HOME    見ぬ世の友   藻塩草   翰墨城                    學書指針INDEX

   の比較-4



伝二条為氏


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城

翰墨城
見ぬ世の友 84 伝 二条為氏筆 因幡切 紙本墨書 24.7×13.2 鎌倉
 「増補古筆名葉集」二条家為氏卿の条に"因幡切、四半、焼唐番、香色、古今集"と記載されるもの。もとは四半の冊子本。料紙は蝋箋のような黄ばんだ色の楮紙で、類切には土披・樹木などの雲母引き焼文様が施されている。和歌一首二行書き、全体を通じて行間が狭く、文字は縦長に整斉に統一されている。柔らかいゆったりとした書きぶりで、本文申には朱筆で傍線が加えられている。筆者を為氏(1222―1286)と伝えているが、なお後考を要しよう。為氏自筆の懐紙などと比べると、書風は非常に近似したものがある。いささか単調のきらいはあるが、鎌倉期の写本のなかでは格調の正しさを示すものであろう。

藻塩草 表92 古今和歌集巻第十九断簡(因幡切) 伝二条為氏筆 ヤキ文様楮カラ紙墨書 24.7×15.5 鎌倉時代
 『古筆名葉集」の二条為氏(1222一1286)の条に「因幡切、四半、焼唐帋、香色、古今集」とある。これは古今和歌集巻第十九雑体誹譜歌の断簡である。もとは巻子装、ワラ質の楮紙に、雲母粉引き焼文様が左端に見られるが、これのみでは何の文様かわからない。しかし、他本同切には、樹木、土披などが見られる。それに一面十行書、和歌一首二行書。書は為氏筆と伝えられるが、その自筆懐紙に比し同筆とは認められないが、鎌倉時代の書写と認められる。なお、為氏筆と伝える切は「尾張殿切」をはじめ十一種ほどが知られている。


翰墨城 112 伝二条為氏 因幡切
 二条為氏(1222−1286)は、『古筆名葉集』に「因幡切 四半、焼唐帋、香色古今集」とあるものに該当する。この一紙は『古今和歌集』の巻第九・羅旅歌の中の歌であり、料紙も舶載の蝋箋で『古筆名葉集』の記事に一致する。さらに『増補古筆名葉集』の「因幡切 巻物四半形、古今哥二行、焼唐帋香色」という記載事項から、原形が巻物であったことを知る。料紙は楮紙に雲母引きで、竹などの草木類や人物などの型文を強く空刷りして、あたかも焼いた痕のような文様をつくった唐紙である。本文中には、朱筆の合点がある。書風は、為氏自筆の遺品と比べ近似はしているが、その確証はない。鎌倉初期から中期にかけて盛んであった後京極流を踏まえており、縦長で行間は詰まりぎみであるが、格調は高いものである。同じ断簡が、手鑑「見ぬ世の友」などに伝存している。

翰墨城 114 伝二条為氏 因幡切
 『新撰古筆名葉集』に「因幡切 巻物、四半形、古今哥二行、焼唐帋、香色」とあるように、ふつう「因幡切」といえば、染紙に人物などの型文を空刷りにした唐紙を用いる。そこに「焼唐帋」とあるのは、刷り出した部分が焦げたような色にみえることから、命名されたものか。料紙をみると、目の粗い繊維を漉いた、少し地が茶色がかってみえる素紙で、なんの型文様も施されていない。手鑑「藻塩草」所収の一葉には左下隅に少し型文がみえるだけなので、無地の部分があっても不思議ではない。紙質も同一であり、書風を比較しても、「因幡切」に紛れもない。しかし、二条為氏の自筆懐紙などと比較した結果、同筆とは認めがたい。字形はやや縦長で、切れ味のよい筆線を軽快に運んでおり、鎌倉時代に流行した後京極様の影響がかいまみられる。本文中に朱の合点の書き入れもある。もと「因幡切」と一連の巻子本から切断されたこの一葉は、『古今和歌集』巻第十七・雑歌上の部分である。



翰墨城
翰墨城 113 伝二条為氏 歌集切
 『増補新撰古筆名葉集』の為氏の項には、「因幡切」はじめ十一種が掲載されている。その中に「大四半 集未詳哥二行書」の一行がある。この断簡は、「因幡切」に比べ縦長の紙であり、歌は二行書きである。十一種のうち「大四半」とあるのは一種類のみ、しかも歌の出典が不明。とすると、この、『増補新撰古筆名葉集』の「大四半」に該当すると思われる。書は、「因幡切」とも似ているが別筆であろう。為氏自筆の仮名とも、趣の違いがみられる。14世紀の書写。


伝藤原為相


見ぬ世の友
見ぬ世の友 85 伝 藤原為相筆 結城切(勅判切) 打曇紙本墨書 30.0×26.3 鎌倉
 何の歌合か判らぬが、その中の一七番・落葉を題とする左右の歌と判詞をおさめる断簡。結城切という名は、もと結城某氏の所蔵ということによるのであろうか。古筆家の極では、本文は為相(1263―1328)の筆跡、判詞は後伏見天皇(1288―1336)の震翰というので、古くは勅判切といった。この断簡はちょうど為相の名入の部分である。もとは巻子本。料紙は藍の雲紙で、和歌一首二行書き。文字は力強さ・スケールの大きさに欠けるが、柔らかく流麗に筆が運び、紙面全体に大きやかに布置されている。先にふれたように、筆者を為相、判詞は後伏見院廣翰と伝えているが、何ら確証あるものではなく、それにこの二つはまったくの同筆である。鎌倉中期ごろの作。おそらく、和歌のテキストとして、調度品として書かれたものであろう。

藻塩草
藻塩草 表109 拾遺和歌集巻第六断簡(相模切) 伝冷泉為相筆 著色下絵斐紙墨書 23.9×14.2 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集」の冷泉為相(1263―1328)の条に「相模切、四半、拾遺、哥二行書、金銀緑青草小鳥ノ下画アリ」とある。これは拾遺和歌集巻第六別歌の断簡で、冷泉為相筆古今和歌集(嘉禄2年本)である。その筆蹟特徴から全く同筆と考えられ、また伝冷泉為相筆続後撰和歌集とも、同筆と認められる。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に、藍、緑青、榿、銀泥などで葦手の文様が美しく下絵してあり、葦手の文字が、その水草の下に書きそえてある。一面八行書、和歌一首二行書。書風、料紙より鎌倉時代末期のものと考えられる。
*歌頭に「古今」とあるのは集付で、この歌が『古今和歌集』巻第十七雑歌上の入集歌であることを意味する。なお、解説に「これは、冷泉為相筆古今和歌集(嘉禄二年本)である」とあるのは明らかに誤認である。


翰墨城
翰墨城 115 伝冷泉為相 古今集切
 『古今和歌集』巻第十九・雑体の断簡。素紙に、やや側筆ぎみに強い筆線を続ける。中央の折り目は、もと冊子本であったことを物語っている。父の為家から譲られた播磨細川荘に関して異母兄の為氏・為教と紛争を起こし、訴訟のために鎌倉に下るが、そのときの母の旅行記が『十六夜日記』。これを契機に為相は東国歌壇とつながりをもち、鎌倉連歌の発達に貢献した。為相筆と伝える古筆切は、ほかに「愛宕切」「相模切」「勅判切」など数多くあるが、いずれも確証はない。鎌倉中期の書写。


翰墨城
翰墨城 116 伝冷泉為相 新勅撰集切
 金銀の砂子を雲の形、霞引きに撒き、金銀の大切箔を散らす。さらに、土坡・葦・草の下絵を描いた華やかな料紙。明らかにそれらの図様を意識した書きぶりで、和歌を散らし書きにする。歌は『新勅撰和歌集』巻第十一の在原業平の歌だが、もともと一巻の歌集を完写したものではない。美しい料紙の巻物を、調製し、それにふさわしい和歌を思うままに選び、散らし書きにした、調度手本のようなものではなかったろうか。筆者は冷泉為相というが、むろん確証はない。書風や料紙の装飾技巧などから推して、鎌倉中期の書写。


翰墨城
翰墨城 117 伝冷泉為相 新古今集切
 升型の素紙に和歌一首を散らして書いているが、これはもと巻子本を、こうした色紙形に切断したものと思われる。「新古今集切」は『新古今和歌集』巻第十七・雑歌中の西行の詠歌で、上の句と下の句を階段状に、それぞれ書き出しを肉太に墨濃く書き、しだいに細い線で引き締めた実に流麗な連綿の美をみせている。その構成はまことに意匠的であり、調度本として鑑賞用に揮毫されたものであることは疑いない。さて、この断簡の筆者を冷泉為相というが、その信愚性はまことに希薄。これも、法性寺流の名手為相の書と想定するにふさわしいみごとな筆致を展開している。



翰墨城
翰墨城 118 伝冷泉為相 家集切
 これはいかなる和歌集の断簡であるかは未詳。ただし、第一首下の句は「野」の歌題で、第三首「道」、第四首「波」題の和歌はそれぞれ、『新古今和歌集』巻第十八・雑歌下に菅贈太政大臣の詠歌として収録されている。この第二首「田」題の和歌は不明だが、あるいはこれは『新古今和歌集』の異本であるかもしれない。雲母刷りによって細かな梅花文を一面にあしらった美麗な料紙に、行間を整え、やや謹直に筆を運んでいるが、その料紙の華やかさを考え合わせると、調度本として揮毫されたものではなかったろうか。もとは巻子本か。筆者と伝える為相は、鎌倉連歌の発達に貢献し、書は法性寺流をよくした。この料紙の歌切は『古筆名葉集』にも見当たらぬ珍稀なもの。為相の真筆とはにわかに断じがたい。


伝二条為世


見ぬ世の友
見ぬ世の友 86 伝 二条為世筆 柴田切 紙本墨書 27.5×19.9 鎌倉
 「後撰和歌集」巻第一〇・恋歌二に所収の二首断簡。料紙は薄手の斐紙で、一面九行書き、かなり行間があいている。和歌は一首一行書き、小つぶで扁平な仮名だが、筆は自由闊達に動き、字形もよく整っている。もとは、かなり大きな冊子本だったのであろう。一紙両面書きの写本のようで、全面にわたり裏文字がすいてみえる。筆者を為世(1251―1338)と伝えるが、これも断定はできない。名称の由来も明らかにしがたい。

藻塩草
藻塩草 表94 続千載和歌集巻第十六断簡(五条切) 伝二条為世筆 斐紙墨書 25.8×10.4 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為世(1250―1338)の条に「五条切、巻物、自撰続千載、哥二行書」とある。これは続千載和歌集巻第十六雑歌上の断簡である。もとは巻子装、雁皮質の料紙に和歌一首二行書。為世筆と伝えるが、その自筆書状に比しその筆蹟特徴は大変よく似ており、為世筆と伝える数多い古筆切のうちで、この「五条切」は、その自筆本ではないかと思われる。なお、この「五条切」によく似た筆蹟で特徴のあるものに、伝為世筆『松風切古今集』があり、為世晩年の筆と称せられ、鳥丸光広の識語があり、鳥丸家に襲蔵せられていたが、昭和2年岐阜で分割されたものである。その他、為世筆と伝える切は十四種ほどを数える。


