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 第2巻 16-下 藤原楚水著 省心書房

第十六章 六朝時代の書道

四 北斉の碑碣

1 清河王高岳造西門豹祠碑 (天保5年・554)
この碑は剥渤が甚だしく、刻石の年月が明らかでない。
西門豹とは、戦国時代・紀元前五世紀の魏の政治家で、『史記』滑稽列伝に見える。孔子の孫弟子とされ、魏の文侯に仕えての県令に起用されて、田畑への灌漑を含め、河の治水事業を成功させた。このため、当地の人々は敬愛し祠廟を建てた、これが西門豹祠である。


2 李清報徳頌碑(李清撰 釈仙書) (天保6年7月・555)
この刻は磨崖刻であるが、30行、行41字、行字の整斉であることは恰も豊碑の如く、撰文老は李清で、第1行に署名し、書者は燕州の釈仙で、文末に署名している。このような例は、六代の碑には余り多く見ないことである。この石刻が世に知られたのは近年のことで、旧くは著録に見えない。
文中には別体の字が多く、また奏刀によって、筆画の折釘に似たところはないでもないが、法度森厳にして自ら険勁の趣に富み、斉刻中の佳構たるを失わないであろう。
第29行の旁功云々は麗功の誤りであろう。これによって見れば、ここに挿図の拓本の旧拓であることが知れる。


3 郷老挙孝義雋修羅碑 (皇建元年12月・560)
この碑は郷老挙孝義雋敬碑ともいう。敬は名、修羅は字である。維摩経碑の背に刻してある。
額には大斉郷老挙孝義雋修羅之碑の12字を4行に題している。碑は山東省泗水縣の泉林にある。


4 鄭述祖重登雲峰山記 (河清3年・564)
鄭道昭の子の述祖が、幼時、先人につれられて登臨した雲峰山に再び登り、先人の手沢を尋ねて往時を追懐し、感懐に堪えず、文をつくり摩崖に刻したのである。その文は雲峰山の旧迹を述べると共に、また鄭道昭の天柱山、雪居館等の刻石についても言及している。


5天柱山銘 (天統元年5月・565)
前の重登雲峰山記と同じく摩崖で、額に天柱山銘の四字を題してある。その書風も前者と同じく隸・楷の間にあるものである。

6 韓永義等造七仏宝堪碑 (天統3年3月・567)
『金石萃編』は本文中に、今合邑諸人等云々の文字があることによって、合邑諸人造仏堪銘と題し、『平津読碑記』には碑の右方に邑主韓永義の文字があるので韓永義等造七仏宝堪記と題している。
この碑は造象の一種で、上部に像を造り、中に銘19行を刻し、右偏に邑主韓永義等の名を刻し、左方に比丘及び邑子、その下方三列に爵官の名氏を刻している。
書は八分に属するものであるけれども既に楷に近く、また精采に乏しい感がある。


7 尚書左僕射宇文長碑 天統5年8月3日(569)
この碑の字、また隸・楷の間にあり、前記の鄭述祖の重登雲峰山記、天柱山銘、韓永義等造七仏宝堪碑等にくらべれば、隸意筒饒であり、魏の諸碑に近いものがある。

8 隴東王感孝頌 (武平元年正月・570)
この碑は北斉の隴東王・胡長仁が、斉州刺史となって任地に赴く際、平陰を過ぎて古冢を見、それが郭巨の墓であることを聞き、郭巨の至孝に感じ、頌をつくり刻石させたもの。
碑は山東省長清県(現在の濟南市長清区。黄河の東側、済南市区から22q)孝里舖孝堂山,
額題「隴東王感孝頌」と篆書で2行,頌文は隸書。申嗣?の撰文,梁恭之の書。
唐の開元23年(735)楊傑が題記した。


9 晉昌郡開国公唐邕写経碑 (武平3年3月・572)
この碑は『擦古録』には晉昌郡公唐昌刻経記と題し、『芸風堂金石文字目』には前記のように題し、前者は河南武安にありといい、後者は直隸磁州にありと記し、その所在の地を異にしているが、『平碑記』はまた直隸磁州にあ
りと為し、『集古求真』もまた磁州にありとしている。


10 水牛山文殊般若経碑 (無年月)
山東省寧陽縣水牛山の洞中に刻された碑。 筆者は不明。 北斉の頃、盛んに刻された刻経の代表作で、大乗仏教経典の文殊般若経の一部を刻している。 楷書をメインに、多くの書体の筆意が含まれている。
この碑はいわゆる刻經で、10行毎行30字で大乘佛教經典の諸種の一である文殊般若經の一部を刻している。


