸国、みな入貢する窒り、、氷嘉以来の形勢を一変せしめ、唐室をして漢民族の昌大を致さしめる機を作った。煬帝の事蹟は唐の史家によって歪めて伝えられたところが多いが、その功績は大いに認めざるを得ない。
煬帝について記すべきことは極めて多いが、就中後世の歴史に最も著大なる影響を与えたのは、運河の開鑿であった。
この外、煬帝は至るところに山を鑿ち路を闢ぎ、北方にあってもこれが為に交通状況が一変したといわれている。而してこの水陸交通路の発達が、隋代南北の交通を頻繁にし、学術、思想、芸術の各方面に於いても、南北の交流を一層盛んにした。書道もまた、渾然として南北融和の大勢を馴致したことは、現存する石刻等によっても、之を窺うにかたくない。
六朝の初期、既に北方の南書の影響はあったが、その末期に及んで両者頗る接近し、隋に至って更に両者の融合が行なわれ、これより以後は渾然として一体を成すに至った。

三 隋代の書道

此の如く隋は政治的に南北を合併し、天下を統一したのみならず、運河の開鑿によって南北の交通を盛んにし、従来、黄河、揚子江に沿って発達した特殊の文化は、ここに南北交流して混一の機運を作った。書道もまたこれによって南北の境界なきに至ったことは、自然の趨勢であったといってよい。
隋は国祚短く、わずかに37年に過ぎなかった。故にこの間に出た書家の数は少なく、石刻の如きも多く伝わっていないが、唐初の書家、欧・虞の如きは、皆嘗って隋に仕えた人であり、書学博士を置いたのも隋に始まり、唐はその制を襲いだに過ぎない。
乃ち隋・唐の書道は殆んど界域を画分するに難く、龍蔵寺(第23-27図)、啓法寺(第37図)の如きも、歳月を磨去して唐碑中に置いたならば、その隋碑たるを知りがたいであろう。
六朝時代に南北対立していた書派が、これを一新紀元として新らしい段階に入ったことは事実であって、隋の書道は、後の唐碑の研究に対して一つの目標を示すものと云ってよいであろう。

四 隋代の刻石

隋の刻石は、龍蔵寺碑(第23-27図)が最も著名であるが、この外にもその書の見るべきものが多い。これ等の刻石のうちその主なるものについてこれを見れば、隋の書道が如何なるものであったかを窺うには十分であろう。
而して隋の書学は、またわが国に於ける法隆寺釈迦仏造像記、同観音大士造像記、同薬師如来造像記、元興寺釈迦造像記等、推古朝(592-628)の金石文と、交渉を存する点に於いて特に注意すべきものである。

1 隋の碑碣

造像は元魏より始まり、殆んど釈家ものであるが、中には道家のものも混じっている。即ち天尊象といい、老君象碑と称し、或は唐の蘇霊芝が書いた夢真容の碑(第棚ー櫑図)の如きがそれであるが、総観するに、道家は釈家の百分の一にも及ばない。また経典についてこれを見るも、道家は釈家に及ばざることは遥かに遠く、道徳経は唐に至って始めて石刻を見た。隋の造像も釈氏のものが多く、その精なるは、龍門諸刻と比すべきものがあり、唐より五代宋初に至り、尚造像の事は行なわれた。要するに釈氏の造像は、元魏を以って最盛と為し、龍門がその代表的のものである。
隋碑は修老子廟碑(開皇3年・583)を以って最先とするが、この碑は『寰宇訪碑録』に著録せるのみで、吾人は、未だ拓本を見ていないので、その詳細は知りがたい。隋碑のうち書道史上特に注目すべきは、龍蔵寺、啓法寺の両碑であり、その他は墓志銘に佳書が多い。

1 龍蔵寺碑 (開皇6年12月 586)
この碑は開皇6年12月の刻で、隋の南北統一前のものであるが、その後2年にして陳は亡び、隋は天下を統一した。この碑の撰書者の張公礼は、史書にその伝を見ないが、碑末に斉開府長・兼参軍・九門・張公礼云々とあるので、九門の出身者で、斉に仕えた人であることがわかる。
九門は戦国のときの趙邑、漢の九門県で、その故城は今の河北の稾城県の西北にあたり、その北方の人であることが知られる。従ってその書は北派の系統に属する。
この碑は欧・褚の先声を為せるものとして、古来その書法を絶賛している。


