第2巻 16-前 藤原楚水著 省心書房六朝という語は古来その用法が一定しない。呉・東晉・宋・斉・梁・陳が先後みな建康即ち今の南京に都したことにより、これを合称して六朝といった。
唐初の史家李延寿は、東晉の後、宋・斉・梁・陳の四朝が均しく南方の地に拠り、北魏・北斉・北周が均しく北方の地に拠って国を立てたことから、この間の事を記して南北史と名づけ、それ以来この時代を指して南北朝時代と称するようになった。
六朝という語は南北朝の意に用いるとしても、南朝は宋以後四朝にわたり、北朝の魏・斉・周をあわせれば七朝となり、果して六朝の限界をいずれに置くかは、人によって説を異にする。
南朝の書家として有名なものは、宋に徐湛之、裴松之、謝霊運、羊欣、孔琳之、薄紹之、丘道護、顔延之、虞龢、王惜、史稜。斉に王僧虔、褚淵、崔偃、陸彦遠。梁に沈約、徐勉、蕭子雲、陶弘景、王僧孺、徐僧権、庚肩吾、庚元威、貝義淵。陳に徐陵、顧野王。陳隋間に於ける智永等、数十家を下らない。
南朝に碑刻が少ないのは、南朝には禁碑の令がきびしく、帝王の弟であって、爵諸王に列した人でさえ、尚、表請して詔許を得、然る後始めて碑を立てることができたというような次第にもよるが、またその禁令にも時に寛厳なきにあらず、南朝の刻石数は決して少しとしないが、今日においてはその大多数はすでに亡佚し、わづかに十に一を存するに過ぎない。
1 謝霊運石門新営詩
浙江青田の石門の摩崖に刻されたもので、古くは著録に見えない。
謝霊運は晉の車騎将軍玄の孫で、文章の美、江左第一と称され、尤も詩名があった。康楽公を襲爵し、少帝のとき出でて永嘉の太守となる。郡に名山水多く、到るところこれを歌詠に発した。これより先、陶淵明は田園詩人をもって称されたが、謝霊運は最も山水の美を謳った。因って後人これを並称して陶謝といった。
この題詩は謝霊運の書か、或は別人の書か明らかでないが、その書風は爨龍顔に似、劉宋の時の刻であることは、大体疑いないであろう。
2 劉懐民墓誌 宋 大明8年(464)
この墓誌銘は、今日までに出土した劉宋唯一の誌石で、尤も信ずべきものであり、書道史上重要な意義をもつものである。清朝末期に山東省の平原縣、一説に盆都縣から出土した。
宋の孝武帝、大明8年(164)に葬られた劉懷民のために造られた。はじめに銘文を記し、つぎに行状を書いているのが、普通の形式と異る。爨龍顏碑を思わせる隸法を交えた素朴な書風で、南朝のものではあるが、当時の貴族文化の中心からはずれた地方的な書と見られる。
この外、宋の墓誌は、『金石録補』に載せるものに宋散騎常侍謝公墓銘がある。『集古録跋尾』、『集古録目』、『輿地碑目』、『宝刻叢編』、『天下金石志』等に載せるものに、宗慇母劉夫人墓誌があり、『古刻叢鈔』、『金石録補』、『古誌石華』に見えるものに、宋故散騎常侍謝濤及夫人王氏合耐墓誌、宋故散騎常侍護軍将軍臨澄侯劉襲墓誌、その他なお、三、四ある。しかも原石は伝わらず、拓本も覯がたく、その書の如何を知ることができない。
1 呉郡造維衛仏題記 斉 永明6年(488)
この石仏は浙江会稽の妙相寺にあるので、南斉妙相寺造像題字とか、南斉石仏妙相寺造像題字といっている。
その文字は寥々十八字に過ぎないが、刻石文字の絶無である南斉にあっては、最も宝貴すべきものであり、南北書派の原委を知る上にも、もっとも軽視しがたいものである。
2 呂超墓志 永明7年(489)
この墓志は近年の出土で、誌石漫濾し文字は明晰を欠いているけれども、南斉には刻石が少く、これも珍重すべきものである。
地の南北に論なく、碑石の多く立てられたのは歴代王侯の陵墓が主となっている。
近世南朝の陵墓を著録したものには、清の同治間(1862-1874)に莫友芝の『金石筆識』があり、宣統のころ張墳の『梁代陵墓考』が出たが、なおその調査は不完全なのを免れなかった。
近年になって朱希祖が長子朱楔とともに調査を始め、まず自ら六朝の陵墓を訪求し、後、中央古物保管委員会の同人と共同調査を行うこと数次、前後十四回の調査の結果を編輯し、『六朝陵墓調査報告』が出た。その調査した地は今の江寧・句容・丹陽を以って限りとし、南朝の彊域全般にわたって行なわれたものではないが、この数度の調査によって新に発見したものも少くなかった。
朱希祖は、「陵墓上に存するところの遺物は、必らず当に名称を確定すべし。」といって、陵墓の石獣、神道、石闕、亀跌等の用語に関する解説をして、「六朝の陵墓には既に碑誌あり、又雕刻あり。碑誌は歴史に関するあり。雕刻は芸術に関するあり。彫刻中には人物あり、花卉あり、鳥獣あり、故事あり、神話あり。梁の文帝の建陵の如きより以って蕭秀・蕭績諸墓の石礎、蕭宏・蕭景の墓の石柱に及ぶまで、絵粋して以って観れば、粲然として美備れり。而して蕭宏碑側の浮雕八方(四隅)は、頗る漢の武梁の石刻とその精美を同じうせり。これ皆察せずんばあるべからざる也。」といっている。
なお、朱喫氏は民国14年(1935)において、別に『建康蘭陵六朝陵墓図考』一巻を草し、蘭陵(丹陽)に存する六朝の陵墓につき稍詳しく説明を試みている。