翰墨城
翰墨城 119 伝二条為世 古今集切
 四半型の楮質の素紙に『古今和歌集』を書写したもの。もとは冊子本で、「古今集切」は巻第十八・雑歌下の歌に該当する断簡である。一面十行書き、和歌は一首一行余り。奇妙にゆがんだ文字、肥痩の線を巧みに組み合わせ、いささかボキボキと力強く書き流した書風はまことに印象的。一見して定家流と思われるこの作品の筆者を、古筆家は、定家流の名手と謳われている二条為世(1250−1338)に当てている。現存する為世の作品は書状などいくつかを数えるのみで、これと、それとを到底比較することはできない。なお『古筆名葉集』は、為世卿の書として十四種の遺品を掲げている。


伝二条為兼


藻塩草
藻塩草 表95 玉葉和歌集巻第四断簡(長柄切) 伝二条為兼筆 斐紙墨書 24.4×15.4 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為兼(1254―1332)の条に「長柄切、四半、自撰玉葉、哥二行書」とある。これは自撰の玉葉和歌集巻第四秋歌上の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面八行書、和歌一首二行書。その書風などより鎌倉時代のものと認められる。手鑑『白鶴帖』には弘安元年(1278)11月9日付自筆消息の断簡が所収されているが、それに比し同筆と断定し難い。なお、その他、為兼筆と伝える古筆に「四半切」(続古今、新後撰、伊勢)、「巻物切」(自撰玉葉、伝記、朗詠)などが知られている。



翰墨城
翰墨城 120 伝京極為兼 本朝文粋切
 源為憲(?−1011)の「申美濃加賀等守状」の巻頭断簡。『本朝文粋』巻第六に収める。為憲は平安中期の学者・漢詩人で、『三宝絵詞』『口遊』などの著者として有名。正暦2年(991)、遠江守となり、善政をしいて疲弊困窮していた同国を救う。その功により、長徳元年(995)、任期が終わると従五位上に叙せられた。長和3年(1014)正月23日、当時空席であった美濃・加賀二国の守に拝任を上申し、任命さる。この切は、そのときの申状を書写したもの。京極為兼(1257−1332)の筆と伝えるが、確証はない。が、書風よりみれば、為兼と同時代の鎌倉時代の書。



翰墨城
翰墨城 120 伝京極為兼 本朝文粋切
 源為憲(?−1011)の「申美濃加賀等守状」の巻頭断簡。『本朝文粋』巻第六に収める。為憲は平安中期の学者・漢詩人で、『三宝絵詞』『口遊』などの著者として有名。正暦2年(991)、遠江守となり、善政をしいて疲弊困窮していた同国を救う。その功により、長徳元年(995)、任期が終わると従五位上に叙せられた。長和3年(1014)正月23日、当時空席であった美濃・加賀二国の守に拝任を上申し、任命さる。この切は、そのときの申状を書写したもの。京極為兼(1257−1332)の筆と伝えるが、確証はない。が、書風よりみれば、為兼と同時代の鎌倉時代の書。


伝二条為雄



藻塩草
藻塩草 表96 古今和歌集巻第十二断簡(佐和山切) 伝二条為雄筆 斐紙墨書 23.9×13.8 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為雄(1274―1323)の条に「佐和山切、四半、古今、哥一行書、朱書入稀ニアリ」とある。「佐和山切」の呼称は、近江国佐和山の石田三成の旧蔵によるものといわれる。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首一行書。その書風より鎌倉から南北朝時代の書写と考えられる。


翰墨城
翰墨城 122 伝二条為雄 佐和山切
 『古今和歌集』巻第十六・哀傷歌の断簡。素紙に歌一首をほぼ一行に書き、朱の合点等の書き入れもある。『新撰古筆名葉集』に「佐和山切 四半古今哥一行書朱書入稀ニアリ」とみえるのが、これである。もとは冊子本。二条為雄(1255−?)の自筆という確証はない。「佐和山切」の名称は、一説に、文禄4年(1595)に関白豊臣秀次の旧領・近江国佐和山十八万石を領有した石田三成が遺愛したことにちなむという。


伝二条為藤


藻塩草
藻塩草 表97 新古今和歌集巻第八断簡(肥前切) 伝二条為藤筆 斐紙墨書 24.8×14.7 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為藤(1275―1324)の条に「肥前切、四半、新古今、哥二行書、ウタノ頭二朱ニテ一二一ニノ点アリ」とある。これは新古今和歌集巻第八哀傷歌の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書である。『慶安手鑑」には、為藤花押の「消息切」が所収されているが、それに比し、この「肥前切」はよく似た書風ではあるが、なお断定し難い。なお、このほか為藤筆と伝えるものは、『増補古筆名葉集」によれば「四半切」、「同」(後撰)、「巻物切」(千載)がある。


翰墨城
翰墨城 123 伝二条為藤 源氏物語古註切
 素紙に『源氏物語』帚木の部分の注釈を書写する。右端に、上下に二つずつ綴じ穴が残されており、もと冊子本であったことを物語る。本文はじめの三行分は『綺語抄』(三巻。藤原仲実著の歌学書)の注に合致し、これは『河海抄』(二十巻、四辻善成著。『源氏物語』の注釈書。四辻善成は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。)にも引用される。四行めの「私云」以下は、これらの注に対する私見を付したものであるが、それが誰によったものか、詳らかでない。歌人として名高い二条為藤(1275−1324)の筆と伝えるが、その自筆たる写本奥書と比べて、明らかに異筆。書風から、鎌倉末期にさかのぼる筆と察せられる。



翰墨城
翰墨城 124 伝二条為藤 家集切
 『増補新撰古筆名葉集』の二条為藤の項には、『新古今和歌集』の「肥前切」、『後撰和歌集』の「四半」、『千載和歌集』の「巻物切」、そして「八条相国橋立歌合」の「四半」などがあげられている。この断簡の内容は不明で、右のいずれにも該当するものはない。もとは冊子本で、一首ごとの頭に朱で歌の内容を注記した集付けが書きこまれている。為藤の書風は、法性寺流に属しており、この断簡と同一書風と考えられるけれども、自筆の消息、写本奥書などと比べ、為藤の筆跡とは言いがたい。14世紀の書写。


伝二条為道


見ぬ世の友
見ぬ世の友 87 伝 二条為道筆 安田切 紙本墨書 16.6×15.9 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一八・雑歌下の断簡。もとは桝形の冊子本で、一面一〇行書き、和歌一首二行書き。料紙の天地が低いため文字はギッシリとつまっていて、豊円な趣を呈している。忽卒に書かれたもののようである。筆者は二条為道(1269―1297)というが、真相はわからない。「増補古筆名葉集」二条家為道卿の条に"六半、古今、寄二行"の記載があるが、これに相当するものであろう。

藻塩草
藻塩草 表98 〔歌集断簡〕(西宮切) 伝二条為道筆 斐紙墨書 17.0×14.2 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為道(1271―1299)の条に「西宮切、六半、哥二行書、自詠家集歎未詳」とある。何集の断簡か、なお明らかにし難い。もとは六半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。その書風等より鎌倉時代末期のものと思われる。なお、為道筆と伝えるものにはこの他に、『増補古筆名葉集』によると「四半切」(新勅撰)、「六半切」(古今、新古今、公卿ノ詩集)などがある。


伝二条為冬


藻塩草
藻塩草 表99 金葉和歌集巻第二断簡(小野切) 伝二条為冬筆 斐紙墨書 24.8×13.8 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の二条為冬(?―1335)の条に「小野切、四半、金葉、哥一行書、少シ雲母アリ」とある。これは金葉和歌集巻第二夏歌の断簡である。もとは四半の綴葉装と思われる。雁皮質の料紙に雲母粉引き、これは一面八行書。左の一行分が編集上切断されているらしく、もとは一面九行程度と思われる。和歌一首一行書。書風より鎌倉時代のものと考えられる。なお、為冬筆と伝える古筆切には、このほか「四半切」(古今哥一行、同二行、新古今、雲帋古今、六百番哥合)、「六半切」(新古今、哥三行)、「小六半切」(源氏ヌキ書)などがある。


翰墨城
翰墨城 125 伝二条為冬 古今集切
 二条為冬(?−1335)は藤原定家の孫にあたる。古筆切には、「小野切」(『金葉和歌集』)はじめ十種以上がある。その中で『古今和歌集』を書写したものとしては、『増補新撰古筆名葉集』によると、「四半 古今哥一行書朱加筆稀ニアリ」「四半 古今哥二行書作者名カナ書」の二種があげられる。この断簡は『古今和歌集』巻第十七・雑歌上の歌で、一首をほぼ一行に書写しており、前者の「四半切」に該当するものと思われる。また、同一書風の『古今和歌集』の断簡が手鑑「筆陣毫戦」に収められており、この断簡の連れと考えられる。


伝二条家俊


藻塩草
藻塩草 表100 古今和歌集巻第十四断簡(醍醐切) 伝二条家俊筆 斐紙墨書 22.8×15.0 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条家俊(1296―1355)の条に「醍醐切、古今、哥一行書、朱書入少々アリ、奥書アル切レナリ」とある。これは古今和歌集巻第十四恋歌四の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首一行書である。文中、同筆と考えられる書入れがあり、『増補古筆名葉集』に「奥書アル切レナリ」とあるところから、この「醍醐切」はあるいは自筆本ということも一応考えられる。その書風より南北朝時代の書写であろう。なお、家俊筆と伝えるのは、この「醍醐切」のみしか知られていない。


翰墨城
翰墨城 126 伝二条家俊 醍醐切
 『古今和歌集』の断簡。この一葉は、巻第十六・哀傷歌の部分。もとは冊子本であった。『新撰古筆名葉集』に「醍醐切 古今哥一行書朱書入少々アリ奥書アル切レナリ」とあるのに該当する。一首を一行に書こうとしながら、二〜四字、次の行にはみ出すが、さして気にも止めないようす。美しい料紙や筆跡を鑑賞するための手本ではなく、本文を写し取ることに重点を置いた写本であることが知られる。『新撰古筆名葉集』に「奥書アル切レナリ」とあるように、もとはこの本の奥書の部分があったらしい。とすれば、二条家俊(1296−1353)を筆者に当てる伝称にも信憑性があるように思われる。が、今日、その奥書が現存しない以上、断定はできない。書風は南北朝時代、14世紀のもの。命名の由来は明らかでないが、京都・醍醐寺に伝来したことによるものか。あるいは、公卿の醍醐家の所伝にちなむものかもしれない。