一 書派の南北
晉の東帝の永興元年(304)劉淵が漢王を称し、同時に李雄が蜀に王を称せしより国内の統一が破れ、西晉亡びて東晋となり、これより以後、南北対峙し、その間また北方は分裂して十数国となり、興亡恒なく、騒擾相つげるこの実に280余年に及び、隋の文帝楊堅が建康を陥るる(589)、に至って天下は始めて統一に帰した。
この間、北方は専ら狄族の竊拠するところとなり、漢民族は退いて江南の地を保つに過ぎなかった。以後、北方の地は中原の文化に接せざること数百年、南北文化の差は頗る懸絶した。即ち哲学、経学、仏教、詞章、書画に至るまでその影響を受けざるはなく、孔墨は専ら北方に盛んにして老荘は南方に行なわれ、経学の如きも自ら南北流派の別あり、その学問的態度も自然に異なるものがあった。
仏教に於いても、禅学の南方に盛なりしは、また老荘との関係深きによるものであり、後の陸(象山)王(陽明)とも符契するところが多い。詞章に於いても南北各々その趣を異にし、北人は気概に富み、南人は情懐に豊かであった。散文の黄河千里の慨あるは北人を以って優と為し、駢文の鏤雲刻月の妙あるは南人を以って優れているとした。
南北に書派の別がある。龍門の諸刻・弔比干文・張猛龍等は北派の代表的のものであり、蘭亭叙・淳化閣帖中の二王の書の如きが南方の代表的のものである。

二 隋の統一と書道
隋の統一は南北の思想を混同したもので、中国はここに再び漢民族によって支配されるに至り、それ以後300年、唐代盛世の基を開いた。即ち隋の文帝は開皇7年(587)に後梁を滅ぼし、9年(589)に陳を滅ぼし、南北朝を併合して中国を統一し、その後は専ら意を内治に用い、律令制度を改正し、節倹を以って下を率い、民力の休養をはかり、都邑には悉く学校を設け、天下に遺書を求めて大に学問を奨励した。
文帝のときは、天下太平に帰し、人民は休息を得て、物産もまた頗る豊富となった。また工芸も大に開け、巨船を造り、紡織は盛んとなり、彫版印刷の術もこの時に開け、殊に文帝の事蹟として注目すべきは、河渠の開鑿であった。
これが隋に於ける運河開鑿の初めで、専ら長安に物資を輪送し、市民の食糧の確保を目的として計画せられたものであったが、二代の煬帝は大業元年(605)3月に於いて先ず道済河(北運河)の開鑿に着手し、次いで大業4年(608)には永済渠(衛河)の開鑿に着手し、大業6年(610)には江南河(南運河)を開鑿した。この天子は唐代の史家によって史上稀に見る暴君とせられているが、彼の開鑿した運河が、中国の二大河川たる黄河と揚子江とを横に結び、南北交通の上に貢献した功績は実に絶大であり、唐の海内統一の基礎は全くこの上に築かれ、これが文化、思想方面に与えた影響は想像以上のものがあり、またこれによって南北統一の一転機を画するに至ったことは争いがたい事実であろう。

三 龍蔵寺碑は欧・褚の先駆
隋の統一以前にあっても、南北の人士の往来によって書道の上にも互に影響はあったが、運河の開鑿によって交通が頻繁となるに至り、その度は一層加ったのである。
南北朝は書学もまた分立の時代で、南方にありては専ら尺牘書たる行草体が行なわれ、楷法は漸く衰頽し、北方に於いては文字の訛謬一層甚だしいものがあったが、瞿・盧の二家によって隷楷の書が伝えられ、碑版の文字が盛んであった。
蕭子雲について南派の書を学んだ王褒は、北周に至るや士大夫の間にその書が歓迎せられ、趙文淵の北方式の書は碑版の外、多く閑却されるに至ったということであるが、隋の運河開鑿の後は、更に南北文化の交流が盛んとなり、書家、学者の往来も繁く、北派の書は趙文淵を最後として南北合流し、唐の欧・虞・褚・薛の諸家出ずるに及び、南方の遵媚と、北方の険勁とを調和して、各々一家を成したが、その先駆を為ぜるものは実に龍蔵寺碑であった。

