第2巻 15-後 藤原楚水著 省心書房9 蘭亭叙 蘭亭
蘭亭叙は、行書の神品として王羲之の墨跡中最も著名なものの一つである。この叙は王羲之が太原の孫統等と会稽山陰の蘭亭に遊び、祓禊の礼を修して詩を賦し、また序をつくり、鼡鬚筆をもって黄絹に書いたものである。その後更に数十本を書いてみたが、遂にこれ以上のものはできず、当時全く神助があったとは思われ、王羲之自身も一代の傑作としてこれを子孫に伝えた。唐の太宗は王羲之の書を酷愛し、蘭亭叙の真蹟を得、愛重の極、遂に昭陵に殉葬させるに至り、これより真蹟は世に絶えた。
殉葬後、世に存したものは、太宗が宮中の搨書人に命じて響揚させたもの、及び欧陽詢、褚遂良二家の臨本である。後世の伝本は更にまたその響揚本や臨本から翻刻したものであるから、王羲之の真蹟とはその間に頗る相違を生じ、翻本も各々面目を異にするに至った。従って同じ翻刻本でもその刻が比較的によく真蹟に近いと思われるものが尊重されるわけである。
王虚舟『竹雲題跋』(蘭亭20種)

項士元『小停雲山館金石書画過眼録』(禊叙凡そ10集93本)

しばしば資料によっては「蘭亭序」を「蘭亭叙」と、「叙」の字が用いられることがあるが、蘭亭の宴遊のときに作られた詩37首の集の序文という意味なので、正式には「蘭亭序」になる。
「叙」の字が用いられるのは、北宋の蘇軾が祖父の名前を避けて「序」を「叙」したことに由来している。
中国では、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける風習があった。「諱」は本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞で、死後には「忌み名」という。これを「避諱改字」といい、後の人々も蘇軾のこの「避諱改字」にならって、「蘭亭序」を「蘭亭叙」とした。
一 集刻せし蘭亭
1 香雪院八種
2 明益藩府五種
3 蘭亭八柱帖
乾隆44年(1779)内府の刻本。
第一本は虞世南摹
第二本は褚遂良摹
第三本は馮承素摹
第四本は柳公権書の蘭亭詩
第五本は戯鴻堂に刻せし柳公権書の蘭亭詩の原本
第六本は于敏中補の戯鴻堂の柳公権書の蘭亭欠筆(本)
第七本は董其昌仿の柳公権書の蘭亭詩
第八本は御臨の董其昌仿の柳公権の蘭亭詩并に跋
4 海山仙館十六種附明人小字五種
5 文明書局十二種附玉枕本二種
6 蘭亭集刻第一集十種
蘭亭八柱とは、 清の 乾隆帝が収集した「蘭亭序」の墨跡本と、蘭亭に関する墨跡本合わせて八種を、八角形の石柱に刻したもので、北京の 中山公園内に現存する。
二 集帖中の蘭亭
1明代集帖中の蘭亭叙
東書堂集古法帖 停雲館法帖 来禽館法帖 余清斎法帖 戯鴻堂法帖 墨池堂選帖 鬱岡斎墨宝 玉煙堂法帖 渤海蔵真
快雪堂法書 秋碧堂法帖 知止閣帖 翰香館法書 御刻三希堂石渠宝笈法帖 滋意堂墨宝 敬一堂法帖 唐宋八大家法書 清?(肅+欠)閣蔵帖 詒晉斎書巻 詒晉斎法書 頻羅庵法帖 玉虹楼鑑真帖 玉虹楼法帖 聚奎堂集晉唐宋元明名翰集 安素軒石刻 筠清館法帖 南雪斎蔵真 海山仙館蔵真 海山仙館摹古 聴颿楼法帖 嶽雪楼鑑真法帖 鄰蘇園法帖 壮陶閣帖
『亦有生斎集文』『東洲草堂文鈔』『独学廬二稿』『樊謝山房文集』『程侍郎遺集初編』『義門先生集』『甘泉郷人余稿』『石泉書屋類稿』『天真閣集』『東塾集』『石雲山人文集』『泰知書屋文集』『弗堂類藁』『湛園未定稿』『籀経堂集』『石経閣文集』『帯経堂集』『西陂文稿』『鯖埼亭集外論』『述学補遣』『惜道味斎集』『晩聞居士遺集』『尺岡草堂遺文』『小学盡遺書』『傷甫未定藁』『蔀林草堂文鈔』『陶楼文鈔』
