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   の比較-3

伝飛鳥井雅経


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 58 伝飛鳥井雅経筆 長谷切 紙本墨書 27.0×17.7 平安
 鳥の子紙に、天地に淡墨の横罫をひき、和漢朗詠集を書いだ巻子本の断簡で、詩句は「和漢朗詠集」巻上春部・鶯の初めの二句、和歌は巻上春部・三月尽の最後の歌にあたり、前後関係が逆になっている。このことは、中央に継ぎ目のあることによって明らかなように、はじめ二枚の断簡だったものを、詩書を前に、和歌を後に配して姿を整えたことによる現象である。古筆切の中では比較的大字の作例で、詩句を二行、和歌を三行に書いている。書は明快な趣にやや欠けるが、整斉で筆力に富み、堂々たる風格を示している。筆者は、所伝の藤原雅経(1170−1221)の筆跡によく似ているが、なお断定はさけたい。書写年代は、平安末期であろう。長谷切という名称の由来は不明である。「和漢朗詠集」の撰者・藤原公任(966−1041)は、晩年に北山の長谷に隠棲していたことがあるが、あるいはこの地名をあてたのかもしれない。

藻塩草 表59 和漢朗詠集巻上断簡(長谷切) 伝飛鳥井雅経筆 斐紙墨書 29.1×15.7 平安時代後期
 和漢朗詠集巻上春部花の断簡。文中「残」の脱字がある。この「長谷切」は、伝飛鳥井雅経筆切箔切和漢朗詠集、同今城切古今集、源氏物語絵巻詞書、伴大納言絵詞詞書、二荒本後撰集などとよく似た書風を示す。このうち「今城切」は、治承元年(1177)8月教長の書写したものと推論され、「今城切」の書風に近い「長谷切」も、一応、教長の筆といわれてきたが、雅経自筆の崇徳天皇御本古今和歌集の筆蹟特徴とは非常によく似ており、なお断定はさけたい。
 もとは綴葉装、雁皮質の料紙の天地には墨罫各一条が引かれていて、その界高が22.5p。書風より平安時代末期のものと認められる。



見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 59 伝飛鳥井雅経筆 今城切 紙本墨書 25.3×15.9 平安
 「古今和歌集」巻第八、離別歌の断簡で、もとは冊子本で、鳥の子紙に淡墨で枠罫をひき、一面六行、和歌一首二行に書いたものである。料紙は白地であるが、他に藍紙、浅黄色のものも存在する。字形はやや扁平で整斉であるが、筆はえぐるような回転運動のはげしいくせをもっており、ねばっこく、重々しい印象を与える。
 筆者を藤原雅経(1170−1221)と伝えているが、自筆懐紙の書風などに比べると、別筆のように思われる。故伊藤寿一氏は、飛鳥井雅経自筆の諸雑記の中に、雅経の見た古今集一帖が参議教長卿の自筆であること、現存する今城切はその古今集の分散したものであることを認め、三井家今城切も教長の筆であることを論証されている。もし今城切の筆者が藤原教長(1109−?)であるならば、治承元年(1177)8月19日、教長69歳の老筆ということになる。今城切という名称は、公家、今城家に伝来したためであろう。

翰墨城 85 伝飛鳥井雅経 今城切

 『古今和歌集』巻第十五.恋部の断簡。『古筆名葉集』の飛鳥井雅経(1170−1221)の条に「四半切 古今集四方墨卦紙・浅黄・白・萌黄二行書」となっているが、『増補古筆名葉集』に至って「今城切 四半古今哥二行書帋ノ四方ニ卦アリ白浅黄萌黄」と収録している。もとは胡蝶装の冊子本で、寸法は縦25.8p、横16pほど。この料紙は素紙であるが、中には薄藍の部分がある。紙面に縦21.7p、横13pの枠罫が引かれているのが特徴。この断簡は一面七行書きであるが、六行、八行書きのもある。和歌一首二行書き。内容は『古今和歌集』の断簡で、巻七〜十三、十五〜二十の断簡が、数多く伝存している。現存八十〜九十枚がある。公卿今城家に伝来したために、「今城切」と呼ばれるようになったらしい。筆者を雅経と伝えるが、その真筆「熊野懐紙」などとは別筆であり、また近年「今城切古今集」の奥書といわれている古筆切が発見された。その文言は、飛鳥井雅経筆『諸雑記』と照合して、藤原教長(1109−1180)が治承元年(1177)8月19日、69歳のときに、仁和寺守覚法親王に書写謹上した本であることが、明らかとなった。「伴大納言絵詞」や「源氏物語絵巻」(竹河・橋姫)などの詞書の手と同筆で、12世紀半ばにおける美術史解明に重要な手がかりとなる筆跡である。


伝飛鳥井雅有


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 60 伝飛鳥井雅有筆 八幡切 打曇紙本墨書 23.0×15.7 鎌倉
 八幡切という名は、もと京都石清水八幡宮の社僧、松花堂昭乗の愛蔵品であったところから出たものであるが、この八幡切には、別に小野道風筆と伝える「麗華集」の断簡との二種が世に喧伝されている。また、「増補古筆名葉集」飛鳥井殿雅有卿の条に〃八幡切、四半、雲帋、後拾遺又ハ千載、哥二行書、稀ニ朱書入アリ〃とあって、飛鳥井雅有(1241−1301)筆というものにも後拾遺、千載の写本のあることが記されているが、図版は「後拾遺和歌集」巻第四、秋上の断簡である。
 もとは冊子本。雁皮質の料紙に藍の雲形が施され、一面八行書、和歌一首は二行に書かれている。字形は整斉で、線も流暢であるが、弱々しく単調な書きぶりである。雅有筆という確証はないが、鎌倉後半期の書写になるものであろう。

藻塩草 表60 後拾遺和歌集巻第六断簡(八幡切) 伝飛鳥井雅有筆 打曇斐紙墨書 23.4×13.2 鎌倉時代
 後拾遺和歌集巻第六冬の巻末断簡。もとは巻子装、雁皮質の紫の打曇紙に和歌一首二行書。その書風等より鎌倉時代のものと推定される。
「八幡切」の名称をえたのはもと京都石清水八幡宮に伝来したためであろう。なお、伝道風筆「八幡切」とは同名なので注意を要する。


翰墨城 86 伝飛鳥井雅有 八幡切
 『千載和歌集』巻第三・夏の断簡。『増補古筆名葉集』の飛鳥井雅有(1241−1301)の項に「八幡切 四半雲帋後拾遺又八千載哥二行書稀ニ朱書入アリ」とあるものに適合する。もとは胡蝶装の冊子本、料紙は打曇、和歌一首二行書き、一面七、八行書き、筆者は鎌倉時代の歌人飛鳥井雅有といわれるが、確証はない。書風より推して、書写年代は鎌倉時代の中ごろと考えられる。松花堂昭乗(1584−1639)の遺愛によって、この名がある。なお、同じ筆の伝雅有「八幡切」に『後拾遺和歌集』の断簡もある。


伝大炊御門冬忠


見ぬ世の友
見ぬ世の友 61 伝大炊御門冬忠筆 武田切 紙本墨書 23.9×13.3 鎌倉
 「千五百番歌合」巻第一の断簡で、「増補古筆名葉集」大炊御門殿冬忠公の条に、〃四半、哥合、哥二行書、左右番付、作者名、勝負アリ〃と記されるものに相当しよう。もとは冊子本で、薄手の斐紙に和歌一首二行に書かれている。書は縦長の字形で統一され、クルクルと回転する筆の動きが印象的である。大炊御門冬忠(1218−1268)には、他に和泉切古今集の伝称作品が伝え坊れるが、確かな自筆本がなく、この武田切を冬忠の真蹟と断定する手がかりはない。

藻塩草
藻塩草 表61 新古今和歌集巻第十七断簡(和泉切) 伝大炊御門(藤原)冬忠筆 斐紙墨書 15.5×14.6 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第十七雑歌中の断簡。もとは六半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面八行書、和歌一首三行書。その書風等より鎌倉時代の書写と考えられる。なお、伝冬忠筆「四半切」(和泉切)歌合断簡とは同筆と認められる。