伝二条為親


藻塩草
藻塩草 表101 続千載和歌集巻第四断簡(島田切) 伝二条為親筆 斐紙墨書 25.2×16.3 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為親の条に「嶋田切、四半、続千載、哥二行書」とある。もとは四半の綴葉装、斐質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。書風等より、南北朝時代のものと考えられる。『増補古筆名葉集』によれば為親筆と伝える切は、このほか、「四半切」(古今、続後撰、新古今)、「六半切」(拾遺ヌキ書、哥詞哥)、「巻物切」(自詠歎、続後拾遺、風雅)などがある。


翰墨城
翰墨城 127 伝二条為親 島田切
 二条為親(?−1341)の筆跡としては、『増補古筆名葉集』に「嶋田切、四半続千載哥二行書」、「四半 古今哥二行書朱星点所々ニアリ」ほか「四半切」が二点、「六半切」二点、「巻物切」三点など、全部で九点があげられている。この断簡は斐紙系の料紙で『続千載和歌集』巻六・冬歌が十行ほど書写されている。手鑑「藻塩草」にも同一断簡が載せられているが、同じく十行書きであることからして、一面に十行書写した冊子本であろう。もとより、為親の筆跡とする証はないが、南北朝以降の筆跡であろう。


伝二条為定


見ぬ世の友
見ぬ世の友 88 伝 二条為定筆 世保切 紙本墨書 25.3×11.5 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一三・恋歌三の断簡で、「増補古筆名葉集」二条家為定卿の条に、"四半、古今、哥一行書、雲帋或ハ白帋"と記されるものに相当しよう。もとは冊子本で、この断簡の料紙は白地の斐紙である。和歌は一首一行書き。円いコロコロとした書きぶりで、文字は筆の進むにつれて、つまって小さくなっている。鎌倉末期ごろの書写になるものであろう。伝称筆者・為定(1293―1360)は家六世の孫にあたり、「続後拾遺集」を撰進した。世保切という名の由来は明らかでない。

藻塩草
藻塩草 表102 続後拾遺和歌集巻第三断簡(冷泉切) 伝二条為定筆 斐紙墨書 24.8×15.4 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為定(1293―1360)の条に「冷泉切、四半、自撰続後拾遺、哥一行書」とある。これは続後拾遺和歌集巻第三夏歌の断簡。もとは四半縦長の綴葉装、雁皮質の料紙に一面八行書。その書風等より南北朝時代と考えられる。切名称は、文字通り冷泉家より出たためであろう。



翰墨城
翰墨城 128 二条為定 世保切
 『増補古筆名葉集』の二条為定(1293−1360)の条に「四半古今哥一行書雲帋或ハ白帋」とあるのに適合する断簡である。「雲帋或ハ白帋」とあるうちの後者の「白帋」に『古今和歌集』巻第八・離別歌を一首一行書きに書写したもので、「世保切」の名で呼ばれる。為定は冷泉家に対抗する二条家の歌人として活躍し、書は、おそらく定家流を習った。ところが、この断簡の書には定家流があまり現われていないことを考えると、この断簡の筆者とは考えられない。書風から、鎌倉時代末から南北朝時代の書写になるものと思われる。


伝二条為明


藻塩草
藻塩草 表103 続古今和歌集巻第十断簡(朝倉切) 伝二条為明筆 斐紙墨書 17.0×14.3 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為明(1289―1363)の条に「朝倉切、続古今、哥二行書、文字二片カナ付アリ」とある。これは続古今和歌集巻第十罵旅歌の断簡である。もとは六半の升形綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 129 伝二条為明 源氏物語切
 『源氏物語』玉鬘の断簡。『新撰古筆名葉集』の二条為明(1295−1364)の項に、「六半 源氏此外類切多シ」とあるのに該当しよう。もとは六半切の冊子本で、これはその1ページ分にあたる。筆者名を明らかにすることはできないが、書風からみて、鎌倉中期の書写になると思われる。なお、行間のところどころに後代の加筆がみえている。いずれも誤写を訂正したものではなく、異本により、これを校合したものである。


伝二条為忠


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表104 続後撰和歌集巻第五断簡(高台寺切) 伝二条為忠筆 斐紙墨書 24.2×15.5 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為忠(1310―1373)の条に「高台寺切、四半、続後撰、哥二行書、雲帋或ハ白帋」とある。これは続後撰和歌集巻第五秋歌上の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首二行書。その書風、料紙より南北朝時代の書写と考えられる。

翰墨城 131 伝二条為忠 高台寺切
 『続後撰和歌集』巻第六・秋歌の断簡。『古筆名葉集』為忠卿の条に「高台寺切 四半、続後撰、哥二行書、雲帋或ハ白帋」と記録されるものに該当する。「高台寺切」という名称は、この写本がもと京都・高台寺に伝来したことによるものであろう。もとは冊子本。四半形の表紙に一面七行、和歌一首は二行書き。行立て、行間が整然としており、文字の大小、線の細太、曲直などに変化をもたせながら、さして連綿書きをせず、それでいてぐいぐい筆を運んだ、豪放な趣をもつ仮名である。この筆者を為忠というのも、なんら確証あってのことではない。


翰墨城
翰墨城 130 伝二条為忠 後撰集切
 『後撰和歌集』巻第九の断簡である。『増補古筆名葉集』の二条(藤原)為忠(1309−1373)の項に「六半 後撰哥一行雲帋或ハ白帋」とあるものに適合しよう。為忠の書の真相は不明。雲紙に和歌一首一行書き、一面十行書きである。伝二条為忠筆の「高台寺切」の書風とは合わないが、その書風は、南北朝時代を下らない。


伝二条為重


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表105 新古今和歌集巻第四断簡(道也切) 伝二条為重筆 打曇斐紙墨書 25.4×15.8 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為重(1324―1385)の条に「道也切、四半、新古今、哥二行書、ウタノ首二一字名アリ、雲帋或ハ白帋」とある。これは新古今和歌集巻第四秋歌上の断簡である。もとは四半の綴葉装、藍の打曇紙を横に使った雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首二行書。歌の首に撰者名が略記されている。南北朝時代頃の書写であろう。


翰墨城 133 伝二条為重 道也切
 『新古今和歌集』巻第三・夏歌の断簡。料紙は藍の打曇。もとは冊子本。和歌一首を二行書きにする。和歌の頭に「定」「隆」「雅」とみえる小字は、撰者の藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経が撰歌の点をかけたことを示す。書風は穏やかで、線は暢達しているが、単調で変化に乏しい。この切は『古筆賞鑑録』に「了佐ノ孫道也質ニ取ル切ナリ」とみえている。「道也切」の名称は、古筆家の初祖・了佐(1572−1662)の孫、道也の所蔵であったことに由来する。筆者は二条為重と伝える。『新撰古筆名葉集』は、彼を「道也切」「紹智切」「哥仙切」ほか数多くの古筆切の筆者に擬定している。二条流の有力な歌人としては多くの歌集を書写することは当然であるが、残念ながらいずれも真筆と断定する根拠はない。南北朝時代の書写。



翰墨城
翰墨城 132 伝二条為重 新古今集切
 四半形の料紙に金銀泥をもって、天に雲形、地に岩・流水・草花を描き、その間に一面九行、和歌一首を二行書きしたもの。「新古今集切」は『新古今和歌集』巻第十八・雑歌下の断簡である。もとは冊子本。二条為重(1334−1385)は尊円流の名手と謳われている。彼の真筆としては写経・和歌懐紙・書状などが伝存するが、それらの遺墨との比較において、為重自筆と認めてよいと考えられる。『古筆名葉集』は為重の書として十二種の作例を掲げるが、それらの中に歌仙切や自画讃などがあるのは、為重が画事に堪能であったことを物語るものであろう。


翰墨城
翰墨城 134 伝二条為重 紹智切
 『続後撰和歌集』巻第十五の、三条院女蔵人左近(小大君)の歌。『新撰古筆名葉集』の二条為重の項に、「紹智切 六半(以下抹消)」とあるものに該当するが、詳しいことは不明。「紹智切」の名称は、もと、茶人の藪内紹智(1541−1627)の所蔵あったことから命名されたものと考えられる。武野紹
(1502−1555)邸の茶会において藤原定家の「小倉色紙」が用いられて以来、茶の湯の掛物として古筆が定着していったことは周知のとおりである。『松屋会記』『宗及自会記』『宗及他会記』などの茶会の記録にはおびただしい古筆が登揚するが、このことからも茶人たちの古筆愛好熱のほどが察せられる。筆者を二条為重と伝えるが、確証はない。南北朝時代の書写。


伝二条為貫


藻塩草
藻塩草 表106 新古今和歌集巻第十一断簡(六角切) 伝二条為貫筆 斐紙墨書 23.4×14.4 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為貫の条に「六角切、四半、新古今、哥二行書」とある。これは新古今、和歌集巻第十一恋歌一の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面八行書、和歌一首二行書。書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 135 伝二条為貫 古今集切
 『古今和歌集』巻第五・秋歌下の断簡。升型の素紙に八行書き。全体的に幅広で右肩上がりの特異な書風である。『新撰古筆名葉集』に「六半 古今哥二行書」と掲げるのに該当する。同じ為貫筆と伝える『新古今和歌集』を書いた「六角切」とは異筆。為貫の伝歴は不詳で、この一葉の筆者としての確証はまったくない。


伝二条為遠


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 89 伝 二条為遠筆 八嶋切 紙本墨書 23.7×8.8 南北朝
 「増補古筆名葉集」二条家為遠卿の条に記載される"八島切、四半、古今、哥二行書"に相当するが、これは、「古今和歌集」巻第一八・雑歌下に所収の第九六九番、なりひらの朝臣の歌『今そしる苦しきものと人またむ里をばかれずとふべかりけり』の詞書きだけの断簡である。もとは四半の冊子本で、料紙は雁皮質の斐紙。書は、円味をおびた抑揚のある筆使いで、字形がよく整っている。筆者は、定家七世の孫・為遠(1341―1381)といわれているが、やはり南北朝時代の写本と考えられる。八嶋切という名の由来は明らかでない。

藻塩草 表107 古今和歌集巻第十四断簡(八島切) 伝二条為遠筆 斐紙墨書 24.0×15.8 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為遠(1342―1381)の条に「八島切、四半、古今、哥二行書」とある。これは古今和歌集巻第十四恋歌四の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首二行書。その書風、料紙より南北朝時代の書写と考えられる。



翰墨城
翰墨城 136 伝二条為遠 続千載集切
 『続千載和歌集』巻第八・羈旅歌の断簡。素紙に、やや大ぶりな書風を展開させ、漢字を仮名よりもひとまわり大きな字形と太い筆線で書くのが特徴。もとは、冊子本と思われる。『新撰古筆名葉集』に「四半 続千載哥二行書」とあるのが、これに該当する。筆者を二条為遠(1341−1381)とする根拠はまったくないが、その書風から推して、彼が活躍した南北朝時代までさかのぼりうる筆である。なお、同じ為遠筆と伝える『古今和歌集』の断簡「八島切」(「藻塩草」所収)とは異筆。