1 太祖文皇帝神道 天監元年(502)5月
梁とは南北朝期に都を建康(現 南京)とし、502年〜557年の短命王朝。
建陵は、中国の南北朝時代の梁の文帝と蕭順之の霊廟で、丹陽県の東北25里の東城村にある。その地はまた三城港とも名づける。斉の明帝の興安陵の北数十歩にある。
六朝石刻内でも比較的規模の大きな陵墓だが、2003年時は野ざらし状態であった。
「太祖文皇帝之神道」の八字、一は正刻、一は反刻である。正刻の石柱は、欧陽修の『集古録』及び王象之の『輿地碑目』に載せてあるが、反刻の一石柱は、同治8年(1869)に至って婁県の楊葆光が始めてこれを捜得した。
2 安成康王蕭秀碑 梁劉孝綽撰
蕭秀(475-518)は、名は彦達で、南蘭嶺(現在の江蘇省丹陽市の北東)の中渡里の出身。 南朝梁の皇族、梁の太祖である蕭順之の7番目の息子であり、梁の初代皇帝である武帝蕭衍の弟。
墓は1974年に発掘され、今は南京市七夏区甘家巷小学にある。
墓の神道の石彫りは、南から北へ、石が悪霊を追い払うために2、現在はカメのみ2、東の石柱は柱の基部のみのままで2、神道裏碑2、の4種類8個が配置されており、東と西は反対側にあり、歴史的価値が非常に高い。
蕭秀の薨じたのは、天監17年(518)2月癸巳であり、その葬もまた天監17年であろうと推定される。すなわち北方では北魏の鄭羲碑(511)、司馬暑景和妻墓誌銘(514)等より4、5年の後、張猛龍碑(522)より4年前に当る。
3 始興忠武王蕭憺碑 徐勉撰 貝義淵書
蕭憺は梁の文帝の第10子。天監元年、安西将軍となり、荊。湘・益・寧・南北・秦六州の諸軍事を都督し、後に平北将軍に任じ、石頭の戍車を領し、荊州、克州、益州等の刺史に歴任し、任にあるや勤政愛民、民甚だ帰心した。普通3年(522)11月、45歳をもって薨じた。
墓前に石辟邪が二つあるが、皆已に残損し、墓の右にあるものは尤も甚だしい。また墓の左に一碑あり、碑額の文字は尚存している。
4 呉平忠侯蕭景神道闕 普通4年(523)
蕭景(477-523)、字は子昭。梁の武帝の従父弟である。高祖義軍を起すや、寧朔将軍となり、高祖践祚するや、呉平県侯に封ぜられ、その後刺史、将軍に歴任して、北疆の重任に当った。
墓は南東堯化門東の神巷村の西、蕭儂の墓の西一里余にありという。
墓の神道の石彫りは、南京市七夏区10月村の農地にあり、 全國重點文物保護単位。墓の神道には2種類と3つの石の彫刻があり、そのうち2つは悪霊を追い払うための石で、東と西は反対で、西側には神道の石柱もある。
西側は1956年に発掘され、分断により修復ができなかったため、同場所に埋もれた。 東側は雄獣で、もともと腰から2つに分かれ、左前脚、基部も壊れており、1957年5月に南京市文物保存委員会が再建した。
5 臨川靖恵王蕭宏神道闕 (元徽元年(473)-普通7年(526)4月17日(5月13日))
臨川静恵王蕭宏は、字は宣達、文帝の第六子、武帝蕭衍の弟にあたる。
天監元年、臨川王に封ぜられ、邑二千戸、尋いで使持節散騎常侍都督揚南徐州諸軍事後将軍揚州刺史となり、普通7年3月、疾を以って累表自陳し、詔許せられて揚州を解き、4月薨。侍中大将軍揚州牧を贈られる。謚は靖恵。
朱喫の『建康蘭陵六朝陵墓図考』には、「麒麟鋪より古道に沿って北し、土山の後(上元(江蘇省上元県)北郷の張庫村)に梁の臨川靖恵王蕭宏の墓と為す。墓は北向し、前を二石獣とす。東西相向い、一は已に溝中に傾き、一は僅かに形蹟の指すべきあり。夏日草長ずれば、尽く叢蕪中に隠る。後二十余歩を二墓闕と為す。左は尚矗立せるも、惟、已にその蓋を失った。右は已に傾倒し、柱礎、石柱、円蓋、及び蓋上の石獣みな溝洫中に倒臥した。蓋は蓮花形に造って、已に仏教の影響を受けている。再後を碑一対と為す。左碑は巍然として省在れども、碑文は演漫して読み難し。右碑は已に亡し、僅に贔攝を余すのみ。」
左右両石柱の刻文は、「梁故仮黄鉞侍中大将軍楊州牧臨川靖恵王之神道」「梁故仮黄鉞侍中大将軍楊州牧臨川靖恵王之神道」。
6 南康簡王蕭績神道闕 (天監4年(505)- 大通3年(529)閏6月9日(7月30日))
蕭績は字を世瑾といい、字は世謹。梁の武帝の第四子で、天監7年(508)南康都王に封ぜられ、10年、南徐州刺史となった。時に年7歳。17年に都督.南克州刺史となり、善政をもって称せられ、後、侍中、雲麾将軍等に歴任し、大通3年(529)病をもって任に薨じ、開府儀同三司を贈られ、諡して簡といった。
蕭績の墓は南京の東南八十里の石獅干にある。
7 建安敏侯蕭正立墓誌
蕭正立は臨川靖恵王宏の子。
墓は、今の江寧県の東南、淳化鎮の西南九里の劉家辺の接引庵の前にある。
墓の前には2種類の石彫りと4つの部分があり、既存の2つの神道の石柱はひどく風化している。
1 天監井欄題字 天監15年(516) および 大同井欄題字 大同九年(543)
井欄とは井の周囲にめぐらした井桁のことである。井戸を掘ることは、橋を架し、隧道を開鑿するなどと同じく、功徳供養の為に行なわれたものも少くなかった。