伝中山定宗


見ぬ世の友
見ぬ世の友 62 伝中山定宗筆 国栖切 紙本墨書 22.2×7.9 鎌倉〜南北朝
 国栖切という名はあまり耳に覚えがなく、その由来も判らないが、この断簡は、「増補古筆名葉集」中山殿定宗卿の条に〃四半、家集モノ、哥二行書、四五首宛二題アリ〃と記載されるものに相当しよう。もとは冊子本で、雁皮質の料紙に、いわゆる両面書きをしているため、裏文字を見ることができる。記述のごとく、一つの歌題に数首の歌が書写されていたものと思われる。文字は小粒であるが、細くしなやかな線で軽快に筆が運んでいる。中山定宗(1317−1371)の筆跡と伝えられるが、これも断定する手がかりはない。


藻塩草
藻塩草 表62 新古今和歌集巻第一断簡(岡崎切) 伝中山定宗筆 斐紙墨書 23.1×15.9 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第一春歌上の断簡。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。和歌の上欄には、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、右衛門督源通具の5名の撰者名の一字が省略して記号のごとく注記されている。この名注のあるのは、他本奥書によって定家書写本より流れ出たものといわれている。この名注が同一筆蹟であることからして、この記入も書写しと考えられるが、書風よりみて、原本に近い鎌倉時代の書写と考えられる。


伝園基氏


見ぬ世の友
見ぬ世の友 63 伝園基氏筆 間宮切 紙本墨書 23.5×15.0 鎌倉
 「続古今和歌集」巻第三の断簡である。「増補古筆名葉集」園殿基氏卿の条には〃木曾切、四半、古今・後撰・続古今等、哥二行書〃とあるだけで、間宮切に関する記載はない。もとは冊子本。薄手の斐紙に一面八行書き、和歌一首は二行に書かれている。字形は整斉であるが、小さく小さく凝固してしまっている。筆者を園基氏(1211−1282)というが、自筆かどうか断定はできない。


藻塩草
藻塩草 表65 古今和歌集巻第十七断簡(木曾切) 伝園基氏筆 斐紙墨書 23.8×15.6 鎌倉時代
 古今和歌集巻第十七雑歌上の断簡。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面八行書、和歌一首二行書。書風はおだやかで鎌倉時代から南北朝時代初期のものと考えられる。園基氏筆と伝えるのはこの「木曾切」のみである。


伝日野俊光


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 64 伝日野俊光筆 千種切 紙本墨書 24.5×16.5 鎌倉
 「後拾遺和歌集」写本の断簡で、二首の和歌は巻第九の最後部に収められる源道済の作である。なお、「増補古筆名葉集」日野殿俊光卿の条には、〃千種切、四半、古今、後拾遺、哥二行書、首書朱点アリ、ナキモノアリ〃と記されており、別に「古今集」の写本も存在するらしい。もとは四半の冊子本。和歌一首二行書き。雁皮質の斐紙に、円運動の著しい、柔らかい調子の筆が軽快に流れている。
 松下家大手鑑には、同じ「後拾遺和歌集」巻第八冒頭の断簡が、また手鑑「藻塩草」には、巻第一〇冒頭の断簡が収められている。筆者を日野俊光(1250−1326)と伝えているが何ら確証はない。しかし、書風は鎌倉期のものと思われる。この切の名称は、千種家に伝来したことによるのであろうか。

藻塩草 表66 後拾遺和歌抄巻第十断簡(千種切) 伝日野俊光筆 斐紙墨書 24.8×13.0 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の日野俊光(1260−1326)の条に「千種切、四半、古今後拾遺、哥二行書、首書朱点アリ、ナキモアリ」とある。
 もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面九行書。この『藻塩草』本は、左端の一行が切られている。和歌一首二行書。欄外等の余白には後拾遺和歌集巻第十の歌数、一条院御時皇后宮定子の略歴が記入してある。その書風等より鎌倉時代の書写と思われる。個人蔵の大手鑑には、同じく「千種切」で後拾遺和歌抄巻第八の巻頭が所収されている。俊光筆と伝えるものに「巻物切、詩墨罫、一行十四、五字」(増補古筆名葉集)がある。もとは四半の綴葉装、楮質の料紙に雲母撒き、一面九行書、和歌一首二行書、和歌の上には、歌撰者の略字、歌作者の文字の下にはその略歴が記入してある。なお、『慶安手鑑』には、海住山光経(右と同一人物)の自筆書状の版本が所収されているが、書状と和歌との比較ではなお断定をさけたい。その書風等より鎌倉時代の書写と考えられる。


伝甘露寺光経


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表69 新古今和歌集巻第八断簡(八坂切) 伝甘露寺光経筆 楮紙墨書 23.4×14.0 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の甘露寺光経(?−1194)の条に「八坂切、四半、新古今、哥二行書、首二作者名略字ニテアリ」とある。これは新古今和歌集巻第八哀傷歌の断簡である。


翰墨城 91 伝甘露寺光経 八坂切
 『増補古箸養』の甘露寺光経(?−1194)の項に「八坂切 四半、新古今哥二行書、首ニ作者名略字ニテアリ」とある。この断簡も『新古今和歌集』巻第十・羈旅歌の歌で、記載事項と一致する。手鑑「藻塩草」にも一葉伝存している。一面九行書きで、和歌は一首二行書き、雲母砂子撒きの料紙で、もとは粘葉装であったと思われる。筆跡は張りのあるしっかりした線質で、鎌倉時代初期の書写と考えられるが、比較する筆跡もなく、甘露寺光経の筆になるものかどうかは断定できない。13世紀の書写。


伝藤原光俊


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 65 伝藤原光俊筆 芝山切 紙本墨書 24.0×15.4 鎌倉
 「左京大夫顕輔卿集」の断簡である。「増補古筆名葉集」葉室殿光俊朝臣の条には五点の記載を見るが、その中の一つ〃四半、集未詳、哥二行書〃とあるのに相当しようか。あまり類を見ない歌切である。もとは冊子本。薄手の斐紙に、一面九行書き、和歌一首二行書き、細い線で忽卒に書かれている。筆者を藤原光俊(1203−1276)というが、別に確証はない。しかし、鎌倉期における写本の一つであろう。

藻塩草 表72 左京大夫顕輔集断簡(芝山切) 伝葉室光俊筆 斐紙墨書 24.2×15.4 鎌倉時代<BR>
 『左京大夫顕輔集』の断簡。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首二行書。その書風等より鎌倉時代と考えられる。そのほか光俊筆と伝えるものに、「龍形切、四半、臓地昏、哥仙家集、哥二行書」(増補古筆名葉集)、「綜切、六半、哥チラシ書、昏ノ上スミノ方二雲ノヤウナル形アリ」(同)、「四半、風雅、哥二行書」(同)、「六半、新古今、哥二行書、朱点アリ」(同)などがある。