伝二条為右


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表108 新古今和歌集巻第一断簡(豊前切) 伝二条為右筆 斐紙墨書 22.4×15.3 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の二条為右の条に「豊前切、新古今、哥二行書、泥画アルハ跡書ナリ」とある。これは新古今和歌集巻第一春歌上の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。


翰墨城 137伝二条為右 豊前切
 二条為右(生没年未詳)の筆跡としては、『増補古筆名葉集』に「豊前切」ほか「四半切」五種が掲載されている。この断簡の内容は、『新古今和歌集』巻第十七・雑歌中の巻末の歌で、金銀泥の下絵がみえる。前書の「豊前切」の説明には、「新古今哥二行書、泥画アルハ跡書ナリ」とみえており、この断簡と同じであることが理解できる。為右の書風は尊円流である。自筆の詠草断簡とこの断簡を比べると、尊円流という点は共通するが、同筆とは断定できない。なお、国宝「大手鑑」には、この断簡と同じく「豊前切」に相当する竹の下絵のある断簡(九行分)が伝存している。15世紀ごろの書写。


伝冷泉為邦


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 90 伝 冷泉為邦筆 入江切 紙本墨書 22.7×16.9 南北朝
 「詞花和歌集」巻第九・雑上の断簡で、「増補古筆名葉集」冷泉為邦卿の条に、"入江切、四半、詞花、哥二行書"と記されるものである。もとは四半の冊子本で、雁皮質の斐紙に、一面九行書き、和歌一首二行書き。書は、細太の差の著しい柔らかい書きぶりで、行間のつまった横幅のある字形である。筆者を冷泉為邦(?―1371?)というが、何ら確証はない。この書風は、南北朝時代のものと考えられる。

藻塩草 表111 詞花和歌集巻第九断簡(入江切) 伝冷泉為邦筆 斐紙墨書 22.9×14.6 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の冷泉為邦(?―1371?)の条に「入江切、四半、詞花、哥二行書」とある。これは詞花和歌集巻第九雑上の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に普通は一面九行書、これは左が編集上一行切断されているように思われる。和歌一首二行書。書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。


伝冷泉覚源


藻塩草
藻塩草 表112 後撰和歌集巻第八断簡(浦野切) 伝冷泉覚源筆 斐紙墨書 22.0×15.1 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の覚源法印定家卿息の条に「浦野切、四半、後撰、哥二行書」とある。これは後撰和歌集巻第八冬歌の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。書風より鎌倉時代のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 139 伝覚源続 古今集切
 『新撰古筆名葉集』に「覚源法印定家卿息四半 続古今異本哥二行書」とあるのが、これに該当すると思われる。もと冊子本の1ページ分。この断簡の第一首は、『続古今和歌集』巻第一・春歌上に所収するもの。しかし、同じく春の歌である第二・三首は、『続古今和歌集』その他の歌集にはみえない。『新撰古筆名葉集』に述べるように、『続古今和歌集』の異本という見かたもできるが、あるいは、集名未詳の歌集であるかもしれない。覚源は、藤原定家(1162−1241)の四男。延暦寺の僧で、法印・権大僧都をつとめた人物であるが、彼の筆跡であるという極めは、あくまでも伝称の域を出ない。後京極流の特徴が顕著な、13世紀末の遺品。


伝冷泉源承



藻塩草
藻塩草 表113 〔歌集断簡〕(笠間切) 伝冷泉源承筆 斐紙墨書 23.1×15.7 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の源承法印為家卿息の条に「笠間切、集未詳、四半、哥二行書、後撰ノ異本力」とあるが、後の二首は、流布本の後撰和歌集(国歌大観など)には所収されておらず、はたしてこれだけで後撰和歌集の異本といえるかどうか、なお断定し難い。もとは四半の綴葉装、楮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。書風、料紙より鎌倉時代と考えられる。『増補古筆名葉集』によれば、このほか、源承筆と伝えるものに「六半切」(新古今)がある



翰墨城
翰墨城 140 伝源承 新古今集切
 『新古今和歌集』巻第九・離別歌の断簡。もとは冊子本で、一面八行書き。歌を二行に書写している。これは『新撰古筆名葉集』に「源承 法印為家卿息六半 薪古今哥二行書」とあるのに該当。源承は藤原為家(1197−1275)の六男で、兄(長男)為氏(1222−1286)の養子となった。出家して延暦寺に入り、法眼に至る。この断簡は、為家や為氏と非常によく似た、いわゆる後京極流の書風を示すが、源承の筆跡という確証はない。13世紀末の遺品。校合書き入れは本文と同筆。


伝冷泉慶融


藻塩草
藻塩草 表114 拾遺和歌集巻第四断簡(近江切) 伝冷泉慶融筆 斐紙墨書 22.8×14.2 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の慶融法印の条に「近江切、四半、古今又ハ拾遺、哥一行書」とある。これは拾遺和歌集巻第四冬歌の断簡である。手鑑『翰墨城』に22行つづいた「近江切」の断簡が所収されていることから、もとは巻子装とわかる。雁皮質の料紙に和歌一首二行書、和歌の首に撰者の略名が記入してある。その書風、料紙より鎌倉時代と考えられる。なお、慶融筆と伝えるのはこの切のみである。
*歌頭に「古今」「少」とあるのは集付で、この歌が『古今和歌集」巻第五秋歌下(新編国歌大観第一巻 歌番号二八四)、『拾遺抄』巻第四冬(新編国歌大観第一巻歌番号一三四)の入集歌であることを意味する。解説では『翰墨城』に貼込まれた切をもってもとは巻子装であったとするが、折り目と綴りあとがあることから冊子本である。



翰墨城
翰墨城 141 伝慶融 近江切
 もとは胡蝶装の冊子本で、『拾遺和歌集』を書写したもの。右1ページ分は巻九・雑下の六首、左1ページ分は巻八・雑下の四首をそれぞれ一首一行書きにする。料紙は雁皮である。これは『増補古筆名葉集』の「近江切 四半、古今又ハ拾遺哥一行書」にあたり、慶融筆と伝えるのはこの類の切だけである。極めに「二条家慶融法眼」とあるとおり、慶融は、二条流歌人の代表として鎌倉時代初期の歌壇に名を成した藤原為家(1198−1275)の子であり、定家(1162−1241)の孫にあたる。出家して仁和寺の法眼となっている。切れ味のある力強い筆線と練達した筆遣いである。慶融の真跡資料が乏しく、真筆とは断定しがたい。書風から彼とほぼ同時代の遺品と考えてよい。これと同じ連れが手鑑「藻塩草」・手鑑「筆陣毫戦」に収められている。


伝冷泉定為


藻塩草
藻塩草 表115 続千載和歌集巻第五断簡(平野切) 伝冷泉定為筆 斐紙墨書 24.8×15.7 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の定為法印為氏卿息の条に「平野切、四半、続千載、哥一行書」とある。これは続千載和歌集巻第五秋歌の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面十一行書、和歌一首一行書。左下に黒印があるが印文は判読できない。その書風、料紙などより鎌倉時代と考えられる。



翰墨城
翰墨城 142 伝二条定為 平野切
 『続千載和歌集』巻第八・羈旅歌の断簡。書風は典型的な定家流である。しかし、定家流とはいっても、定家(1162−1241)晩年の癖の強いものでなく、壮年時代の書風に倣うもので、豊潤で軽やかな筆致が印象的である。和歌一首を一行に、字間を詰めて書いているため、回転の速い、丸みをおびた字形が強調されてみえる。江戸時代になってからは、茶道の盛行に伴い、茶室の掛け物として定家の筆跡が尊ばれたために、定家流が著しく流行した。定為は、そうした人々の中でも、とくに堪能な書き手の一人であったことが知られている。手鑑「藻塩草」にも、これと同筆で、やはり冷泉定為筆「平野切」と伝える、連れの断簡が所収されている。しかし、定為の筆跡は、こうした歌集の断簡しか遺されておらず、真筆と確認できるものはない。したがって、この切は、書風からみて、鎌倉時代の書写ではあるが、筆者は不明というほかない。


伝八条女院


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 91 伝 八条女院筆 高倉切 紙本墨書 30.0×23.5 平安
 仮名消息の断簡で、「増補古筆名葉集」八条女院の条にわずかに一つ記される"高倉切、杉原、カナ文、チラシ書"とあるものに相当する。料紙はザラッとした杉原楮紙で、淡墨を用いて散らし書きしている。いわゆる女性の手紙文である。運筆は軽妙で自在であるが、線の質は弱々しい。筆者は、鳥羽天皇の第三皇女・八条院(1136―1211)と伝えるが、はたしてどうであろうか。こうした手紙は女性が書く典型的なスタイルであるが、古筆家の極めでは、源平時代の仮名消息はほとんど西行あるいは八条院の筆跡にしたといわれている。

藻塩草 236(裏119) 書状断簡〔消息切〕 伝八条女院筆 杉原楮紙墨書 29.8×14.2 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の八条女院(後鳥羽院皇女・1136―1211)の条に「仮名文切」とのみあり、『増補古筆名葉集』には「高倉切、杉原、カナ文チラシ書」とあるものに適合しよう。ただし、『藻塩草』付属の目録において、「高倉切」の名は後で抹消してある。もとは巻子装、楮質のいわゆる杉原紙に仮名で散らし書きしてある。八条女院の自筆かどうか断定し難いが、書風より鎌倉時代の女人の筆になるものと考えられる。


伝中将姫


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 96 伝 中将姫筆 当麻切 紙本墨書 25.7×14.1 奈良
 「称讃浄土仏摂受経」(玄奨訳)の断簡で、「増補古筆名葉集」中将姫の条に"当麻切、黄需墨字、称賛浄土経"と記載されるものに相当する。もとは巻子本で、黄地の仙花紙に淡墨で界をひいている。力強い点画、端正で謹厳なこの書風は、まさしく奈良朝のものであり、隋唐期における写経体の影響をうけたものであろう。おそらく写経所における写経生の手になるものであろうが、昔から筆者を藤原不比等の孫にあたる中将姫(1291―1319)と伝えている。光明皇后は不比等の女、中将姫とは血縁の間柄ゆえ、この称讃浄土経が申将姫の書写といわれるようになったのであろう。こうした故事・伝説を背景にして、この断簡は中将姫の書・当麻切と呼ばれて、古くから世に喧伝されている。

