第2巻 16-中 藤原楚水著 省心書房清の嘉慶(1769-1820)・道光(1821-1850)の際、碑学が勃興して以来、学書者であって北碑を口にしないものはなく、北碑をいうものは魏碑を称せざるはなく、六朝書といえば直ちに北碑を意味し、北碑といえば、即ち魏碑を意味するほどであった。蓋し魏は国祚長く、碑刻盛んであり、その書は体として備わらざるはなかった。
沮渠安周造像碑(北涼承平3年・445)
この碑は光緒帝8年(1882年)に、新疆ウイグル自治区トルファンの高昌の古代都市で発掘され、1902年に、グルンヴェーデルが率いるトルファンへの最初のドイツ遠征隊が宝物掘り人から購入し、ベルリンに運ばれ、民俗博物館に保管されした。 この記念碑は発掘された際に破壊され、残念ながらベルリンへ向かう途中で2つに割れてしまい、第二次世界大戦後も行方がわからなくなってしまった。
1 大代華嶽廟碑(太延5年5月・439)
この碑は宋人の著録にその目を見るが、明以来の著録にはひとつも及んだものがない。すなわちその石は久しく巳に佚したことが知られる。
今伝わっている拓本は所謂海内の孤本で、もと福山の王文敏の収蔵であったが、文敏の殉国後、劉鉄雲の収蔵に帰し、劉氏がこれを石印に付して世に公にするに至り、始めて世に知られるようになった。
2 中岳嵩高霊廟碑(太安2年・456)
この碑は北魏の太安2年(456)の刻石で、旧くから寇謙之の撰文で且その書であると、一部には信じられているが、文中に、「会有継天師寇君名謙之」等の語があるによれば、謙之の撰文ということも疑わしく、またその書であるということも信じがたい。華岳廟碑とともに寇謙之の門弟か、またはこれと交渉のあったものの刻石であろう。
寇謙之は魏の道士で、太武帝の崇敬が厚く帝の毀仏にも深い関係があった。
3 宕昌公暉福寺碑(太和12年7月・488) 暉福寺碑
碑額の下に穿あり。方座。上部は方形。下部の両側は弧形に内側に収縮。
1974年、陜西省澄県より西安碑林博物館に移管。
北魏の王遇(慶時)の造営した暉福寺に建てられた碑。王遇は、孝文帝および宣武帝のときの宦者。もと李潤の羌族で、優遇されて高官にのぼり、宕昌公の爵位を受けた。
碑文には、皇帝・皇太后の徳をたたえ、建碑者の王慶時(遇) の功績を述べたあと、3年間の歳月を要して二聖(孝文帝・太皇太后)の三級仏図を造った由緒が書かれている。
題額の「大代」とは北魏のことだが、この碑の文字は龍門開鑿の数年前でありながら、龍門造像記の強さ・鋭さとは、ほど遠い感じがする。意外なほどに穏やかで、線の太細の変化がなく、起筆・終筆なども優しく柔らかで、筆致は安定し飾り気のない淡々とした楷書だ。全体として、文字は方形に近く感じますが狭苦しさはなく、おおらかで豊麗な味わいがある。
また、北魏の異体字も多く見られる。このことから、南朝人の影響のもとに北朝人が書いたものか、逆に北朝に来た南朝人が異体字を使用したのか、いずれにしても異体字の研究に一つの資料を提供している。
4 孝文帝弔比干墓文(太和18年11月・494)
原石は郷人の為に毀されて亡佚したが、宋の元砧5年(1090)に、呉処厚が民間に保存された拓本を以ってこれを重刻した。今、世に伝わっているのは、この宋の重刻本である。魏の原刻は已に見ることはできないが、旧揚本によって重刊したのであるし、もとの字形に大体近いものと信ずる。
『魏書』によれば、高祖孝文帝は、太和十八年(四九四)十一月十九日己丑、代より都を洛陽に遷されたが、これより先、かつて比干の墓に過ぎり、祭るに大牢を以ってし、また鄰に幸して比干の墓を経、その忠にして戻を獲たるを傷み、親しく弔文をつくり、碑を樹てて之を刊せられた。
書者は何人であるかは明らかでない。
5 平東将軍営州刺史元景造石窟記(太和23年4月・499)
正しくは造像の記である。龍門の造象記に較ぺると、その時代は始平公、牛楓、北海王元祥等よりは1〜2年遅れているが、司馬解伯達、楊大眼、魏霊蔵、雲陽伯等よりは幾年か早い。然るにそれらの書とは大いに趣を異にし、寧ろ後の張猛龍碑に近い趣のあるのを感じさせ、八分より蝉蛻し、全く楷書と化し、渾然として痕跡を留めず、多少の円熟さをすら見せている点、他の造像記と著しい相違がある。そうした点に於いてこの刻石の如きは書道史上特殊の位置を与えらるぺきものであろう。
東西の石窟中、西洞が最も古い。この石窟は営州(今の朝陽県)の刺史元景が、孝文帝の不予の報を聞き、武州の石窟寺に擬して、帝の御病気平癒を祈ったものである。