万里小路宣房


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 66 万里小路宣房筆 笠置切 紙本墨書 28.1×10.1 鎌倉
 「妙法蓮華経」巻第四、勧持品第一三の断簡である。もとは巻子本で、薄手の斐紙に金泥で太く界をひき、一行17字に書き写している。字形は必ずしも整っていないが、写経には珍しい行書的な筆法をみせ、のびのびとしたスケールの大きさを感じさせる。
 宣房卿が一字三礼経を書写して春日社に奉納した五部大乗経目録には、法華経は巻第一〜八まで、正和元年(1312)より元応2年(1320)に至る間の書写であることが記録されている。また京都天球院には、巻末に『正中2年(1325)6月17日。奉終書写之功了。正二位行権大納言藤原朝臣宣房』の奥書ある法華経の巻子本が、前田育徳会には『嘉暦元年(1326)5月13日……云々』と記される巻子本がそれぞれ伝えられている。この笠置切は、こうした法華経の中の何れかの断簡であろう。書風・料紙・金泥の界は天球院・前田本のそれとまさに一致しており、したがって、古筆家の極の通り万里小路宣房(1258−?)の筆跡と断定してよかろう。
 宣房は後醍醐天皇即位後権中納言に任ぜられ、親政を補佐していたが、後醍醐天皇は、元弘元年(1331)笠置寺に行幸し、討幕の兵を募り、楠木正成と呼応されたが、やがて敗れた。このとき宣房は官位を奪われたが、2年後に復官、晩年は出家し、後世、北畠親房、吉田定房とともに〃三房〃と称されている。
 笠置切の名は、この間の事情により名付けられたものであろう。あるいは、この写経がもと笠置寺に伝来したためかもしれない。「増補古筆名葉集」万里小路殿宣房卿の条には、〃笠置切、法華経、金卦墨字、一字三礼経切トモ云〃と記されている。

藻塩草 表74 妙法蓮華経巻第三断簡(笠置切) 伝万里小路宣房筆 斐紙墨書 27.7×10.2 南北朝時代
 鳩摩羅什訳「妙法蓮華経』巻第三薬草喩品第五の断簡。もとは巻子本、楮まじりの斐質料紙に金界欄あり、その界高22.0p、界幅2.0p、一行17字。万里小路宣房筆と伝えるが、その自筆の『法華経』に比し、その筆蹟特徴から全く同筆と認められる。「笠置切」の由来は、この経が笠置寺に伝来したためか、南北朝動乱に際し、後醍醐天皇笠置行幸に関する宣房との特別な関係によって名付けられたものであろう。なお、この手の断簡は、世に多く散在し、手鑑に貼付されているものも多い。手鑑『白鶴帖』には嘉元3年(1305)5月24日付の宣房自筆の消息断簡が所収されている。

翰墨城 87 万里小路宣房 笠置切
 「法華経」巻第一・方便品第二の後半、五言偶を列記した箇所の断簡。『古筆名葉集』の万里小路宜房(1258−?)の条に、「笠置切 法華経、金卦墨字、一字三礼経切トモ云」と記されるもの。もとは巻子本。薄手の斐紙に金泥で太く界を引き、肥痩の著しい行書的筆法を駆使した写経である。万里小路宣房書写の「法華経しとしては、京都天球院本、前田育徳会本が伝存するが、この「笠置切」は書風・料紙・金泥界などがそれらとまさに一致しており、古筆家極めのとおり、宣房の真筆に紛れもない。これを「一字三礼経切」と呼ぶのは、元亨4年(1324)に宣房が「一字三礼経切」を書写して春日社に奉納した事実に由来するものである。宜房は後醍醐天皇即位後に権中納言に任ぜられ、親政を補佐していたが、晩年は出家。後世、北畠親房・吉田定房とともに「三房」と並称された


伝万里小路藤房


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 67 伝万里小路藤房筆 山田切 紙本墨書 28.1×8.5 南北朝
 これは、漢訳された六離合釈中の一つ、相違釈の注釈書であるが、その書名は明らかにしがたい。もとは巻子本で、雁皮質の斐紙に墨界をひき、一行およそ15字に書き、文中随所に朱点が加えられている。書は小つぶの柔らかな調子で、実に丁寧に清書されている。
 筆者は、万里小路藤房(1296−1380)と伝えるが、なお後考を要しよう。しかし、その書風からして、南北朝ころのものと首肯できよう。あまり類を見ない珍しい仏書で、当時かなり重視されたものであろう。「増補古筆名葉集」万里小路藤房卿の条には〃山田切、仏書、巻物、朱星アリ〃と記録されている。

藻塩草 表75 〔注釈六離合釈断簡〕(山田切) 伝万里小路藤房筆 斐紙墨書 28.4×24.7 南北朝時代
 六離合釈中の「相違釈」の注であるが、書名はなお明らかでない。問答体になっていて、しかも丁寧に浄書されているところから、当時そうとう重要視されていた書物であったことが考えられる。もとは巻子装、楮まじり雁皮質料紙に墨罫あり、その界高22.8p、界幅2.8p、一行15字平均、文中ところどころに朱の注点がある。その書風より南北朝時代と認められる。重要文化財藤原藤房自筆書状と比し、自筆か否か、なお断定をさけたい。藤房筆と伝えるものにはこの「山田切」の他には「道僖切、四半、後撰、哥二行書」(増補古筆名葉集)がある。


翰墨城 89 伝万里小路藤房 山田切
 『六離合釈』の断簡。梵語の複合名詞について、六種の解釈があることを示したもの、窺基の『大乗法苑義林章』の第五科(得名懸隔)より抜き出したもの。もとは巻子本。料紙は雁皮質の素紙で、天地・行間に墨界を引き、謹厳な和様体の行書で書写する。ところどころに朱の声点がみえる。手鑑「藻塩草」にこの切の連れが押されているが、他には類例の少ない稀少な遺品。筆者は、万里小路藤房と伝称される。この断簡は、書風からいえば南北朝時代のもので、藤房と時代的には齟齬しない。とはいっても、藤房という確証もない。彼は、自筆書状を残しているが、それに比較して、この切は同筆とは断定しがたい。聖武天皇に始まり、光明皇后、天皇、親王、摂関家と続く古筆手鑑の配列上、建武の中興の立役者・万里小路宣房の次には、その嫡男でやはり同時代の寵児・藤房を並べて、体裁を整えることを図ったものと思われる。藤房は、ほかに「道僖切」の筆者に擬定されている。


翰墨城
翰墨城 88 伝万里小路藤房 道僖切
 四半形の斐紙に丸みをおびた小さく愛らしい仮名が続く。筆の抑揚を利かせた、粘り強い線条である。もとは胡蝶装の冊子本で、『後撰和歌集』巻第二十・賀歌哀傷歌に該当する。和歌一首二行書き、一面八行、中世における典型的な写本の形式で、古筆家はこれを「笠置切」の次に貼付し、筆者を宣房(1258−?)の子藤房(1295−1380?)と鑑定している。『古筆名葉集』は藤房の書として「笠置切」とともに二点を掲げるが、いずれも確証あってのことではない。これはその中の一つ、「道僖切 四半 後撰、哥二行書」と記録されるものに一致する。もと古筆見の神田道僖(1580−1674)が所蔵していたところから、命名されたものと思われる。


伝源通親


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 68 伝源通親筆 龍山切 紙本墨書 18.1×15.3 鎌倉
 「千載和歌集」巻第一六、雑歌上の断簡で、「増補古筆名葉集」久我殿通親公の条に〃龍山切、六半、千載、哥二行書、西行ト古札アルハ誤ナリ〃と記載されるものに相当する。龍山切という名の起りは、もと近衛前久(法名を龍山という)が愛蔵していたためと喧伝されている。
 もとは六半の冊子本。料紙は素紙で、一面十行書き、和歌一首二行書き、下部の方はつまって文字が小さくなっている。書は強い張りをもち、転折部に力こぶの入った、一種くせのある書きぶりである。
 筆者を源通親(ぬ1149−1202)と伝えている。現存する通親自筆の熊野懐紙とは似通った点もあるのだが、大字と小字、懐紙と歌切とを比較することに無理な点もあり、確証を得ることはできまい。

藻塩草 表78 千載和歌集巻第十九断簡(龍山切) 伝久我通親筆 素紙墨書 18.2×15.7 鎌倉時代
 千載和歌集巻第十九釈教歌の断簡。もとは六半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書、通親筆と伝えるが、その自筆懐紙(西本願寺蔵等)に比し、筆蹟の特徴はよく似ているが、なお断定をさけたい。その筆癖は特異で、書風より鎌倉時代の書写と認められる。「龍山切」の呼称の由来は、近衛龍山前久が所持していたためと思われる。なお、手鑑『翰墨城』には伝通親筆「弥陀名義抄」の断簡が所収されているが、それとは同筆と認められる。