藻塩草 233(裏116) 称讃浄土仏摂受経断簡(当麻切) 伝中将姫筆 黄穀紙墨書 26.3×5.6 奈良時代
 『古筆名葉集』の中将姫の条に「黄帋、墨字経」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「当麻切、黄帋、墨字、称賛浄土経」とある。これは玄奘訳称讃浄土仏摂受経の断簡である。もとは巻子または折帖装、楮質の仙花紙に墨罫あり、その界高20.1種、界幅1.9糎、一行17字。書風より奈良時代のものと認められる。もと当麻寺にあった『称讃浄土経』の散侠したもので、それゆえ「当麻切」と呼ばれる。寺伝では大納言横侃の息女中将姫の筆と伝えるが、おそらくは天平宝字年間に称讃浄土経所で書写せしめられた一千巻の中の一部と考えられる。


翰墨城 144 伝中将姫 当麻切
 黄茶色の楮質紙に淡墨の界を引いた料紙。横画の起筆を垂直に入れ、十分に力をためて筆を運んだ強く重厚な点画、斜形ながら厳格な構築をみせるこの書風は、中国六朝期の影響を受けたもの。まさに奈良朝の写経ということができる。あるいは帰化人の手になったものか。これは「称讃浄土仏摂受経」(玄奨訳)の断簡。付箋に「当麻中将姫」とあり、『増補古筆名葉集』中将姫の条に「当麻切・黄帋墨字、称讃浄土経」と記されるものである。中将姫(1291−1319) 藤原不比等の娘)は仏教に帰依深く、「当麻曼茶羅縁起」によると、「称讃浄土経」一千巻を書写し、当麻寺に奉納したという。また『続日本紀』には天平宝字4年(760)、光明皇后の七七忌のとき、国ごとに阿弥陀浄土画像をつくらせ、「称讃浄土経」を書写せしめ、供養を行なったとあるが、光明皇后と中将姫とは血縁の間柄、こうした歴史的事実・伝説を背景に、時代・種類を問わず「称讃浄土経」を書写したものはすべて、中将姫の筆跡と称したものらしい。その断簡「当麻切」とは、中将姫ゆかりの当麻寺の名を冠したものである。



翰墨城
翰墨城 145 伝中将姫 写経切
 料紙の天地を少し切り落としていようか。黄紙に淡墨の界、それも通常の写経より幅広く縦罫を引いた大字写経の断簡である。割書が多いが、これは何かの注釈経と思われる。大字も細字も力強い点画、伸びやかな線によって構築されたみごとな楷書で、じつに端正・謹厳な風格を誇っている。やはり、奈良時代における写経所写経生の手にかかったものであろう。筆者は「当麻切」と同じく中将姫とされている。むろん確証あってのことではないのだが、中将姫が写経をよくしたこと、この経切の書写年代が奈良朝にちがいないことなどから、筆者をかりに中将姫に当てたものであろう。『古筆名葉集』中将姫の条に「経切同上他経ルイ切」とあるように、いくつかの写経遺品が中将姫の筆跡として仮定されたようである。


伝小大君


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 97 伝 小大君筆 御蔵切 雲母箔散紙本墨書 18.8×11.9 平安
 三十六人家集申の「小大君集」の断簡で、「増補古筆名葉集」小大君三条院女蔵人の条に、"御蔵切、四半、寄二行書、集未詳、浅黄地、キラニテ唐艸アリ"と記されるものに相当する。もとは小四半の冊子本。料紙は、藁入りの楮紙に雲母箔をまき、唐草文様を摺り出した舶載の唐紙である。一面七〜八行書き、和歌一首は二行書き。穂先のよくきく筆を用いたらしく、繊細で変化に富んだ才筆を思わしめるが、その書は、情のながれゆくにまかせた綿々たる趣を呈している。その書風からして平安末期の書、それも女性の筆跡のように思われる。小大君集を書いたものゆえ、筆者を小大君にあてはめたものであろう。御蔵切という名の由来は明らかでない。これも小大君集の異本を書写したものなのであろう。

藻塩草 235(裏118) 小大君集断簡(御蔵切) 伝小大君筆 雲母箔散楮色カラ紙墨書 19.8×12.4 平安時代後期
 『古筆名葉集』の小大君三条院女蔵人の条に「漢帋地、竪長シ、古今、哥二行」とあり、『増補古筆名葉集』に「御蔵切、四半、哥二行書、集未詳、浅黄地キラニテ唐草アリ」とある。これは小大君集の断簡である。もとは小四半の綴葉装、ワラ入の楮質の浅葱染紙に雲母箔摺り唐草文様がある。一面七行書、和歌一首二行書。小大君の自筆が確認されていないので比較し難いが、この書風は繊細優雅であり、平安時代後期の女性の筆になるものと考えられる。この「御蔵切」が小大君集なので、筆者も小大君とされたことから、この「御蔵切」と書風のよく似ている「麗花集切」(香紙切)も、筆者を小大君とされるに至ったものと考えられる。この類品は少なく貴重である。



翰墨城
翰墨城 150 伝小大君 香紙切
 『麗花集』の断簡。この集の名は、『後拾遺和歌集』の序に、「麗しき花の集」とみえている。撰者はわからないが、寛弘年間(1004−1011)のころに成立したものと思われる。春二巻、夏一巻、秋二巻、冬一巻、恋二巻、雑二巻、合わせて十巻本として編集されたものらしい。が、完本としての書写本が伝わらないので、明らかでない。料紙は、丁字の汁で染めた香紙で、当初は芳香を放っていたものであったろう。巻第一の内題には、「麗花集第一」と書いた断簡がある。ほかは、「巻第四」「巻第十」などと書き、巻第八にかぎり、「れい花集巻第八」と集の名を記している。面相筆のような、穂先の長い筆で、まこと奔放自在に書き流して、言いがたい美しさをみせている。ことに、連綿の美しさは抜群で、一筆で多くの字形を連ね書きしているのは、ほかに類がない。筆者の力量のほどがしのばれる。筆者を伝えて小大君(こだいのきみとも)という。彼女は、三条天皇が東宮のころ、女蔵人として近侍しており、左近の召名をもって呼ばれていた。むろん、あくまでも伝称筆者にすぎず、その線のみごとさに、女筆を思わせるものがあるが、いま、にわかに決めがたい。11世紀のごく初めのころの筆と思われる。


伝藤原公任(伝 小大君)


見ぬ世の友

見ぬ世の友 98 伝 藤原公任筆(伝 小大君筆) 麗花集切(香紙切) 紙本墨書 20.7×12.0 平安
 この古筆切は、まったく同一の「麗花集」断簡であっても、一つは伝 藤原公任筆麗花集切、一つは伝 小大君筆香紙切と呼ばれるもの。確たる理由があって呼び分けているのではないのだが、それぞれの断簡がもつわずかな書風の相違・雰囲気によって、いずれかの名称をあてはめている。この手鑑の配列からすれば、ここは女性の筆者になるところであるが、断簡の冒頭に歌集名・巻数が漢字で書かれており、香紙としての色がうすいため、麗花集切としたように思われる。もとは冊子本で、料紙は薄黄色の斐紙。薫染と防虫とをかねて丁子の液を刷毛染めにしたものゆえ、香紙切の名がある。一面六〜八行書き、和歌一首は二行に書かれたものが多い。面相筆のような長鋒の筆を自在に駆使しており、行は自然に右に流れ、その連綿はまことに息が長い。御蔵切とはやや趣を異にするが、やはり平安末期の書写であろう。麗花集の完本は伝存せず、断簡としてこの香紙切と八幡切を数えるのみである。まことに貴重な研究資料である。


伝二位尼(北条政子)


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 99 伝 二位尼(北条政子)筆 消息断簡 紙本墨書 29.2×5.2 鎌倉
 杉原紙に淡墨で書いた仮名消息の断簡。わずか二行ではあるが、大らかに暢達した筆は実に気持ちがよい。筆者を二位尼(北条政子・1157―1225)と伝えており、「増補古筆名葉集」二位尼将軍の条には"石野切、杉原需、カナ文"の記載があるが、はたしてこれが石野切なのかどうか、また石野切の名称が何に由来するのか明らかにしがたい。いったいこの種の消息というものは、手鑑作成のときすでに断簡となっていたものであろうか、あるいはまた手鑑を作るためにあらたに切断したものなのであろうか。どうも、後者の場合も多かったように思われる。このような場合には、古筆家のいう伝称筆者もかなり真実性をおびてこよう。

藻塩草 237(裏120) 書状断簡〔消息切〕 伝二位尼(北条政子)筆 杉原楮紙墨書 29.1×7.6 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の二位尼将軍(北条政子)(1157―1225)の条に「仮名文」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「石野切、杉原帋、カナ文」とあるものに適合しよう。しかし『藻塩草』付属の目録では、「石野切」に×印が付してある。この三行の断簡のみでは、その内容を明らかにし難い。料紙は楮質のいわゆる杉原紙であるが、天地は手鑑編集上切られて短くなっている。北条政子筆と伝えるが、この『藻塩草』に関する限り平政子書状に比し、その筆蹟特徴から、ほぼ同筆と認めてよいのではないかと考えられる。なお、同じ二位尼筆の書状断簡でも、みなその書風を異にするので、すべて「石野切」は同筆と断ずるわけにはいかない。



翰墨城
翰墨城 151 伝北条政子 石野切
 北条政子(1157−1225)は、源頼朝の夫人で尼将軍と呼ばれる。『増補古筆名葉集』の二位尼将軍の項には、「石野切 杉原帋カナ文」とあり、この断簡がそれに該当する。紙背の経文は、この消息を反古紙として残してあったものが、その主が他界したために、菩提をとむらうために、それに写経したもの。したがって、消息の下部が切断されているのは、写経料紙として調えるためである。北条政子の消息として、「御文たしかに云々」で始まる一通が伝存している。そこで、二つの書風を比べると、この断簡のほうがのびのぴとした流麗な筆跡である。字配りも、この断簡のほうがより自由である。つまり、同筆とは考えられない。手鑑「藻塩草」にも三行の仮名消息の断簡が伝わっている。が、いずれも異筆。


伝坊門局


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 100 伝 坊門局筆 小松切 紙本墨書 21.6×15.3 鎌倉
 「拾遺和歌集」巻第六の断簡で、「増補古筆名葉集」坊門局俊成卿女の条に、"小松切、四半、拾遺、哥二行書"と記されるものに相当する。もとは四半の冊子本。雁皮質の料紙に一面一〇行書き、和歌は一首二行書き。文字は小さく線が細いが、筆の折り返し・終筆部で筆をおろして太くなるくせをもっている。また、ときには鋭く筆をくいこませているところもある。いささか俊成の筆跡との相似点を見出したのであろうか、筆者を俊成の女・坊門局(定家の姉)と伝えているが、実証の手がかりはない。しかし、書写年代は鎌倉中期のもの、女性の筆跡であったかもしれない。