11 蘭陵忠武王高粛碑 (武平6年・575)
この碑古くは半截を伝えるのみであったが、近年に至って再び出土し、これの全拓がみられるようになった。碑陽は18行、行32字。碑陰は26行、行52字。文の後段は碑陰に刻し、額は篆書陽文にて、斉故仮黄鉞太師太尉公蘭陵忠武王碑の16字を刻し、額の陰には安徳王経墓興感詩一首6行、行10字を刻し、五言、呈第弟太尉公といい、年月を碑陰の末行に載せている。


12 光州刺史宇文公記 (無年月)
石高35p、幅1m。字径12p。11行、行4〜5字等しくない。
書は草隸に近く、稚拙ではあるが、簡古にして情致饒なるは、後世の及びがたいところである。


13 西嶽崋山神廟碑 (天和2年10月・567)
霊山として崇拝された西嶽の神霊を称える石碑の銘文で、『金石萃編』には崋嶽頌といい、『来斎金石考略』には崋嶽頌碑と題している。この碑の撰文者は万紐于瑾で、書者は北周を代表する能書の趙文淵である。文淵の書は、この碑の外に、景福寺碑のあったことが知られているが、今は伝わらない。
隷書の用筆を基本として、篆書や楷書の造形を交えるいわゆる雑体書で、この手の様式が当時の碑銘にまま見られる。原石は陝西省華陰市の西嶽廟に現存する。


14 譙郡太守曹恪碑 (天和5年10月・570)
元は安邑県(現在の山西省運城市)に在り、現在は山西省芸術博物館に現存する。
碑は青石で、六螭紋の碑額、長方形の石座、碑文26行、毎行51字。書体は魏碑体。


九 南北朝の墓誌


1 墓誌の起源

六朝北派の書の伝世するものは、碑碣造像についで墓誌銘を挙げなければならない。
碑碣や墓表は、地上顕見のところに建てるものであるが、墓誌は刻して壙中に納れるものである。従って碑文と墓誌とは、石の大きさもちがい、また文辞も異なるところが多い。墓誌は旧くはただ姓名、歴官、父祖、姻媾の類を記すに過ぎなかった。
墓誌銘もまた北朝のものが多く伝わり、就中、後魏のものが最も多い。近年の出土にかかるもののみにても無慮百石を下らず、これらは皆久しく土中にあって完全に保存され、鋒芒尽く露われ、書体雋抜、新に副に発するが如きものが少くない。小楷を学ぶものは、又ひろくこれ等の諸誌について研究することが必要であろう。

2 南北朝墓誌とその著録

著録に見える墓誌は後魏のものが最も多く、北斉、北周がこれにつぎ隋は比較的多く、唐は先後数百をかぞえ、宋は唐にくらべれば十分の一に過ぎない。元はまた宋の半分におよばず、且、佳刻も少い。
実に北朝の墓誌は書道研究老にとって無尽の宝庫である。

3 北魏の墓誌

1 著作郎韓顕宗墓誌 (太和23年12月・499)
龍門造像の字に近く、楷書としては上乗の部ではないが、尚、分隸の遺意を存し、古拙なところに妙味がある。
この墓誌は光緒16年(1890)に出土したもので、旧くは著録がないが、出土後はかなり著録も多く、また摹刻本すら世に現われている。
韓顕宗(466- 499)は、北魏の官僚・軍人・学者。字は茂親。本貫(発祥の地)は昌黎郡棘城県。
  R01(北魏墓誌百種)


2 寧朔将軍司馬紹墓誌 (永平4年10月・511)
この墓誌はその名によって司馬紹墓志ともいい、或は字によって司馬元興墓誌とも著録されている。昭の子の晒、晒の妻孟氏、族人昇の四墓誌が、乾隆20年(1755)に、孟県の東北八里の葛村から同時に出土した。これはこの地が司馬氏一族の葬所であったのである。
原石は所在を失い、今世に行なわれるものは、すなわち湯令名の重摹本で、その石は尚孟県に現存している。

