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 第1巻  7〜8 藤原楚水著 省心書房

第七章秦漢の吉金文字

実用的な秦金の文字

吉金とは、皆銅器である。殷周時代には、恰も神物のように鐘鼎彝器を尊重した。
然るに秦代に於ては、古銅器にかわって石刻が興り、古銅器の製作は、この時代に於て大いに衰え、これに代って石刻文が現われ、金文に変わって石刻文が漸く重要な地位を占めるようになりつつあるが、この時代の刻石は、李斯の小篆として知られる始皇の刻石以外のものは始んど伝わっていない。
故にこの時代の文宇を研究するには、秦金の文字はその唯一無二の資料と言わねばならない。

秦金の文字は六朝の人はこれを古隷といっているがその体に尚多くの篆意があり、あるものはこれを小篆と称しても差し支えがない程で、小篆の研究にも参考とすべきものが少なくない。

秦の小篆もまた李斯の新しく作り出したものではなく、李斯は唯、秦地方に行われていた文字を根底とし、国字の統一整理を行ったに過ぎない。
書体の変化などは、一時一人の力によって出来るものではなく、時代と共に少しずつ変化していった。

秦金文字の今日に存するものは殆んど権量詔版の類に限られ、且その文字も比較的少なく、草率に書かれたものが多く、その書体は隷書または古隷に属すべきものが多く、頗る芸術味に富むものである。

漢金の文字 秦 C (kohkosai.com)

秦に起った刻石の風は、漢に入って益々盛行し、金文は漸くその地位を刻石文に譲らねばならぬことになった。
乃ち漢代の古器で世に伝わるものは、遠く周の盛に及ばない。
周制と異なり、一般に簡略である。前漢の刻石文は、伝世品が極めて少ないのに反して漢器の伝世は非常に多く、殊にこの時代の文字は、隷書の研究には勿論、小篆より漸く隷書に変化しようとして、なおまだ、未だ尽く篆意を脱するに至らないものもあり、漢の金文もまた見逃すことが出来ない。


廿六年詔小権


廿六年詔小権


廿六年詔小権


廿六年詔八斤権


廿六年詔八斤権


廿六年詔八斤権


旬邑権


両詔大権


両詔大権


両詔楕量始皇詔


両詔楕量二世詔


廿六年詔版


廿六年詔版


定陶鐘


陽嘉鐘


美陽鼎


平陽甑


菑川鼎


上林鼎


万歳宮鐙


?屋鼎

貴重な漢器の書

書体は、やや隷に近く、ようやく篆に遠くなって、正に方折挑法のある漢隷に変じようとする勢いを示し、いわゆる書体逓変の漸を窺うに好個の参考となる。



臨虞宮高鐙(元延2年(前11))

万歳宮鐙(元延4年(前9))

参考資料

西郷鈁


富貴方壺


信都食管行鐙


萬金温壺


元始鈁


鹿紋鈁


臨虞宮高鐙

第八章 隷書と八分

筆と書体の変化

文字・書体の変化は、今までしばしば述べたように、蒼頡・史籀・李斯・程遞というような、ある特殊の人の手によってなされたものではなく、極めて長い歳月の間に自然に発生し、変化して行われたものである。
また筆の発明期においても著しく説の相違がある。

筆の由来は極めて遠く、また地方によってその名称を異にし、この形製についてはくわしい記述がな
い。
或は古の筆は多く竹で製し、その形は今の木匠の用いる竹筆のよう
なものであったろう。故にその字は、竹に従うともいう。
または古代筆の発明のなかった時代は刀で文を刻した。故にまたこれを刀筆とも
称したといい、その説はまちまちである。

毛筆は一般には蒙恬によって始めて作られたと信じているが、
蒙恬以前、既に毛筆は存在した。これがいわゆる古の筆だが、どのような形状であったかは明らかでない。

前述した殷虚の甲骨文字が刀をもって鏤刻したものであることは、伝わっている実物によってこれを目験することが出来るが、刀刻の以前に先ず筆をもって書したか、或は初めより刀で刻したか、ここに多少の疑問がある。おそらく初めより刀をもって刻したものらしく、従ってその書体も方なるが多く、円なるは少ない。
周秦の古銅器の銘はこれと異なり、この時代には漆書の簡策が行われ、文字を書く為の用具が異なっていたものと見え、字体も方より円に変じている。
従ってまた字体によって、書刀の行われた限界を逆に推定することができる。それは用具の変化による自然の結果に外ならない。


平邑侯里廡孝禹刻石


五鳳二年刻石
孔廟-2 (kohkosai.com)

莱子侯刻石
孟廟 (kohkosai.com)

