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伝聖武天皇


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 1 伝聖武天皇宸翰 大聖武(大和切) 紙本(荼毘紙)墨書 27.1×18.1 奈良
 「賢愚経」巻第二降六師品第十四の断簡である。賢愚経は賢者愚者に関する讐喩的な小話をまとめたもので、その経名は訳名ではなく漢人の命名になるものらしい。
 もとは巻子装。料紙は、防虫のために香木の粉末を漉きこみ胡粉をひいた唐紙で、淡墨をもちい界をひいている。白地のほかに、黄・荼・薄紅色のものが稀にある。この紙は奈良朝以外見ることのできない特殊なもので、ふつう"荼毘紙"と呼んでいるが、それは紙面に散在する粉末が一見して骨粉に見まごうところから、後世奈毘の文字をあてたものであろう。
 この荼毘紙に書かれたものは、古筆家の慣例により、すべて聖武天皇(701−756)の宸筆といわれている。文字の大きさに三種あり、それぞれ大聖武・中聖武.小聖武と呼んでいるが、なかでもこの大聖武賢愚経は、古筆手鑑の壁頭を飾る写経として広く世間に珍重されてきた。
 書風は、聖武天皇宸翰「雑集」と比べると明らかに別筆であり、おそらく中国から帰化した写経生の手になったものであろう。気宇雄大で筆力が強く、まことに重厚味あふれるものがあり、数少ない大字写経としてわが書道史上重要な地位を占めるものである。
 聖武天皇の宸筆というのも、一名"大和切"というのも、この賢愚経がもと大和国東大寺に伝来したからにほかならない。

藻塩草 表1 大和切(大聖武切) 賢愚経巻第五断簡 伝聖武天皇筆 胡粉地香紙墨書 27.0×13.2 奈良時代
 『古筆名葉集』の聖武天皇(701−756)の条に「唐帋胡粉地、経切、墨罫墨書文字、大聖武ト云、料帋白浅黄荼薄紅」とあるが、「大和切」の名は記されていない。『増補古筆名葉集」に至って「大和切」の名が記載された。
 『賢愚経』巻第五散檀寧品第二十九の断簡。「大和切」という名称は大和国東大寺に伝えられたことによる。この「大和切」は字形が大きく力強いすぐれた書風で、聖武天皇の書として伝えられてきたため古来尊重され、手鑑の初めには必ずこの切を押すものとされてきた。そのためにこの切は世間に広く散在している。

翰墨城 1 伝聖武天皇 大聖武
 古筆手鑑の巻頭を飾る大聖武(大和切)は、賢者・愚者に関する譬喩的な小話をまとめた「賢愚経」の断簡である。防虫のために香木の粉末を漉きこみ胡粉を刷いた料紙に、気宇雄大で筆力の強い、重厚味あふれる楷書美が展開する。この紙は奈良朝以外みることのできない特異なもので、紙面に散在する粉末が一見して骨粉に見まごうところから、後世、荼毘紙と名づけられた。この荼毘紙に書かれたものはみな、古筆家の慣例により聖武天皇宸筆と称されており、さらに文字の大きさによりそれぞれ、大聖武・中聖武・小聖武と呼び分けられている。
 古筆家はこれを聖武天皇(701−756)哀筆と定めたが、おそらく中国から帰化した写経生の手になったものと思われる。八世紀ころの書写であろう。いずれにせよこの経は、数少ない大字写経としてわが書道史上、重要な地位を占めるものである。聖武天皇宸筆というのも、別名「大和切」というのも、この「賢愚経」がもと大和国東大寺に伝来した由来にちなんだからにほかならない。


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 2 伝聖武天皇宸翰 中聖武 紙本(荼毘紙)墨書 26.8×6.4 奈良
 この経切は、大聖武と同じく荼毘紙に書写された写経ゆえ、聖武天皇の宸翰といわれ、中ぐらいの字粒なので"中聖武"と呼ばれている。
 淡墨で界をひいているが、とくに縦罫を二本ひき、各行を劃している。書風は大聖武に比し、全体に字形がくずれ、一点一画の筆使いに力強さがなくなっている。「十講律」巻第三十四人法中臥具法第七の断簡。

翰墨城 2 伝聖武天皇 中聖武
 前図と同じ料紙。その書体が中ぐらいの字粒なので、中聖武と呼ばれる。『十諦律』巻第三十四・八法中臥具法第七の断簡で、大聖武に比べると全体に字形がくずれ、一点一画の筆遣いに力強さを欠くうらみがなくもない。もとより聖武天皇の真筆ではないが、中国から舶載されたこの料紙の特種性を考えれば、前図とほぼ同時期の書写とみてよかろう。



藻塩草
藻塩草 表2 阿弥陀院切〔注大般浬般不経断簡〕 伝聖武天皇筆 胡粉地香紙墨書 27.8×5.3 奈良時代
 『増補古筆名葉集』の聖武天皇の条には「大和切」のつぎに「阿弥陀院切、同帋(荼毘紙)、行書」とのみ記載されている。内容はおそらく大般涅葉経文の注解のたぐいのように思われるから、いま仮に「注大般涅葉経」としておく。「大般涅葉経」が東大寺に多く伝来していることから考えて、これも「大和切」と同じく、東大寺に伝来したものではなかろうか。 
 字形はやや右上がりの行書で、「大和切」と同じ料紙らしいが、宸翰の「雑集」などに比し、明らかに別筆である。書写の態度は自由で、写経生の手になったものではないと思われる。


伝光明皇后


見ぬ世の友

塩草

翰墨城
見ぬ世の友 3 伝光明皇后筆 鳥下絵経切 金銀泥下絵紙本墨書 23.9×9.0 平安
 「妙法蓮華経」巻第二雌.圃喩品第三の断簡である。荼の染紙に金泥の界をひき、金銀泥をもって蝶・鳥・草花などの下絵を描いており、ために鳥下絵経切(鳥下絵切)と呼ばれている。この鳥下絵経切には、色紙・香紙・丁子吹きなどいろいろな料紙があり、それぞれ書風も異なっているが、この種の法華経はすべて光明皇后(701−760)の筆跡といわれ、古筆手鑑には伝聖武天皇宸翰大聖武の次に貼付すべきものとして尊重されてきた。
 しかし、この書風は優麗な和様体である。横画を細く、縦画を太めにし、やや扁平にまるくおさめたこの写経体は、平安も後期になってからのものであり、光明皇后筆でないことは明白である。平安時代における装飾経の一典型とみることができよう。

藻塩草 表3 鳥下絵切 妙法蓮華経巻第四断簡 伝光明皇后筆 金銀泥下絵香斐紙墨書 23.4×12.8 平安時代後期
 『古筆名葉集」の光明皇后(702−760)の条には「鳥ノ下絵、香色帋、金ノ罫引、小鳥小草泥画アリ、字墨書」とある。羅什訳妙法蓮華経巻第四見宝塔品の偶句五行と巻尾の外題一行である。本紙の縦の長さは本来24p程度あったと思われるが、この帖に貼付する時、少し天地を切断して短くなっている。
 この鳥下絵の経切は、「蝶鳥切」と通称され、書かれた文字も出来がよく、平安時代後期の代藻塩草 表的な美しい装飾経として世に名高い。手鑑には大聖武のつぎに貼られるべきものとして、古来尊重され現存するものも少なくない。この平安時代後期の写経断片がなぜ光明皇后筆と伝称されてきたのかわからないが、おそらく聖武天皇と光明皇后との取合わせから、この美しい写経が選ばれたものであろう。