3 処士元顕儁墓誌 (延昌2年2月・513)
民国7年(1918)、洛陽から出土し、今、北京歴史博物館にある。
北魏の世宗宣武皇帝の延昌2年(53)2月に葬られた元顯儁の墓誌で、19行、毎行21字からなる。洛陽から出土
誌石は首尾四足を具備した龜形をなし、葢は龜甲にかたどり、題に「魏故處士元君墓誌」と楷書されている。墓誌の形式としては類例のない珍しいものである。
元顯儁は城陽懐王元鸞の季子で、景穆皇帚の曽孫にあたる。顯儁は15歳で卒したので、史伝にも漏れている。蓋題に處士とあるのも若くて官歴がないからである。
書は北魏の墓誌の中でもとくに傑出したものであり、筆意は元羽より一層優れている。


4 左中郎将元颺妻王夫人墓誌 (延昌2年12月・513)
光緒年間の出土。
此の誌石は、大倉集古館に蔵さているが、惜しいかな大正の大震災に、燬壊して数塊となり、今は銕索をもって縛緊し、僅かにこれを保存さている。


5 楊州長史司馬景和妻孟氏墓誌 (延昌3年正月・514)
この墓誌は乾隆の間、馮敏昌(1741-1806 字伯求 号魚山,広東省欽州(現在の広西省欽州)大寺鎮馬崗村の人)が捜出した。
司馬紹、司馬晒、司馬昇とともに世に四司馬墓誌と称さるものである。司馬の四誌中、紹、晒の両誌は、その原石は既に佚したが、この墓誌と司馬昇墓誌とは、今なお原石が存している。
この墓誌には、異体の字が多く、書は非常に峻抜である。

6 燕州刺史元颺墓誌 (延昌3年11月・514)
この墓誌の著録は甚だ少い。
この墓志も夫人の墓誌と同じく大震災の厄に罹り、壊れて数塊となり、今なお集古館に保存されている。

7 雍二州別駕皇甫墓誌 (延昌4年4月・515)
楷書、23行、行40字。清の咸豐年間(1851-1861)、西安市に属する陝西省戸県から出土。かつて端方が收藏した。
近日の拓本は既に多少漫濾し、字画がはっきりしないところが少くない。


8 雒州刺史刁遵墓誌 (煕平2年10月・517)
清の雍正年間(1723-1735)に河南省南皮県から出土した。
石は出土の時、右下の一角を欠き、また裂紋もある。
墓誌は28行、毎行33字に書かれ、一族の名を連ねた碑陰があるが、文字の剥落が甚しい。
中和をえたやわらかい書で、北魏の鋭い高い気象はないが、どこかに親しみのある風韻をおびて棄てがたい。
北魏に見られる南朝風な書の一例である。


9 左将軍平州刺史司馬モ墓誌 (正光元年7月・520)
この墓誌は清の乾隆20年(1755)に、その妻孟敬訓墓誌、司馬紹、司馬昇の諸墓誌が河南省孟県より出土した。司馬氏四墓誌と呼ばれている。
原石は当時の知県(県の長官)だった周洵が取り上げ、転任の際持ち去って、遂に所在を失ったという。今見られるのは多く馮昌敏が重刻して県学に置いた石の拓本である。
この墓誌の、懐の広い平たい構え、それでいて時々尻のすぼまったところなど、いかにも鍾に似たところがある。
北魏書中、最も優れたものの一つである。


10 鎮遠将軍鄭道忠墓誌 (正光3年12月・522)
この墓誌は清の道光間(1821-1850)に、洛陽より出土した。榮陽の鄭氏は北魏の望族(人望があり名声の高い家柄)であり、鄭道忠は鄭道昭の父羲の兄叔夜の孫に当る。


11 黄県都郷石羊里鞠彦雲墓誌 (正光4年11月・523)
山東省黄県から出土した。
この墓誌は甚だ幼稚・素朴な書と見る人が多いようだが、これはこれなりに、充分用意を行きわたらせたもので、やはり当時のまたその地方に行われた一体なのである。
一筆で自然に書けそうにない筆画は、石工の鑿のわざと見る人が多いが、これも筆者がこのようになぞってこしらえた裝飾意識の現れである。この傾向は殊に蓋に著しい。用筆には新興の楷書の法をとり入れながら、結体は古い形に従っている。面白い作例である。


12 懐令李超墓誌 (正光6年2月・525)
乾隆年間(1736-1795)に河南省偃師から出土し、県学に保存されていたが、今は所在が知れない。
異体字が多くて読みにくいが、北魏書中でも、すぐれたものの一つといっていいであろう。
どちらかといえば、ゆっくり構えた書きぶりである。大字の書法に属するものと考えられる。