四 龍蔵寺碑の書道史上の位置
龍蔵寺碑の建てられたのは開皇6年(586)で、その後2年にして隋は陳を滅し、全く天下を統一した。撰書者の張公礼は、史にその伝を見ないが、碑末に斉の開府長兼参軍云々とあれば、北斉に官したことが明らである。
この碑の書法について欧陽修は「字画遒勁、欧・虞の体あり」といい、『虚舟題跋』には「書法遒勁、六朝険陋の習気なし。蓋し天、将に唐室文明の治を開かんとす、故にその風気漸く正に帰す。」といい、諸家また多くその欧・虞を開けるをいわざるはなく、隋、天下を統一して書法もまた南北一に帰せりと為し、且、この碑を以ってその代表的のものとしている。
褚遂良の書は最もこの碑に近いが、唐以前、南派の書が中原を風靡したとの説には異論なきを得ない。唐初の諸家が南派の書を学んだということも首肯しがたいが、然し龍蔵寺碑が南北両派の混淆になったことは疑いなく、これによって唐の正楷が孳乳生成した経路を窺うことができる。故に唐の書法の秘を得んとするには、先ずこの碑の如きを学んで基礎を為ることが必要である。

2 淮寮定公趙芬残碑 (開皇5年-10年・585-590)
碑は断欠して残石を存するのみである。立碑の年月も明らかでない。清初に出土し、西安府中兆村に現存する。
趙芬(生没年不詳)は、中国の西魏から隋にかけての政治家。字は士茂。本貫は天水郡上邽県。高祖父は趙逸。曾祖父は趙琰。祖父は趙煦(字は賓育)。父は趙脩演。父の姉妹は裴良の妻。


3 平陳紀公頌 (開皇13年4月・593)
この碑は一に諸葛子恆平陳頌、或は諸葛子恆造像碑ともいう。碑は山束の泰安にある。


4 陳思王曹子建廟碑 (開皇13年・593)
曹植(192-232)は、魏の武帝曹操の子で、あざなは子建、思とおくり名される。
北齊の皇建2年(561)、孝昭帝か二王・二恪を祀った。植11世の孫、曹永洛らか勅を承けて、東阿県の魚山にある曹植廟を復興した。これはその紀念碑である。したがって曹植廟碑が正しい呼稱だが、あざなによる曹子建碑か広くおこなわれている。また、封地や謚号に因んで、東阿王廟碑とか、陳思王碑とも呼ばれる。
書法は篆隷八分を雑用して甚だ古だが、碑文、極めては工ならず。


5 海陵郡公賀若誼碑 (開皇16年8月・596)
大隋使持節□國靈州總管海陵郡賀若使君之碑。陝西咸陽博物館が蔵。
この碑の書法について、唐初諸人の書が、この碑及び龍蔵寺碑等から出たという説を認めている。
賀若誼(520年 - 596年)は、西魏から隋にかけての軍人。字は道機。本貫は代郡。河南郡洛陽県の出身。


6 啓法寺碑 (仁寿2年12月 602)
重要文化財に指定されたこの啓法寺碑は周彪の撰文、丁道護の書で、石は宋代既に佚し、今は唯、孤拓本が伝わっているのみである。


7 龍華寺碑 (仁寿2-3年・602-603)
この碑は額に奉為高祖文皇帝敬造龍華碑と題し、篆体で、筆法を飛白に作っている。此の如きは額字中稀なる例である。
出土は光緒の20年代、1860年左右か、古い著録にはない。
この碑は断闕しているが、失なわれたのは、三分の一ばかりである。文字は下牛の一部を除いては、非常に鮮明で、孟顯達とは風趣は異なるが、書の優れていることは伯仲の間にあるといえよう。楷書の範本として恰好のものである。


8 寧越郡欽江県正議大夫ィ賛碑 (大業5年4月・609)
碑主のィ贊は、字を翔威といい、碑によれば兄とともに林邑(今の南ベトナム)を伐って功があったという。大業2年(606)、開府儀同三司より正議大夫となり、翌4年35才で歿している。これはその頌徳碑である。
碑文は30行、行39字。額には徑2.5pほどの楷書で「寧越郡欽江縣正議大夫之碑」と穿をはさんで、2行宛行3字で入れてある。碑は道光6年(1826)広東省欽州から出土した。
この碑は、現在、広東省博物館に保管されている。
この碑も別体、假借字を多く用い、書風は、やや肉太で腰高な姿態を、心もち左に傾け右を開張させる。曲線を多くし、点画の間に余裕をもたせ、カンムリや転折の個所を向勢にとるためか、こぢんまりとはしていても、それほど窮屈ではない。歐書のように理詰にできぬ結構も多いが、力は内にこもって品格をもつ。
隋代中央の齊整遒麗の書風の外に、こうした南朝系の書風がみられることは、書法伝流を考える上で、貴重な資料である。