藻塩草 238(裏121) 拾遺和歌集巻第二断簡(小松切) 伝坊門局筆 斐紙墨書 22.0×15.5 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の坊門局(俊成卿女)の条に「小松切」に相当するものは記載されていない。『増補古筆名葉集』に至って「小松切、四半、拾遺、哥二行書」とある。これは拾遺和歌集巻第二夏部の断簡である。この断簡に見るごとく、国歌大観本の拾遺集とは、歌の順序を異にし、第一二二番歌の後につづく歌題は、何巻に属するのか明らかでない。したがって、この拾遺集は、国歌大観本とは異なる本によったものであろう。もとは四半の綴葉装、楮まじり雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。陽明文庫蔵の坊門局消息に比較すると、その筆蹟特徴には近いものがあるが、書状との比較であり、なお断定し難い。また伝坊門局筆唯心房集、清正興風集に比し同筆とは認められない。しかし、書風等より鎌倉時代の女人の筆になるものと考えられる。
*『拾遺和歌集』巻第二夏の断簡ではなく、『拾遺抄』巻第二夏の断簡である。


翰墨城 148 伝坊門局 小松切
 『拾遺和歌集』巻第十八・雑賀、巻第十九・雑恋の断簡。「小松切四半拾遺哥二行書」とある『新撰古筆名葉集』の記載に該当するもの。『国歌大観』本によると、和歌(歌帋号1184)に続く「権中納言敦忠云々」が、大きく間を開けて、巻第十九(歌帋号1222)へと飛ぶ。つまり、『国歌大観』本の配列順と異なり、また、本文にも多少の異同が認められるから、それとは別系統の写本と思われる。素紙に書いた小ちんまりした書風は一種特有の奇癖を打ち出している。坊門局(?−1200)は藤原俊成の女で、今日、自筆消息や弟にあたる定家の識語をもつ『唯心房集』(藤原頼業の家集)などの筆跡を残しているが、これらとの比較において明らかに異筆。もとは冊子本であった。


伝越部局


見ぬ世の友
見ぬ世の友 101 伝 越部局筆 阿野切 紙本墨書 24.0×15.1 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一・春歌上の断簡で、「増補古筆名葉集」越部局俊成卿女の条に"四半、古今、哥二行書"と記されるものに相当しようか。阿野切という名の由来は判らぬが、もと公家阿野某の所有ということによるのであろう。もとは四半の冊子本。料紙は白紙で、和歌一首二行書き、最後の歌は一行書きで、二・三・五句を小さく双行に書いている。運筆は自在であるが、線が細く弱々しく、字形はきわめて小さい。何か、霞のかかったような印象をうけ,る。筆者は藤原俊成の孫・越部局というが、何ら確証はない。書写年代は、鎌倉中期ごろであろう。

藻塩草
藻塩草 239(裏122) 後拾遺和歌集巻第五断簡(肥後切) 伝越部局筆 斐紙墨書 24.4×14.6 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の越部尼俊成卿女の条に「四半切、古今」は記載されているが、後拾遺和歌集についてはふれるところがない。『増補古筆名葉集』に至って「肥後切、四半、後拾遺、哥二行書」とある。これは後拾遺和歌集巻第五秋下の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじり雁皮質の料紙に、一面八行書、和歌一首二行書。書風等より、鎌倉時代の女人の筆になるものと考えられる。手鑑『見ぬ世の友』には、越部局のものとして「阿野切」(古今和歌集)が収められているが、この「肥後切」とはその筆蹟特徴から同筆と思われる。


伝民部卿局


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 102 伝 民部卿局筆 秋篠切 紙本墨書 22.1×15.2 鎌倉
 「増補古筆名葉集」民部卿局定家卿女の条に、"秋篠切、四半、後撰、哥二行書"と記録されるものである。これは、「後撰和歌集」巻第一八・雑歌四の断簡。もとは四半の冊子本で、雁皮質の斐紙に一面九行書き、和歌一首は二行に書かれている。線は細く、文字は小さく、あまり特徴のない書であるが、筆に渋滞はなく連綿は自然で、字形もよく整っている。鎌倉時代の、それも女性の手になったものかもしれない。定家の女・民部卿局(1195―?)の筆跡といわれるが、実証の手がかりはない。秋篠切という名の由来も、不明である。

藻塩草 240(裏123) 後撰和歌集巻第十八断簡(秋篠切) 伝民部卿局筆 斐紙墨書 22.2×15.5 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の民部卿局定家卿女の条に「四半切、後撰、細字也」とあり、また『増補古筆名葉集』には、「秋篠切、四半、後撰、哥二行書」とある。これは後撰和歌集巻第十八雑歌四の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。藤原定家ならびに民部卿局の自筆である桂宮本馬内侍歌日記に見る書風とは異なる。しかし鎌倉時代における女人の筆蹟と考えられる。なお、手鑑『見ぬ世の友』所収の「秋篠切」も、後撰和歌集巻第十八の断簡で、この『藻塩草』本にごく近い部分である。



翰墨城
翰墨城 149 伝民部卿局 新古今集切
 『新古今和歌集』巻第六・冬歌の断簡。定家の女・民部卿局を伝称筆者とする歌切といえば、まず『後撰和歌集』の断簡「秋篠切」を連想するが、これに次いで『新撰古筆名葉集』では、「四半 新古今哥二行書」を掲げる。すなわち、この一葉がそれに該当するもの。料紙は素紙。やや背丈の低い字形につくり、強靭な筆致をみせる。もと冊子本。民部卿局の自筆という確証は、なにもない。「秋篠切」とは、明らかに異筆。


伝阿仏尼


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 103 伝 阿仏尼筆 秋田切 雲母箔押下絵紙本墨書 23.2×12.8 鎌倉
 「古今和歌集」巻第二・春歌下に所収の第八五・八六番の歌二首の断簡。「古筆名葉集」には"鯉之下画、四半切"とあり、また「増補古筆名葉集」阿仏尼為定卿室の条には"鯉切、四半、古今注、哥二行書、白又ハウス茶地、鯉又ハ家形等のキラ画アリ"と記されている。この切の付箋にも"鯉下絵"とあったが、これを消して秋田切と名を改めている。おそらく、この料紙中に、鯉の下絵がなかったからであろう。もとは四半の冊子本、雲母箔押の草花紋様が下絵され、一面七〜一〇行書き、和歌は一首二行書きのものが多い。字形はまるく、整斉で、筆使いが巧妙である。筆者を阿仏尼と伝えるが、何も確証は無い。書風・料紙からみると、鎌倉時代初期のものと思われる。

藻塩草 241(裏124) 〔古今和歌集注断簡〕(秋田切)または(鯉の下絵切) 伝阿仏筆 雲母箔押下絵斐カラ紙墨書 23.2×15.4 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の阿仏(?―1283)の条に「鯉之下画、四半切」とあり、『増補古筆名葉集』には「鯉切、四半、古今注、哥二行書、白或ハウス茶地、鯉又ハ家形等ノキラ画アリ」とあるものに適合する。これは古今和歌集の注釈書と考えられる。しかし、その書名については、なお後考を要する。『藻塩草』付属の目録には「秋田切」のことを「鯉ノ下絵トモ云」とあるが、手鑑『見ぬ世の友』の同切付箋には、「鯉下絵」とあるのを訂正して「秋田切」と記載している。もとは四半の綴葉装、この『藻塩草』の料紙は、鯉ではなく水上楼閣の雲母押箔文様が下絵されている。それに一面十行書、和歌一首二行書。書風、料紙等より鎌倉時代初期の作品と考えられる
*藤原定家が父俊成からうけた『古今和歌集』『後撰和歌集』の家説をまとめた『僻案抄』の断簡である。当該箇所は、『古今和歌集』巻第十三恋三の「大方は……」の注釈部分、ならびに巻第十四恋四にあたる。



翰墨城
翰墨城 153 伝阿仏尼 角倉切
 光悦流の能書として、また、江戸初期の豪商として名高い角倉素庵(1571−1632)の所蔵にちなんで、「角倉切」と名づけられる。同じく「角倉切」と呼ぶものに、藤原為家筆と伝える『古今和歌集』の断簡があるが、これとは別のもの。これは『後撰和歌集』の断簡である。もと、鳥の子の素紙に藍の雲紙を交用した大和綴の冊子本であった。雲紙の雲形は、上下を横に流れるのが一般的であるが、「角倉切」ではこれを縦位置に用いているのが珍しい。現在、下巻(巻第十一〜二十)の断簡数葉が確認されるのみ。すべて、一面十行書きに書写する。細身の瀟洒な連綿は女筆を連想させぬでもないが、阿仏尼(?−1283)筆という伝称に確証があるわけではない。これは、巻第十六・雑歌二の断簡で、手鑑「文彩帖」所収の一葉の2ページ後に位置するもの。鎌倉中期の遺品。なお、阿仏尼は、藤原定家の子為家の後妻で、冷泉為相の母である。為相と、為相の異母兄二条為氏との間に起きた播麿国細川荘に関する訴訟のため関東に下向したときの旅日記『十六夜日記』の作者としても有名である。ほかに『転寝記』を著しているが、鎌倉中期の歌人としても名高く、『夜の鶴』という歌論書も残している。はじめ、四条とも、また右衛門佐とも呼ばれていた。阿仏尼は、仏門に入ってからの名で、別に北林禅尼とも号した。



翰墨城
翰墨城 153 伝阿仏尼 角倉切
 光悦流の能書として、また、江戸初期の豪商として名高い角倉素庵(1571−1632)の所蔵にちなんで、「角倉切」と名づけられる。同じく「角倉切」と呼ぶものに、藤原為家筆と伝える『古今和歌集』の断簡があるが、これとは別のもの。これは『後撰和歌集』の断簡である。もと、鳥の子の素紙に藍の雲紙を交用した大和綴の冊子本であった。雲紙の雲形は、上下を横に流れるのが一般的であるが、「角倉切」ではこれを縦位置に用いているのが珍しい。現在、下巻(巻第十一〜二十)の断簡数葉が確認されるのみ。すべて、一面十行書きに書写する。細身の瀟洒な連綿は女筆を連想させぬでもないが、阿仏尼(?−1283)筆という伝称に確証があるわけではない。これは、巻第十六・雑歌二の断簡で、手鑑「文彩帖」所収の一葉の2ページ後に位置するもの。鎌倉中期の遺品。なお、阿仏尼は、藤原定家の子為家の後妻で、冷泉為相の母である。為相と、為相の異母兄二条為氏との間に起きた播麿国細川荘に関する訴訟のため関東に下向したときの旅日記『十六夜日記』の作者としても有名である。ほかに『転寝記』を著しているが、鎌倉中期の歌人としても名高く、『夜の鶴』という歌論書も残している。はじめ、四条とも、また右衛門佐とも呼ばれていた。阿仏尼は、仏門に入ってからの名で、別に北林禅尼とも号した。