13 呉高黎墓誌 (孝昌2年正月・526)
この墓誌は河南の洛陽から出土し、端午橋に収蔵され、後に貴筑の姚華に帰した。
この墓誌は、その上截に仏象を刻し志文は下截にあり、他の墓誌とはその制を異にしているようであるが、上截の拓本は見ることがむずかしい。
その書は、北派の書には往々蝦疵はあるが、また美玉の如き光をも存し、美と醜とを並び備えたところがある。

14 介休県令李謀墓誌 (孝昌2年2月・526)
魏介休令李明府墓誌ともいう。墓誌は清の光緒18年(1892)、山東安邱県より出土した。
山東省金石保存所收藏され、現在は山東省博物館に蔵されている。
碑は矩形で、碑額に楷書で「大魏故介休縣令李明府墓誌」とある。志文は18行、行19〜20字、墓誌全文共314字 。書法は精湛(巧みで完璧)で、鐫刻も流暢である。


15 威陽太守劉玉墓誌 (孝昌3年11月24日・527)
全称は魏故咸陽太守劉府君墓誌銘。陝西省西安より出土、高さ51.2p、幅54.5p。
石はかつて海豊の呉氏に帰し、清の光緒18年(1892)に火災で毀け、拓本も得難い。
この墓誌には譌字謬体が少くないが、書法は非常によい。


16 雍州刺史安豊王延明墓誌
中華民国8年(1919)に、河南省洛陽市小梁村の北西で発掘された。
墓碑銘は高さ85.4cm、幅170.00cmで、墓碑銘は楷書、49行、1行40字。 現在、河南省博物館に蔵されている。
元延明(484-530)は、北魏の皇族、安豊文宣王。安豊王拓跋猛の子として生まれ、安豊王の爵位を嗣いだ。


17 南陽太守張玄墓誌 (普泰元年10月・531)
この墓誌は清の廟譁を避けて常に張黒女墓誌と称されている。
この墓誌は何時、どこから出たかも伝えられていないが、墓誌に「蒲坂城に葬る」とあるので、今の山西省の永済県の東南にあたる地から出土したものと推定される。山西の西南端、黄河の北に曲るところである。
この墓誌も鍾の書を思わせるところがある。墓誌中では特異なものである。
墓誌の存否は知られず、唯一の拓本を何紹基が秘藏していたので有名である。


18 散騎賈瑾墓誌 (普泰元年10月13日・531)
光緒17年(1891)正月、山東省長山の山径中より出土した。現在は北京大学考古系に蔵されている。


4 東魏の墓碑

1 南秦州刺史司馬昇墓誌 (天平2年11月・535)
この墓誌は、乾隆年間に出土し、初め孟県から北京に運ばれて行ったが希望者がなく、次で天津に運ばれ、そこで劉鉄雲の購うところとなり、劉鉄雲はさらに端方と曹全碑の未断本と交換し、その石が陶斎の所蔵に帰したが、その後陶斎の死後、その石がわが国に舶載されて、今では中村氏の書道博物館の収蔵に帰した。
乾隆20年(1755)、河南孟県より出土した司馬の四誌とは、司馬紹(元興)、司馬晒(景和)、司馬晒の妻孟氏、及びこの司馬昇(進宗)をいう。


2 滄州刺史王僧墓誌 (天平3年3月・536)
河北省滄縣より出土。原石は槍州の王国均の家に収蔵されている。
この墓誌は東魏に属し、洛陽出土の北魏の墓誌とはまた風気を異にする。
魏齊の間にかけて、いささかくずれた書風が行われるが、これはまださほどに至ってはいない。
異字体も多く。その方面の資料としては、重要なものの一つである。


3 定州刺史李憲墓誌 (元象2年12月・539)
この墓誌は光緒の末年に河北の趙県から出土した。

4 斉州刺史高湛墓誌 (元象2年10月539)
高湛墓誌銘元象二年(五三九年)山東・徳川出土
乾隆14年(1749)の出土で、徳州は名族高氏の墳墓の地で、高貞・高慶の両碑もここから出た。あわせて「徳州三高]と呼ばれる。その書は魏誌中では最もおだやかなもの。これも碑誌通有の体よりも、魏晋傳來の書法に近い。