伝源通具


見ぬ世の友
見ぬ世の友 69 伝源通具筆 秋山切 紙本墨書 23.4×15.7 鎌倉
 「拾遺和歌集」巻第五・賀の歌の断簡で、「増補古筆名葉集」堀川殿通具卿の条に、〃四半、拾遺、哥二行書、頓阿ト古札アリ、誤ナリ〃と記されるものに相当しよう。もとは四半の冊子本。料紙は斐紙で、一面九行書き、和歌一首二行書き、字体は整斉にして穏やかな、形も線も円い感じのする書きぶりである。筆者は源通具(1171−1227)といわれるが、何ら確証はない。秋山切の名は、もと秋山某の所有したことによるのであろうか。

見ぬ世の友
見ぬ世の友 70 伝源通具筆 山中切 紙本墨書 10.7×8.7 鎌倉
 小さな色紙形をした時代不同歌合の断簡で、この歌は「新古今和歌集」巻第一一、恋歌一に坂上是則の作として収められている。「増補古筆名葉集」堀川殿通具卿の条には四点の記載があるが、その中の一つ、〃小六半、哥合哥、三行書、番付左右アリ、兼好ト古札アリ、誤ナリ〃とあるのに相当しよう。源通具(1171−1227)の筆跡とはいうが、何ら確証はない。横幅のあるドッシリとした書きぶりで、やはり鎌倉期のものであろう。
 世に〃山中の色紙〃と喧伝されるものがある。藤原俊成の『よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる』の第四句を〃やまのなかにも〃と書き誤った色紙で、灰屋紹益が遊女吉野に与えたという逸話や、松平不昧が千両で買った雲州名物の一つとして名高いものである。山中切という名は、同じ色紙形でもあり、こうした故事になぞらえ名付けられたものであろう。

藻塩草
藻塩草 表79 千載和歌集巻第九断簡(坊門切) 伝久我通具筆 斐紙墨書 24.3×13.9 鎌倉時代
 千載和歌集巻第九哀傷歌の断簡。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面九行書、和歌一首一行書。通具筆と伝えるが、その自筆和歌懐紙と比し、同筆とは断定し難い。しかし、その書風等より鎌倉時代初期の書写と考えられる。通具筆と伝えるものに、「拾遺集四半切」、[千載集六半切」、「歌合小六半切」(山中切)などがある。


伝中院通方


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 71 伝中院通方筆 吉田切 紙本墨書 17.5×15.8 鎌倉
 随分と本紙の損傷が甚しい。もとは、「新古今和歌集」を書いた六半の冊子本で、一面九行書き、和歌一首三行書き。この断簡は、巻第一八、雑歌下の第一七六〇〜二番の歌に該当している。ザラッとした桝形の料紙に、扁平な字形、細太の著しい線が入りまじった柔らかい書きぶりが続くが、漢字に見られる左下への突っ張った筆の運び方や仮名の様式は、やはり鎌倉期のものであろう。
 この他、中院通方(1189−1238)の作と伝えるものに「後撰集」の断簡があるが、確かな自筆本がないため、いずれも真筆か否か断定を下すことはできない。、

藻塩草 表80 新古今和歌集巻第十八断簡(吉田切) 伝中院通方筆 楮紙墨書 17.9×16.0 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第十八雑歌下の断簡である。もとは六半の綴葉装、楮質の料紙に一面九行書、和歌一首三行書である。その書風等より鎌倉時代の書写と考えられる。中院通方筆と伝えるものには、この他に「後撰集六半切」がある。


伝久我長通


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 72 伝久我長通筆 安芸切 紙本墨書 23.8×13.9 鎌倉
 「新後撰和歌集」巻第一八、雑歌中の断簡。もとは四半の冊子本。うすい雁皮質様の料紙に、一面七行書き、和歌一首二行書き、コロコロとした小さく円い仮名が整斉につらなっている。筆者を久我長通(1280−1353)と伝えるが、もとより確証はない。文字の造形やそれぞれの筆の動きを見ていると、やはり鎌倉期写本の一典型と思われる。

藻塩草 表81 新後撰和歌集巻第十九断簡(安芸切) 伝久我長通筆 斐紙墨書 24.0×13.1 鎌倉時代
 新後撰和歌集巻第十九雑歌下の断簡。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面七行書、和歌一首二行書。書風より鎌倉時代と認められる。長通筆と伝えるのは、この「安芸切」(四半切)のみである。


伝六条有忠


藻塩草
藻塩草 表82 和漢朗詠集巻上断簡(新宮切) 伝六条有忠筆 斐紙墨書 19.6×12.8 鎌倉時代
 和漢朗詠集巻上春「柳」の断簡。もとは巻子装、雁皮質の料紙の天地に横に墨罫あり、その界高25.7p。真名書のつぎに五行分欠けているが、これは編集上、真名二行、仮名二行ずつに切断し、合わせて一枚にしたものである。その書風などより鎌倉時代の書写と思われる。有忠筆と伝えるのはこの切のみである。



翰墨城
翰墨城 84 伝六条有忠 愛宕切
 『和漢朗詠集』巻上・三月尽の断簡。和歌は『後撰和歌集』巻第三・春歌下所収の紀貫之の歌で、詞書に「貫之かくて同じ年になむ身まかりにける」と添えられている。もとは巻子本で、断簡は、古来、「愛宕切」と呼ばれる。命名の由来は詳らかでないが、あるいは愛宕山・愛宕権現の内陣の宝物として伝来したことにちなむものであろうか。料紙の天地に、高さ25.7pの墨界が引かれ、漢詩には朱点・返り点・送り仮名の書き入れがあり、歌学のテキストに所用されたことが明らか。整った字形の、豊かな線で穏やかに書かれた書風には、讃説流の影響がうかがわれる。六条構麟(1281−1326)には、ほかに遺墨が伝わらず、真筆との断定はできないが、書風からみて鎌倉時代の書写である。なお、連れの断簡が手鑑「藻塩草」と「文彩帖」に所収される。


伝藤原忠家


見ぬ世の友


翰墨城
見ぬ世の友 73 伝藤原忠家筆 柏木切 紙本墨書 26.2×10.4 平安
 平安末期に歌合を類聚して二〇巻とした、いわゆる二十巻類聚歌合の断簡である。現在、一九巻(国宝)はまとまって京都の陽明文庫に伝来しているが、他の一巻は断簡となり諸家に分蔵されている。これらは数十人の哥合書であって、書風が少しずっ異なっているが、ために同じ断簡であっても、古筆の方では柏木切、伝藤原俊忠筆二条切という二種の名で識者の間で珍重されている。平安時代の終り頃には、歌合の料紙によく天地、行界をひいたものが使用されるが、これも引合紙に淡墨で界をひいている。界一行に和歌一首二行書きゆえ、文字はやや小ぶりになっているが、筆の暢達した軽快な美しさ、連綿の美しさをいかんなく発揮している。この筆者を藤原忠家(1033−1091)と伝えている。かれは歌人でも能書でもないのだが、よく歌合切の筆者に据えられている。それは、俊成や定家の祖先にあたる忠家を、古筆の筆者として尊重したからなのであろう。柏木切という名の由来は、明らかでない。

翰墨城 93 伝藤原忠家 柏木切
 『類聚歌合』の断簡。『類聚歌合』は、『和歌合抄』および、それを修正増補した『古今歌合』を母胎に、十数年の歳月を費やして、大治年間(1126−1131)ごろに成った歌合集(二十巻)である。11世紀中ごろ成立の『十巻本歌合』に対して『二十巻本歌合』とも呼ぶ。近衛家に伝来し、現在、陽明文庫にまとまって所蔵される(十九巻・国宝)が、早くから断簡として流出したものが、「柏木切」「二条切」「伊丹切」などと名づけられた。20人以上もの寄合書きである。草稿本であるため、料紙の罫の引き方(無罫もある)などさまざまで、書式も一定しない。この断簡は、巻第六所収の「延喜十三年亭子院女七宮歌合」の一部分(『平安朝歌合大成』巻第一)。藤原忠家(1033−1091)という伝称には根拠がない。名称の由来は詳らかでないが、大坂の茶人、柏木宗右、あるいは明治の考古家柏木探古など、柏木某の旧蔵にかかるものか。12世紀前半の書写。