翰墨城 3 伝光明皇后 蝶鳥下絵経切
 「法華経」巻第五・勧持品第十三の断簡である。丁子吹きの紙に、金泥・銀泥で、蝶・鳥・草花といった、信仰とは直接かかわりのない情景の下絵を描き、金界を引いた華麗な料紙。もとは、「法華経」八巻に開結二巻を加えた、十巻一セットに調巻されたもの。まさに歌集のような豪華比類のない写経である。文字の結体は端正で、のびやかな洗練された筆線は、力強くもある。古筆手鑑では常に伝聖武天皇筆「大聖武」の次に推され、光明皇后(701−760)筆と伝えられるが、天平時代の写経ではない。十一世紀半ばのものと考えられる。「大聖武」のダイナミックさに比して、この切がきわめて豪華で優美、女性的な情趣を漂わせていることから、聖武天皇夫人の光明皇后筆と伝称されるようになったのであろう。
翰墨城 4 伝光明皇后 蝶鳥下絵経切
 前図と同じく「法華経」巻第二・薬草喩品第五の断簡。前図と同様の技法による写経料紙であるが、これは緑の染め紙。また、料紙の幅は少々広い。金の揉み箔をまばらに撒き、金銀泥で蝶・鳥・草花などの下絵を描く。筆線は前図よりいくぶん繊細で、筆者は別人と思われる。



見ぬ世の友
見ぬ世の友 4 伝光明皇后筆 経切 紙本墨書 24.2×9.4 平安
 「妙法蓮華経」巻第八観世音菩薩普門品第二五の断簡である。料紙は鶯地の染紙で、金泥で界をひいている。
 この経切には付箋がないが、その配列からすると、やはり筆者を光明皇后に宛てたものであろう。書風は鳥下絵経切と類似しており、平安朝の写経と考えられる。

見ぬ世の友
見ぬ世の友 5 伝光明皇后筆 五月一日経切 紙本墨書 20.0×26.0 奈良
 光明皇后が、父藤原不比等と母橘夫人のために発願・書写された一切経中の断簡である。現存する光明皇后願経には三種あるが、これは各巻末に願文があり、そのおわりに『天平十二年五月一日記』とあるので、"五月一日経"と呼ばれている。
 鶯地の麻紙に淡墨で界をひき、文字は点画・筆力ともに力強く、唐風の影響をうけたいわゆる天平経の書体である。古来光明皇后の筆跡といわれるが、皇后自ら書写されたものではなく、当時盛んであった写経所内の多くの写経生によって書かれたもの。書も願文も堂々とし、発願経としても、また天平写経としても代表的なものといえよう。

藻塩草
藻塩草 表4 出雲切 大宝積経巻第四十六巻末断簡 光明皇后御願経・3月8日経 伝光明皇后筆 黄麻紙墨書 27.1×14.6 奈良時代
 『増補古筆名葉集」の光明皇后の条に「経切、香帋、浅黄、白金砂子、墨罫墨字」とあるうち、浅葱とあるものに相当しよう。玄突訳『大宝積経』巻第四十六の巻末断簡である。もとは巻子本、一行およそ17字、願文五行書である。光明皇后願経は三度おこなわれているが、巷間に散侠したもののうち、この3月8日経で願文のあるものは、この『藻塩草』所収の断簡以外知られておらず、まことに貴重な一葉である。したがってこの断簡は、「出雲切」の標準となるものである。


伝嵯峨天皇


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 6 伝嵯峨天皇宸翰 飯室切 紙本墨書 28.4×6.6 平安
 「金光明最勝王経」の注釈の断簡で、もとは巻子本。飯室切の名は、経巻がもと比叡山横川の飯室別所に伝えられたことに由来する。
 古筆家の言う飯室切は、「藻塩草」に貼られている「勝鍵経」の断簡の如きもので、胡粉点もあるが、17字詰の小字のものである。ところが一般に言われる飯室切は、この帖に収められている如き注釈経である。料紙は黄麻紙。本文の文字は大きく、注は双行、胡粉の点、あるいは、まま・朱・黒などの点が見られる。背からこの経の本文と注を嵯峨天皇の宸筆と伝え、点を弘法大師と伝えているが実証はない。ただ、この金光明最勝王経の注釈が東大寺の僧明一(728−798)の著作でもあり、その書風からしても、書写年代は平安初期と考えてよかろう。

藻塩草 表6 飯室切 勝髪師子吼一乗大方便方広経(勝髪経)断簡 伝嵯峨天皇筆 黄穀紙墨書 26.4×6.7 平安時代前期
 『増補古筆名葉集』の嵯峨天皇(786−842)の条に「飯室切、香帋墨字経、所々弘法大師胡粉ニテ加筆アリ」とある。もと比叡山横川の飯室別所に伝えられたところから、この名が付されたらしい。これは求那跋陀羅訳、勝鬘師子吼一乗大方便方広経、勝鬘章第十五の一部分である。
 今日、一般には比較的大字で書写された金光明最勝王経注釈の断簡を、「飯室切」と呼んでいる。

翰墨城 5 伝嵯峨天皇 飯室切
 「勝鬘師子吼一乗大方便方広経」・一乗章第五の冒頭にあたる断簡。この一葉は、黄穀紙に薄墨の罫を施し、やや偏平な字形ではあるが、雄動な書風を展開する。行間にみえる胡粉の白い文字は、注記である。この連れとみられる断簡が、手鑑「藻塩草」に所収される。『新撰古筆名葉集』の嵯峨天皇(786−842)の項に、「飯室切、香帋墨字経、所々弘法大師胡粉ニテ加筆アリ」とある。この切名は、もと比叡山横川の飯室別所に伝来したことにちなむものか。筆者を嵯峨天皇とし、また胡粉の加筆を弘法大師(774−835)とする確証はもとよりないが、書写年代は、平安時代のほぼそれに近いころに推定される。


藻塩草
藻塩草 表5 叡山切 〔写経断簡〕 伝嵯峨天皇筆 天蓋蓮座下絵紺楮紙金字書 28.8×1.7 平安時代前期
 『古筆名葉集』の嵯峨天皇(786−842)の条に「紺帋金字 毎字二銀泥ニテ宝塔アリ、一行十三字」とあるものに近い。これは何経の断簡かわからない。「叡山切」の名称は、叡山に伝来したためか、嵯峨天皇と叡山との関係によるものであろう。


伝花山天皇


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 7 伝花山天皇宸翰 波多切 紙本墨書 27.5×3.1 平安
 これは、わずか一行だけの書状断簡である。花山天皇(968−1008)の宸筆と伝えるが、今日ほかにその皮翰が知られておらず、何ら確証を得ることができない。楮質のザラッとした引合紙に淡墨を用い、漢字仮名交りで忽卒に書かれているが、どうもその書きぶりはもっと後のもののように思われる。

藻塩草 表7 波多切 書状断簡 伝花山院(天皇)筆 杉原楮紙墨書 29.9×11.2 平安時代後期
 『古筆名葉集』の花山院(968−1008)の条に「杉原帋、カナ文」とあるものに相当しよう。花山天皇の宸翰と伝えるが、今日ではその宸翰が知られておらず、なお後考を要する。しかし、その書は格調高く後朱雀天皇衰翰(陽明文庫蔵)より時期は上るものと考えられ、宸翰の可能性は強い。
 手鑑『見ぬ世の友』にも、花山院の「波多切」は所収されている。書風は同じであるが、字は小さいのでつづきのものかどうかわからない。なお、花山院筆と伝えるのはこの「波多切」だけである。


伝白河天皇


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 8 伝白河天皇宸翰 丹波切 金銀泥下絵紙本墨書 29.7×6.3 平安
 「古筆名葉集」白河院の条に見える丹波切に相当する。料紙は白紙で、金泥で界をひき、上下欄に金銀泥をもって蝶・鳥などが描かれている。また、本文の随所に朱点が記されている。
 書は端正で謹直な書きぶりである。普通よりやや細字で、美麗な料紙に比し、素朴な風である。筆者を白河天皇(1053−1129)というが、何ら確証はない。誰かの願経、供養経の類と思われる。