蘭亭叙の刻本の主なものとしては開皇本、落水本、游似本などを初め、文明書局の影印本など比較的容易に入手できるものもあり、その他、宋の游丞相蔵の玉泉本は商務印書館に於いて珂羅版をもって転印され、虞世南、褚遂良、馮承素三家の撫本の真蹟が中国に於いてコロタイプをもって精印され、それが又わが国においても転印されるなど、今日に於いては比較的容易にそれらの善本を入手することができるのである。
八柱第一本 虞世南摹
明時代に董其昌が虞世南の臨本と審定してその「戲鴻堂帖」に刻し、また呉廷の「餘清齋帖」、梁清標の「秋碧堂帖」にも刻された名蹟である。末に「臣張金界奴上進」の字があることによって、「張金界奴本」とも呼ばれている。
八柱第二本 褚遂良摹
褚遂良は王羲之の真書鑑定職務にも就いており、清の乾隆帝が蒐集した三点の模写本のうち八柱第二本が褚遂良の臨模と考えられた。現在は北宋の無名の人の臨模と推測されている。
八柱第三本
卷首尾に「神龍」の印の半分ずつが見られるところから「神龍半印本」と呼ばれ、三希堂・八柱帖以前にも、欝岡齋・玉烟堂などにも刻されたが、殊に單刻の精本が行なわれて、筆路の明快なところから、これを無上のものとする人もある。が、王羲之が生きていた当時ではまだ誕生していないはずの、後の唐時代以降の書風(三折法)によって書かれており、八柱第三本からは当時の王羲之の文字を読み取ることはできないとされ、筆者は馮承素ではない唐人ではといわれている。
褚臨絹本
故宮博物院に所蔵されている『黄絹本蘭亭敘(蘭千山館寄存)』は、絹に書かれ、4行目「領」字の上に「山」が加えられているため、「黄絹本」、「領字従山本」などと呼ばれている。かつて上海で、コロタイプで出された。米芾・莫是龍・王世貞・王穉登など名家の跋があり、線が細いのが特徴的。
定武本
石板や木板に蘭亭序を模刻し、それから制作された拓本のなかで、古来最も貴ばれたものは、五代〜北宋時代初期に碑石が定武郡で発見された定武本である。定武本は一般に欧陽詢が臨模したと伝えられるが、これも根拠はない。定武本には覆刻本が非常に多い。その他に張金界奴本と神龍半印本が有名であり、手本としてよく用いられる。
神龍半印本
蘭亭八柱第三本と称される唐馮承素模蘭亭序が、明の王済の所蔵であった時に、豊坊や章乙甫らの手によって刻せられた。巻頭右上部に「唐摸蘭亭」と小字で書かれた左に、唐の年号である「神龍」の印の左半分が残されていることに因んで、『神龍半印本』という。 墨蹟本をもとに刻されたとされるが、両者を仔細に比較してみると異なる点がある。巻頭の「米芾」の印や巻末の「豊坊之印」などが墨蹟本にはない。本文の文字は、墨蹟本の方がやや硬く、筆勢や字画の抑揚がやや弱い。刻本のほうが、鉤模の技術者が巧みなのか、墨蹟本に比べて字画が自然でなめらかである。点画の起筆や終筆にみられる「破筆」「断筆」まで見事に刻している。墨蹟本をもとにしたとは信じ難いほどであり、筆意が墨跡より自然であるといわれる。
神龍本蘭亭序 内藤湖南旧蔵
惜しいことに、この本は、巻末の4行が旧くに失われ、清朝初期に金石家・王澍により補書されている。拓墨も明以前の旧いものであり、宋拓と称するに相応しい書品を具えている。王澍、李鴻裔、朱福清、趙烈文、呉雲の鑑賞印や題記があり、大正2年に羅振玉、内藤湖南の跋文が付された。
張金界奴本
張金界奴本は八柱第一本を原本とし、穏やかな書風で神龍半印本よりも評価が高い。秋碧堂帖や余清斎帖がある。
張金界奴本は虞世南臨本とされ、褚遂良臨の神龍本とともに多くの人に学ばれてきた。蘭亭序の最も著名なものの一である。摹本は不鮮明であるが、刻本は非常に鮮明である。
張金界奴本蘭亭序 秋碧堂本蘭亭序
明の崇禎16年の進士となった梁清標は天下の法書名画を蔵した。その中の書として優れたものを刻して刊行した。これが『秋碧堂法書』全8巻と称せられ、ここに収められた蘭亭序を『秋碧堂本蘭亭序』という。これは現在北京故宮博物院蔵の『八柱第一本蘭亭序摹本』を刻した。巻末に「臣張金界奴上進」の7字があるに因んで俗に『張金界奴本』とも称せられる。