藻塩草
藻塩草 表84 万葉集巻第十断簡(仁和寺切) 伝御子左忠家筆 斐紙墨書 27.3×13.3 平安時代後期
 天治本万葉集巻第十夏雑歌の断簡。もとは巻子装、楮まじりの雁皮質の料紙に真名一行、仮名は墨罫一行につき二行に割書きしてある。その界高24.6p、界幅1.9p。紙の天地は、手鑑の編集上、若干切断してある。天治本万葉集は巻第十三のみが完全に今日残り、他に第二、十、十四、十五の巻が断片として存する。このうち巻第二と第十は別手、第十三、十四、十五は同手と思われる。巻第十三の巻末には「天治元年(1124)6月25日辰時書写了、以肥後前司本也、件本諸家本委比校了云々」とあって、この「仁和寺切」の書写年代が明らかなのである。忠家筆と伝えるものには、この他「柏木切」、「二十巻本歌合」(類聚歌合)があるが、それに見る書風と全く同筆と認められ、平安時代末期の書写本と考えられる。なお、伝忠家筆「集子内親王家歌合切」とは、似ているが同筆とはいえない。


伝藤原俊忠


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 74 伝藤原俊忠筆 二条殿切 紙本墨書 26.3×18.4 平安
 73と同じく二十巻本類聚歌合の断簡で、この方は忠家の子俊忠(1073−1123)の筆跡と伝えられ、かれの邸が二条室町にあり二条殿と称せられていたので、二条切あるいは二条殿切と呼ばれるものである。これは「平定文家哥合」(延喜5年4月28日)の冒頭の断簡で、左右の歌はともに「拾遺和歌集」巻第一に収められている。和歌の作者名を漢字で写してはいるが、料紙、墨界、書風などはすべて柏木切に近似している。
 ところで、この類聚歌合には大治年間(1126−1130)以後の歌合が収録されておらず、ほぼその頃に編集されたものと考えられ、また現存する遣品は当時の草稿本であるとも推察されている。したがって、大治年間より以前に死亡した忠家、俊忠親子を筆者とするのは誤りであって、その書写年代は書風からみても明らかに平安末期のものと思われる。

藻塩草 表85 平定文家歌合断簡(二条殿切) 伝御子左俊忠筆 楮紙墨書 27.0×11.3 平安時代後期
 「二十巻本歌合」(類聚歌合)第十七士大夫家のうち平定(貞)文家歌合延喜五年四月二十八日の断簡。この歌合は、平安時代末期に歌合を類聚して二十巻としたもので、そのうち十九巻がまとまって陽明文庫に伝存し、国宝に指定されている。その断簡が、古筆の上で「柏木切」、「二条切」(二条殿切ともいわれる)と呼ばれて珍重されている。俊忠の邸が二条室町にあり、二条殿と称したのでこの名がある。この断簡はもと巻子本で、楮質の仙花紙と呼ばれる料紙に墨罫あり、その界高22.4p、界幅2.8p。墨罫一行の中に歌一首を割書きしてあるので字形は小さい。書風は、伝忠家筆「柏木切」と全く同じで、同一筆者の手になるものであるが、「柏木切」のほうは作者名が、仮名書になっているところが相違点である。「二十巻本歌合」の集成には、大治年間(1126〜1130)以後のものが収録されていないことから、ほぼその頃に作られたものであろうといわれている。草稿本と考えられることや、その書風や料紙よりみても平安時代は下らないものであろう。


翰墨城 94 伝藤原俊忠 二条切
 『類聚歌合』の断簡。伝称筆者の藤原俊忠(1073−1123)は藤原忠家の次男。その邸宅が二条室町にあったところから、二条殿と呼ばれた。切の名称はこれにちなむ。この一葉は巻第十七所収の「延喜6年右兵衛少尉貞文歌合」の断簡で、「依雪波心寒」と題する一番。「本のまゝ」とあるのは、この筆者が、底本の判読不明な部分につけた注である。連綿を多く用いず、単体の文字が目だち、ゆったりと落ち着いた書風であるが、俊忠の筆跡という確証はない。12世紀前半の遺品と思われる。


藤原俊成


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 75 藤原俊成筆 住吉切 紙本墨書(呼継ぎ−金銀泥下絵雲紙) 26.0×8.4 平安
 住吉切はもと巻子本。白地の楮紙に和歌一首二行書き。書は、穂先のきいた鋭くチクチクした俊成独自の奇癖をもっており、かれの自筆本と考えられている。
 藤原俊成(1114−1204)は俊忠の子、定家の父にあたる。歌人としてすぐれ、たびたび歌合の判者となり、また「千載集」を撰進しているが、一方、古筆の方でも多くの筆跡が喧伝されている。俊成は文治6年(1190)に、賀茂神社、住吉神社、春日大社などの五社に自詠百首を奉納しているが、これはその断簡と思われる。文治6年は俊成77歳のときであり、晩年期の筆跡として貴重すべきものである。住吉切という名は、住吉神社に自詠百首を奉納したことに起因するが、しかし、他の百首歌の断簡にも住吉切といわれているものが存在する。

翰墨城 97 藤原俊成 住吉切
 『古筆名葉集』『増補古筆名葉集』の藤原俊成の条、「住吉切巻物切鳥子番胃二行書」た相当するもの。俊成は文治6年(1190)に、賀茂・伊勢・春日・日吉・住吉の五社に自詠百首を奉納しているが、これはそのときの清書本の断簡と思われる。もと住吉社に伝存したことにちなんで命名されたものであろう。文治6年は俊成77歳のときであり、俊成の晩年期の筆跡として貴重なものである。俊成の筆跡は、穂先が鋭く、強靭な筆力と奇異な字形に特異な個性があるが、「住吉切」の書風はその典型といえる。もとは巻子本。



見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 76 藤原俊成筆 御家切 紙本墨書 24.9×16.4 平安
 「古今和歌集」巻第七・賀歌(第三四六・七番の二首)の断簡。藤原俊成(1114−1204)の筆になる古今集の写本は、現在、顕広切、御家切、了佐切、昭和切の四種が伝えられるが、このうち世に散在する御家切は温雅な書風のものが多く、あくまでも伝称筆者として伝えるのみである。ところがこの手鑑中の御家切は、俊成のあのくせのある筆勢がよく発揮されたものであり、俊成の真筆と認めてもよいのではないかと考えられる。あるいは、もとは別系統の写本であったかもしれない。もとは冊子本。料紙は素紙で、一面十行書き、和歌一首二行書き、上部に定家の加筆ある断簡も存在するという。御家切という名称は、旧所蔵者の名にちなむようであるが、青蓮院門跡に伝来したからとか、冷泉家に伝えられたからとかいわれており、その家名は明らかでない。

翰墨城 98 藤原俊成 御家切
 『古今和歌集』巻第十三・恋歌三の断簡。俊成の書写した『古今集』は『増補古筆名葉集』に四種あげられているが、これはそのうちの「御家切 四半、古今哥二行書、上ニ定家卿加筆ノ処アリ」に相当する。「御家切」の呼称は、歌道の家系であった冷泉家旧蔵であったため、人々が敬って御家と呼んだことにちなむと考えられる。俊成独特の書風の鋭峰がみえるところから、50〜60歳ごろの書写と考えられる。頭注の「別紙」の文字は、俊成の同筆で、清輔本系統の伝本にみえる勘物で、この本がもと、その一伝本として写されたものであることを知る。