藻塩草 表9 丹波切(摂津切) 〔写経断簡〕 伝白川(河)院(天皇)筆 金銀泥下絵斐紙墨書 28×6.3 平安時代後期
 『古筆名葉集』の白河院の条に「白帋、蝶鳥ノ泥画文字墨書」とあり、『増補古筆名葉集』に至って「丹波切、白帋墨字経、金罫ノ上下ニ金銀蝶鳥ノ下画朱星アリ」と詳しくなる。『藻塩草』付属の目録によればこの切を一名「摂津切」とも記載している。
 『藻塩草」付属の目録によればこの切を一名「摂津切」とも記載している。この写経は何経を写したものかわからない。文字は力強い書風で、料紙などと考え合わせると、「蓮花切」などとほぼ同じで平安時代後期のものであろう。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 表8 蓮花切 仏説観無量寿仏経断簡 伝白川(河)院(天皇)筆 金銀箔散下絵斐紙金字書 26.0×5.5 平安時代後期
 畺良耶舎訳の『仏説観無量寿仏経」の断簡である。白河院の自筆とはいえないにしても、切の名称、筆者伝称から、蓮華王院(三十三問堂)にかかわる白河院の願経ということが一応考えられる。料紙や書風よりみても、ほぼその時代のものと思われる。

翰墨城 6 伝白河天皇 蓮華王院切
 「仏説観無量寿経」の断簡で、この一葉はその巻末の部分に相当する。素紙に銀泥の界を施し、天地に金銀泥で蝶・鳥の下絵を描く。文字は金泥書きで、断簡によっては返り点や送り仮名の墨書き入れもある。白河天皇(1053−1129)自筆の確証はないが、その書風は均整のとれた和様体を示し、十二世紀初めころの書写と推定される。「蓮華王院切」の名称の由来は、長寛二年(1164)、後白河法皇の発願によって平清盛が造進した蓮華王院(現・三十三間堂)の宝蔵に伝来したことにちなむものか。「藻塩草」や「月臺」ほか、手鑑に比較的よくみる断簡である。

翰墨城 8 伝白河天皇 蓮華王院切
 「仏説観無量寿経」の断簡で、この一葉はその巻末の部分に相当する。素紙に銀泥の界を施し、天地に金銀泥で蝶・鳥の下絵を描く。文字は金泥書きで、断簡によっては返り点や送り仮名の墨書き入れもある。白河天皇(1053−1129)自筆の確証はないが、その書風は均整のとれた和様体を示し、十二世紀初めころの書写と推定される。「蓮華王院切」の名称の由来は、長寛二年(1164)、後白河法皇の発願によって平清盛が造進した蓮華王院(現・三十
三間堂)の宝蔵に伝来したことにちなむものか。「藻塩草」や「月臺」ほか、手鑑に比較的よくみる断簡である。


伝後臼河天皇


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 9 伝後臼河天皇宸翰 法勝寺切 紙本金字 27.3×3.6 高麗
 写経の断簡で、「古筆名葉集」後臼河院(1127−1192)の条に法勝寺切とあるのに相当する。白紙に金泥で界を、とくに天地の横界は子持ち罫にひき、経文も金泥で書いている。わが国ではあまり類を見ないもので、おそらく
朝鮮からの請来経であろうと考えられている。字形は端正であるが、鈍く重い書きぶりである。

翰墨城 7 伝後白河天皇 法勝寺切
 後白河天皇(1127−1192)の筆跡について『古筆名葉集』には、「香色帋 金字経」「白帋 同上」「砂子帋墨書」とある。また『増補古筆名葉集』には、「法勝寺切 白帋金字経金卦上下子持スジ」「六波羅切 白帋墨字経金卦ノ上下金銀砂子アリ」「経切 香帋墨字」ともみえる。前者の「白需」と、後者の「法勝寺切」は、同一の写経の断簡について記したもので、この経切に相当する。白紙に金泥で界を引き、同じく金泥で「大方広仏華厳経」巻十五を書写した装飾経であるが、わが国の同種の装飾経とは趣を異にしたもので、あまりみかけないものである。紙全体の高さ、界の高さもわが国の写経よりひと回り長い。この後白河天皇は単なる伝称筆者にすぎないが、手鑑「見ぬ世の友」に、同じ二行の断簡が伝わっている。高麗時代十三世紀のころのもの。


藻塩草
藻塩草 表10 六波羅切 無量義経断簡 伝後白川(河)院(天皇)筆 金銀箔散斐紙墨書 27.1×6.7 平安時代後期
 『古筆名葉集』の後白河院(1127−1192)の条に「砂子帋、墨書」とのみあり、『増補古筆名葉集』には「六波羅切、白紙墨字経、金罫ノ上下金銀砂子アリ」とある。法華三部経の一つ曇摩伽陀耶舎訳『無量義経』徳行品第一の断簡である。金銀砂子の状態や、写経の文字にみるねばりのある筆法から推察し、平安時代も末期、伝称通り後白河院院政時代のものと考えられる。



伝後鳥羽天皇


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 10 伝後鳥羽天皇宸翰 水無瀬切 紙本墨書 21.7×14.9 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第一九・神舐歌の断簡で、第一〇九七・八・九番の歌に相当する。筆者を後鳥羽天皇(1180−1239)というが、新古今集が後鳥羽院の勅宣により撰進されたものゆえ後鳥羽院の宸翰になぞらえたものであろう。そして、摂津国水無瀬には後鳥羽院の離宮があり、また水無瀬神宮が後鳥羽天皇を祭神とする宮として尊崇されたため、この断簡は水無瀬切と呼ばれるようになった。
 もとは四半切の冊子本で、雁皮薄様の料紙に一面八行書き、和歌は二行に書かれている。いわゆる両面書きのため、裏の文字が透いてよく見える。面相のような筆を用いたらしく、文字は細くのびやかで、かなりの速書きであるが、少し弱々しく、右肩を強く張った一種くせのある書風である。書写年代は、後鳥羽天皇よりあとの鎌倉申期ころであろう。

藻塩草 表11 水無瀬切 新古今和歌集巻第十九断簡 伝後鳥羽院(天皇)筆 斐紙墨書 22.0×15.1 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の後鳥羽院(1180−1239)の条に「四半切、新古今集哥一首二行書」とあり、『増補古筆名葉集」には、「水無瀬切、四半、新古今、哥二行書、又大同小異ノキレアリ、名物ニアラズ」とある。新古今、和歌集巻第十九神祇歌の断簡である。後鳥羽天皇宸翰と伝えるが、御物後鳥羽天皇展翰御色紙(東山文庫蔵)などと比し、その筆蹟特徴には似かよったものがある。
 「水無瀬切」の名称の由来は、水無瀬神宮(大阪府下三島郡島本町)が後鳥羽上皇を祭神とする宮として、古来、尊崇されてきたためであろう。