伝千代能


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 104 伝 千代能筆 宇都宮切 紙本墨書 31.3×7.9 鎌倉
 あらい紙面の杉原紙にしたためた漢字・仮名まじりの消息断簡で、宇都宮切という名の由来は判らぬが、「増補古筆名葉集」千代能如大尼の条に"宇都宮切、杉原番、カナ文”と記されるものである。線は流麗温雅で、随分と謹んだ書きぶりのように思われる。筆者は、鎌倉時代の尼僧で景愛寺初代となった千代能(如大尼・1223―1298)と伝えるが、断定はできまい。

藻塩草 242(裏125) 書状断簡(宇都宮切) 伝千代能筆 杉原楮紙墨書 29.3×8.1 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の千代能(1223―1298)の条に「仮名文」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「宇都宮切、杉原帋、カナ文」とある。この断簡のみでは、内容は明らかでない。料紙は楮質のいわゆる杉原紙。千代能筆と伝えるが、「禅尼千代能消息」などと比較し、同筆とば認め難い。しかし、書風より鎌倉時代と考えられる。なお、手鑑『見ぬ世の友』所収の「宇都宮切」とはその書風を異にする。


翰墨城 152 伝千代能 宇都宮切
 『新撰古筆名葉集』に、「千代能如大尼 宇都宮切 杉原需カナ文」とあるのがこれにあたる。手鑑に貼られる数少ない女性の筆跡の一つ。千代能(1223−1298)は、陸奥の太守城泰盛の娘。はじめ越後守金沢定時に嫁したが、夫と死別してのち仏門に入り、景愛・無外・無著などと号した。女性の手紙で、署名のあるものはきわめてまれで、千代能のものがその初見である。この手紙も、それらの筆跡と比較すると、書風が類似しており、あるいは、その自筆かとも思われる。なかなか力強く、いかにも鎌倉時代的な書風を示すのは、彼女が武門の出であることと無関係ではない。文面には寺に関することが述べられるが、この断簡だけから、内容を把握することはできない。手鑑「藻塩草」に、この連れ(四行)を所収する。名称の由来は不明。筆者のわかる女筆の資料として貴重である。13世紀の遺品。


伝源頼政


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 105 伝 源頼政筆 平等院切 打曇紙本墨書 26.6×33.0 平安〜鎌倉
 「和漢朗詠集」巻下・山寺の全文を収める断簡で、「増補古筆名葉集」源三位頼政卿の条に"平等院切、巻物、朗詠、雲需、墨卦、片カナ付朱星アリ、詩一行十四字、哥二行書"と記されるものである。もとは巻子本。もう少し天地に余白があったはずである。雁皮質の雲紙を用い、上下に淡墨で横罫をひいている。漢字は草書まじりの行書で、いずれも単体。全面にわたり字形はよく整い、手なれた筆致をみせている。この筆者を源頼政(1104―1180)と伝えているが、自筆の請文(陽明文庫)や懐紙と比べて筆意・連綿はやや似通った趣をもってはいるが、なお後考を要しよう。書写年代は、もう少し下るもののように思われる。平等院切という名称は、源頼政最期の地にちなんでのことであろう。本文には、片仮名で訓読・送りがなが書き込まれ、また訓点・朱点が施されている。これらは後人の加筆らしく、この写本が漢詩・和歌の吟詠・学習に使用されていたことを物語っている。

藻塩草 218(裏101) 和漢朗詠集巻下断簡(平等院切) 伝(源)頼政筆 打曇楮紙墨書 28.3×8.4 平安時代後期
 『古筆名葉集』の源三位頼政の条に「平等院切、朗詠集、雲帋、巻物」とある。これは和漢朗詠集巻下雑山家の断簡である。もとは巻子装、楮質の藍の雲紙の上下に墨罫あり、その界高23.6糎、それに片仮名で訓読返り点が付してある。呼称の由来は、この切が、頼政の書に似ていると判断してか、平等院に伝来したためか、なお明らかでない。もと岡家蔵の自筆消息などと相通じた筆蹟特徴から頼政の自筆ではないかと考えられる。その書風は独特の奇癖を有するが、雲紙の料紙などからも平安時代末期のものと推定される。
*書写年代は平安時代後期よりも鎌倉時代かとみられる。


伝源頼政


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 106 伝 源頼政筆 三井寺切 紙本墨書 14.1×9.9 平安
 「従三位頼政卿集」・夏部を書写した断簡。もと三井寺に伝来したため"三井寺切"と呼ばれるが、「増補古筆名葉集」源三位頼政卿の条にも"三井寺切、六半、家集、杉原需"と記されている。もとは六半の冊子本。紙面のあらい杉原紙に、和歌一首二行書き。行間をつめ細字で書いた率意の書であるが、筆はよく暢達している。頼政の家集を書いたものゆえ、筆者も頼政(1104―1180)にあてているが、自筆本に比べると同筆とはいえない。しかし、平安時代末期の書写と考えられる。

藻塩草 217(裏100) 従三位頼政卿集断簡(三井寺切) 伝(源)頼政筆 楮紙墨書 14.0×9.8 平安時代後期
 『古筆名葉集』の源三位頼政(1105―1180)の条には「三井寺切、六半、家集、杉原帋」とある。これは従三位頼政卿集恋部の断簡である。もと六半縦長の冊子本、楮質の料紙に和歌一首二行書。縦長の紙なので、左に紙を補い、升形にして貼押してある。源三位頼政筆と伝えるが、自筆の書状(兵範記紙背)等に比し似てはいるが、同筆とはいえないし、伝頼政筆「平等院切」ともその書風を異にする。書風より平安時代末期のものと考えられる。


伝平清盛


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 108 伝 平清盛筆 厳嶋切 紺紙金泥書 25.0×3.4 鎌倉
 厳嶋切とは、平清盛(1118―1181)・頼盛(1132―1186)兄弟が「妙法蓮華経」一具を書写し厳島神社に奉納した、その写経の断簡のことである。紺紙に銀泥で界をひき、金泥で経文を書いた豪華なもので、その中から無量義経一巻が早く散侠したものである。現存する別の巻の奥書によると、巻首の幾行かは清盛が書写し、あとは頼盛が書き継いだことが記されている。したがって世に散在する厳嶋切も、大部分は頼盛の筆跡であって、清盛の方は僅かしかなかったろう。この手鑑に貼られた経切は、「妙法蓮華経」巻第一・方便品第二の断簡で、同じ紺紙銀界金字ではあるが、本当の厳嶋切とはまったくの別物である。おそらく手鑑作成のとき、清盛の作例を必要とし、条件の揃った写経をもって代用したものと考えられる。紺色や金泥の色もさえず、その書風からしても鎌倉期以後のものと思われる。なお「増補古筆名葉集」平相国清盛公の条には、"厳嶋切、紺需、金字、銀卦経"と記録されている。

藻塩草 219(裏102) 妙法蓮華経巻第一断簡(厳島切) 伝(平)清盛筆 紺楮紙金泥書 26.9×3.6 平安時代後期
 『古筆名葉集』の平相国清盛(1118―1181)の条に「紺帋経、金泥清盛公、銀泥頼盛卿一行交リ」とあり、また『増補古筆名葉集』には「厳島切、紺帋銀字銀罫経」とある。これは妙法蓮華経巻第一方便品第二の偶の断簡である。もとは巻子または折帖装、楮質の紺紙に銀罫あり、その界高21.3糎、界幅約1.8糎、それに金泥で一行20字に楷書してある。

平頼盛


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 109 平頼盛筆 厳嶋切 紺紙金泥書 26.5×8.3 平安
 「無量義経」十功徳晶第三(曇摩伽陀耶舎訳)の断簡で、「増補古筆名葉集」池大納言頼盛卿の条に、"厳嶋切、紺需、金字、銀卦経、自筆奥書アル切ナリ"と記されるものに相当する。いささか形のゆがんだむきもあるが、力強い点画、それに、長くおだやかにのびる右払いが印象的である。こうした書風や紺紙金銀泥の色と光とをみていると、この断簡は頼盛(1132―1186)自筆の写経と信じてよいものに思われる。現存する各巻の奥書によると、嘉応2年(1170)2月に書きはじめ、承安2年(1172)6月に書き終えたことがわかる。したがって、頼盛が40歳前後の筆跡ということになろう。

藻塩草 219(裏102) 妙法蓮華経撒き第一断簡(厳島切) 伝平清盛筆 平清盛・頼盛両筆になる紺紙金泥経(無量義経)をも「厳島切」というが、その書風、料紙よりみて、この伝清盛筆「厳島切」は時代の下るもので、清盛の時代とは考えられない。それがなぜ、清盛筆の「厳島切」と名付けられてきたのか、なお明らかでない。おそらく、頼盛筆の「厳島切」があるので、後年古筆家が清盛も作る必要があり、適当な写経をもってそれにあてたためかもしれない。その書風より、平安時代末期から鎌倉時代初期頃のものと考えられる。


伝平忠度


見ぬ世の友
見ぬ世の友 110 伝 平忠度筆 進藤切 紙本墨書 15.6×12.0 平安
 「金葉和歌集」の断簡で、もと進藤菓が所蔵していたのであろうか、進藤切と呼ばれる古筆切である。「増補古筆名葉集」薩摩守忠度の条に三件の記載があるが、その中の一つ"六半、金葉"とあるのに相当しよう。もとは冊子本で、一面八行書き、和歌一首は二行書き。書は細身の線で統一された細字であるが、のびのびとしたおちついた雰囲気をもちあわせている。筆者を平忠度(1144―1184)というが、何ら確証はない。

藻塩草
藻塩草 222(裏105) 古今和歌集巻第十五断簡(高田切) 伝(平)忠度筆 斐紙墨書 20.9×12.6 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の薩摩守忠度(1143―1183)の条に「四半、古今、哥二行書」とあるものに適合しよう。これは古今和歌集巻第十五恋歌五の断簡である。もとは四半の冊子装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首二行書。書風より鎌倉時代と認められる。なお、忠度筆と伝称されるものには、この他「中四半切」(一名進藤切)があるが、この切とは同じ書風ではない。


伝平業兼


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 111 伝 平業兼筆 春日切 紙本墨書 17.7×14.7 平安
 何の歌集を書いたものか判らぬが、「増補古筆名葉集」平業兼の条に、"春日切、六半、花山院御集力未詳、哥三行書、白卦アリ"と記されるものに相当する。もとは六半の冊子本。雁皮質のうすい料紙に、一面に雲母を撒き、淡墨で界をひいている。筆は暢びているが、いかにもはかなく細い線で、文字は紙面に比して非常に小さく、和歌一首は三行に書かれている。筆者を平業兼(?―1209)というが、自筆本が伝わらず、実証する手がかりはない。書写年代は、平安時代末期ごろと思われる。春日切という名の由来は不明である。