この天監15年(516)の井欄は、梁の武帝が仏教を信じ、功徳の為に井亭をつくり石に刻したもので、梁の大同九年(543)の井欄題字とともに中国最古のものである。
2 上清真人許長史旧館壇碑
この碑は梁の武帝と書を論じた陶弘景の書で、その原石は夙に亡くなったが、拓本は世に存しているものがある。
書は北碑の寒倹の風なく、精厳のうちに清雅の掬すべきあり、後の虞世南の孔子廟堂碑を見るような感がある。
3 瘞鶴銘
瘞鶴銘は、華陽真逸(唐の顧況の号)撰、上皇山樵書と題し、その書者は確定しない。あるいは王羲之といい、あるいは陶弘景といい、あるいは撰者の顧況であると為し、その他、顔魯公、皮襲美などいう説もあるが、今日では梁の陶弘景の書という見方が強いようである。
この銘は焦山(江蘇省鎮江市の東北部、長江の中洲に立つ小さな山)にあるのでまた焦山痙鶴銘ともいい、書道史上頗る著名のもので、唐宋以後、これを載録したものは非常に多い。
南朝に於ける刻石の現存の遺物はまことに寥寥たるを免れない。従って六朝時代の書道といえば、主として北朝を意味し、とりわけ北魏に中心を置かねばならないが、南北朝時代の書道を比較研究するには、瘞鶴銘は重要な意義をもつこと忘れてはならない。
4 新巴晉源二郡太守程虔墓志 太清3年(549) 2月28日
梁の墓志としては侍中司空永陽昭王蕭敷墓志、永陽敬太妃王氏墓志、侍中司徒鄙陽忠烈王、太常卿陸煙墓志、許府君墓志、等が『宝刻類編』、『宝刻叢編』、『金石略』等の書に著録されているが、今は実物を見ることができない。
この志は宣統2年(1910)に湖北省の襄陽から出土した。太清3年(549)は梁の武帝の紀年で、東魏の末年に当り、その書は魏の墓志と殆んど書風を一にし、南北の差は認めがたい。
碑文 梁故威猛將軍諮議參軍益昌縣開國男宋新巴晉源三郡太守程虔,字子猷,陰時六十八。扶業承基,辯和意續,素品積孱。安定南陽白上人也。少烈,才過崇謀。自敢驅率六戎,鎮翼羆虎。馨聲甘風,歌示之國寶,四〓囗僕,萬化美同。是故忠誠三王,獻聞天子,授印,爵班三品,食邑封侯。一邦之婚囗夢世,馨保金存。捨身恭造乘願正道。詔表之神道。太歳己巳丁亥朔二月廿八日辛寅營記囗。
5 要離墓残碣
残石高さ二尺、寛さ一尺四寸五分、厚さ三寸二分。二行、行三字。字径四寸強より六寸に至り等しくない。石旁に分書をもって、梁修要離墓碣。乾隆時出土予呉門専諸巷後城下。光諸十二年丙戌歳朝春。石門李嘉福笙魚。得石誌之。とある。
その書は、閣帖その他の彙帖に見える王右軍一派の書と、格段の相違がある。
6 劉猛進墓碣
この碣は隋に入って後、建てたものであるが、ほとんど北碑と異ならない書が南方にあったことは、南北書派論者の頗る注意すべきことであろう。
沮渠安周造像碑 北凉 承平4年(445)
夏侯粲撰文。清の光緒8年(1882)、火州故城(新疆ウイグル自治区トルファンの高昌) で発掘された。もともとは地元の宝掘家によって取得され、1902年にグルンヴェーデル率いる最初のドイツ遠征隊が宝掘家から購入してベルリンに運び、民俗博物館に保管された。 この記念碑は発掘された際に破壊され、残念ながらベルリンへ向かう途中で2つに割れてしまい、第二次世界大戦後も行方がわからなくなっている。
南朝の宋の武帝が晉に代って帝位に即いた永初元年(420)は、北朝にあっては魏の道武帝拓跋珪の即位後12年にあたり、約20年を閲して魏は北方を統一し、これより南北対峙の局を成すこと幾ど150年に及んだ。この間に於ける南朝の書蹟は、刻石の上に伝わるものが極めて少く、今伝わっている多くは転展鈎摹の法帖の類に過ぎないが、これに反して北朝には刻石が甚だ多く、六朝の書といえば、ただちに北朝の碑刻を意味するが如き感なきを得ない。北朝の刻石としては、勿論、碑がその主なものであるが、造象、刻経、塔銘、経憧等、仏経関係のものも非常に多い。
中国における仏教の伝播は、南方にあっては、尚永嘉以来の学風を継承し、晉に盛んであった林下の風は、宋初に至って衰えず、梁陳に至るも改まることなく、士大夫は多く玄談に耽ることを楽みとした。この風はまた自然に仏教にも反映し、南方は専ら教理を討論したが、北方は行為を重んじた。そのうえ、世の中がみだれ、人は生を安んずることできず、この間にあって仏教はまた一般の信仰を受け、寺塔を建て、仏像を造るが如きことが多く行なわれたが、往々また多くの迷信がこれに伴って行なわれた。造仏祈福は南朝においてもその数に漏れず、晉の簡文帝が即位すると波提寺を造り、宋の文帝は天竺寺、報恩寺を造り、孝武帝は薬王寺、新安寺を造り、明帝は湘宮寺、湘東寺、興皇寺を、斉の高帝は建元寺、武帝は斉安寺、禅霊寺、集善寺を造り、梁の武帝、簡文帝、陳の後主も、皆各々建造があった。しかして、梁武の建つるところ最も多く、かつ同泰寺の壮麗、愛敬寺の荘厳は、これより前未だ無きところであったという。
南朝の仏教は、この時代において極盛に達し、京師の寺刹は七百の多きに至った。