9 陳明府修孔子廟碑 (大業7年7月・611 )
この碑は、形は正書に近いが、純然たる隋の分書である。
八分としては工なるものではないけれども、隷の逓変を見るには欠くことのできない大事な資料である。


2 塔銘および墓誌銘

釈氏の墓誌を称して塔銘と呼ぶとともに、又塔を立てて文を刻し、これを塔銘と称することがある。即ち搭は梵語の窒堵婆の訛略で、率塔婆、兜婆、倫婆、浮図ともいい、高く土石を積みて遺骨を納める塔と、支提、或は制底といって身骨を納めないものとがあり、通じて之を塔あるいは支提といっている。
この外に仏家では造塔を以って功徳と為して、諸仏の像を安置する塔がある。あるいは仏骨、仏牙等を蔵置するものがある。
舎利は又舎利子ともいい、全身舎利、砕身舎利、生身舎利、法身舎利の区別がある。
塔という文字は之を墓誌の意に用いる外に、仏像を安置する宝塔、仏骨、仏牙を蔵置する舎利塔の意に用いる場合があり、現存する隋・唐の石刻では後の二類に属するものが多く見うけられる。

1 古宝輪禅院舎利塔記 (仁寿元年4月・601)
この塔記は、尾に古宝輪禅院記と題しているので、『語石』の如きは、単に古宝輪禅院記といっているが、その文は専ら舎利感応のことを述べたものであるから、羅振玉の『再続寰宇訪碑録』には、宝輪禅院舎利塔記といっている。蓋し舎利には三種あり、骨を白舎利、髪を黒舎利、肉を赤舎利というとあるので、単に舎利と云ったのは白舎利のことで、肉髪珠というのは、黒舎利、赤舎利のことであろう。
この塔は、青州その他30ヵ所において、詔を奉じ塔を立て、舎利を同時に納めたという仁寿元年10月15日より、約半カ年前のものではあるが、右の詔勅の下ったのは6月13日であるから、この塔も既に深い交渉があったことは勿論であろう。

2 青州舎利塔下銘 (仁寿元年10月15日・601)
この塔銘の書は、分書に似て分書でもなく、楷書に似て楷書でもなく、篆・隷・楷の混淆体である。


3 ケ州舎利塔下銘 (仁寿2年4月8八日・602)
これもまた仏骨を安置したもので、青州舎利塔下銘より一年後の刻である。
この塔銘の拓本につき、『校碑随筆』には「原拓は得難きにあらず。然れども摹刻本あり。宜しく審にすべし。」、『集古求真』には「石円く面鼓の如し。刻字十四行、行十三字、四方平斉にして、書撰人の名姓なし。書法方整遒健、兼ねて北派の筆意あり。而もその悍戻の気を化除せり。翻刻本あり。頗る能く真を乱る。当に詳審すべし。」といっている。


4 河東郡首山栖巖道場舎利塔碑 (仁寿4年・604)
現在、山西省永済市博物館に収められている。内容は隋文帝の仏教復興、舍利塔の建設が中心。隋代蒲州の仏教及び仏寺の発展を理解するための重要な実物資料を提供している。
司法書佐・賀徳仁が奉教撰文であるが、年月が記されていない。
この碑の書者は明らかでないが、『金石続編』に、「碑字は筆法縷密高渾、書者は伝わらず。史に称す竇慶兄弟、並に草隷を工にせりと。『金石録』に、唐の司空竇抗墓志、欧陽詢撰井書。隋の衛尉卿竇慶墓志、小楷工妙、欧・虞に減ぜず。惜しむらくは名氏を著さざるをとあり。この碑は慶が勒石せるところなれば、尤も必ず撰書の能手を妙選せしなるべし。」と評している。


5 淳于倹墓誌 (開皇8年11月・588)
この誌は、道光の末年に、山東の任城より出土した。
この墓誌の書法については、『九鐘精舎金石跋尾』に、樸拙渾穆と評している。


6 驃騎将軍鞏賓墓誌 (開皇15年10月・595)
全稱は周驃騎將軍右光祿大夫雲陽縣開國男鞏君墓誌銘。撰書不祥。隋の開皇15年(595)10月、始平縣に葬られた。清の嘉慶24年(1819)4月、陝西省武功県より出土した。
この墓誌の蓋には篆書で周驃騎將軍鞏君墓誌と九字あったが、今は佚。