摹本は不鮮明であるが、刻本は非常に鮮明である。この摹本を刻したものとしては明代の『余清斎法帖』と『秋碧堂法書』がある。前者の旧拓の流布するものは少なく、後者はやや多い。
開皇本蘭亭序 呉雲旧蔵
この刻本は、巻末に「開皇十八年三月廿日」と楷書の題記が有ることから開皇本と呼ばれる。隋の開皇年間に刻されたとするが確証は無い。
開皇本は、やや鍾繇風の筆勢を具えた独特の趣があり、定武本などと異なり、種類も非常に少ない。
潁上本蘭亭序 李啓巌旧蔵
明・嘉靖8年、潁上県の村民が地を耕してか、潁上県の井戸の中から発見された。よって『潁上本』『井底本』とも称される。この刻石の一面には『蘭亭序』が、もう一面には『黄庭経』が刻されていた。この刻石はその後、壊れて小塊となった。
仔細に検討すると、原刻は字画がやや太く、筆勢がのびやかである。この『蘭亭序』はところどころに刻されていない文字があり、その書風は、『定武本』や『開皇本』、『神龍本』などと異なり、やや後の書風を示している。古来、宋の米芾の臨摸系の作と考えられている。しかし、その書風は澄んだ趣のある静かな筆致を示している。
蘭亭叙の如きは名蹟たるに相違なく、王右軍の集字聖教序その他と共に行書の神品であり、軌範となるべきものであるから、拓本の精善なるものをえらんで学習されることが必要であろう。
定武蘭亭落水本 趙子固蔵 |
翁方綱縮臨定武落水本 |
定武蘭亭游似本 遊景仁似蔵印本 |
定武蘭亭独孤長老本 焼残本 |
宋拓定武蘭亭 犬養珍蔵本 |
阿丹丘本 上海有正書局定武蘭亭痩本 |
定武蘭亭呉炳旧蔵本 |
定武蘭亭韓朱船本 呉栄光旧蔵 |
定武蘭亭東陽本 |
定武蘭亭注容甫蔵本 |
二百蘭亭斎定武蘭亭 宋揚本 |
洛陽宮本 快雪堂刻 |
賜潘貴妃本 |
褚摹本蘭亭 呉栄光本 |
虞撫本蘭亭 |
玉泉本蘭亭 宋游相蔵 |
四 蘭亭真蹟説と否定説
蘭亭叙は唐以来書道史上に有力な地位を占めているが、一方またこれが果して王羲之の真蹟か否かについては疑問とするものもなくはない。最近ではすなわち中国科学院長の郭沫若氏の否定論で、中国の新聞、雑誌に郭氏・高二適・宗白華諸氏の間に論争が行なわれて人々の注意を喚起した。
郭沫若氏は近年出土の王謝の摹誌銘の書が隸書風にかかれているのを見て王羲之の生存時と前後して在世したそれら王氏や謝氏の摹誌銘の書をみてもわかるように、王羲之当時の書はなお隸書の域から遠く出るものではなかった。然るに蘭亭序の書は唐以来の楷書の書体と一致するもので、到底東晉時代の書体とは思れない。またその文章に表現されている哀愁的な情緒は仏教思想であり、道家的な東晉人の遊楽的な感懐と合致しない。恐らく蘭亭叙は王義之七世の孫といわれる南朝の僧の智永の書であろう、と郭氏は大量の史料にもとずき三万余字の長文によって之を論証した。
王羲之行書集成
姨母帖
姨母帖は、『万歳通天進帖』という巻の冒頭にある。
姨母すなわち王羲之の父・王曠の妻の姉妹にあたる人の死を悼いたんだ手紙。
姨母帖は、唐の則天武后が萬歳通天2年(697)に王羲之一族の後裔である王方慶から真蹟を提出させて、これを搨摹して一帖にまとめたもので、姨母帖はその首位に置かれている。
快雪時晴帖
快雪時晴帖は王羲之(303−361)が書いた尺牘だが、真跡が失われていることから、次第に台北の故宮博物院に現存している唐摹本が貴重な法帖とみなされるようになり、乾隆皇帝(1711−1799)秘蔵の三希の一つにもなった。歴史と文化、芸術的価値を兼ね備えた作品。
聖教序