翰墨城 9 伝後鳥羽天皇 水無瀬切
 『新古今和歌集』の断簡で、この一葉は、巻第十六・雑歌上の部分にあたる。雁皮質の料紙でもと冊子本。一画八行書き、和歌を二行書きにする。筆者を後鳥羽天皇(1180−1239)と伝えるのは、『新古今和歌集』が天皇の勅撰集であるところからと思われるが、確証はない。しかし、「熊野懐紙」をはじめ、天皇の真跡と比較して、その書風に一脈相通ずるものが認められ、ほとんど時代の隔たらない十三世紀前半の書写になるものと推定される。摂津の国水無瀬の地は、後鳥羽天皇の離宮があったところ。のちに、ここには、後鳥羽天皇を祭神とする水無瀬神宮が建立された。このように、天皇にゆかりの深い地名をとって、「水無瀬切」と命名されたものと思われる。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 11 伝後鳥羽天皇宸翰 月輪色紙 紙本墨画・墨書 14.6×14.0 鎌倉
 歌仙絵は平安時代の歌絵・似絵につづいて鎌倉時代に成立し、三十六歌仙(藤原公任撰)をはじめ、種々の組合せの歌仙を絵巻物風に描くことが盛んに行なわれた。略歴と代表的な和歌一首が添えられ、各歌仙の姿がさまざまに描き出される。藤原信実筆という佐竹家旧蔵の三十六歌仙絵巻・上畳本三十六歌仙らは著名なものであるが、これも、そうした三十六歌仙絵巻の断簡と考えられる。
 図は源順像。料紙右端に「拾遺和歌集」巻第三・秋に所収の歌一首が二行に書かれ、その左に衣冠束帯で左向きの源順の像が描かれている。
 源順(911−983)は嵯峨天皇の曾孫にあたり、当時、和歌および詩文の中心的存在であった。書は細味の線で統一され、後鳥羽院の宸筆と伝えられる。
 画像は唇に朱をちょっとさしただけの淡彩墨画で、藤原信実の画と伝えるが、ともに確証はない。また、絵も後鳥羽院の宸筆という伝えもある。

藻塩草

翰墨城
藻塩草 表12 清水切 妙法蓮華経巻第一断簡 伝後鳥羽院(天皇)筆 天蓋蓮座下絵斐紙墨書 26.4×5.9 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の後鳥羽院(1180−1239)の条に「経切、香色帋、墨字、上ニ天蓋、下ニ蓮坐アリ」とあり、『増補古筆名葉集』には「清水切、白帋墨字経、銀罫、一行毎ニ銀泥ニテ上ニ天蓋下ニ蓮坐アリ」とある。妙法蓮華経巻第一方便品第二の断簡である。文字は謹厳な力強い書風ではあるが、後鳥羽院の筆蹟とは全く異なる。しかし、後鳥羽院とこの「清水切」との間には、御願経であったか何らかのゆかりがあったのであろう。

翰墨城 10 伝後鳥羽天皇 清水切
 「法華経」巻第一・序品第一の断簡。白紙に銀泥の界。同じく銀泥で各行頭に天蓋、行末に蓮台を描く。一字蓮台経・一字宝塔経などを同じく、「法華経」の一偶一句を仏の分身とみなして荘厳したもの。『新撰古筆名葉集』に「清水切白需墨字経銀卦一行毎二銀泥ニテ上二天蓋下二蓮坐アリ」と記されたものにあたる。この一葉は、文殊と弥勒の前身について説いた部分。「清水切」の名は、京都・清水寺に伝来したことを示すものであろうか。伝称の後鳥羽天皇の筆跡ではないが、それと同時代、つまり鎌倉初期の遺品とみることができる。


翰墨城
翰墨城 11 伝後鳥羽天皇 消息断簡
 後鳥羽院の筆跡断簡については、『古筆名葉集』に六種、『増補古筆名葉集』には十種類の記載があり、そのうちの「仮名文」「仮名文切」に相当する。文字の大小が著しく、散らし書きの手紙の形式をとっている。後鳥羽院の真跡の消息としては、各行の行頭を水平にそろえない、いわゆる雁行書きと称する晩年のものが遺されているが、このような女房奉書といわれる散らし書きまでには至っていない。また、書体にはいくつかの共通する部分があるとはいえ、真跡とは断定しがたく、やや時代を経た消息を後鳥羽天皇の宸翰としたものと解すべきである。



伝後深草天皇


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 12 伝後深草天皇宸翰 常盤切 紙本墨書 29.9×9.1 鎌倉
 漢字・仮名交りの書状断簡で、淡墨で番かれており、これと同類の断簡が、手鑑「藻塩草」にも収められている。後深草天皇(1243−1304)の宸翰は比較的多く現存するが、古筆切としての呼称をもつ作品は、この常盤切のみである。
 鎌倉期の書としても、書状としても首肯できる格調の高い書で、おそらく後深草天皇の宸筆といってよいものであろう。

藻塩草 表15 常盤切 書状断簡 伝後深草院(天皇)筆 杉原素紙墨書 30.1×11.2 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の後深草院(1243−1304)の条に「文、真名、カナ」とあり、『増補古筆名葉集』には「常盤切、真名、カナ文、杉原、鳥ノ子、経ウラ等アリ」とある。このうちこれは杉原紙、カナ文に適合する。経ウラというのは経の裏に消息を書いたものではなく、消息の裏に経を書いた消息経のことで、亡き人を追慕して、その人の筆蹟の裏に写経する場合がよくある。この仮名書は気品のある書風で、個人蔵の後深草天皇宸翰に比し、その筆蹟特徴より同筆と認められる。楮質の料紙や書風より鎌倉時代の作品と認められる。後深草院筆として伝わる切は、この「常盤切」のみである。
 なお、手鑑『見ぬ世の友』所収の後深草院の切は、この『藻塩草』本と同じ断簡である。



翰墨城
翰墨城 後深草天皇 書状断簡
 後深草天皇(1243−1304)の筆跡については、『古筆名葉集』には、「文 真名 カナ」という二種類があげられ、また『増補古筆名葉集』では「常盤切」という名称がつけられ、同じように「真名カナ文」の二種が示されている。しかし、「藻塩草」「見ぬ世の友」「大手鑑」をはじめとする多くの手鑑には、仮名消息が所収されており、二つのうちの一方しか示されていない。これに対してこの断簡は、その「真名」すなわち漢字の書状にあたり、現存手鑑中で貴重な地位を占めているといえよう。淡墨を駆ったこの書体は、後深草院の数多い真跡と合致しており、この断簡は、まさに、その宸筆とみなすことができる。鎌倉時代中期より形成されたいわゆる宸翰様という新しい書風の、いわば先駆的な役割をになったような、たくましい筆致を伝えている。




伝亀山天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 13 伝亀山天皇宸翰 石野切 金銀泥葦手下絵紙本墨書 25.8×41.7 鎌倉
 この断簡は、「源氏物語」手習の詞と歌とを、女房奉書のように散らし書きにしたもので、もとは巻子本。書風は温雅にして流麗であり、初筆は大きく豊かであるが、だんだんと繊細になっている。筆者の情の流れを押えて、整斉な字形に書きあげたこの作は、調度手本として書かれたものかもしれない。
 筆者を亀山天皇(1249−1305)というが、何ら確証はない。「古筆名葉集」亀山院の条には、金剛院切をはじめ七種の作例を記しているが、この石野切の記載はなく、このことからも珍重すべき断簡であるといえよう。

藻塩草
藻塩草 表16 金剛院切 〔歌集断簡〕 伝亀山院(天皇)筆 金銀泥下絵楮紙墨書 27.3×12.7 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の亀山院(1249−1305)の条に「巻物切、鳥ノ子帋金銀泥画、砂子、哥一首三行書」とあり、『増補古筆名葉集』には「金剛院切、奉書帋、金銀下画砂子、哥三行、或ハチラシ、御自詠歟未詳」とある。これは亀山院御集には収められていないが、書風や内容、その形態よりみて、おそらく、伝称通り亀山院の御自詠歌巻ではないかと考えられる。「金剛院切」の呼称の由来は、亀山天皇が院政執務の後、剃髪して金剛源と号されたことによるものと考えられる。現存する亀山天皇の宸翰に比し、よく似た筆蹟特徴は認められるが、なお断定し難い。