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 77 伝藤原俊成、定家筆 志波切(補任切) 紙本墨書 24.3×15.5 平安
 志波切という名の由来は不明であるが、これは公卿補任を書いた断簡ゆえ、ふつう補任切といい、また記録切ともいっている。もとは冊子本で、料紙は薄手の斐紙。この断簡は天治2年(1125)の叙任を書いたところで、この部分が俊成(1114−1204)の筆跡、右半にあるコロコロとした細字が定家(1162−1241)の筆跡ということになるのであろう。冷泉家には、保延6年(1140)から承安4年(1174)までの一帖と、建久9年(1198)から承久3年(1221)までの一帖と、冊子本二帖が伝来しているが、それによると久安元年(1145)までは俊成が書写し、それ以後は定家が記録したものである。

翰墨城 96 藤原俊成 補任切

 『公卿補任』の断簡で、公卿の氏名・官歴を年代順に書写したもの。記録切・志波切とも呼ばれる。もとは大和綴の冊子本。『増補古筆名葉集』の「補任切 四半、真名、定家卿ト両筆ノ処アリ」に該当し、この補任切にみえる「五十」「四十六」などの年齢の数字が定家の書き入れである。書風は俊成自筆の「了佐切」に近く、晩年期の筆跡と思われ、「日野切」よりさらに枯れた趣を呈している。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 78 伝藤原俊成、後鳥羽院、慈円、藤原定家筆 四首歌切 紙本墨書 18.9×9.4 鎌倉
 この歌切は、何の歌集を書いたものか判らない。薄手の斐紙に、上下に淡墨の横罫をひき、その間に和歌一首二行書き、細字の連綿書き四首を収めている。第1首は俊成、第2首の無名は後鳥羽院、第3首は慈円、第4首は定家の歌である。第1首は筆に鋭さのある俊成の筆跡、第4首はコロコロと円味のある定家の筆跡のようである。第2首第3首の筆跡はやや似ているが、第1首第4首とはまるで筆意が異なっている。それに、俊成・慈円・定家三人の名前の書きぶりが、みな趣を異にしている。以上のことから推察すると、あるいはこの書は、自詠の和歌をそれぞれ自書した哥合書きの写本であったかもしれない。あまり類を見ない、非常に稀な古筆切である。


藻塩草
藻塩草 表86 妙法蓮華経巻第七断簡(鳥羽切) 伝五条三位(藤原)俊成筆 金銀箔散 斐紙墨書 25.3×5.6 鎌倉時代
 『妙法蓮華経』巻第七常不軽菩薩品第二十の断簡。もとは巻子本、雁皮質の料紙に金銀泥で切箔、野毛で雲霞の下絵文様がある。金泥の界欄あり、その界高19.2p、界幅1.9p、一行17字。その書風より、俊成老年の頃の自筆写経と認められる。なお、俊成筆と伝える古筆は、この他「住吉切」、「久安切」、「補任切」、「御家切」、「日野切」、「了佐切」、「顕広切」、「四半切」(古今、後撰)、「哥仙切」など多い。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表87 千載和歌集巻第十五断簡(日野切) 伝五条三位(藤原)俊成筆 斐紙墨書 22.7×15.6 鎌倉時代
 千載和歌集巻第十五恋歌五の断簡。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。その書風などより、俊成老年(74、5歳頃)の自筆と考えられている。

翰墨城 95 藤原俊成 日野切
 藤原俊成(1114−1204)は、平安時代末期の代表的歌人で、藤原基俊の門に入って以来、歌人としての才能を発揮しはじめ、数々の歌合の判者をつとめるなど大いに活躍した。藤原定家は彼の子である。定家の日記『明月記』によれば、文治4年(1188)4月22日、後白河法皇の勅によって『千載和歌集』の撰者となり、みずから自筆の奏上本をたてまつった。時に75歳であった。これはその貴重な撰者自筆本の断簡(巻十七・雑歌中)である。その筆跡は独特の個性を示し、切れ味の鋭い筆遣い、強靭な筆力が強く、われわれに迫ってくる。もとは大和綴の冊子本。かつて、公卿の日野家に伝来したことにちなみ、命名されたものと思われる。

翰墨城
翰墨城 99 藤原俊成 了佐切
 『古今和歌集』巻第一・春歌上の断簡。藤原俊成の書写になる『古今和歌集』は、現在四種類が知られている。その書風からみて、書写年代の若い順にあげると、「顕広切」・「御家切」・「了佐切」・「昭和切」となり、それぞれおよそ30・40・60・70歳代の書写とされている。この断簡は四種のうちの「了佐切」と呼ばれるものの一葉。「顕広切」と「御家切」の二つには、まだいわゆる俊成様という特徴がさほど現われていない。それが「昭和切」になると「日野切」のように完成された俊成独自の書風になっていく。「了佐切」はその中間にあって、切ごとにかなり趣の異なったものがあるが、この断簡には師である藤原基俊(?−1142)の書癖の影響が強く出ていて、すでに俊成独特の奇癖あらわな個性がみえている。切名は、鑑定家・古筆了佐の遺愛であったことにちなむものであろう。


伝藤原定家


見ぬ世の友
見ぬ世の友 79 伝藤原定家筆 五首切 紙本墨書 16.6×13.7 鎌倉
 この歌切は、何の歌集を書いたものなのか明らかにしがたい。もとは冊子本で、その断簡に五首の歌を収めるものを五首切、詞書きを含んで三首の歌を収めるものを三首切と名付けたものである。桝形の楮紙に一面十行書き、和歌一首二行書き。書は、仮名としては字形のつぶれた、線も形も円い、いわゆる定家風ではあるが、定家の真筆か否かはなお後考を要しよう。筆に渋滞した様子もみえ、あるいは鎌倉末期ごろの写本であるかもしれない。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 80 伝藤原定家筆 成就切 紙本墨書 22.7×9.2 鎌倉
 写経することの功徳は、般若理趣経、法華経をはじめ種々の経典に説かれるところであるが、それに伴う発願経、供養経が奈良から鎌倉時代に多く写されている。このような意味から、願望の成就という連想のもとに、この経切は成就切と命名されたのであろう。これは、「薬師琉璃光如来本願功徳経」(玄奘訳)の断簡である。
 もとは巻子本。料紙は斐紙。銀泥で界をひき、経文中に朱点が加えられている。一行17字詰であるが、書はいわゆる写経体ではない。字つぶは大体整っているが、細太のいりまじった行書的な筆意があり、点画には定家風の特色がよくにじみでている。しかし、定家(1162−1241)の筆跡とはいうが、なお後考を要しよう。


藻塩草
藻塩草 表88 〔御斎会寛日次第断簡〕(藤谷切) 伝(藤原)定家筆 斐紙墨書 24.0×14.9 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の京極黄門定家(1162−1241)の条に「大記録」、「小記録」とのみあり、『増補古筆名葉集』には「明月記切 紙立一尺許、杉原鳥ノ子等不定、俗ニ大記録ト云」、また「帛立五寸許、帋同上、俗ニ小記録ト云」とある。この紙の法量、内容より、陽明文庫に所蔵されている「御斎会寛日次第」一巻と全く同一の巻物の断簡と考えられる。御斎会とは毎年正月八日より七日間、大極殿において金光明経を講説せしめて国家の安泰を祈願せられる儀式であるが、これはその結願の日の行事を録したものである。『藻塩草』に付属する目録によれば、この切を「藤谷切」と記載しているが、後年の『増補古筆名葉集』には「藤谷切、大四半、新古今、哥二行書、出来替リ」と記載しているところからみると、この付属の目録がその「藤谷切」の内容を誤ったのか、『増補古筆名葉集』がその名を新古今和歌集に用いたかのどちらかである。今日では、その内容からいっても「小記録切」としたほうが、内容にふさわしいように考えられる。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に墨罫あり、その界高21.1p、上部には三本の横罫あり、一条の間幅は0.9p程度。その書風より、定家晩年の筆蹟と認められる。