聖教序は王羲之が直接その文を書いたのでなく、唐の釈懐仁が王右軍の墨蹟の中から所要の文字を選出して、これを集め、碑に刻したものであることは、一般に誰もが知るところである。聖教序の刻石は、今も筒西安の碑林に存しているが、これもまた拓の古いものほどがよく、北宋・南宋等の旧拓本も多く伝わり、そのうち我国に伝来しているものは数十本を下らない。
聖教序にも原石本の外に、翻刻本がある。然し蘭亭に較べればその数は少い。
聖教の覆刻本にも、また佳刻が乏しくない。唯、翻刻者の判明しているものは極めて少く、随って各本の特
徴も明らかにしがたいが、原石本と、覆刻本とを鑒別するには、凡そ標準とすべき数ケ所の異点がある。
ここに注意すれば、その判別は難くない。
興福寺断碑
唐の開元年間(713−741)に、釈大雅が懐仁の集聖教序にならい、王羲之の墨蹟より集字したものである。この碑、明の万暦年間(1573−1620)に、西安の濠中より得たときは碑はすでに断欠して僅にその下半のみを存していた。故にまたこれを半截碑という。碑文中に惟大将軍矣とある矣を呉と誤り読んでより古くは呉文碑または呉将軍碑などともいったが今日では、一般に興福寺断碑又は半截碑と呼んでいる。
この外、王羲之の書を集字したものには、晉平西将軍周孝侯碑を始め、歴代に亙り頗る多く、朝鮮にも麟角寺普照覚師静照塔、直指寺大蔵殿記などその数は少くないが、今は尽くは挙げがたい。
右軍千文墨迹
清内府の旧蔵にかかり、題して魏太尉鍾緜千字文、右軍将軍王羲之奉勅書といっている。この巻は王羲之の書から雙鉤したものとしているが、要するに好事者の偽託に相違なく、信じがたいものである。
十七帖
王羲之の草書として古来著名なもので、草書の神品と称せられるものである。羲之の尺牘数十を集めて一巻と
したもので、その首に、十七日先書云々とあるによって十七帖と名づけたのである。
『淳化閣帖』には、その刻本から摹入したものが少くないという。十七帖もまた蘭亭叙と同じく宋以後の翻刻が頗る多いが、その刻本は末尾に勅字のある所謂館本系統のものと賀知章の臨本(第300)から出た所謂賀監本系統との二つに大別することができる。そして単帖の外、来禽館、欝岡斎、余清斎、宝晉斎、玉烟堂等の集帖中に刻入されているものも少くない。
この外、王羲之の草書は、『淳化閣帖』その他に刻されいるが、その真贋については米芾、黄長睿より明清に至り、これを考証したものは十数に止まらない。また雙鉤廓嗔の墨蹟は、我国および中国に現存するものがある。
孔侍中帖
孔侍中帖は、哀禍帖・孔侍中帖(九月十七日帖)・憂懸帖の総称で、現在東京の前田育徳会所蔵で、国宝に指定されている。
上記3帖には哀禍帖は振幅の大きさ、孔侍中帖(九月十七日帖)は骨力の強さ、憂懸帖は重厚さといった書風の違いがある。
3帖とも結構は頭部を大きく広く、また重くとる王羲之特有の構えで、歯切れのよい点画で抑揚がある。
喪乱帖 二謝帖 得示帖
書聖王羲之の行草書の中で、喪乱・二謝・得示の帖を一幅に仕立てた精巧な摸本で、唐の太宗皇帝が数多く作らせたもの。内容から永和12年頃に書かれたものと考えられている。双鉤填墨本であるため、底本の紙の破れから虫くいのあとまで忠実にあらわしてあって、偽物を作る態度でなく、学術的な副本の作り方で、これ以上精密なものはない。
この帖には右端に「延歴勅定」の印のあるところから桓武帝の御府にあつたことが証せられ、唐の玄宗の時代を下らぬ模本である。この卷は一旦わが御府を出たが、明治初年に再び帝室に献上され、今に至っている。
冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。
王羲之晩年の完成された書風を類推するうえで、恰好の資料。
快雪時晴帖
台北の故宮博物院に現存している。
この書は大雪の後、友人に宛てた行書体の手紙で、本文中の4字から快雪時晴帖と呼ばれている。
