伝藤原定家
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見ぬ世の友 |
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見ぬ世の友 79 伝藤原定家筆 五首切 紙本墨書 16.6×13.7 鎌倉
この歌切は、何の歌集を書いたものなのか明らかにしがたい。もとは冊子本で、その断簡に五首の歌を収めるものを五首切、詞書きを含んで三首の歌を収めるものを三首切と名付けたものである。桝形の楮紙に一面十行書き、和歌一首二行書き。書は、仮名としては字形のつぶれた、線も形も円い、いわゆる定家風ではあるが、定家の真筆か否かはなお後考を要しよう。筆に渋滞した様子もみえ、あるいは鎌倉末期ごろの写本であるかもしれない。
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見ぬ世の友 |
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見ぬ世の友 80 伝藤原定家筆 成就切 紙本墨書 22.7×9.2 鎌倉
写経することの功徳は、般若理趣経、法華経をはじめ種々の経典に説かれるところであるが、それに伴う発願経、供養経が奈良から鎌倉時代に多く写されている。このような意味から、願望の成就という連想のもとに、この経切は成就切と命名されたのであろう。これは、「薬師琉璃光如来本願功徳経」(玄奘訳)の断簡である。
もとは巻子本。料紙は斐紙。銀泥で界をひき、経文中に朱点が加えられている。一行17字詰であるが、書はいわゆる写経体ではない。字つぶは大体整っているが、細太のいりまじった行書的な筆意があり、点画には定家風の特色がよくにじみでている。しかし、定家(1162−1241)の筆跡とはいうが、なお後考を要しよう。
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藻塩草 |
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藻塩草 表88 〔御斎会寛日次第断簡〕(藤谷切) 伝(藤原)定家筆 斐紙墨書 24.0×14.9 鎌倉時代
『古筆名葉集』の京極黄門定家(1162−1241)の条に「大記録」、「小記録」とのみあり、『増補古筆名葉集』には「明月記切 紙立一尺許、杉原鳥ノ子等不定、俗ニ大記録ト云」、また「帛立五寸許、帋同上、俗ニ小記録ト云」とある。この紙の法量、内容より、陽明文庫に所蔵されている「御斎会寛日次第」一巻と全く同一の巻物の断簡と考えられる。御斎会とは毎年正月八日より七日間、大極殿において金光明経を講説せしめて国家の安泰を祈願せられる儀式であるが、これはその結願の日の行事を録したものである。『藻塩草』に付属する目録によれば、この切を「藤谷切」と記載しているが、後年の『増補古筆名葉集』には「藤谷切、大四半、新古今、哥二行書、出来替リ」と記載しているところからみると、この付属の目録がその「藤谷切」の内容を誤ったのか、『増補古筆名葉集』がその名を新古今和歌集に用いたかのどちらかである。今日では、その内容からいっても「小記録切」としたほうが、内容にふさわしいように考えられる。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に墨罫あり、その界高21.1p、上部には三本の横罫あり、一条の間幅は0.9p程度。その書風より、定家晩年の筆蹟と認められる。
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藻塩草 |
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藻塩草 表89 〔歌集断簡〕(三首切) 伝(藤原)定家筆 楮紙墨書 15.7×13.8 鎌倉時代
平安時代の歌人藤原高遠(949−1013)の家集『大弐高遠集』の断簡。『古筆名葉集』の京極黄門定家(1162−1241)の条に「三首切、六半」とのみあり、『増補古筆名葉集』には、「三首切、同品(六半)ヲ三首キルタル故ニ云」とある。歌集の断簡ではあるが、何集であるかはなお明らかにし難い。その書は定家風ではあるが、定家筆とは認め難い。もとは六半升形の冊子装、楮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。その書風より、鎌倉時代末期から南北朝時代のものと考えられる。*『古筆学大成一九』では、現存する同種の切は藤原定家筆本の臨模本であり、書写年代を室町時代としている。
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翰墨城 |