造象については当時の記載亡佚して詳にしがたいが、宋孝武帝造・無量寿金像記・宋明帝造・丈四金像記、斉 永明7年(489)、沈約製文、載広弘明集宋明帝斉文皇文宣造・行像八部鬼神記斉武帝造・釈迦瑞像記梁武帝造・純銀像記等があり、梁の武帝に至っては像を造ること甚だ多く、丈八の銅像を造って光宅寺に置き、僧肪に勅して刻溪に大石像を督造せしめ、また玉を用いて仏像を造ったこともあった。その外、鋳鐘、造磬、経蔵、薬蔵を造るなどのことも少からず行なわれた。
南朝には銅像が多く、石象が少なく、北方には石象が多く、銅象は少い。然して魏における石刻には造象が最も多く、その書にも見るべきものが甚だ多い。石窟は南にあっては建康附近の棲霞山の断崖に南斉及び梁の両朝にわたって数十の石窟が開鑿されたのみで、他には見るべきものがない。これ一つには石窟に適当な巌山のなかったのにも原因するであろうが、また南北風尚の相違にもよることであろう。
北魏 王阿善造像 隆緒元年(北魏孝昌3年)527年
左側の像に「玉皇大帝」と刻まれており、一部の専門家はこれが後世の玉皇大帝である可能性があり、玉皇大帝は当然道尊大尚老君であるとします。
像の後ろの模様は2層に分かれており、上層には牛車と牛車に続く女性が彫られており、その隣の碑文には「道教の人々の女性役人である王阿山が荷車に乗っている」と書かれている。 上の画像は、この像を作った王阿山自身です。
石碑の左右にも文字が刻まれており、その下にはしゃがむライオンの像もあります。 左のテキストは、この道教の像が王阿山によって彼女の亡くなった夫を記念し、彼女の家族を祝福するために作られたことを示しています。
梁 劉敬造像記 |
梁 陳宝斉無量寿経 |
北魏 曹望僖四面造像記 |
北魏 神屬四年長慶寺造舎利塔記 |
北魏 皇興元年李祿皓像 |
北魏 和平元年王萇仏像 |
北斉 天保四年曹普造像記 |
東魏 天平二年金明心等造須弥塔仏像 |
東魏 天平三年比丘慧寂等造像記 |
北斉 天保二年李坦造豫記 |
東魏 武定七年王光仏像 |
北斉 河清三年周貞造燥記 |
北斉 皇建二年邵翊造像記 |
董宣造像記 |
北斉 劉専造像記 |
莫高窟と雲岡石窟 莫高屈
造象は北魏に入って後、盛んとなったが、石屈の開鑿ははるかにその以前より行なわれた。その最早の石窟は
東晋の廃帝の太和元年(366)に当る前秦の莫高窟である。最近の調査によれば莫高窟の最初の一窟はさらに年代が古く、穆帝の永和9年(353)にまで覇るべきであるといわれている。
莫同窟は沙門楽?(人偏+尊)の造営に始まり、後、法良禅師というものが(人偏+尊)?師の窟側においてさらに営建し、この二僧がその濫觴であるといわれる。
後には刺史の建平公、東陽王等がその工をつぎ山の西壁、南北二里にわたって、窟室一千余龕を開鑿し、仏像を塑画し、前に楼数層を設け、また大像堂殿を築き、その像は長さ160尺に及び、小龕は数を知らず、仏相荘厳、金碧燦然として目を奪うものがあった。この石窟は一にその俗名を千仏洞といった。
武州山は高さ二里、盤踞三十里、北は雷公山に達しその最高峯がいわゆる雲岡である。献文帝、孝文帝相ついで多数の石窟を開鑿し、古今無比の偉観を呈した。
この石窟の造営が如何に大がかりな、宏麗を極めたものであったか。このような大規模の石窟や寺院は、魏室の歴代の君主と、群臣、僧侶によって、而も数代をへて初めて完成したものである。これが雲岡において為されたことは、魏の首府が大同にあり、雲岡がこれに近かったが為に外ならない。すなわち大同は漢に平城といい、恆州とも、朔州ともいい、北魏には代都といい、北周以後は雲中路といい、遼に至って雲中をわかって大同県を置いた。北魏はここに首都を置くこと実に90余年、その近郊の雲岡へは、献文、孝文も常に行幸になり、石窟寺は久しく仏教の名域となった。
雲岡の訳経と劉孝標
雲岡の造象は、莫高窟と同様、銘文の存するものが少い。その造象壁画が中国の絵画彫刻史上、非常に価値の高いものであるのに反し、書道史の上には殆んどいうべき程のものがなく、僅かに太和7年(483)8月30日の題銘(第408図)、太和13年の造象銘(第410図)、太和19年の銘文(第409図)。第五洞の銘文、延昌9年の銘文等に過ぎない。
今日存するところの北涼系の書としては、西涼の十誦比丘戒本(建初元年・405)、法華経(建初7年・411)、北涼の優婆塞戒経(427)、法華経方便品(429)等近年西域発掘の真蹟、または高昌の廃墟からグリユソヱーデル氏によって発掘された沮渠安周造像碑があり、承平15年(457)の菩薩経等とともに、前秦のケ太尉祠碑、広武将軍碑、等と、北方に於ける隸楷逓変の書体の変化を見るべきもので、やがて北涼の形式をうけた造象の手法と書体とは、次に来るべき龍門の造象と書体の上に影響をもつことが少くなかったことであろう。
莫高窟洪崖の石窟がかつて訳経の中心でもあった如く、雲岡石窟もまた訳経の中心となり、そうしてこれと共に南方の文化もまたこれを通じて吸収された。
曇曜は雲岡石窟の創始者のみならず、また石窟寺訳経の創始者でもあった。その訳にかかるものに大吉義神呪経二巻、浄度三昧経一巻、付法蔵伝四巻があった。このうち大吉義神呪経は今猶存しているが、浄度三昧経及び付法蔵伝は、智昇の『開元釈教録』に既に闕本といい、付法蔵伝も今は存しない。今存するのは付法蔵因縁伝六巻で、これは雲岡石窟寺の沙門吉迦夜の訳である。