7 昌楽公府参軍張通妻陶貴墓誌 (開皇17年3月・597)
誌は乾隆年間、陜西咸寧より出土し、初め甘泉の岑建功が蔵していたが、原石は巳に佚し、今伝わるのは摹刻である。


8 美人董氏墓誌 蜀王楊秀文 (開皇17年3月・597)
陜西長安より出土し、誌中の文字には譌字も少なくないが、書法としては隋志中の佳なるものである。
今、原石は巳に佚し、原拓は極めて得がたい。


9 振威将軍淮南県令劉明墓誌 (開皇18年5月・598)
この墓誌は劉明夫人梁氏合葬墓誌と題せる如く、夫婦合葬の墓誌である。
この石は端方の所蔵であったが、今は何人の収蔵に帰せるかを知らない。


10 龍山公墓誌 (開皇20年12月・600)
龍山公は史書に名前のない人物で、この墓誌によってのみ伝記を窺うことができる。
清の咸豊9年(1859)に、四川省の夔州府の城壁を修理していた際に出土した。
三国魏の鍾繇の書を彷彿とさせる書風で、南朝風の艶麗な趣がある。


11 洪州総管安平公蘇慈墓誌 (仁寿3年3月7吉・603)
光緒の間、醫の蒲城か出土した。
縱横ともに約83p糎、37行、行37字、光緒14年(1888)陝西省蒲縣の出土である。
この書の優れていること、隋誌中でも出色のもので歐・虞の先声をなす。


12 壺関県令李沖墓誌 (大業2年12月・606)
近年の出土で、正書19行、行19字。蓋は篆書陽文八字。この石は出土の後、天津の王氏の収蔵に帰した。


13 邯鄲県令蔡府君妻張貴男墓誌 (大業2年十12月・606)
この墓誌は端方の蔵する所で、前に題して隋邯鄲県令蔡府君故妻張夫人墓誌銘井序とある。
夫人は諱を貴男といい、范陽方城の人。よってまた張貴男墓誌とも呼ぶ。


14 主簿呉厳墓誌 (大業4年・608)
河北深州より出土し、原石は所在不明とも、或は貴筑の黄氏が蔵しているともいう。


15 太僕卿元公墓誌 (大業11年8月・615)
この墓誌は夫人姫氏墓誌とともに、嘉慶二十年(一八一五)、西安の咸寧県より出土し、金石續録の著者、陸耀逶の得るところとなつた。咸豊10年(1860)兵火をうけて両石ともに断裂し、その残石四片を憚鯀嘉が重価をもって購ったというが、後、所在を失ったようである。損前の拓本は甚だ得がたい。
構成法は蘇慈誌などと同系であるが、筆の扱いはすこし調子に乗ったところがあり、蘇誌より幾分含蓄が少いようである。横画末で筆を押し返すようにしたり、時に上に拔くような気配を見せるのは、北朝の古法への郷愁のようなものを感ずる。新舊の要素がいろいろに入り混つたいかにも隋朝のものらしい書で、一点疑うべきところはない。


16 呉公李氏女尉富娘墓誌 (大業11年5月・615)
この墓誌は、一に左武衛大将軍呉公李氏女墓誌とも、又単に李富娘墓誌とも、呼ぼれている。同治中(1862-1874)の出土で、もとは南海の李氏に蔵せられたが、宣統の初、天津の王氏に帰した。


17 元公夫人姫氏墓誌 (大業11年8月・615)
この墓誌は太僕卿元公墓誌とともに、嘉慶の初、西安より出土した。隋誌中の佳品。


18 左禦衛府長史宋永貴墓誌 (大業12年11月・616)
この墓誌は長安より出土し、方1尺7寸9分、34四行、行34字、字径5分である。宋永貴墓誌・蓋


19 大将軍韋匡伯墓誌 (鄭開明2年7月・620)
この墓誌は、光緒の中葉、河南洛陽より出土した。
韋匡伯(574-617)は、景照県都陵県(現在の陝西省西安市長安区)の出身で、隋王朝の役人。