藻塩草
藻塩草 表89 〔歌集断簡〕(三首切) 伝(藤原)定家筆 楮紙墨書 15.7×13.8 鎌倉時代
 平安時代の歌人藤原高遠(949−1013)の家集『大弐高遠集』の断簡。『古筆名葉集』の京極黄門定家(1162−1241)の条に「三首切、六半」とのみあり、『増補古筆名葉集』には、「三首切、同品(六半)ヲ三首キルタル故ニ云」とある。歌集の断簡ではあるが、何集であるかはなお明らかにし難い。その書は定家風ではあるが、定家筆とは認め難い。もとは六半升形の冊子装、楮質の料紙に一面十行書、和歌一首二行書。その書風より、鎌倉時代末期から南北朝時代のものと考えられる。*『古筆学大成一九』では、現存する同種の切は藤原定家筆本の臨模本であり、書写年代を室町時代としている。


翰墨城
翰墨城 100 藤原定家 仏事記録切
 藤原定家(1162−1241)が歌集・歌論書・物語等の写筆活動によって、今日の平安文学上に果たした功績は周知のとおり。『明月記』と呼ばれる彼の日記や、除目・御斎会といったような諸儀式の記録を記したものが数多く現存する。これらは一般に「記録切」と総称され、さらに料紙の大小により「大記録切」「小記録切」と呼ばれている。この断簡も仏事供養に際しての記録をとどめた、「大記録切」と呼ばれるものに相当する。料紙は写経に用いる予定であったのか、天地だけでなく、行取りを統一するために縦にも簿墨の界が引かれている。書風からみて、定家の壮年の筆跡と考えられる。


翰墨城
翰墨城 101 藤原定家 貫之集切
 『貫之集』巻第三の断簡。もと六半形の粘葉装であったと思われる。和歌一首二行書き。他に墨流しの紙を使用したところもある。一面に和歌六首十二行を書き、行と行が接していて、狭く混然としている。筆者は伝称どおり藤原定家の自筆に紛れもなく、その書風から定家壮年期の筆跡と考えられる。歌の上欄に書きこまれた「拾」は定家みずからの書き入れで、この一首が『拾遺和歌集』に入集していることを示したものである。


翰墨城
翰墨城 102 藤原定家 記録切
 『古筆名葉集』の京極黄門定家の条に「大記録」「小記録」とのみあり、『増補古筆名葉集』に「明月記 切帋立一尺許 杉原鳥ノ子等不定、俗ニ大記録切ト云」、また「帋立五寸許帋同上、俗ニ小記録切ト云」とある。ところで、これは紙の寸法から推して、上述の「小記録切」に適合しよう。内容は、宮殿儀式の次第を記したものらしい。その筆致より定家晩年の筆跡と考えられる。


翰墨城
翰墨城 103 藤原定家 紹巴切
 『後撰和歌集』巻第十五・雑歌一の断簡。『増補古筆名葉集』の定家の項に「後撰切 四半、哥二行書、朱書入アリ」「紹巴切 四半、後撰歌一行書」とあり、これは和歌一行書きなので、後者とも考えられる。定家は、生涯十度も『後撰和歌集』を書写しているが、この本は、その最晩年の天福2年(1234)の書写。高松宮家に、この本の完本の忠実な影写本(江戸時代)がある。本文中の朱筆は、定家みずからが、たまたま伝得した行成本と比較したもの。命名の由来は、かつて連歌師里村紹巴所持による。



翰墨城
翰墨城 104 藤原定家 写経切
 定家が、生涯、膨大な量に及ぶ歌集や物語を正確に書き伝えたことは周知のとおりであるが、それにも増して定家が力を注いだのは、仏典の書写であった。これも、そうした写経の一つで「成就切」と呼ばれるもの。命名の由来は、この一連の中に、「成就……」の書き出しの切があり、その名にちなんだものであろうか。「薬師瑠璃光如来本願功徳経」を書写したもので、もとは巻子本。料紙は素紙を用い、界は銀泥のため、酸化して黒ずんでみえる。界の高さに比して天地が狭いのは、後世、上下を切断したものと思われる。書風は、経師の手になる、いわゆる写経体ではなく、定家の個性そのままの執筆であり、豊満な筆致は彼の50〜60歳代の筆跡と考えられる。



翰墨城
翰墨城 105 藤原定家 明月記切
 藤原定家には『明月記』(照詣とも)と称される日記が伝えられる。鎌倉初期の公武にわたる、広範囲の諸事情を語る史料として、すこぶるその価値が高い。数十種に及ぶ写本があり、本来の巻数を定めることはむずかしいが、自筆本も多く現存し、切断簡として、また、まとまった大部の巻物として今日に伝えられている。図版の部分は、秘閣本・同補写本・野宮家本・冷泉家本・柳原家本・黒川氏本・早稲田大学図書館蔵本の七種をもとに、『後鳥羽院熊野御幸記』『明月記略』を合わせた国書刊行会本『明月記』(三冊)中には収められていないが、記録の内容、料紙の寸法から、世に「大記録切」と称される『明月記』の断簡と考えられる。


伝二条(藤原)為家


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 81 伝二条為家筆 大原切 紙本墨書 21.8×13.7 鎌倉
 「新撰六帖題和歌」第五帖の断簡。もとは四半の冊子本。料紙は薄手の楮紙で、一面十一行書き、和歌一首二行書き。柔らかく細身の線で、いかにも忽卒に書かれた趣を呈している。そして、歌の書き出しには墨や群青の合点が加えられている。
 この新撰六帖は、為家(1198−1275)をはじめ藤原家良(1192−1264)、知家(1182−1258)、行家(1223−1275)、光俊(1203−1276)の五歌人が、「古今六帖」の題によってそれぞれ和歌を詠み、たがいに評点をくだしあったもので、その成立は後嵯峨天皇の寛元2年(1244)以後といわれている。筆者はこの五人の中の一人、為家と伝えており、年代的には為家晩年期の筆跡ということになるのだが、真筆か否かはなお後考を要しよう。大原切という名の由来は明らかでない。

藻塩草 表91 新撰六帖題断簡(大原切) 伝二条為家筆 斐紙墨書 21.5×14.8 鎌倉時代
 新撰六帖題和歌六巻のうち第三帖の断簡。この新撰六帖は、衣笠内大臣家良、前大納言為家、九条入道三位知家、前左京権大夫信実、入道右大弁光俊の五歌人が、おのおの古今六帖の題によって詠出し、互いに評点を加えたもので、後嵯峨天皇の寛元2年(1124)に成ったものである。群書類従所収のものは、流布版本を底本として狩野望之、清水光房の校合本を参酌して採収されているが、これは、その料紙、書風、四ないし五本のへ点等よりみて、この流布版本より古く新撰六帖の原本に近いものと思われる。しかし、為家自筆の『大和物語』に比し、同筆とはなお断定し難い。もとは四半の綴葉装、楮まじりの雁皮質の料紙に一面十一行書、和歌一首二行書。歌の首には、墨、緑青、朱、榿など四色のへ点があり、歌撰に用いたものと考えられる。書風より鎌倉中期のものと認められる。*付された合点は朱が藤原知家、青が藤原信実、榿が藤原為家、墨が藤原光俊のものである。

翰墨城 108 伝藤原為家 大原切
 『増補古筆名葉集』によれば、「大原切」は、「四半 自撰新撰六帖哥、二行書、五色ノ点アリ」とみえるものに相当する。正しくは、『新撰六帖題和歌』と呼ぶが、略して「新撰六帖」ともいう。寛元2年(1244)6月27日以後、間もないころに成立したもの。『古今和歌六帖』の類題に基づき、衣笠内大臣家良・前大納言為家・九条三位知家・前左京極大夫行家(信実とも)・右大弁光俊の五人が、各題一首ずつの歌を詠んだもの。各題ごとに、家良・為家・知家・行家・光俊の順に歌をあげ、「已上五人各除我歌、加点四首」と注して、紫・黄・赤・青・黒の色彩に分けた互選合点をつけたもの。この断簡は、その原本のおもかげを忠実に伝えるものとして、すこぶる貴重である。むろん、伝称筆者として伝える為家の真筆でばないが、ほぼ為家同時代ころの筆跡であろう