快雪時晴帖は真筆じゃないかと最後まで言われていたが、精密な双鉤填墨等の手法による模写だとされている。
清の乾隆帝はこれを手に入れて非常に愛重し、王献之の中秋帖・王殉の伯遠帖と併せてこれを貯えた室に「三希堂」と名づけている。
遊目帖
十七帖に収められている遊目帖のこれは王書の模榻本でなく、唐人あたりの臨書であろう。伝来はなかなかやかましいものであって、乾隆の内府に入り、三希堂帖に刻されている。後わが安逹萬藏氏の有に帰したが、今次の大戦で、広島原爆で焼かれてしまった。
奉橘帖
この帖も褚目に見え、宋代以来やかましいもので、清の内府に伝わった。
末尾に開皇18年(598)の題記があって、それが信頼できるとすれば隋以前の製作にかかる模本ということになるが、それには疑問がある。これも平安・何如・奉橘の三帖に分けられる。墨池堂帖選・戯鴻堂法帖などにも刻されていてる。
王献之は羲之の第七子で、字は子敬。少にして盛名あり。中書令に累遷して43歳を以って官に卒した。初め郡曇の女を娶ったが離婚し、後に新安愍公主を尚した。子無く、唯一女あり、後に立って安僖皇后となった。王献之は后の父なので侍中を追贈され、特に光祿大夫・太宰に進められた。
献之の書については、皆その書の絶妙を称しているが、献之は父の書を学びながら、省、一家の新機軸を出さんと苦心し、従ってその書風に於いて父の書と頗る面目の異なったところがあった。
王献之は、才思高逸にして古法に規々たらず、父の書を模倣するだけでは満足しなかった。後にこの意を師としたものに梁の陶貞白の癈鶴銘があり、唐の柳公権、宋の蘇東坡、黄山谷の如きは、また王献之の洛神賦を法となし、痙鶴銘を追ったものであるとの説である。
王献之が従来の型を破って新機軸を出すことに意をもちい、才腕またこれに伴うもののあったことを窺うに難くない。すなわち行草の外に一門を開き、行でもなく草でもないものを書き始めた。これが世にいうところの破体で、これは書体の名でなく、寧ろ心の赴くままに筆にまかせて、行草混淆自由に書いたものを称したと見るぺきであろう。すなわちそこに王献之の書の父にもました自由奔放と、縦横の才気とが見られるのである。
二王の優劣については、古来の論書家は各その見るところを異にしているが、王献之が必らずしも父の書の模倣にのみ終始しなかったことは、その墨蹟の示す如くであり、後世の諸家にあっても、その見るところに従って受けた影響に大小はあるが、多数の見解は、王羲之をもって王献之に勝れりというに一致した。
王献之の墨蹟は、王羲之に比して世に伝わるものが少い。その著名なものを挙げれば次の通りである。
1 洛神賦十三行
洛神賦は魏の曹操の第二子、曹植の作詩した洛神賦を、東晋の王献之が書写した小楷作品。
もとは全文があったが散逸し、唐の第3代皇帝である高宗が断片9行を所有し、南宋時代の軍人・政治家である賈似道(1213〜1275)が4行を得て、あわせて13行を賈似道が玉版に刻した。この玉版十三行は、世に珍重されたが、その後所在を失い、明の万暦年間にその原石が出土した。
十三行の翻刻本は頗る多く、戲鴻堂帖、快雪堂帖、笏清館帖等、彙帖中に刻されているものも枚挙に遑ない。
また全文の本が伝えられているが、十三行本とは全くその面目を異にし、一望して偽託であることが知られる。
2 保母磚志
王献之の書と伝えられるものであるが確証はない。
この磚は南宋の嘉泰2年(1202)山陰の農夫が地を耕して得た。
3 地黄湯帖
『淳化閣帖』に刻されているが、その真蹟は中村不折氏の書道博物館に収蔵されている。
これは王羲之の孔侍中帖、喪乱帖、遊目帖と同じく雙鉤嗔墨本かと思われるが、宋の時、宣和内府に蔵されたもので、「政和」「宣和」の印、「秋壑」の印などがある。高宗の題簽があり、明の時文徴明の収蔵に帰し、清の道光年間(1821-1850)、呉榮光の手に帰し、笏清館帖に刻入した。