五 墨刻

智永真草千字文

智永は会稽山陰の人、王羲之七世の孫にあたり、出家して呉江の永欣寺に住した。
積年書を学び筆力縦横、真草かね善くし、書を求めるものが戸外に満ち、門扉穴を穿るに至り、鉄葉を以ってこれをつつんだ。乃ち世に鉄門限というのがそれである。
後世、智永の書を学ぶものを鉄門限の書法を伝うと称するのは、これらの故事によっているのである。
智永の書として伝世するものは真草千文の外に、淳化閣帖巻七王羲之書中に誤入した草書の若干行と、帰田賦とがあり、その他には多くこれを見ないがこれらの書蹟によっても、智永が陳・隋間に於ける書道の大家であったことが窺われる。
智永はまたその門下に虞世南の如き大家を出し、唐以後の書道界に与えた影響は実に大なるものがあったのである。

1 関中本と宝墨軒本
智永は好んで千字文を写し、その中の佳なるもの八百本を択んでこれを浙東の諸午に施したといわれるが、その殆んどが亡佚して今日世に伝わっているものは、宋の大観中に薛嗣昌が長安に刻した所謂関中本と、明末に刻せられた宝墨軒本とがあり、中でも宝墨軒本が学書者の間には多く行なわれている。この外ではわが国に告から伝わっている真蹟本がある。


2 真蹟本
関中本や宝墨軒本の外に古来わが国に真蹟の一本を伝えている。
この本は初め一異僧あり、常に之を携えて諸国を遍歴し、未だ曾って寸時も身より離さず、逝くに臨んで之を江馬天江に授けた。のち谷如意翁の収蔵に帰し、その没後、小川簡斎氏の収蔵するところとなり、同氏は大正元年(1912)12月、玻璃版を以ってこれを転印して同好に頒たれた。巻末に楊守敬及び内藤湖南博士の跋がついている。


参考資料

高昌国墓塼 郭恩子墓表 北魏 延昌29年(589)
高昌レンガの発掘は、今世紀の初めに日本の大谷満峡と英国の考古学者スタインと他の外国人の発掘調査で始まり、その当時の一部の学者は、研究の年表の高昌国に基づいていた、その後、1930年にアスタナとハラと卓で中国の学者黄文美は体系的な発掘と選別を行い、発掘された高昌レンガの合計120平方メートル以上は、発掘された高昌レンガの最大数になりました。 1949年以降、新疆博物館、新疆社会科学院、その他の部隊は、アスタナ、ハラ、卓の古墳でさまざまな規模の考古学的発掘を行い、また、一定数の高昌レンガを発掘した。その書は豊かで多様である。


高昌国墓塼 麹孝嵩墓表 北魏延和9年(610)


法隆寺薬師像光背銘
法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文。法隆寺には貴重な書の遺物が豊富に存在するが、本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに特に著名である。本銘文には法隆寺の創建と薬師如来像の造像の由来が記され、推古天皇15年(607)の年紀を有することから、法隆寺の創建事情にかかわる基本的な資料の1つとなっている。ただし、実際の制作年代は法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年 623)より遅れるものとみなされている。
本銘文の文体は、釈迦三尊像光背銘文の四六駢儷文とはかなり異なり、漢文の日本語化が進んでいる。従来、推古朝(593- 628)の当初からこのような日本語化の進んだ文章が存在していたとされてきたが、現在では否定されている。ただし、他の遺文から推古朝には日本語文が発生していたことは確かである。
本銘文は縦29.7cm余、横13.2cm余の範囲に、90字が5行で陰刻されている。1行目から順に、16字・19字・18字・19字・18字ある。
本銘文はすべて漢字で記されているが、全体として漢文と日本語の文法が混然としており、国文の一体といえる。筆者・刻者は不明である。書体は痩せた楷書体で、古意もあって風韻が高く、刀法もあざやかで筆触のような味がある。また文字は角張っており、初唐の頃の書風(隋唐書風)といわれている。
飛鳥時代の書風は、当時、百済で流行していた六朝書風(南朝)に始まり、やがて遣隋使・遣唐使の派遣により直接中国大陸の書が流入し、隋唐書風へと変化していく。本銘文は7世紀後半の筆跡の刻字と推定されている。