翰墨城
翰墨城 13 伝亀山天皇 金剛院切
 『古筆名葉集』の亀山院(1249−1305)の条の「巻物切 烏ノ子帋金銀泥画砂子哥一首三行書」、また、『増補古筆名葉集』の「金剛院切 奉書帋金銀下画砂子哥三行或ハチラシ 御自詠歟未詳」に相当する断簡である。この歌は、亀山天皇の自詠と伝えられているが、『亀山院御集』にも収められておらず、断定はできない。また、書風からも現存する亀山天皇の宸翰に比して、よく似た筆跡の特徴は認められるが、自筆とはなお断定しがたい。もと巻子本で、雁皮質の料紙に金銀泥で、雲・霞・雁・土坡・草木などの下絵を描いている。歌はすぺて三行に散らして書写されており、鎌倉時代中期の書写と考えられる。当時の料紙でこのような下絵を描いたのは珍しく、鎌倉時代における装飾料紙の研究には貴重な遺品である。「金剛院切」の名称の由来は、亀山天皇が院政執務ののち、剃髪して金剛院と号されたことによるものと考えられる。なお、手鑑「藻塩草」と「大手鑑」に同類の断簡が所収されている。


翰墨城
翰墨城 14 伝亀山天皇 歌集切
 前図と歌の散らし方、筆跡ともにまったく同じであり、その書風は格調の高いものである。一方、料紙は、打曇に金銀の切箔・砂子で霞を引き、銀泥で波・葦叢の下絵を描いている。筆跡、料紙装飾ともに鎌倉時代の特徴がよく現われている。『増補古筆名葉集』の亀山院の条、「巻物切 鳥ノ子雲帋金銀砂子小草ノ下画甚結構ナリ 哥チラシ書 御自詠鰍未詳」に該当する断簡である。


翰墨城
翰墨城 15 伝亀山天皇 歌集切
 金剛院切・歌集切と同様の和歌断簡である。金銀泥で流水・葦・蝶・鳥・霞を描いた美しい料紙に、和歌一首を三行に散らして書く。もとは巻子本で、この断簡には料紙の継ぎ目がみえている。筆者を亀山天皇と伝えるものだけでも、「翰墨城」の三葉に加えて、手鑑「藻塩草」に「金剛院切」、手鑑「見ぬ世の友」に「石野切」などが所収されている。亀山天皇の宸筆としては、「禅林禅寺超請文案」が現存するが、漢文で書かれているため、比較に困難で同筆と断定することができない。しかし、こういった一連の和歌巻は、その書風、料紙の装飾など鎌倉時代の姿をよく伝えている。




伝後宇多天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 14 伝後宇多天皇宸翰 桜井切 金銀泥秋草下絵打曇紙本墨書 26.2×35.0 鎌倉
 これは和歌五首をおさめる断簡で、もとは巻子本である。和歌の初めは大きく太く濃く書き出しているが、やがて小さくまとめていき、ことに終りの一句で三・四行目を形成している。この散らし書きの方法は、五首ともみな同じである。書風は温雅で流麗なものであるが、緊張した重量感に乏しい。
 筆者を後宇多天皇(1267−1324)と伝えているが、もう少し後のものであろう。

藻塩草
藻塩草 表17 松木切 〔歌集断簡〕 伝後宇多院(天皇)筆 楮紙墨書 32.1×12.1 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の後宇多院(1267−1324)の条に「松木切、奉書帋、御自詠哥一行書、カナニテ題アリ」とある。この歌は、御製集後宇多天皇の部には所収されていない。しかし亀山殿七百首に収められている後宇多天皇の御製に形式が近いので、御製集の断簡とみられる.、また書風は、後宇多院宸記文保3年(1319)具注暦御自筆本(教王護国寺蔵)などと、よく似た筆蹟特徴が認められる。


翰墨城
翰墨城 16 伝後宇多天皇 歌集切
 これもまた、金剛院切・歌集切・歌集切と同類の和歌巻の断簡である。料紙と字粒は、いくぶん大きめであるが、金銀の小切箔と野毛で雲文様を施した料紙に、和歌一首を三行に散らし書きにするスタイルは共通している。ほかにも筆者を後宇多天皇(1267−1324)とする同種の、より華麗な和歌の断簡が、手鑑「見ぬ世の友」に所収されており、「桜井切」と命名されている。後宇多天皇は亀山天皇の皇子、大覚寺統の二代目であり、徳治二年(1307)に出家、金剛性の法諱を受けた。天皇は、早くからことに真言宗の興隆に熱心であった。その筆跡をみても、「金剛性」の自署のある書状や書状案など、宸筆として紛れもないものが現存するが、空海(774−835)崇敬の影響か、大師流の書風がしのばれる。この断簡は、細めの線でいかにも穏やかに書かれ、料紙の装飾とともに、鎌倉時代の特徴をよく表わしている。歌も出典は未詳であるが、天皇自詠の歌とも考えられる。しかし、宸筆と比較してなお、同筆と断定することがむずかしい。


翰墨城
翰墨城 伝後宇多天皇 松木切
 『増補古筆名葉集』の後宇多院の条に、「松木切、奉書紙 御自詠哥一行書 カナニテ題アリ」とあるものに相当しよう。この歌は『御製集』後宇多天皇の部には収められていないが、亀山殿七百首に収められている後字多天皇の御製に形式が近いので、『御製集』の断簡と思われる。また、書風は『後宇多院展記』〔文保三年具注暦御自筆本〕によく似た筆跡特徴が認められる。もとは巻子本。料紙は楮紙で和歌一首二行書き。紙の天地は切断されて短くなっている。




伝伏見天皇



藻塩草
藻塩草 表18 篠村切 〔漢詩断簡〕 伝伏見院(天皇)筆 打曇斐紙墨書 31.5×11.3 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の伏見院(1265−1317)の条に「詩哥」とのみあり、『増補古筆名葉集』に「篠村切、雲帋巻物、往来物」とある。これは詩か駐文かどちらか明らかでない。何か往来物の一節かもしれない。この書と伏見天皇宸翰御願文(京都国立博物館蔵)などと比較すると、その筆蹟特徴は共通しており、伏見天皇衰翰との伝称通り宸筆と認めてよいものと考えられる。 もとは巻子本、その豊潤流麗な書風には見るべきものがある。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 15 伏見天皇宸翰 筑後切 打曇紙本墨書 27.7×20.0 鎌倉
 「拾遺和歌集」巻第一八・雑、賀の断簡で、もとは巻子本。この料紙は藍の雲紙で、和歌一首三行書きのかなり大きな書きぶりである。字形はあくまでも整斉で懐が広く、よく洗練された筆致を誇っている。天皇30歳頃の宸筆と思われる。
 伏見天皇(1265−1317)は、歌を能くし、書芸に長じ、ことに能書として著名であった。現存する作晶には法華経や書状があり、御製の和歌を書かれた20の広沢切もある。広沢切と筑後切とは書の趣が異なるが、広沢切は草稿の走り書き、筑後切はあらたまった場の書ということで、ともに真の宸翰と考えられている。

藻塩草 表19 筑後切 後撰和歌集巻第十六断簡 伝伏見院(天皇)筆 打曇斐紙墨書 27.0×16.1 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の伏見院(1265−1317)の条に「雲帋巻物切、後撰集」とあり、『増補古筆名葉集』には「筑後切、雲帋巻物、後撰拾遣ノ哥三行或ハチラシ、金銀砂子帋モアリ」とある。後撰和歌集巻第十六雑歌二の断簡である。もとは巻子本、文字の線条は流暢で美しい。伏見天皇宸翰の誉田八幡宮蔵後撰和歌集と比較し、その筆蹟特徴から全く同筆と認められる。