墨本はのち、わが書道博物館の藏に帰した。これも筠本であるが、臨本をもととしたものかも知れぬ。米芾の臨本と見る人(孫承澤・庚子銷夏記)もあるが、もっと古いもののようだ。
4 中秋帖
王羲之の書が多く独草体であり、王献之の地黄湯帖も尚それに近いものであるが、この帖は連綿体でいわゆる一筆書で、王献之が書家としての独創的天分を見るべきものである。
清の乾隆帝はこれを小王の真蹟と見て、殊に宝愛していた。「宣和」「紹興」の印があり、題簽の字は宋の高宗の書だということで、伝来もなかなかやかましいものである。
唐人の臨本と見る人(張丑・清河書画舫)もおり、宋人の臨本という人(呉升・大観録)もいる。
蘭草帖
餘清齋帖に刻するところで、今はどうなったか不明。
積年帖
この帖は淳化閣帖第九に入っている。
鵞群帖
群鵞帖は、文字の順では鵞群で、普通は鵞群帖と呼ばれており、別に「海塩諸舎帖」とも呼ばれる。
この帖は淳化閣帖第十や大観帖第十等にも入っており、ほかにも摸本がある。
鴨頭丸帖
早く淳化閣帖に、明代には摹本により餘清齋帖に刻され、楊守敬の隣蘇園帖もこれによっている。
宋の内府にあり、宣和書譜に載せられたが、元代に臣下に賜り、明代には又内府に入り、やがて又出て呉廷の藏するところとなり、餘清齋帖に刻された。
送梨帖
墨本は米33470;の書史にも載り、献之の書として伝えられてきた。
明代に墨池堂帖に刻され、清の内府に入って三希堂帖に收められた。
廿九日帖
唐の則天武后のとき、王方慶が上進したいわゆる「萬歳通天進帖」に收められていたもので、かなり信頼のおける摹本である。明代に夏華の真賞齋帖に刻され、精刻のきこえ高い同帖は甚だ重んじられてきたが、これも最近、墨本が遼寧省博物院に伝わっていると発表された。前二帖と比べて全く筆勢を異にするようだが、伝来の古いものであるから、やはり一面貌と見ておきたい。
願余帖
この帖は淳化閣帖第九に入っている。
東山帖
墨本はもと宋の内府に伝わったものといわれ、呉廷から邢子愿の手に渡ったこともあり、清の内府に入って三希堂にも刻されている。米芾の臨と疑う人(王樹・竹雲題跋)もあるが、既に宣和書譜にも載っているから、いづれにしても献之の筆と信ぜられていた底本はあったのであろう。
王殉書伯遠帖
5行47字の書簡で、乾隆帝(1711〜1799)によって「三希」の1つとして珍蔵され、清時代には宮廷が所蔵した。
書法は王羲之に通じるものがあり、晋代の書風を代表するひとつの典型である。
晉室南渡後の北方中国にはいわゆる五胡十六国がたがいに興亡した。五胡とはトルコ族の匈奴と羯、伯特族の凰と羌、満洲族の鮮卑をいい、十六国とは匈奴の前漢(劉淵)、北涼(沮渠蒙遜)、夏(劉勃勃)、羯の後趙(石勒)、域の成漢(李雄)、前秦(苻健)、後梁(呂光)、羌の後秦(姚萇)、鮮卑の前燕(慕容銑)、後燕(慕容垂)、西秦(乞伏国仁)、
南燕(慕容徳)、南涼(禿髪烏孤)、漢族の前涼(張重華)、西涼(李嵩)、北燕(馮跋)をいう。すなわち匈奴の劉淵が始めて左国城によって国を立て、これを漢と号し、その統制の下に蛮族を糾合しようとしたのが西晉の永嘉元年(307)で、翌年自ら帝と称し、永嘉4年に、淵が死し、その子の劉聰が位をつぎ、洛陽を取って一旦晉を亡ぼした。
これより北方に於いては五胡十六国の局面が展開を見たのであるが、その国祚は、短いもので南涼の13年、最も長くても西秦の47年に過ぎない。他は多く2、30年にして滅び、漢族衣冠の士もまた晉室とともに南遷し、北方の地は一時に蛮族の跳粱にまかされたので、もとより碑を立て、文を刻すというようなことは望むべくもなく、ただわずかに前秦に数石を存するに過ぎない。
1 ケ太尉祠碑(建元3年・367) ケ太尉祠碑 (kohkosai.com)