法隆寺釈迦像光背銘


法隆寺金堂釈迦像光背銘
法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文の白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。
文体は和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある。
文字面33.9cm四方に、196字を14行、各行14字で鏨彫りしている。1行の字数と行数を揃える形式は日本で唯一のものである。
本銘文の筆者は不明である。書体はやや偏平で柔らかみを帯びた楷書体であるが、196文字中、35文字が今日の活字に存在しない上代通行の文字で、日本の上代金石文にしばしば現れる、いわゆる俗字を用いている。用筆は遒勁で精熟、韻致の高い作である。鏨彫りを用いた刻法も行き届き、法隆寺金堂薬師如来像光背銘に見るような鏨のまくれがない。ただし、横画や転折にやや荒削りのところがあり、また、終わりの方は彫りが浅く、字体が萎縮している。全体的には整然と配置された字配りによって統一感に満ち、秀麗と評される。


山名村碑
昔は地名(群馬県高崎市山名町山神谷2104)から「山名村碑」とか呼ばれていたそうですが、1926年に黒板勝美という研究者が「山ノ上碑」にしました。 碑は国の指定特別史跡。
大きさは高さ111p、幅47p、厚さ52p。硬質の輝石安山岩を使用し、前面の平らな部分に縦書き4行で53字が刻まれています。風化のため、一部判読しにくい部分がある。
山上碑は飛鳥時代の681年に放光寺長利僧が母のために建てられた墓碑で、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑。石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅の石碑(6世紀)に類似している。
碑文には、放光寺の長利という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されている。長利の母である黒売刀自は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家(屯倉)の管理者であった健守命の子孫で、父である大児臣は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣の子孫です。
こうしたことから、長利は母である黒売刀自を供養するとともに、上野国の有力豪族の子孫であり、大寺院の僧でもある自らの存在を後世に伝えるために碑を建てたと考えられます。
碑文は、すべて漢字で書かれていますが、日本語の語順で読むことができます。現在につながる日本独自の漢字の使用法が確認できる非常に貴重な史料です。


下賛郷碑
冒頭には「上野国群馬郡」と記されている。「群馬」は「くるま」と読む。この読みが分かったのは、「評」の時代に「車評」と表記されていた史料が見つかったため。郡が設置され漢字二字に改められたときに、「くるまのこおり」という読みは変えず「群馬郡」と表記されるようになった。
さらに下には「下賛郷」と記されている。これは「しもさぬ」と読むが、山上碑で見た「佐野のミヤケ」の佐野のこと。佐野地域の一部を下佐野と呼んでいたのを、漢字二字に改められたときに「下賛」と表記するようになった。そして、下賛郷の中には高田里がある。わずか20年程度しか存続しなかったコザトの事例がこんなところに残っていた。


多胡郡碑


多賀城碑
多賀城碑は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。国宝に指定されている。
当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。
石材は花崗砂岩(アルコース砂岩)。碑身は高さ約1.96 m、幅約1 m、厚さ約50 cmで、その一面を平らにして字を彫っている。その額部(碑面上部)には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている。
多賀城碑は、設置者の藤原朝狩(恵美朝?)が蝦夷平定を成し遂げた自身の功績を顕彰するために建造された。碑の上部に大きく刻印されている「西」の文字も、碑が西方の彼方、京の天皇へのアピールのためであることを示し、碑自体も西に向かって屹立している。
碑に記された建立年月日は、天平宝字6年12月1日(762年12月20日)で、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724)に設置され、恵美朝狩(朝?)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる。
石碑の保存状態を憂慮した徳川光圀の提案などを受けて江戸時代から石碑の保護のために覆堂の中に収められ、場所は古代の多賀城南門の前である。復元模型が東北歴史博物館に展示されている。平成10年(1998)6月に国の重要文化財に指定され、令和6年(2024)に国宝に指定された。


杜乾緒等造像記
開皇12年(592)、杜乾緒・張子元・董難当らが石仏一体をつくり、銘を刻したもので、上下6段に分けて八分に近い楷書が刻されている。


智永行書帰田賦


淳化閣帖 淳化閣帖


隋 開皇三年華厳経巻第丗七


敦煌出土唐鈔本荘子知北遊篇第二十二


法華経巻第六


敦煌出土維摩詰経巻第三


薬師琉璃光如来本願功徳経


吐峪溝出土隋唐戒文鈔本


敦煌出土黄使強伝


吐峪溝出土隋唐間写仏典断片


敦煌出土法華経玄賛義訣


敦煌出土妙法蓮華経玄賛第四凾



敦煌出土法華経玄賛巻第八



敦煌出土唐鈔本左伝残巻
(藤井有鄰館蔵)


敦煌出土開元五年般若波羅蜜経
(書道博物館)