5 冀州刺史開国公劉懿墓誌
(興和2年正月・540)
この墓誌は、道光年間、河南の安陽から出土し、後、山西忻州の焦氏に帰した。


6 渤海太守王偃墓誌 (武定元年10月・543)
この墓誌は、光緒元年(1875)孟夏、その年3月大雨あり、崖土陥没し、中よりこの石が出た。
碑文は損毀がなく、全文は472字。
初拓本には戴杰の跋が無く、その夏に至って跋を刻し、次いで江肇鱗が観款を刻し、光緒5年(1879)12月に至って、余家鼎がまた最後の余地に観款を刻した。


7 雍州刺史章武王妃盧貴蘭墓誌 (武定4年11月・546)
この誌は磁州より出土し、羅振玉が収菷す。誌題して魏故使持節・侍中・司徒公・都督雍華岐井揚青五州諸軍事・車騎大将軍・雍州刺史・章武王妃と称す。

8 雍川刺史安豊王妃馮氏墓誌 (武定6年10月22日・548)
この墓誌は近年の出土。


9 源磨耶壙記 (武定8年3月・550)
石でなく甎で、縦横各36p、十行、行十字、楷書。ほとんど文字が見えない。

5 北斉の墓誌

1 開府参軍事崔頠墓誌 (天保4年2月・553)
北齊に入ってからの刻で乾隆中に山東省益都より出土し、山東省青州市博物館に蔵されている。
その字は楷書だが、あまり巧みではない。


2 順陽太守広州大中正皇甫琳墓誌 (天保9年11月20日・558)
河南省安陽より出土、天津博物館に蔵されている。40.5p×40.5p


参考資料


北魏 元君墓誌銘


北魏 広楽太守枳仁男楊宣碑額


北魏 崔敬邕墓誌銘 煕平2年(517)11月
北魏の肅宗孝明帝の煕平2年(517)11月に葬られた崔敬琶の墓誌である。康煕18年(1679)、敬邕の郷里にあたる河北省安平県から出土したが、今日では原石の所在がわからず、数種の伝来の整拓によってのみ知られている。
清朝では北魏の墓誌として珍重され、その自然で勁健な書風が推稱されたが、近年に洛陽出土した諸誌に比べると、やや低い調子のもので、刻法も最上とはいえない。


北魏 安楽王墓誌銘
拓跋 長楽(生年不詳-479)は、北魏の皇族。安楽王。文成帝と李夫人のあいだの子として生まれた皇興4年(470)、建昌王に封じられた。延興5年(475)12月、安楽王に改封された。長楽の性格は重々しく落ち着いていたため、献文帝に愛された。太和3年(479)、内行長乙肆虎とともに反乱を計画して発覚し、死を賜った。王礼で葬られ、諡は獅ニいった。

元詮(477-512)は、北魏の皇族。字は搜賢。拓跋長楽の子として生まれた。安楽王の爵位を嗣ぎ、征西大将軍の位を加えられた。宣武帝の初年、冠軍将軍・涼州刺史となった。州において汚職に手を染め、贈収賄を横行させた。正始3年(506)、都督南討諸軍事・平南将軍として淮南に赴き、鍾離を包囲した(鍾離の戦い)。敗北して帰還すると、平北将軍・定州刺史に任じられた。永平元年(508)、京兆王元愉が反乱を起こして信都に逃れると、元詮は李平や高殖らとともに信都の四面を焼き討ちした。まもなく侍中の位を受け、尚書左僕射に任じられた。永平5年(512)3月28日死去した。享年36。尚書左僕射・安楽王のまま、使持節・驃騎将軍の位を追贈された。諡は武康といった。



元鑑(生年不詳- 527)は、北魏の皇族。字は長文。元詮の子として生まれた。安楽王の位を嗣いだ。孝昌3年(527)、北魏から離反して葛栄に下った。都督の源子邕と裴衍が元鑑を包囲し、斬首して首級を洛陽に届けた。孝明帝は元鑑の元氏の姓を剥奪した。孝荘帝の初年、元氏の籍と王爵をもどされ、司空の位を追贈された。


北魏 江陽王次妃石夫人墓誌 永平元年(508)
宣統元年(1909)、河南省洛陽の北より出土。現在は上海博物館に蔵されている。
夫人の諱は婉、字は敬姿、勃海南皮(現在の河北省滄州市南皮県)の人。
筆力雄健で、早期の北朝墓誌の筆法の特性が観られる。