この碑は苻秦の建元3年(367)に陝西の蒲城に立てられ、その石は西安碑林博物館第三室に現存している。
魏故ケ太尉祠碑ともケ艾祠碑とも呼ばれ、撰書者の姓名は不明。
ケ太尉とは三国魏のケ艾で、蜀漢を亡ぼした名将。
別に建元12年(376)に立てられた一碑があったことが知られるが、今その碑は伝わっていない。
2 広武将軍碑(建元4年・368)
この碑は苻秦の建元4年(368)10月、東晉の廃帝の太和3年(368)の刻で、その石は陝西の白水県にある。
拓本は僅に顧湘舟、李眉生、英蘭坡の所蔵本が最も旧拓とされ、顧本はその後繆荃孫に帰し、宣統(1909-1911)の末年、楊守敬収蔵の陰側と合せて石印に付した。
この碑の書については、古墨斎のごとく「書も極めて醜悪なり」といって、これを好まぬ人もあるが、楊守敬の外、姚華などこの碑の書法を好むものもまた相応に多い。
尚この碑の立てられた建元4年は、晉の太和3年(368)に当り、王羲之が蘭亭に修禊した永和9年(353)より15年後に当る。いうまでもなく楷書はこれより遙に早く完成されていたのである。
3 呂憲墓表(元興元年・402)
この墓表は後秦の弘始四年、即ち東晉安帝の元興元年(402)の刻にかかり、爨宝子碑より4年前に当る。この両石が、南北数千里を隔てて、然もその書風が同じく八分と楷書を混合したようなものであることも、一奇と称すべきであろう。
この墓表は、光緒年間(1875-1908)、西安に出土し、後、端方の蔵する所となり、今は中村氏の書道博物館に帰した。
爨宝子碑と爨龍顔碑とは、ともに雲南にあり、前者は両晉時代の東晉 義煕元年(405)、後者は南北朝時代の宋
大明2年(458)に立てられたもので、時代も余り離れていない。その書も酷似し、同じく爨氏の碑であるので、世にこれを二爨の碑といっている。
1 爨宝子碑(義熈元年・405)
この碑は乾隆43年(1778)に初めて世に出たが、出土の当時はこれを知るもの少く、その後70余年、咸豊2年(1853)に至って、碑石を他に移し、その時ケ爾恆が碑の左方下部の空処に文六行を隷書しこれを刻した。
爨宝子碑は、現在雲南省の曲靖県第一中学校内の碑亭内にある。
この碑の字は楷書といえば楷書であり、隷書といえば隷書ともいわれるもので、まずその書体は隷と楷との中間的存在である。趙之謙・楊守敬らは分体としているが、現在では「隷書から楷書への変遷の兆しを示す書体のようではあるが、爨龍顔碑自体は過渡期を反映したものではない」ということになっている。
隷書のような波磔などが見られるが、楷書のように正方形の字形で、隷書と楷書の中間のようだ。同時期に王羲之が活躍する一方で、爨宝子碑の存在は、当時の南朝書道界の多様性を示す貴重な書蹟といえる。
2 爨龍顔碑(大明2年・458)
碑は、大明2年(458)に建てられた地元豪族の墓碑で、南朝宋の楷書の古典。
東晋の爨宝子碑とともに「二爨碑」と呼ばれ、爨龍顔碑の方が大きいことから大爨とも呼ばれている。
爨龍顔碑は、表面の磨耗が激しいが、何とか全文読むことが可能で、現在、雲南省曲靖市陸良県の小学校内に現存する。
爨龍顔碑は、楷書に酷似した書体で、書法は古風で優雅、がっしりとした骨法を備えており、結構は変化があり壮大。北魏の中嶽崇高霊廟碑や宋の劉懐民墓誌と書風が似ている。異体字も多い。
書風は、独特の楷書で六朝楷書に見えるが、現在では楷書風の書体であると考えられている。爨龍顔碑の時期は、隷書から楷書への移行期だったが、戦乱などの混乱で書道に関する系譜が曖昧である。
実際には、当時既に楷書は成立していたということが後に発見された碑などから証明されており、現在では「隷書から楷書への変遷の兆しを示す書体のようではあるが、爨龍顔碑自体は過渡期を反映したものではない」といわれている。