吉迦夜は孝文帝の延興2年(472)に昭玄統沙門曇曜の為に付法蔵因縁伝の外、雑宝蔵十巻、仏説大方広菩薩十地経一巻、仏説称揚諸仏功徳経三巻、方便心論一巻を訳述し、これらの諸経は今皆流伝している。このうち惟、雑宝蔵経は吉迦夜と曇曜の共訳となっているが、他の三種は吉迦夜の訳とのみあって、この五部の経は皆劉孝標筆受となっている。
劉孝標は南朝に於ける著名の文人で、『文選』中にも広絶交論、及び弁命論が載せられ、『梁書』、『南史』みなその伝がある。彼は山東省平原の人で、名を峻といったが、字の孝標を以って行なわれた。彼は南人でありながら、出家して僧となり、北魏の都城の外雲岡の石窟寺にあって訳経に従事した。
吉迦夜の訳経は当にこの時であったであろう。
孝標は江南に還って後、『世説新語』の注で、他の一は『類苑』で、隋唐の三志に皆著録せられている。孝標のこれらの著は、雲岡の石窟寺にあって訳したところの雑宝蔵経の影響であるといわれている。
即ち雑宝蔵経はインドの故事を多く載せ、之に做った『世説』及び『類苑』は多く中国の故事を網羅し、仏教の故事を談ずるものは多く雑宝蔵経に材を取り、中国の故事を談ずるものは多く材料を『世説新語』注及び『類苑』に取った。
雲岡石窟寺はこのようにして北魏の文化の中心となり、独り仏教のみならず、儒学、書道などもまた漸くその発達を遂げるようになり、さらに西僧を通じて仏教の考証的学風が南方中国へも影響するというような、意想外の結果をすら導き出したのであった。
敦煌文献は、1900年に敦煌市の莫高窟から発見された文書群の総称で、長らく莫高窟の壁の中に封じられていたものが、道士王円籙により偶然に発見された。唐代以前の貴重な資料が大量に保存されており、その学術的価値の高さより「敦煌学」と言う言葉まで生まれた。敦煌文書・敦煌写本などとも呼ばれる。
造像の銘記
北魏の孝文帝が義学(仏教の修行を目的とする行学対し、体系的な教義(倶舎・唯識)についての学問)を提唱してより以還、宣武、孝明の世に於いては訳経講論の事も頗る盛んであったが、その奉仏の態度は、南方の君主と
自ら異なるものがあった。すなわち南方においても礼仏施僧、以って福田を求め、所謂千僧会、百僧斎の如きものがあり、晉より後、私人の宅を捨てて寺と為す一種の風習を為し、多く寺塔の建立を見たが、造像、立寺に土木の力を窮めたのは北朝の特徴であり、鑿石造象に至っては殊に北方に多く、南朝には殆んどその類を見ない。
魏は道武帝の皇始元年(396)より孝文帝の太和18年(494)に至る五代、90余年間、恆安(今の大同)に都し、その石窟の開鑿は、専ら帝都の西郊である雲岡において行なわれたが、太和18年11月、都を洛陽に遷すに至って、政治・文化・宗教の中心もまた均しく洛陽に転移し同時に鑿窟造像の事もまた洛陽の近郊である龍門に移るに至り、雲岡は従来の堕勢によって幾分の造象が継続されるに過ぎなかった。然も龍門における開鑿はその後も連綿として絶えることなく、隋を経て唐に至っても筒続鑿された。龍門の造象はまた雲岡の継続事業であったから、彫像の性質も雲岡の末期と全く同一であったが、隋より唐に入るに従い、次第に形式化に陥り、その面目を一
変した。
雲岡は兎も角、龍門に至っては、その造象の銘記によって、北魏の書道を知るは勿論、一般書学の研究上多くの資料を提供され、実に書道界の宝蔵とも称すべきものであると共に、史家宗教家は、これが造象の性質を探求することによって、北朝仏教の特色と、当時の社会状勢を窮めるのに少からず手引となるであろう。
洛陽遷都と龍門石窟 龍門石窟 -1
龍門石窟は雲岡石窟を倣い、洛陽に遷都の次年、太和19年(495)から鑿造を開始したものでその地は洛陽の南30里、伊闕龍門山にある。伊闕は禹が疏して水を通じたといわれ、両山相対し、これを望めぽ闕の如く、伊水がその間を流れているので、これを伊闕といい、また伊水の両岸は山谷対峙して頗る険要を為し、宛として一大石門のようであったため、またその山を龍門山と称するのである。
その東を香山といい、龍門はその西である。この山に大理石の懸崖があって岩窟を作り仏像を彫刻するのに適していたことによって、ここに孝文帝の意を承けてその再従兄弟にあたる比丘慧成の為に石窟の創鑿をした。これが古陽洞の石窟寺で、今これを老君洞という。龍門では最も古く、且最大の石窟で、洞の広約23尺、奥行30尺、高さ約32尺といわれる。
古陽洞に継いで鑿造したのは賓陽洞で、旧くは霊巖寺といった。大同雲岡の霊巖寺に仿ったものである。宣武帝が高祖文昭皇太后追福の為に造らせたもので、古陽洞ととも龍門の洞窟中最も偉大壮麗を極め、この二つはその洞と仏像の大なるに於いて大同に匹敵するものである。
賓陽洞は即ち今の濳溪寺(古は霊岩寺といった)の所在地で、南中北の三窟に分れ、中洞は南北36尺余、東西33尺の大窟である。この洞の鑿造は宣武帝の景明元年(500)に始まり、凡そ24年を経て孝明帝の正光4年(524)に終った。