見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 82 伝二条為家筆 姫路切 金銀切箔野毛砂子散紙本墨書 17.5×13.7 鎌倉
 「源氏物語」と「狭衣物語」の和歌を百首ずつ抄出して歌合の形式にした「物語百番歌合」の断簡で、これはその冒頭にあたる。この歌合は、後京極良経の依頼によって藤原定家が撰んだもので、建永元年(1206)ごろ成立したという。恋・別・旅・哀傷・雑に類別し、源氏の歌を左方に、狭衣の歌を右方に配列している。
 この切は、もとは小四半の冊子本。料紙は、鳥の子紙に金銀の切箔、野毛、砂子を霞にまき、梅花紋様などを描いた美麗なものである。書は、細身の線で字形が整い、おだやかな書きぶりである。優美な料紙に書かれたこの作は、おそらく調度品であったろう。
 筆者を為家(1198−1275)と伝えているが、断定はできない。しかし、この料紙・書風は、鎌倉時代前半のものとみてよい。播磨国姫路城主・酒井家に伝来したものであろうか、古来姫路切と呼ばれ、愛玩される古筆の逸品である。

翰墨城 110 伝藤原為家 姫路切
 『物語百番歌合』の断簡。この歌合は、後京極良経(1169―1206)の依頼によって、藤原定家が撰したもので、建永元年(1206)以前の成立という。『源氏物語』と『狭衣物語』の歌をおのおの百首ずつ抄出し、部類別(恋・別・羈旅・雑)に分けて、これを百番の歌合(左方『源氏』・右方『狭衣』)に番えたもの。もと冊子本のこの断簡は、第十二番(恋部)の右、『狭衣物語』巻第一の歌である。鳥の子紙に、金銀の切箔・砂子・野毛で霞引きを施し、さらに金銀の箔で、雌雄の鴛鴦をかたどる。ほかに、梅花文や洲浜形を散らした断簡もある。筆者為家の伝称に確証はないが、鎌倉前期(13世紀)の典型的な書風を示す。名称は姫路の酒井侯に伝来したことにちなむ。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 83 伝二条為家筆 須磨色紙 紙本墨書 14.4×14.7 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第六・冬歌に所収の寂然法師の歌を書いたもの。何ゆえ須磨色紙と呼ぶのか、その拠る所を知らない。色紙とはいうが、もとは冊子本で、薄手の斐紙に雁行様に七行に散らし書きしている。これをほどよく桝形に切りとり、色紙になぞらえたもの。字形は整斉で、細太のバランスのよい錬れた線の美しさをみせている。筆者を為家(1198−1275)というが、これも確証あってのことではない。


藻塩草
藻塩草 表90 定家卿百番自歌合断簡(箔切) 伝二条為家筆 金銀晒泊散斐紙 里望圭日20.7×14.2 鎌倉時代
 定家卿百番自歌合のうち巻頭一番の右と、二番左の部分断簡。もとは四半の冊子装、雁皮質の料紙に、金銀の切箔、砂子が雲霞状に撒いてある。それに一面普通八行程度、この断簡では六行書となっている。和歌一首二行書。『増補古筆名葉集』に至って「箔切、中四半、哥合、金銀村砂子沢山ニアリ故二云」とあり、別に「定家自歌合切、砂子三段、哥二行書」とわかれる。そして現在では、金葉和歌集の中四半切をもって「箔切」と呼び、本来「箔切」のものを「定家自歌合切」と呼んだりしているが、本来この切が「箔切」と呼ばれるべきである。定家卿百番歌合というのは建保4年(1216)2月、定家が55歳の時、年来の自詠歌二百首を百番の歌合にし、翌年少し改めて建保七年後鳥羽院の判詞を申請したものである。筆者を藤原為家と伝えるが、その自筆として認められる数々の作品のうちから、特に重要文化財『大和物語』に比し、その筆蹟特徴から同筆と認められる。なお、為家筆と伝える古筆は、有名な「姫路切」、「大原切」をはじめ約十八種を数える。



翰墨城
翰墨城 106 伝藤原為家 家集切
 藤原為家(1197−1275)は、定家の長子で、俊成の孫。鎌倉時代の歌人として有名であり、家の歌風を受け継ぎ敬重された。歌合の判者にもたびたび加わり、『続古今和歌集』の選者として、また、文永2年(1265)藤原基家・藤原俊光らとともに『続古今和歌集』の奏覧に当たるなど、幅広い活躍をしている。このほか、後嵯峨上皇の勅命によって「弘長百首」を詠進し、『詠歌一躰』を著わしている。歌人としての才能はもとより、定家の子、俊成の孫といった血筋から、能書としてもその才を発揮して、古筆の筆者としてその名は尊重され、とくに茶人の間ではすこぶる珍重された。彼の書風は、個性味あふれる父・定家の書風―トゲのさすような偏癖をもつ―の影響はまったくみえず、むしろ、後京極良経を祖とする「後京極流」のおもかげを宿している。この二行の断簡は、『為家集』に収められる一首で、彼の自筆になる和歌懐紙の書風に類似するが、自筆とは認めがたい。情趣豊かで、すんなりとした調子で書写されており、一種言いがたい美しさをみせている。


翰墨城
翰墨城 107 伝藤原為家 続後撰集切
 和歌一首を二行書きにするこの断簡は、もと巻子本。ちょうど中央部に紙継ぎの跡が見受けられる。為家の筆と伝える古筆は『新撰古筆名葉集』に「北野切」「大原切」「姫路切」「大坂切」など十二種があげられているが、これはいずれにも該当するものがない。内容は『後撰和歌集』巻第三・春歌下を書写したもので、自筆の懐紙などと比較して、彼の筆跡とは認めがたい。彼は、建長3年(1251)10月に後嵯峨上皇の命を受けて、彼一人で『続後撰和歌集』二十巻を奏覧しているところから、その撰者たる為家を筆者にあてたものと思われる。書写年代は為家の時代とほぼ同時期と思われる。


翰墨城
翰墨城 109 伝藤原為家 歌集切
 この断簡は、雲紙に詞書と歌一首が書写されているのみで、前後の余白もかなり大きい。おそらく、この一紙にみられるように、一人ずつの歌を清書した冊子であったと思われる。歌集切は、藤原家隆の家集『壬二集』の中の「三十首 前内大臣家 旅」に収められる旅宿と題するもので、詞書と一致する。『増補古筆名葉集』の中では「外山切」が「雲帋、六半、銀砂子」とあって、大きさと雲紙であることは近いが、これに当たるかは不明。書は、筆勢が強く、鎌倉初期の後京極流に近い。その後京極流の書き手である為家を筆者とするが、自筆の和歌懐紙などと比べ、同筆とはいえない。が、力強い線と、まとまりの巧みさはひときわすぐれている。


翰墨城
翰墨城 111 伝藤原為家 箔切
 『金葉和歌集』(十巻)の断簡。為家筆という伝称に確証はない。この一葉は、巻第七・恋歌上の部分である。もと大和綴の冊子本で、金銀の切箔・砂子、銀の野毛を霞に引く。「箔切」の名はこの料紙の特徴を表わすもの。その大中小の切箔、粗細の砂子を駆使した霞引きの方法は、伝後京極良経筆「紫式部日記絵詞」詞書・同「内侍切」・同「九条殿切」(手鑑「見ぬ世の友」所収)など、一連の古筆の料紙と軌を一にするところ。これらは、いずれも後京極流の能書の手になるもので、鎌倉前期の遺品。「箔切」も当然、それらと同時期(13世紀)の作品ということになる。『新撰古筆名葉集』にみえる為家の「箔切」は、「中四半 哥合金銀村砂子沢山ニアリ故ニ云」とあり、手鑑「藻塩草」などに所収する「定家卿百番自歌合」の断簡をさすもので、これとは別のもの。