秦隷は古隷

毛筆が発明されて後は、寧ろ方筆をもちいて書する方が便利であったが、秦の小篆は、なお、籀文の字体を襲い、円体をもちいた。
しかし蒙恬の鹿毛を柱となし羊毛を被とした新筆を使用するには、円体よりは方体の方が自然に便利であったから、小篆と同時に隷書の一体がおこった。これ即ち自然の趨勢である。

秦隷、或は古隷と称するものは、小篆の円を去って平直とし、未だ波磔や俯仰の勢を生じないものをいい、後世いうところの隷書即ち八分とは全くこの趣を異にすることはいうまでもない。

古隷もまた小篆を草率に書いて自然に生じたもので、伝説のように程遞の作でない。古隷の伝わっているものでは前記の権量の刻辞が最も正確にして信ずべきであるが、これにもまた制器の時や、工人の異なるに従って相違があり、鑿と鋳とでもちがい、鋳もまた笵金と缸土とではちがいがある。即ち大?(馬偏に鬼)権は笵金、?量は刀契、残陶量(第163図)は笵土の製である。
漢に入って後も、古隷はその数が非常に多く数十百を数え、また塼文にも多くみられるが、秦の石刻には一つも見ない。前漢は、なお、秦の制に従って、古隷が多く行われたが、この時代には立碑刻石がまだ盛んに行われなかったからである。


大?(馬偏に鬼)権


笵金


?量


漢中太守部君褒斜道刻石


三老諱字忌日刻石
kohkosai.com/chinaphoto/cyoukou ryuiki/seirei/page/003.htm

敦煌太守裴岑紀功碑

八分書は漢隷

八分書は後漢に入って盛んに行われ、今日なおその碑刻の存在するものは百数十を見ることが出来るが、この時代の書は前漢の古隷のようなものではなく、既に波磔俯仰の勢を生じ、これを漢隷と呼んでいる。

楷法とは書体の名でなく、また八分とは古隷に波磔を生じ、点画に俯仰の勢があるものを指すのである。

秦の小篆より古隷となり、古隷より八分書となり、その法則とすべきものを楷法といった。

書体は一時一人の力をもって改易出来るものではなく、八分を作ったとされる王次仲、師宜官、邯鄲淳らはこの書体を善くしたというに過ぎない。


文叔陽食堂画像題字


楊量買山記

隷書と八分

秦書の八体( 大篆、小篆、刻符、 虫書、摹印、署書、殳書、隷書)は、漢時代になってそのうちの二体を減じて六体が行われた。

漢の六体が秦と異なっている点は、大篆がなく、戦国時代に東方六国地方に行われた古文・奇字の目があったことである。

鳥虫書とは秦の虫書である。秦人の摹印は、籀・篆を用いたが、漢に至って篆・隷を雑揉して別に一体を生じ、これを繆篆といった。以上の諸体は印章に用いられ、または幡信に施したに過ぎず、応用の範囲は非常にせまく、一般には隷書の一体が用いられ、後漢には入分書が盛行した。

隷書・八分の称は頗る混淆錯雑を極めるが、隷書とは他に隷属して行われるという意味をもち、時によって古隷・八分・正書とも皆これを隷書と呼び、晉の衛恒の時代にも尚、隷書の文字は古隷・八分・正書の共名であった。降って六朝隋唐に至つては専ら楷書を指して隷書と称した。


陽泉使者舎熏爐


敦煌出土漢簡


敦煌出土漢簡


敦煌出土元和四年簡の一部


敦煌出土漢簡の一部


居延出土漢簡拡大部分


居延出土漢簡



敦煌出土漢牘
(天鳳元年)


居延出土漢簡部分
(帳簿表紙文字)


居延出土漢簡部分
(帳簿表紙文字)


居延出土漢簡


翁方綱の八分説

翁方綱は、古来隷書と呼ばれたものには三つの書体がある。
その一つは秦より前漢にかけて小篆に隷属して行われた所謂古隷。
その二は古隷より変じて後漢に入って盛行した八分。
その三は魏晉以後に盛行した楷書で、古人は多くこの三体を通じて隷書と呼んだ。
その結果として種々な疑問を生じたが、その最先なるものを古隷または隷古、或は秦隷と呼び、その次を八分あるいは分隷または漢隷といい、第三はこれを楷隷、楷書または今隷と称すべきものとする。

秦隷、古隷とは即ち小篆の円を去ってなお波磔を生ぜず、点画に俯仰の勢なき秦及び漢初の書体を指し、八分とは既に波磔を生じて点画に俯仰の勢あるもの、即ち漢碑の大部分の書体などを称すべきである。


敦煌出土漢簡(蒼頡篇断簡)


礼器碑
孔廟-2 (kohkosai.com)

礼器碑


礼器碑


礼器碑陰


礼器碑右側


乙瑛碑
孔廟-2 (kohkosai.com)

乙瑛碑


乙瑛碑


乙瑛碑


乙瑛碑