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翰墨城 100 藤原定家 仏事記録切
藤原定家(1162−1241)が歌集・歌論書・物語等の写筆活動によって、今日の平安文学上に果たした功績は周知のとおり。『明月記』と呼ばれる彼の日記や、除目・御斎会といったような諸儀式の記録を記したものが数多く現存する。これらは一般に「記録切」と総称され、さらに料紙の大小により「大記録切」「小記録切」と呼ばれている。この断簡も仏事供養に際しての記録をとどめた、「大記録切」と呼ばれるものに相当する。料紙は写経に用いる予定であったのか、天地だけでなく、行取りを統一するために縦にも簿墨の界が引かれている。書風からみて、定家の壮年の筆跡と考えられる。
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翰墨城 |
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翰墨城 101 藤原定家 貫之集切
『貫之集』巻第三の断簡。もと六半形の粘葉装であったと思われる。和歌一首二行書き。他に墨流しの紙を使用したところもある。一面に和歌六首十二行を書き、行と行が接していて、狭く混然としている。筆者は伝称どおり藤原定家の自筆に紛れもなく、その書風から定家壮年期の筆跡と考えられる。歌の上欄に書きこまれた「拾」は定家みずからの書き入れで、この一首が『拾遺和歌集』に入集していることを示したものである。
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翰墨城 102 藤原定家 記録切
『古筆名葉集』の京極黄門定家の条に「大記録」「小記録」とのみあり、『増補古筆名葉集』に「明月記 切帋立一尺許 杉原鳥ノ子等不定、俗ニ大記録切ト云」、また「帋立五寸許帋同上、俗ニ小記録切ト云」とある。ところで、これは紙の寸法から推して、上述の「小記録切」に適合しよう。内容は、宮殿儀式の次第を記したものらしい。その筆致より定家晩年の筆跡と考えられる。
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翰墨城 103 藤原定家 紹巴切
『後撰和歌集』巻第十五・雑歌一の断簡。『増補古筆名葉集』の定家の項に「後撰切 四半、哥二行書、朱書入アリ」「紹巴切 四半、後撰歌一行書」とあり、これは和歌一行書きなので、後者とも考えられる。定家は、生涯十度も『後撰和歌集』を書写しているが、この本は、その最晩年の天福2年(1234)の書写。高松宮家に、この本の完本の忠実な影写本(江戸時代)がある。本文中の朱筆は、定家みずからが、たまたま伝得した行成本と比較したもの。命名の由来は、かつて連歌師里村紹巴所持による。
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翰墨城 104 藤原定家 写経切
定家が、生涯、膨大な量に及ぶ歌集や物語を正確に書き伝えたことは周知のとおりであるが、それにも増して定家が力を注いだのは、仏典の書写であった。これも、そうした写経の一つで「成就切」と呼ばれるもの。命名の由来は、この一連の中に、「成就……」の書き出しの切があり、その名にちなんだものであろうか。「薬師瑠璃光如来本願功徳経」を書写したもので、もとは巻子本。料紙は素紙を用い、界は銀泥のため、酸化して黒ずんでみえる。界の高さに比して天地が狭いのは、後世、上下を切断したものと思われる。書風は、経師の手になる、いわゆる写経体ではなく、定家の個性そのままの執筆であり、豊満な筆致は彼の50〜60歳代の筆跡と考えられる。
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翰墨城 |
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翰墨城 105 藤原定家 明月記切
藤原定家には『明月記』(照詣とも)と称される日記が伝えられる。鎌倉初期の公武にわたる、広範囲の諸事情を語る史料として、すこぶるその価値が高い。数十種に及ぶ写本があり、本来の巻数を定めることはむずかしいが、自筆本も多く現存し、切断簡として、また、まとまった大部の巻物として今日に伝えられている。図版の部分は、秘閣本・同補写本・野宮家本・冷泉家本・柳原家本・黒川氏本・早稲田大学図書館蔵本の七種をもとに、『後鳥羽院熊野御幸記』『明月記略』を合わせた国書刊行会本『明月記』(三冊)中には収められていないが、記録の内容、料紙の寸法から、世に「大記録切」と称される『明月記』の断簡と考えられる。
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