龍門書体の成立
龍門造像銘は、その書者が異なり、刻者が同一でないから、その書品においても千差万別であり、甚だしく優劣なきを得ないが、その書風は北涼の書体をうけてこれに中州書派の影響が加わり、一種の龍門風の書体をつくりあげている点に、書道史上深い意味がある。
雲岡の造像をその形式と手法によって三種に分け、著しくインド的の特徴を有するものを第一種と為し、唇が厚く、鼻が隆く、目が長く、又耳が特別に大きく長く、重膠で頤が豊かで、挺然として丈夫の相を有するものを第二種(時代の中期のもの)と為し、眼は第二種の如くに長からず、頤も豊かでなく、耳も彼の如く長からず、顔面は第一種の如く円顔でなく、寧ろ細長く、多くは頭上に宝冠を戴き、身体は第二種の如く肥満せず、腰が細い。その最大の特色としては、衣領が肩より斜に直線をもって下り、腹部に於いて左右交叉した点で、これはインド
の僧衣としてはあり得ないし、第二種の造像にも未だ見ないところである。さらにまた袈裟のようなものが左の肩より右の腰に、又右の肩より左の腰へと交互にかけられている。これを第三種(時代の最も後のもの)といっている。
六朝の書は隷楷の間にあるものが多く、その古拙の趣は後人の及びがたいところである。又この時代の楷書は、碑や摩崖にも面白いものがあるが、造象にも古趣の横溢しているものが少くない。造象の書が注意されるようになったのは、乾隆(1736-1795)・嘉慶(1796-1820)以後、北派の書論が起って以来のことで、龍門造象が世に喧伝されたのも、無論その後のことである。
書道も南北交流し、初めは北涼あたりの寒倹であった書が、斉末、梁初の間架結構を基とする南朝新興の書が北方に影響し、乃ち隸楷混淆体であったものが、いわゆる龍門式の樸実にして峻鋭なる均勢のとれた一種の体を成すに至ったものであろう。又龍門に限らず、凡そ北朝の書には異体別字が非常に多い。
造像の銘中に存する別字の如きを単に訛字譌字とのみ速断し、筆者の無学を誹るが如きは、かえって文字の沿革に無知なることを自ら暴露するに過ぎないであろう。
龍門二十品とその書品
龍門造象銘は、もとより300、500をもって限るべきものでないが、その中で文字が比較的に大きく多く、その書も秀逸とされるもの10種を選んで、龍門10品と呼ばれた。
長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造象記
洛州刺史始平公造象記
北海王元詳造象記
楊大眼造象記
魏霊蔵薛法紹造象記
孫秋生等造象記
高樹造象記
比丘恵感造象記
比丘道匠造象記
広川王祖母太妃侯造像記
20種のうち優填王の一種は唐刻であるというので、近来は馬振拝造象記(景明4年8月・503)をもってこれに変えている。又この20種にさらに下記6種を益して龍門山魏造象26種とするものもある。
宮内作太監党法端造象記(正始3年3月・506)
華州刺史安定王造象記(永平4年10月・511)
趙阿歓等造象記(神亀3年・520)
比丘法勝造象記無年月
比丘慧敢造象記無年月
尼僧道道安法造象記無年月
以上の外に種々の小品を増して龍門50種、または100種と称するものが世に行なわれている。
1 長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造象記(牛橛造像記) (太和19年11月 495)
長楽王穆亮の夫人尉遅が、その子の牛橛の冥福を祈る為に、弥勒象を造り願文を刻したものである。
丘穆陵とあるのは旧姓で、後に穆と改めた。
亮は魏に仕えて頗る功績があり、使持節征北大将軍・開府儀同三司・冀州刺史・驃騎大将軍・尚書令・司空公等に歴官し、景明3年、52歳をもって薨じた。
龍門造像中、最も早期のもので、品格が高く、情趣にも富み、龍門書中上乗なものである。肩の転折のとき、大きく筆をゆすり、波法のはね出しを長々と引く書法は、これよりかなり前からあるが、理智的な結構法と相俟つて、大字書法としての完成を見せた作例として書道史上重要な存在である。
2 司馬解伯達造象記 (太和年間・477-499)
解伯逹は魏書などに伝がない。碑文中にある官職の游激は郷官の名、秦に置き、漢もこれに因った。盗賦を巡禁することを掌る。
これも70字たらずの小品であるが、書はなかなか優れていて、廣藝舟雙楫では精品の上に列している。特に左右に力を張り出した書き方は、一種の風致をかもしている。
3 一弗造象記(太和20年・496)
夫の張元祗の供養のために、妻の一弗氏が造つたもの。與の下に車を書いた字は、輿の別体である。一弗という姓は、また乙弗とも書き、後に乙と改められた。これは僅か30字の小品であるが、その書が優れているために20品の中に数えられている。
4 北海王元詳造象記 (太和22年9月・498)
北海王の元詳が、その母高太妃の立願した弥勒像を完成し、母子に佛の加護があらんことを祈ったものである。