翰墨城 20 伏見天皇 筑後切
 紫の打曇紙に『後撰和歌集』巻第六・秋中を書写した巻子本の断簡。もとは、二十巻一セットとして存在したはず。ほかに、『古今和歌集』や『拾遺和歌集』があるので、もともと六十巻を完写したものではなかったか。この切には中央部分に折り目があるが、このことから、一時折本に改装されていたことが想像される。藤原行成を根幹にした端麗な仮名が、大振りに伸びやかに書かれている。変転自在な線は、非常に若々しい。「筑後切」は、大阪・譽田八幡宮に、『後撰和歌集巻第廿』の一巻を完存する。その巻末には「永仁二年(1294)十一月五日書詑」とあり、伏見天皇三十歳の筆と知る。


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 16 伝伏見天皇宸翰 堀川切 紙本墨書 27.1×12.5 平安〜鎌倉
 「古今和歌集」巻第一・春歌上の断簡。内容からして、清輔本古今集の写本と考えられる。白斐紙に一面五行に書かれ、もとは冊子本であったろう。書は整斉な字形で、運筆は軽快であるが、線質は細く弱く単調であり、変化に乏しい。
 伏見天皇の宸筆と伝えるが、現存する他の宸翰に比し、明らかに別筆である。

翰墨城 20 伝伏見天皇 堀川切
 これは『古今和歌集』巻第十二・恋歌二に収録される、紀友則の和歌・第五六一番の断簡である。手鑑「見ぬ世の友」などに類品があり、その内容からして、「清輔本古今和歌集」が、紀貫之自筆本を書写した藤原通宗の写本と考えられている。歌は一首二行書き。雁皮質の素紙に整然と書かれており、筆は軽快に走っているが、線質は細く、いささか弱々しいきらいがある。また、随所に、古様の草仮名を用いている。付箋に示されたように、古筆家は古来、この断簡の筆者を伏見天皇と鑑定しているが、現存する他の仮名作品と比べると、別筆であることは明らかである。十三、四世紀のころに書写されたものであろう。これは『古筆名葉集』伏見院の条の「巻物切、古今哥二行、佐理卿ウツシ」に該当するが、古様の草仮名を多く用いているのが眼をひき、佐理卿の写しといわれたゆえんであろう。「見ぬ世の友」の極札に従い、この種の断簡は今日、「堀川切」と呼ばれている。



見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 20 伏見天皇宸翰 広沢切 紙本墨書 31.1×7.6 鎌倉
 この広沢切は、古筆家の鑑定以来、後伏見天皇の宸筆として世に珍重されてきた。しかし、広沢切の歌が、「玉葉集」・「風雅集」などの勅撰集に伏見天皇の御製として載せてあり、今日では伏見天皇の御製御筆と考えられている。筑後切などの書風とは異なるが、それは忽卒の間に宸筆を走らせられたことによるものであろう。本来豊潤な趣をもつ書のように感ぜられ、遅渋のあとなく、やや側筆で軽快に書かれている。能書家伏見天皇の面目を十分に発揮したものといえよう。
 伏見天皇(1265−1317)は和歌を京極為兼に学ばれ、歴代天皇の中でも歌聖というべき独自の歌風を樹立した方で、「玉葉和歌集」を撰進せしめられた。

藻塩草 表20 広沢切 〔歌集断簡〕 伝後伏見院(天皇)筆 斐紙墨書 31.4×9.2 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集」の後伏見院(1288−1336)の条に「広沢切、杉原帋巻物、父王ノ御哥二行書」とある。この断簡の和歌は後伏見天皇の御製集には収められていない。「広沢切」は伏見天皇の筆として、国宝、重要文化財などの指定がおこなわれている。したがってこれもその指定に従うべきであろうが、なお検討の余地があるので、ここではしばらく伝後伏見天皇宸翰との伝称にとどめたい。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 17 伝伏見天皇宸翰 高倉切 金銀切箔砂子散紙本墨書 28.9×6.3 鎌倉
 「妙法蓮華経」巻第三授学無学人記品第九の断簡。謹んだ整斉の書ではあるが、点画は細く弱く、字形は扁平になりやすく、力感に乏しい。和様写経も鎌倉期になると、こうした調子になったのであろう。
 筆者を伏見天皇と伝えるが、宸翰とは認められない。

翰墨城
翰墨城 18 伏見天皇 篠村切
 『古筆名葉集』の伏見院(1265−1317)の条に「詩歌」とのみあり、『増補古筆名葉集』には「篠村切、雲番巻物往来物」とある。ところで、この断簡の文句からは、これが詩か文章の一部かなお明らかでなく、往来物の一部のようであり、調度手本として書かれたものらしい。この書と他の伏見天皇宸翰と比較するとその筆跡の特徴は酷似しており、伝称どおり、伏見天皇の宸筆として認めてよいものと思われる。もとは巻子本。雁皮質の打曇料紙は紫、一行六字程度の行書であるが、天地は手鑑の編集上、切断され短くなっているようである。みられるように豊潤流麗な書風は、わずかな字数ながらみるべきものがある。


翰墨城
翰墨城 19 伝伏見天皇 和漢朗詠集切
 藍色の雲形を天地に配した鳥の子紙に、七言の対句を大きく、四行に書いたもの。この二句は『和漢朗詠集』巻下・将軍に、唐の詩人羅虬の作として収録されており、もと巻子本であったものを、こうした色紙形に切断されたものと思われる。断簡ゆえに、むろん署名はない。伏見天皇は後深草天皇の第二皇子。和歌を京極為兼(1254−1332)に学び、歴代中でも歌聖と称されるほど独自の歌風を残した。が、また書画論に詳しく、能書として令名を謳われてもいる。その書風は伏見院流の名で後世に永く伝えられている。この書は文字がやや右に傾き、線に絞りが効かぬが、優麗な趣の深い点は伏見天皇の宸筆「置文」や「願文」の書風に相通うものがあるように見受けられる。


翰墨城
翰墨城 21 伏見天皇 書状断簡
 「五明」は、扇の異称。この手紙は、扇十本を贈ったことを告げるだけのきわめて短いものである。伏見天皇の花押は、伝小野道風筆、「秋萩帖」の紙背などに書かれているが、この手紙の花押はそれと同一で、天皇の宸筆に紛れもない。豊麗な筆致が、歴朝屈指の能書帝の面目を遺憾なく伝えている。



伝後伏見天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 18 伝後伏見天皇宸翰 桂切 紙本墨書 20.9×16.5 鎌倉
 白地の斐紙に、上下に空間を広くとり、和歌一首を二行書きにした古筆切。かなりの速書きで、忽卒の書らしく、字形ととのわず、線も軟弱である。歌集は詳かでないが、二首目の"わか葉さす…云々"の歌は、源氏物語・若菜上に所収のもの。「源氏物語」の抄本であるという説もある。
 書は後伏見天皇(1288−1336)の宸筆と伝えるが、そうではなかろう。

見ぬ世の友
見ぬ世の友 19 伝後伏見天皇宸翰 志賀切 金銀切箔砂子野毛散紙本墨書 21.6×10.3 鎌倉
 阿弥陀経(鳩摩羅什訳)の断簡で、「増補古筆名葉集」後伏見院の条に、"経切、白需墨字、金卦上下ニ金銀泥画砂子ノゲ切箔アリ"と記されるものに相当しよう。筆は行書的な運びが多く、文字の姿勢はゆらいでいるが、洗練された書きぶりを示している。
 筆者を後伏見天皇と伝えるが、何ら確証はない。鎌倉期における和様経の一つであろう。

藻塩草
藻塩草 表21 久米切 新古今和歌集巻第五断簡 伝後伏見院(天皇)筆 斐紙墨書 15.4×16.3 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』の後伏見天皇(1288−1336)の条に「久米切、六半、新古今、哥二行書」とある。新古今和歌集巻第五秋歌下の断簡である。後伏見天皇の衰翰である京都盧山寺蔵御願文などに比し、その筆蹟特徴はよく似ているが、なお断定はさけたい。「久米切」の呼称の由来は明らかでない。