6 光州刺史貞侯高慶碑(正始5年8月・508)
光緒20年(1894)、山東の徳州より出土した。碑は首行の下方より6行にわたって斜に一角を欠き、数十字を損している。高貞碑とは、その書は頗る酷似し、六朝の楷書中優美を極めたものである。
7 石門銘(永平2年正月・509)
陝西の石門の摩崖に刻したもので碑ではない。石門は漢の永平中、漢中太守部君が開穿し、その後447年、魏の宣武帝の永平2年(509)にさらに開修したものである。
8 南石窟寺碑(永平3年4月・510)
碑文は北魏の州刺史奚康生が南石窟寺創建の功徳について記載。民国初年甘粛川王家溝出土。
碑文は楷書23行、行38字、下に断欠あり各行最多34字、その点画はやや隷意を帯び、内に向かって締まり、横画はやや右上に傾斜、筆勢は動きがあり素朴で力強い。全体的に厚みがあり、気韻が前後連なる書風は北魏碑刻書法には珍しくたいへん価値がある。
9 充州刺史鄭羲碑(永平4年・511)
鄭道昭がその父鄭羲の為に書刻したもので、上碑と下碑とがある。上碑は平度州、下碑は掖県に、みな摩崖に刻したものである。文は上下碑、殆んど同じで、多少は異なっている。
一般的に鄭文公碑といった場合は、ほとんどの場合鄭文下碑をいう。
始め上碑を平度州の摩崖に刻したが、石質が粗であったので、掖県に好石を発見して再刻したのである。下碑は上碑に比して文字も稍大きい。上碑は糢糊としているが、下碑は文字省完好である。
論経書詩(山東雲峯山)
鄭道昭が道俗の人々と雲峯山に登り、神仙道の経書を論じてつくった五言古詩を縦450×横600cmの巨岩の平らな面に文字を刻した摩崖。
1字が約15cmの大楷で、気がまえは壮大で、骨力に富み、暢達の直線的な筆致で、同じ鄭道昭による鄭羲下碑の精妙さとは別の世界観で、豪放磊落で鄭道昭の傑作といわれている。
鄭羲下碑よりも石質のもろい部分にも刻していることから磨滅している箇所が多く見受けられる。
論経書詩は文字の大きさに比べてやや細みの点画だが、強靱な横画の特異な伸び伸びとした力強さを見せ、転折は隸涯のように組み合せて、頗る鋭どいものがあり、隸意を含む用筆の自在さに、彼独特の世界を展開したもの。この蔀を含めての康有為の「円筆の極軌」といった評言は妥当でない。
筆法は、筆管を紙面に垂直にあてて穂先を点画の中に隠すようにして運筆する円筆の筆使いで、点画は丸みを帯びる。円筆で書かれた文字は、ゆったりとして大らかな感じになる。
均一な太さの線、丸みのある画のような篆書体のような特徴や、円筆による線が特徴的な隷書体のような要素が含まれている。
観海童詩(山東雲峯山)
五言の詩。その風格は、論経書詩のように文字は細いが、力強い作。
中字のもので、点画がやや痩せているが、かえって筆の動きはさらに活発となって、細い線條が鋼鉄のような強い響きのあるリズム感に満ちている。
10 充州刺史賈思伯碑 (神亀2年6月・519)
この碑は古来その書妙を以って賞されたが、碑石は幾度か顕晦した。すなわち宋の趙徳甫は碑巳に亡せりといい、その後太原の温益はこれを訪得した。然るにその後また碑は土中に霾没し、元に至って再び顕れ左の記が刻された。温益は建中靖国の初、筒書左丞に官した人である。
11 魯郡太守張猛龍碑 (正光3年・522)
張猛龍碑は今なお山東曲阜の孔廟の同文門内に保存されている。
碑陽は槽書26行、行46字、碑額には「魏魯郡太守張府君清頌文碑」の12字を3行に刻し、碑陰には建碑に関係した人々の氏名、官名等を刻してある。すなわちこの碑は郡邑の吏民が太守たる張猛龍の為めに碑を建てて、その徳を頌したもので、清頌とあるのは頌徳、誦徳、清徳頌などと同意で、徳政碑の一種である。
拓本の伝わるものもなく、旧拓といっても、いずれも明以後のものであるが、それでもなおその拓の新旧によって存字、点画の渤痕などはなはだしい相違がある。従ってこの碑の書を学ぶには少しでも拓の古いものについて研究することが必要である。
12 馬鳴寺根法師碑 (正光4年2月4日・523)
現山東省広饒県大王鎮に立。
清の中期後に表面の細かな亀裂が始まり、咸豐、同治年間三つに断裂した。1984年済南に移り、山東石刻芸術博物館に現存する。
碑の額に「魏故根法師之口口」とありその上に更に「馬鳴寺」と題するのは、他に見ない異例である。
馬鳴寺根法師碑は末期の代表作の一つであり、既に北方固有のものと、南朝新興の書風とが完全に混合した後に生れたもので、北人の風気はなお存するが、用筆は南系と全く別つところがない。力強く変化に富む北魏碑刻の上品。