元詳は献文帝の第七子で、字を季予といい、献文帝の少子で、高椒房の生める所である。太和9年(485)、王に封ぜられ、高氏を太妃とされた。其の歴官は、初、侍中・征北大将軍より、後に光祿大夫に拝して侍中を兼ね、高祖の南伐に従って、散騎常侍となり、転じて秘書監、行司州牧、護軍将軍、尚書左僕射等に除せられた。
この字は肩のところの転折なども、ふわっと浮かして落し、丸味を持たせている。起筆はうんと高いところから勢をつけて打ち込み、一旦落した筆はゆっくり引廻しているようである。ふところの広い、寒険の気のないこの造像記はすばらしい。
5 洛州刺史始平公造象記 (太和22年9月・498)
この銘は陽文をもって刻されていること、撰書者の名が書かれていること、その書の峻険なることをもって特に注目される。
比丘の慧成というものが、亡父の使持節・光祿大夫・洛州刺史・始平公のために像を造り供養したもので、慧成は法成・慧感・慧榮などとともに龍門石窟開鑿に従った僧だが、始平公が何人であるかはわからない。
6 楊大眼造象記(無年月)
楊大眼は魏の勇将で、魏書・北史・南齊書にみな伝がある。高祗孝文帚に従って大いに軍功をあげ、世宗の初、安成縣開国子に封ぜられ、食邑三百戸、直閣將軍に除せられ、ついで輔国将軍・游撃将軍を加えられ、出でて郁
虜將軍・東荊州刺史となったとある。
この碑には「邑子像」という額が冠せられているが、邑子というのは、金を出し合って仏像を造る結社の会員のことで、この結社の代表者を邑主といい、また像主ともいう。邑子象はこの会員が金を出し合うことによって成った象である。そして、この会の幹事を維那と呼ぶ。
この造像は無年月だが、499年に崩じた孝文帝のための造像であるから、景明初と見て間違いないであろう。
石の質の悪いところに当ったせいか、渤字が多いのが惜しまれる。
7 魏霊蔵薛法紹造象記(無年月)
鉅鹿の魏霊蔵と、河東の薛法紹と二人の造像だが、二人は縣の功曹というのは、至って低い地方官であり、名は史乗に見えない。薛の官位は書いてないが、恐らく同じ程度の人であろう。
鉅鹿は戦国のときの趙邑で、秦に鉅鹿都を置いた。即ち今の河北平郷県に属する地境を流れて南北の線を成し、黄河以東の地をすべて河東と称するのである。後魏のとき江蘇の境にも鉅鹿県が置かれ、また熱河の朝湯県東北八里、大凌河の東をも河東と呼んだが、魏霊蔵と薛法紹の出身地は恐らく前者であろう。記の終りに陸渾県功曹魏霊蔵とある陸渾県は今の河南省嵩県の東北に位置し、その地に陸渾山というのがある。この山は伊水の源の発するところである。魏霊蔵は当時この県の功曹の官であったのであろう。
その書は始平公、孫秋生、楊大眼、魏霊蔵と共に龍門の代表作の一つである。
横画の最後の筆を隸書のように上に拔いているところがしばしばあるが、これを隸意などといつて、隸書の名残を止めているように取る人が今でもあるが、これはむしろ北涼書との血縁を示すもので、隷書とは直接の關係はない。
8 鄭長猷造象記 (景明2年9月・501)
鄭長猷の父鄭演は功を以って冠軍将軍.彭城太守・洛陽侯に除せられ、後に太中大夫に拝し、雲陽伯に封ぜられた。長猷は父の勲功により雲陽伯を襲爵し、南陽太守、護軍長史等に歴官した。この造象はその父鄭演その他の為に造ったものである。
その書は20品中特に優れたものではないが、西北樣式の旧派の名残を示すもので、珍貴な資料といえる。器用にこなしていないだけに、かえって書法の秘密を伝えてくれる。
9 孫秋生等造象記 (景明3年5月・502)
新城県功曹の官にあった孫秋生、劉起祖等二百人によって造られた像である。上截は造象記、下截は維那程道起以下一百四十人の題名である。
新城県は戦国のときの韓邑で、漢に新成県を置き、北魏のときは高陽郡に属した。東魏に至って新城郡といい、隋には廃して県となし、伊闕と改称した。孫秋生等はすなわちこの県の属官であったのである。
この記にも題額がある。中央に邑子像の三字を大書し(邑子像については楊大眼造象記参照)、右に「邑主・中散大夫・栄陽太専孫道務、」左に「寧遠将軍・中散大夫・頴川太守・安城令・衛白犢」と刻してある。
この刻は初めに太和7年(483)と題し、末には、景明3年(502)5月27日に完成したとある。その間20年に及んでいる。この太和7年は太和17年(493)の誤ではないかと思う。
この記、殊に上段は方筆の特色を発揮しながら最も整ったもの一つで、この年代あたりまでが、龍門書の一つの頂点であろう。
10 高樹・解佰都造象記 (景明3年5月・502)
高樹も解佰都も史に見えないが、いずれも北胡の改姓したものであろう。
佰都は太和問造像の解伯逹と同一人ではないかと疑っている人もある。佰は伯に通じ、逹を都に代えて書くというようなことも、或いはあるかも知れない。同一人でないまでも、下に列ねて書かれた解佰勍とは恐らく兄弟
であろうし、伯逹とも少くも何かしら関係があるであろうと考えられる。
11 比丘恵感造象記 (景明3年5月・502)
龍門開鑿に尽した僧の惠感が亡父母の為に象を造った記である。末の二行は比丘法寧の造像記で、別に数えなければならないものだが、同じ輪廓の中に刻られているので惠感に附屬するもののように扱われている。