翰墨城
翰墨城 23 伝後伏見天皇 竹屋切
『源氏物語』夕霧の断簡。天に藍、地に紫の雲形を漉きこんだ雲紙に、金の大切箔と銀の砂子を撒き、さらに銀泥の波の描き文様に、群れ飛ぶ千鳥を金銀泥で描き添えている。まことに華麗な料紙である。『新撰古筆名葉集』の後伏見院(1288−1336)の項には、これに該当する記載はみられないが、後円融院(1358−1393)の項によると、「竹屋切 巻物雲帋金銀下画結構ナリ哥詞共チラシ書」とある。手鑑「藻塩草」の手鑑目録には、「後円融院 竹屋切」と認めており、同手鑑の一葉と、料紙・書風が合致する。また、内容も日本古典文学大系本『源氏物語』によれば、「藻塩草」本のあと十六字分の脱落があって、すぐこの一葉に続く。もと、一連の巻物であったことが想像されるが、その料紙や散らし書きの書式などから、『源氏物語』全五十四帖を書写したものではなく、「夕霧」の巻の抄写本と思われる。
 なお、筆者は詳らかではないが、少なくとも後伏見院よりのちの筆と思われるが、後円融院の宸筆の確証は
ない。雲紙の文様などから、十四世紀末から十五世紀初めころの筆と推定される。


翰墨城
翰墨城 24 伝後伏見天皇 風葉集切
 『増補新撰古筆名葉集』の後伏見院の項に、「中四半 風葉集寄二行書」と記載するものに相当するらしい。この一葉は『風葉和歌集』巻第十五・恋歌の部分で、もとは冊子本であるが、寸法は奉書を六つに折った大きさであるため、「中四半」とする記載についてのみ疑点を残す。同集は、歌数千四百八首を数えるが、これは当時存在した物語の中から選んだ和歌に、作者名と詞書を付したもの。ただし、同集に見える物語は大半が現在散侠しており、散侠物語の内容を想定する上で、同集の伝存意義は大きい。
 序文によって、亀山天皇の文永八年(1271)に、皇太后藤原姞子の下命によって奏上したことが知られる。なお、すべて二十巻のうち、伝存本は末尾二巻を欠いている。歯切れがよく、筆力の充実した筆致は、鎌倉時代の特色をよく示している。筆者を後伏見天皇と伝えるが、確証はない。しかし、書写年代は後伏見天皇とほぼ同時期と考えられる。




伝後二条天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 21 伝後二条天皇宸翰 坂本切 紙本墨書 25.0×15.6 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第一六・雑歌上の断簡。もとは冊子本。字粒が小さく、筆は速く軽快に走っているが、上手の書というべきものであって、線質は弱く、高い格調に乏しい。
 後二条天皇(1285−1308)の宸筆と伝えているが、何ら確証はない。鎌倉期における、写本の一典型を示すものであろう。

藻塩草
藻塩草 表22 藤波切 八雲御抄巻第五「橋」断簡 伝後二条院(天皇)筆 金銀泥下絵斐紙墨書 17.1×15.6 鎌倉時代
 『古筆名葉集」の後二条院(1285−1308)の条に「六半切、八雲御抄」とあり、『増補古筆名葉集』には、「藤波切、六半、八雲御鈔、金銀下画アリ」とある。『藻塩草』付属の目録によれば、またの名を「御文庫切」とも記している。『八雲御抄』巻第五「橋」の断簡である。順徳院著作『八雲御抄』の伝本としては、室町時代以降の写本が多く残っているが、この『八雲御抄」断簡は、それ以前の抄本断簡として注目される。
 もとは升形の六半の冊子本、雁皮質の料紙には金銀泥で、雁、蝶などが下絵されていて、文句の首に朱の乙点がある。この装飾料紙や文字の書風より、鎌倉時代のものと認められる。


翰墨城
翰墨城 25 伝後二条天皇 歌集切
 『増補新撰古筆名葉集』によると、後二条天皇(1285−1308)には、「藤波切」以下、四半・六半切と巻物切など数多くの古筆があげられている。しかし、この断簡に相当すると思われる記載は、その中に見あたらない。この断簡は、もと冊子本と思われるもので一首二行書き。詞書にある貞応元年(1222)は、後堀河天皇の時代である。なんという歌集の断簡かは不明ながら、成立年代は後二条天皇の治世と知れる。書風は、伏見天皇か尊円親王の流れをくんだものである。後二条天皇は伏見天皇の書を学んだといわれているため、この断簡の伝称筆者となったものであろう。天皇は、若くして崩御。今日、真跡としては、わずかに書状が一通伝存しているにすぎない。




伝花園天皇


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 22 伝花園天皇宸翰 萩原切 紙本墨書 31.8×22.9 鎌倉
 漢字仮名交りで、散らし書きにした書状の断簡である。料紙は杉原楮紙。内容や宛先は不明である。書風は豊潤で筆力にすぐれ、鎌倉時代の宸翰様の特徴がよくにじみでている。筆者は、花園天皇(1297-1348)と伝えている。書状・詠草などの宸翰は、おだやかで筆力が充実しており、この断簡は前田育徳会所蔵の国宝『三朝宸翰』中の花園天皇の書風と類似しているが、なお後考を要する。

藻塩草 表23 萩原切 書状断簡 伝花園院(天皇)筆 杉原楮紙墨書 31.7×11.0 鎌倉時代
 『古筆名葉集』の花園院(1275−1348)の条に「文、真名、仮名」とあり、『増補古筆名葉集』には「萩原切、真名、カナ、杉原帋、消息、経ウラモアリ」とある。仮名文の消息断簡であるが、その内容や宛先は明らかにし難い。書風は豊潤で筆力にすぐれ、鎌倉時代における衰翰様の特徴がよくでている。花園天皇宸翰と伝える切は、この「萩原切」のみである。

翰墨城 26 伝花園天皇 萩原切
 『古筆名葉集』の花園院(1275−1348)の項に、「文 真名・仮名」とみえる。また、『増補古筆名葉集』には、さらに詳しく「萩原切 真名カナ杉原帋消息経ウラモァリ」と記されている。この一葉は、仮名を散らし書きにした消息で、その「萩原切」に該当するものと思われる。手鑑「藻塩草」・「見ぬ世の友」・「豪戦筆陣」の花園天皇の消息断簡と同一筆跡といえるものである。京都・曼殊院に伝わる「御宸翰消息集」などと比べ、似通った筆跡ではある。淡墨を巧みにあやつりながらも、まず、はじめを大きく書き出し、のびのびとした、いかにも筆力の富んだ書きぶりである。鎌倉時代の宸翰様の典型の一つであろう。
 「萩原切」の名は、天皇の御所が京都の妙心寺境内の萩原殿であったことに由来するものと思われる。花園天皇は、禅学に明るく、父伏見天皇の書風を受け継ぎながら、さらに、みずからは中国書法の影響をも受けている。



後醍醐天皇


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 23 後醍醐天皇宸翰吉野切 紙本墨書 23.9×15.2 南北朝
 「増補古筆名葉集」後醍醐天皇の条に"吉野切、中四半形、哥恋、述懐、御自詠、古哥交り、一首チラシ書"と記載される断簡である。もとは胡蝶装の冊子本。雁皮質の楮紙一面に和歌一首を、上下二段に散らし書きしている。書はおちついた流麗な書きぶりで、字形はやや前のめりに傾いている。
 この切は、後醍醐天皇(1288−1339)の宸筆と伝えられる。天皇の宸翰とよく似たものがあり、おそらく自詠自筆の御歌集断簡であろう。"吉野切"の名は、後醍醐天皇が晩年吉野山に遷幸されたことにより、謳われたものであろう。