13 営州刺史懿侯高貞碑 (正光4年6月・523)
被葬者の高貞の墓の荒廃とともに土中に埋もれ、長くその存在を知られずにいたが、清の乾隆年間末期(1790年代末)に徳州で出土した。
戦後、文化大革命の被害により真っ二つに破壊されたが、その後補修されて山東省徳州市徳城区の孔子廟に保存されている。
六朝時代の北朝で発展した「六朝楷書」を代表する書蹟として知られるほか、同族の高慶・高湛(北斉の武成帝とは別人)の墓碑「高慶碑」「高湛碑」とともに「徳州三高碑」として知られている。
羅振玉は、この碑と高慶碑の書者を同一人なりと推定している。
雍川刺史松滋公元萇振興温泉頌 (無年月)
松滋公元萇が、陝西省驪山の温泉を修復した功績を称えたもの。この地は、のちに楊貴妃が湯浴みをした華清池で知られる温泉の名所だった。梁啓超は、張猛龍碑とともに北魏を代表する名品と高く評価している。
畢沅は『関中金石記』で、この碑額の篆書を以って字体奇詭といっているが、これは北魏の小篆を知る好個の資料として、書道史上甚だ価値あるものといってよい。
1 代郡太守程哲碑 (天平元年11月3日・534)
清代光緒年間に山西省長子県袁家漏村で出土し、太原の傳公祠の碑閣に移置。現在は山西博物館に蔵されている。
碑面の裏側には仏像が刻してある。
この碑は線の太さの変化の少ない直線的な書風で、楷書であるが、尚多く隷書の筆意を存している。
2 中岳嵩陽寺碑 (天平2年1月・535))
この時代の碑としては珍らしく八分をもって書かれ、書道史上、当時の隷書の如何なるものであったかを知るべき好資料である。
3 侍中黄鉞大師録尚書事高盛碑 (天平3年5月・536)
碑はその下截を佚し、上截を存するのみである。その書は高翻碑とともに、東魏の書風を窺うに足る好資料である。近年の出土にかかるため著録したものは少ない。
諸家は皆その書を以って方整なりといい、遒健なりと評しているけれども、結体平直で用筆は含蓄に乏しきの憾なしとしない。またこれ一時の風尚であろう。
4 侍中黄鉞太尉録尚書事高翻碑 (元象2年・539)
この碑は高孝宣公碑ともいう。中間は剥落が殊に甚だしい。この碑は宋の時なお在存したが、その後、碑は地中に湮貍し、元明には絶えて著録を見なかった。清の光緒20年に再び出土し、現在は県の文保所に蔵されている。
高翻墓は磁県(河北省邯鄲市)城南の李家庄にあり、墓は俗称“地冢”と呼ばれ、その神道には墓碑・石虎・石羊等の石刻がある。
5 凝襌寺三級浮図碑 (元象2年2月・539) (第502図)
この碑は上下の両截に区画し、上截には34行、行35五字を刻し、下截の題名は13列に作り、上截に直接し、線をもってこれを界し、篆額の十字は陽文に作っている。
この碑の書は方扁を変じて長方形としている点に特色がある。
碑はかなり剥渤しているが、字は殆んど読み得ることが出来る。
6 敬史君之碑 (興和2年・540)
乾隆の初、河南の長葛から出土した。石はなお完好で、ただ10余字を欠くのみである。首行に題して禅静寺刹前銘といい、一字あけてまた敬史君之碑といい、一碑に標題の二つあるのはあまり例のないことである。
使君の使に史の字をあてたのも珍しい。
乾隆14年(1749)の沈青崖の跋が碑陰に隸書を以って刻されている。
この碑の字をもって欧・褚の前駆をなすものと見るのは当らない。その結体は寧ろ虞世南の孔子廟堂碑に近い。日下部鳴鶴が鄭道昭碑に着眼せるとき、巖谷一六はこの碑を推重したという。
書撰人の名氏の明らかでないのは惜しむべきである。
7 蓑儁碑 (興和2年8月・540)
この碑も近年の出土で、旧くは著録にない。
8 李仲瑳修孔子廟碑 (興和3年12月・541)
この碑は宋以来著録したものが多く、篆筆をもって楷を作れる点、敬史君碑などと共通の多いところから見ると、当時あるいはこのような書風が喜こばれて流行したのであろう。
9 武徳于府君等義橋石豫碑 (武定7年4月・549)
井を堀っては井闌(いげた)に造像し、橋を架しては橋柱に造像することは、古来中国においてよく行なわれたことだが、この碑は造橋碑の最古のもので、武定7年(549)の刻である。
この石刻も余り著録に見えない。
10 修太公廟碑 (武定8年4月・550)
晉の太康10年(289)に、河南省汲県の太公廟に建てられた斉太公呂望表の碑陰に刻したもの。
穆子容の撰文で、碑の前半は斉太公呂望表と同文で、後半は新しい内容となっている。