藻塩草 221(裏104) 〔歌集断簡〕(春日切) 伝(平)業兼筆 斐紙墨書 17.7×11.3 平安時代後期
 『増補古筆名葉集』の平業兼の条に「春日切、六半、花山院御集力未詳、哥三行書、白罫アリ」とある。しかしこの伝称も、御製集の花山院の部にこの歌は見出せないので、これがはたして花山院の御製であるかどうかなお検討を要する。さらにこれがまた平業兼の筆写になるものか、自筆の作品か知られていないので、なお明らかにし難い。もとは六半の綴葉装、雁皮質の料紙の一面に雲母撒き、それに墨罫あり、その界高13.0糎、界幅1.8糎。書風より平安時代後期のものと考えられる。


伝源頼朝


見ぬ世の友
見ぬ世の友 112 伝 源頼朝筆 仮名文切 紙本墨書 29.7×44.3 鎌倉
 杉原の楮紙に、たっぷりと大きく書き出した仮名消息の断簡で、「増補古筆名葉集」大将軍源頼朝の条に"仮名文、杉原需"と記載されるものに相当しよう。なにゆえこ手紙を頼朝(1147―1199)の筆跡としたのか、その理由は知るよしもないが、やはり手鑑を製作する段階において、頼朝の時代にふさわしいものを切って、かれの筆跡にあてたものであろう。現存する頼朝の書状は、筆は醐逮自在に運んでいるが、さらに知性というもので引きしめた温和しい書きぶりである。しかし、これらはみな漢字の書状ゆえ、実証する手がかりとはしがたい。

藻塩草
藻塩草 224(裏107) 山家五番歌合断簡(大慈寺切) 伝(源)頼朝筆 斐紙墨書 19.1×14.6 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の大将軍頼朝(1148―1200)の条に「大慈寺切、巻物、六半形、哥合、上下二墨罫アリ」とある。これは、「山家五番歌合天仁三年四月晦日歌人不分左右当座採得之」の断簡である。もとは巻子本、楮質の料紙に上下に墨罫あり、その界高16.2糎。書風等より鎌倉時代のものと考えられる。


伝源実朝


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 113 伝 源実朝筆 中院切 金銀箔散飛雲紙本墨書 21.3×12.7 平安
 「後拾遺和歌集」巻第八・別の部の断簡で、「増補古筆名葉集」右大臣実朝公の条に"中院切、四半、後拾遣、飛雲、金銀砂子、下画アリ、コノ切定頼卿ト古札アルハ誤ナリ"と記録されるものに相当する。もとは四半の冊子本。料紙は、鳥の子紙に紫と藍の飛雲が点在し、金銀の箔・砂子を撒いた、まことに印象的なものである。一面十行書き、和歌一首は二行書き。格調の高い、さらさらと流れるがごとき美しい筆致をみせている。古来、源実朝(1192―1219)の筆跡と伝えているが、何ら確証あってのことではない。むしろ書風・料紙からすれば、書写年代は実朝時代をさかのぼって、平安後期のものと考えられよう。中院切という名称は、もと中院家に伝えられたことによる命名であろう。

藻塩草 227(裏110) 後拾遺和歌集巻第八断簡(中院切) 伝(源)実朝筆 金銀箔散飛雲斐紙墨書 21.4×13.4 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の右大臣実朝(1159―1189)の条には「文」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「中院切、四半、後拾遺、飛雲金銀砂子下画アリ、コノ切定頼卿ト古札アルハ誤ナリ」とあり、この切に適合する。これは後拾遺和歌集巻第八別の部の断簡である。もとは四半の綴葉装、雁皮質の飛雲紙に金砂子が撒いてある。一面十行書、和歌一首二行書。「中院切」の名称の由来は不明。書風についても、実朝の筆蹟と比し、よく似た筆蹟特徴が認められるが、なお同筆とは断定し難く、むしろその書風や料紙よりみれば「鳥丸切」などに近く、平安時代末期か鎌倉時代のごく初期のものと考えられる。この『藻塩草』所収の切と、手鑑『見ぬ世の友』所収の「中院切」とは、同じ後拾遺和歌集巻第八の断簡で、接続する一枚である。手鑑『翰墨城』所収の「中院切」も同じく巻第八の断簡で、『藻塩草』のそれに近い。


伝北条時頼


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 114 伝 北条時頼筆 光泉寺切 紙本墨書 26.0×10.8 鎌倉
 「増補古筆名葉集」最明寺時頼朝臣の条に、"光泉寺切、巻物、白氏文集、白需、墨卦、行書、片カナツキ朱星アリ、少シ小形アリ同キレナリ"とあるがこれは、「白氏文集」巻第三・新豊折腎翁の四行分断簡である。もとは巻子本。雁皮質の料紙に淡墨で界をひき、書もやや淡墨で書かれている。一行13〜15字。縦画を太く書いてバランスをとり、文字は整斉に並んでいる。また本文には、ヲコト点・訓点・朱点が施されている。その書風からして、鎌倉期のものであることに疑いはないが、北条時頼(1227―1263)の筆跡という確証は何もない。また光泉寺切という名称についても、その拠る所を知らない。

藻塩草 228(裏111) 白氏文集巻第三新楽府「道州民」断簡(光泉寺切) 伝北条時頼筆 斐紙墨書 24.8×11.3 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の最明寺(北条)時頼(1227―1263)の条に「巻物切、白帋墨界、行書」とあり、また『増補古筆名葉集』には「光泉寺切、巻物、白氏文集、白帋墨罫、行書片カナツキ、朱星アリ、少シ小形アリ、同キレナリ」とあるものに相当する。これは白氏文集巻第三調諭三・新楽府「道州民」の最後の部分の断簡である。もとは巻子装、雁皮質の料紙に墨罫あり、その界高22.0糎、界幅2.8糎、一行15〜17字程度。「光泉寺切」名称の由来は明らかではない。北条時頼の筆蹟かどうかも不明であるが、書風よりみて鎌倉時代のものには相違なかろう。手鑑『見ぬ世の友』所収の「光泉寺切」も同じく白氏文集巻第三「新豊折腎翁」の断簡、手鑑『翰墨城』所収のものも白氏文集巻第三「五絃弾」の断簡である。この「光泉寺切」は「白氏文集」の断簡として十一葉が知られているが、新たにこの三枚の関係を知ることによって、それらの接続関係が一層詳細にわかる。


伝新田義貞


見ぬ世の友
見ぬ世の友 115 伝 新田義貞筆 菊池切 紙本墨書 23.6×15.3 鎌倉〜南北朝
 「古今和歌集」巻第一四・恋歌四(第七二一〜五番)の断簡で、「増補古筆名葉集」新田義貞朝臣の条に"四半、古今、哥一行書"と記載されるものに相当する。もとは四半の冊子本。雁皮質の料紙に一面九行書き、和歌一首は天地いっぱいに書かれ、一行と二字に書いたものが多い。字つぶは小さく、線も細いが、筆はヒラヒラとここちよく軽妙に走っている。まことに達者な書きぶりである。これを新田義貞(1301―1338)の筆跡と伝えるが、何ら確証のないことである。菊池切という名は、旧所有者の名にちなんでのことであろうか。

藻塩草
藻塩草 230(裏113) 続後拾遺和歌集巻第十七断簡(三室切) 伝新田義貞筆 斐紙墨書 24.7×15.3 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の新田義貞(1301―1338)の条に「同(四半)、古今、哥一行書」とあるものに相当しよう。これは続後拾遺和歌集巻第十七雑下の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじり雁皮質の料紙に、一面十行書、和歌一首一行書。書風より南北朝時代のものと考えられる。


伝足利尊氏


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 116 伝 足利尊氏筆 北山切 紙本墨書 21.9×14.7 南北朝
 「新古今和歌集」巻第四・秋歌上(第三七六・七番)の断簡で、北山切という名の由来は判らぬが、「増補古筆名葉集」足利尊氏の条にも"北山切、四半、新古今、哥二行書、寄ノ首二略字アリ、有名ノ寄書切ナリ"と記されるものである。もとは四半の冊子本。楮まじりの料紙に一面七行書き、和歌一首は二行書き。書は柔らかくふっくらとした肉太の線で統一され、紙面にゆったりとおさまっている。筆者を足利尊氏(1305―1358)と伝えているが、もとより確証はない。しかし、南北朝時代の書写になるものではあろう。

藻塩草 231(裏114) 新古今和歌集巻第四断簡(北山切) 伝足利尊氏筆 斐紙墨書 22.2×14.8 南北朝時代
 『古筆名葉集』の足利尊氏(1305―1358)の条に「四半切、新古、哥二行書、有名ノ哥書切也」とあり、また『増補古筆名葉集』に至って「北山切、四半、新古今、哥二行書、哥ノ首二略字アリ、有名ノ哥書切ナリ」とある。これは新古今和歌集巻第四秋歌上の断簡である。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に、一面七行書、和歌一首二行書。伝尊氏筆と伝えるが、その自筆書状に比し同筆とは認められない。
*『増補古筆名葉集』の「哥ノ首ニ略字アリ」とは、歌頭に「彳」「阝・牙」とあるのをさす。これは撰者名注記で、『新古今和歌集』の撰者のうち、源通具・藤原家隆・藤原雅経の選んだ歌であることを意味する。


今川了俊


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 117 今川了俊筆 伊与切 紙本墨書 27.0×10.4 室町
 「源氏物語」夕顔の巻の後段にあたる断簡で、これは「増補古筆名葉集」今川了俊の条に、"巻物切、源氏、杉原番、申字、朱点アリ、老筆"と記録されるものに相当する。もとは巻子本。ザラッとした杉原紙にやや淡墨をもって書かれ、文字は比較的大きめで、ヨタヨタと筆が運んでいる。また文中には、朱筆で訓点や注が書き加えられている。この筆者を、室町前期の学者・歌人である今川了俊(1325―1420)と伝えているが、了俊自筆の書状などと比べてみると、明らかに真跡本と認めることができる。手鑑「藻塩草」に貼付される同切は、帯木と夕顔の巻の終りの部分の断簡であるが、そこに『筆者点者了俊。今年八十五歳也。筆跡はかりはをさなく侍哉』という奥書があり、古筆家が記すごとく、了俊85歳の老筆ということが判明する。なお、伊与切という名称の由来は明らかでない。

藻塩草 232(裏115) 源氏物語帚木并夕顔巻末奥書断簡(伊予切) 伝今川了俊(貞世)筆 斐紙墨書 26.3×15.5 室町時代
 『古筆名葉集』の今川了俊(1325―1420)の条に「源氏巻物切、帋杉原、中字朱点アリ」とあり、また『増補古筆名葉集』には「巻物切、源氏、杉原帋、中字朱点アリ、老筆」とある。これは「源氏物語』「帚木并夕顔」巻の末尾識語・奥書断簡である。もとは巻子装、楮質の料紙の上部には朱で一の番号が付してある。この書を、今川了俊の自筆書状に比し、この切は了俊自筆のものと認められる。しかも、この奥書によって今川了俊の晩年85歳における筆蹟の風を知りうるとともに、しかも、武将今川了俊が、文学にも造詣深かった一側面をもみることができる貴重な資料である。