北斉 趙郡王修寺頌記


北斉 朱岱林墓誌銘 北斉・武平2年(571)2月
君の諱は岱林、字は君山、楽陵湿沃(山東省徳州市に位置する県級市の楽陵市)の人。
清の雍正3年(1725)に王化洽が発見し、1985年より寿光市博物館が蔵した。
彼は聡明で、北魏の皇族にあたる王に仕えたが、出世を望まない高潔な人であった。
「朱君山墓誌」とも呼ばれ、撰書者は記されていないが、誌の序文は朱岱林の子の朱敬脩、銘文は姪の朱敬範が撰文したとされている。
主に楷書で書かれているが、篆書や隷書も見られ、いわゆる「雑体書」。


北斉 姜纂造像記 天統元年(565)9月8日
大□郷董村の老君洞(道教寺院)より出土。乾隆時に金石学者の武億が蔵し、現在は偃師商城博物館蔵。
魏碑体で筆力雄健、方正にして端庄、結体較長、歐陽詢結体の前駆体。


北斉 邑主馬天祥造像記 北斉・武平9年(578)2月28日


北魏 李璧墓誌 正光元年(520)
李璧は、政務では皇帝に仕える重臣の補佐を務め、軍事では多くの賊軍を討伐して功績を挙げた。


北周の墓誌

1 開府儀同賀屯植墓誌 (保定4年4月・564)
この墓誌は『古誌石華』続編に全文を収めている。
書法は、「楷字最も小にして而も極めて古秀の致あり。人の尋味に耐う。」と(清)毛鳳枝『関中金石文字存逸攷』が評している。


2 釈氏の墓誌銘
僧にあっては墓誌銘を塔銘といっているが、中には稀に墓誌銘といっているものもある。

3 恵猛法師墓誌
これは僧にして省墓誌銘と称したものであるが、その例は極めて少い。多くは塔銘、塔記、行塔記、砕身塔、石室誌銘、等と題してある。


仏教の石経

1 磨崖刻経

六朝の書蹟は、造像銘、碑碣、墓誌銘によってその多くが伝わっているが、さらに仏教経典の刻石によって伝わったものも少くない。これが即ち石経である。同じく石経といっても、儒家の石経、仏家の石経の別がある。
儒家の経は漢魏以来、早くからその刻石を見たが、仏家の刻経に至っては、斉・周以前には殆んど無い。
すなわち仏教の初めて中国に入るや、寺院の建設と、訳経が主として行なわれ、次いで石窟を開盤し、仏像を刻することが盛行し、これが魏晉を経て南北朝に及んだ。
尤も仏教の刻経を北斉以後とする説には反対説もなくはない。
仏教の経典で石刻のあるは、北斉にあっては風峪の華厳経碑(天保2年・551)、霊泉寺刻経(皇建元年・560)等が最先であり、北周にあっては小鉄山、崗山、葛山等、所謂四山の摩崖の刻経がその最も先なるものであろう。
仏教の刻経は、その施された材料の形体によって大約、三種に分けることが出来る。その一は摩崖であり、その二は経碑であり、その三は経幢である。
而して隋以前に経瞳はなく、唐以後に摩崖刻は極めて少い。その多くは経幢に刻し、碑はこれにつぎ、宋以後は惟、居庸関の一刻の外、摩崖剿は絶えて見ない。
摩崖とは、自然の山岩に幾分人工を加えて平らかにし、それに経文を刻したもので、概して大字である。摩崖刻は適当な岩石を発見するのでなければ、これを刻しがたいので、江南地方には殆んど無く、江北にあっても、斉魯の間が最も多く、その世に知られたものに響堂山の摩崖、泰山経石峪の金剛経、徂徠山映仏巖の大般若経があり、その外、尖山、小鉄山、崗山、葛山、水牛山にも各々の摩崖の刻経がある。

1 響堂山石窟の磨崖石経
響堂山は河北省の磁県と河南省の武安県界にある山で、一に鼓山ともいう。この地は鄰に都した北斉にとっては、恰も北魏の雲崗、伊闕にも比すべき地点で当時盛んに石窟が開鑿され、造豫が盛行し、この石窟は天龍山石窟と並び称せられるものであった。
雲崗の石窟は造像が主で、文字の刻は殆んど見られず刻経は無い。然るにこの響堂山に至っては造像とともに刻経が盛んになっている。
鼓山石窟の内外の石壁には多くの経文が刻され、響堂山石窟が龍門その他と異なった一つの特色を為すものである。
この刻経は北斉の天統2年(566)に始まり、武平3年(572)に終わったとある。