この記の書を以って楊大眼・鄭長猷・魏霊蔵と同列に置き、龍門造像中最も性質が厳しく鋭いものとしている。
12 広川王賀蘭汗造象記 (景明3年8月・502)
広川王は文成の5王の一人で、名を略といい、延興中(471-475)中都の大官に封位された。性明敏で、鞠獄平なるを以って称せられ、太和4年(480)に薨じ、荘と謚せられた。略の後は子の諧が襲ぎ、諧は太和19年(495)に薨じ、子の霊道が襲いだ。
この造像は、景明3年(502)に、現代の広川王霊道の祖母にあたる侯氏が、その夫たる初代広川王略の冥福を
祈らん為につくったものである。
この記は天井に近い最上段の彎曲したところに鄭長猷などと並んで刻られているので、仰向いて書いたものと思われる。それにしては、たっぷりしたいい字である。場所が悪い爲に、割合にきれいな拓本が少い。
13広川王祖母太妃侯造象記 (景明4年10月・503)
前年夫賀蘭汗の爲に象を造った侯氏が、夫と子を失い、幼い孫を保育して王国を守り、薄氷を踏むような境涯にあって、一途に仏にすがる祈りを記したものである。而るに霊道もまた夭折して悼王と謚せられ、広川王はここにその嗣が絶えた。
造象中、最も温和で品格の高いものの一種といえよう。
14 平乾虎造象記
この記は国学官令平乾虎が広川王太妃侯氏の為に仏造を造った記で、広川王太妃侯造象記の後に刻してある。従ってもとは広川王太妃侯造象記とこれをあわせてひとつに見ていたのであるが、後にこれを分別し、20品が
21品となるに至ったが、もし龍門20品ということをやかましくいうならば、これは当然また広川王太妃侯造象記と併合すべきものであり、拓本も大抵続けて拓されている。
15 比丘法生造象記 (景明4年12月・503)
この造象は比丘法生がこれによって孝文皇帝及び北海王詳母子の為にその幸福を祈ったものである。法生は孝文帝及び北海王詳母子に知遇を得た僧なのであろう。
この時、孝文皇帝は既に崩じて5年であったが、北海王母子は爾健在であった。然るに北海王は、その後間もなく罪を獲て暴死した。
北海王はかく不幸な死を遂げたが、罪に定名がなく、遠近はこれを歎怪し、ために殯を停めること五載に及び、永平元年10月に至って、詔して王封を追復され、諡して平生と日った。
この記はさしたるものではないが、仏像の方は最も重要視されているものの一つである。
16 安定王元燮造象記 (正始4年2月・507)
安定王元燮は太武帝の太子晃の孫で、父の休は獻文帝のとき安定王に封ぜられ、孝文帝に信頼されて太傳となり、南伐にあたつては大司馬に拜した。燮は次子であったが兄の安が早世したので安定王を襲いだ。世宗の初、太中大夫を襲拝し、征虜将軍・華州刺史に除せられ、後また征虜将軍・幽州刺史に除せられ、延昌4年(515)に薨じて靖王と諡せられた。
その書は別に一格を爲し、鄭道昭などと通ずる三過折の用筆と、大きく遠く筆を拔く書きぶりは、北魏書の一つの典型といつてもよい。
17 斉郡王祐造象記 (煕平2年7月・517)
祐は文成帝の孫で、洛陽出土の彼の墓誌銘にも、持節督・浬州諸軍事・征虜將軍・浬州刺史・齊郡王とある。
墓誌に神亀2年(518)正月、32歳で薨ずとあるから、この像の成った一年半ばかり後には死んでいる。
この記は、祐が象を造ったのではなく、他の人が彼の為に象を造り、銘を記したものらしい。
書風も太和・景明の頃からすると大分進歩し温厚なまとまりで、すこし後の碑に見る体が既に備わりつつあるという感じがする。
18 比丘尼慈香造象記 (神亀3年3月・520)
この記の書はずいぶん変った書風でだるが、筆を軽く引き抜かずに、しつっこくこねまわすような書き方は、後世まで必ずどこかに行われている。
19 北海王国太妃高造象記 (無年月)
《孫保造像記》、全称は《北海王国太妃高為亡孫保造像記》。
北海王国の太妃の高氏が、夭折した孫の保というもののために造ったもので、元祥の太妃も高氏であるがこれは母の高椒房であろう。年月はないが高氏は正始元年(504)に刑死しているから、それ以前のものであることは確かである。
20 比丘道匠造象記 (無年月)
法生は孝文帝及び北海王詳母子に知遏を得た僧なのであろう。そしてこの像も、彼が発願して北海王母子の援助を仰いだものらしい。この記はさしたるものではないが、仏像の方は最も重要硯されているものの一つである。
馬振拜造像記 景明4年(503)8月5日
馬振拜を邑主とし、張子成らを維那として造られた邑子像である。古くは20品というと優填王造象記を入れてこれは入っていなかつたが、優填王造象記は唐刻であるというので、その代りに馬振拜を入れるようになつた。割合にゆとりのある面白い書だが、数を整える為に入れられたようなものなので、他のものと比べると、少しく劣るように思う。
21 優填王造象記 (無年月)
韓曳雲等造像とも韓曳雲司徒端等共造優填王像記、韓曳雲等造像記ともいう。
この造像は龍門石窟第0676窟にある。藤原先生は魏の刻とされたが、唐刻であると断定された。