維摩詰所説経
維摩経は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』。
サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』である。


無量義経
「釈迦が無量義(無限の数量の、いろいろな意味)を説いたお経」というタイトルの漢訳仏典。
南北朝時代の斉の建元3年(481)に、中天竺(中部インド)出身の曇摩伽陀耶舎が、広州の朝亭寺で梵文(サンスクリット語)から訳出したとされる。


2 徂徠山大般若経  (鉄山 文殊般若経)
徂徠山は山東省泰安県の東南にある山で、この山の摩崖に刻された大般若経を世に徂徠山大般若経という。
この文字も泰山の金剛経とその趣を同じくするものである。但し必らずしも同一手に出たか否かは確定しがたい。


3 泰山経石峪金剛経
泰山は、山東省の膠州湾より起り、西行して省の中部に連亘し、その主峰は泰安府城の北にある。中国五獄の一で、一に東獄といい、また泰岱、岱獄岱宗、岱山とも呼ばれる。羣峰羅列し、その最高峰を丈人峰といっている。東西南の三天門、及び東西中の三溪あり。最も風光の勝処であるという。その余、峰巒溪洞の著名なものに明月嶂、登仙台、神霄山、孤山、鶴山、粱父山、小洞天、水簾洞、馬棚崖、飛来石、半山亭、朝陽洞、黄蜆嶺、白雲洞、周観峯、呉観峰、泰観峰、日観峯、月観峰等数えるに勝えない。
この山はまた秦の始皇が東巡して刻石したところで、岳頂の登封台下にある無字碑を始め、玉女池の西にある秦篆碑、黄蜆嶺下の五大夫松等、書道史と交渉の深いものが多い。金剛経はこの山腹の経石峪に刻された。


4 尖山磨崖
尖山は、すでに文字が残っている摩崖は無い。

5 水牛山仏教磨崖
水牛山の磨崖に刻されたものとしては、水牛山文殊般若経が最も著名。文殊般若経の外、なお他にも少なく
あるまいが、その詳しいことは不明である。

6 屋騋嶝石経
この磨崖刻は、旧遼州に一切経を刻したとあるから、刻経の数も少くなかったと思われる。拓本を見た者の言によれば華厳経の成就品で、その字、径寸、極めて険勁であるとのことである。

7 四山磨崖
四山磨崖とは鄒県の東北にある小鉄山、崗山、葛山、尖山の諸刻をいう。
その字の大きさは尺に至り、その拓本は人より高きもの両束にも及ぶという始末で、その整理は容易でないが、題額等を大書しようとするには、学ぶべき点が少なくない。
額の書法といっても別法はないが、唯、これ等を能く臨学しその操筆に熟せば、得るところが鮮少でないであろう。

2 碑版石経

仏教の経典の刻石されたものに磨崖、経碑、経幢の三種があるが、これは元来儒教の石経を真似たものである。始め寺塔の建立や、造豫を以って功徳としたが、その研究が深まるに従い、経典を大切にし、これを研究する傾向を生じた結果に外ならない。
磨崖と経碑とは、その前後がいずれであったかは明らかでないが、現存の石刻について見れば、風峪の華厳経の碑石が最も古い。それは北斉の天保2年(561)に刻されて居り、響堂山磨崖の天統2年(566)に先だつこと10余年、徂徠山の大般若経、泰山の金剛経などよりも遥かに早いが、またその反対に仏教経典中最も大規模な房山の刻経に至っては、前記の諸種の摩崖刻に比して余程後に着手されている。

1 風峪華厳経
『語石』に、遼州新に仏経を出すというもので、今の山西太原の西南にあり、『山西通志』には、「風洞、太原県の西三里、風峪口の甎甃洞にあり。穴中の三柱、四壁に華厳経を刻す。」とある。
風峪の経も碑に刻したもので、摩崖ではない。ただこれが後の静碗の刻経に影響したものであることはいうまでもない。風峪の石経碑についてはすでに久しく諸家の著録に散見している。

2 房山の石経
房山の石経は、隋に始まり六朝には属さないけれども、風峪の華厳経碑についで行なわれ、仏教の経典の刻碑としては尤も代表的のものである。
この石経は儒家の鴻都石経、魏の三体石経にもまして大規模のもので、前後約750年にわたって継続された中国の仏教史上にあって最も特筆大書すべき大事業である。