藻塩草 表24 吉野切 〔歌集断簡〕 伝後醍醐天皇筆 斐紙墨書 22.6×15.3 鎌倉時代
 『古筆名葉集」の後醍醐天皇(1288−1339)の条に「吉野切、四半、皆恋哥也、一首チラシ書」とあり、また『増補古筆名葉集』には「吉野切、中四半形、哥恋述懐御自詠古哥交リ、一首チラシ書」と詳しくなる。この切の歌は、後醍醐天皇御製集中に収載されていないので、確かなことはいえないが、歌題ある断簡が、かつて存在したことが推察される。書は雄渾、流麗で、おそらく自筆自詠の御製集の断簡ではないかと考えられる。

翰墨城 27 伝後醍醐天皇 吉野切
 もと、大和綴の冊子本の断簡。料紙は素紙。一紙に和歌一首を散らし書きする。が、どの断簡も書式はほぼ同じで、散らし方に変化が少ない。『新撰古筆名葉集』の後醍醐天皇(1288−1339)の項には、「吉野切 中四半形哥恋述懐御自詠古哥交リ一首チラシ書」とかなり詳しく説明する。しかし、この一首は、現存する後醍醐天皇の御製、その他歌集中にはみえない。後醍醐天皇の書は、天皇の波瀾に富んだ生涯を裏づけるように、バイタリティーにあふれ、じつに堂々たるものがある。現存する真跡として、「天長印信」・「御置文」・書状などがあげられるが、これらはいずれも、漢字で書かれたもの。わずかに、「三朝宸翰」中に、仮名で書いた和歌を插入した書状一通があり、それと、この「吉野切」の書風を比較すると、非常に似通った筆法が認められる。忽卒の間に書かれた書状中の和歌と、改まって揮毫された「吉野切」を同次元で比較することに多少の無理があるが、この伝称には、かなり信愚性があると思われる。「吉野切」の名称は、天皇が吉野に南朝を樹立したことにちなむのであろう。十四世紀の遺品。


翰墨城
翰墨城 28 伝後醍醐天皇 巻物切
 巻子本の断簡。薄荼に染めた紙に、金銀の小切箔・砂子と銀の野毛で霞引きを施している。が、この断簡では、さらに、下部を斜めにくぎって、砂子を撒く。この一首は『国歌大観』『国歌大系』『桂宮本叢書』などに所収する歌集の中にはみえない。未詳の私家集であろうか。「五七五七七」の和歌一首を、「五七・五七・七」の三グループにまとめた散らし書きは、手鑑「見ぬ世の友」の、伝後宇多天皇筆「桜井切」と同形式。当時流行した散らし書きの一パターンなのであろう。書風が前図「吉野切」に似るため、筆者を後醍醐天皇に当てたのであろうが、これとは異筆。もとより根拠はない。料紙の装飾、散らし書きの形式などから、鎌倉時代末期の作品と思われる。


翰墨城
翰墨城 29 伝後醍醐天皇 歌集切
 この歌は、何集に収められるものか不明。はじめの行にみえる作者名の「弾正タ師賢」は、花山院師賢(1296−1332)のことで、弾正台長官の職にあった。師賢は、後醍醐天皇の寵臣で、元弘元年(1331)における討幕計画の露見に際しても、常にその側近にあって天皇を守った。この逸話を描いた、「尹大納言絵詞」という白描の絵巻が残っている。『増補古筆名葉集』の後醍醐天皇と伝称する古筆には、該当のものはない。書風は、天皇の筆跡とされる「吉野切」などとよく似るが、「吉野切」同様、これも天皇の宸筆とは認められない。




伝光厳天皇


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 24 伝光厳天皇宸翰六条切 打曇紙本墨書 24.6×15.9 南北朝
 この歌切は、何集の断簡か不明である。もとは冊子本で、一面八行書き、和歌一首を二行に書いている。書は、線が太く多肉であって、流麗さに欠けるが、素朴な美しさを見せている。
 光厳天皇(1313−1364)の宸筆と伝えるが、何ら確証はない。宸翰と比べると、共通した筆致も認められるが、なお後考を要する。

藻塩草 表25 六条切 〔歌集断簡〕 伝光厳院(天皇)筆 打曇斐紙墨書 25.3×16.0 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の光厳院(1313−1364)の条には「六条切、四半、雲帋、続古今ノ異本歟未詳」とある。何集の断簡か不明。この断簡の二首ある歌のうち、前の「見わたせは」のほうは続拾遺和歌集巻第三夏歌に所収されているが、後の歌のほうはなおよくわからない。

翰墨城 30 伝光厳天皇 六条切
 光厳天皇(1313−1364)は、後伏見天皇の第一皇子で、南北朝における北朝第一代、鎌倉幕府最後の天皇である。その後、足利尊氏の奏請で弟の光明天皇が即位すると、みずからは院政を開いた。天皇は学問を好み、東坊城長綱に『史記』『後漢書』『貞観政要』などを学び、和歌の道もよくし、『勅撰集』には四十五首もの歌が収められており、和漢の学問に精通した英明の君主であった。また、書にも秀でており、尊円法親王から、かの有名な『籍書を献上されており・当代の能書の天であった。天皇の日記に『光厳院宸記』があり、鎌倉末期の宮廷行事の様子を知ることができる。この断簡は、中の藤原家隆の歌のみが、家隆の家集『壬二集』巻中の守覚法親王会五十首和歌の秋十二首に収められるものと知れるが、前後二首の出典はわからない。『増補古筆名葉集』には七種の古筆が載せられているが、そのうち「六条切 四半雲帋続古今ノ異本歟未詳」あるいは、「四半 撰集ノ哥ヌキ書二行カキ」とあるのが、この断簡に相当するもの。だが、集の名は、いまにわかには明らかにできない。



伝光明天皇


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 25 伝光明天皇宸翰天龍寺切 紙本墨書 24.9×11.7 南北朝
 この歌切は、何の歌集であるか判らない。もとは四半の冊子本で、料紙は雁皮質のうすい紙。和歌一首を二行に書いたものである。書風は、コロコロと円く整斉な字形で統一され、柔らかな筆致が続いている。一種格調高い書で、筆者を光明天皇(1321−1380)と伝えているが、断定はできない。
 京都嵯峨の天龍寺は、北朝の貞和元年(1345)足利尊氏が光明院の勅許を得て建立した寺である。筆者を光明院になぞらえ、と同時にこの間の事情をかんがみ、寺名をとり古筆切の名称にあてたものであろう。

藻塩草 表26 天龍寺切 〔歌集断簡〕 伝光明院(天皇)筆 打曇斐紙墨書 24.2×15.1 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の光明院(1321−1380)の条に「天龍寺切、四半、雲帋、集不詳、哥二行書」とある。何の歌集の断簡かよくわからない。断簡の前の歌「わかやとは」は、『拾遺愚草」、後の歌「冬きても」は、『壬生集』上に収録されている。
 この切の呼称の由来は、光厳天皇をはじめ北朝歴代と京都嵯峨天龍寺との関係よりみて、同寺より出たためであろう。光明院の宸翰と伝えられる通り、その書の格調は高くすぐれた書風を示すが、その宸翰消息などと比し、なお断定はさけたい。



伝崇光天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 26 伝崇光天皇宸翰歌切 紙本墨書 29.7×10.0 南北朝
 「千載和歌集」巻第一三(恋歌三)に収められる歌二首の断簡で、注釈を加筆したものである。白地の楮紙に、淡墨で和歌一首を一行に細字で書き、その前後に、ことばの説明を片仮名を主として書き添えている。細字ではあるが、筆は暢達し、ねばり強い力のこもった線質である。
 この手鑑では崇光院(1334−1398)の宸筆と伝えているが、「増補古筆名葉集」崇光院の条に、この歌切の記載はない。書写年代は、もう少しさかのぼるように思われる。

藻塩草
藻塩草 表27 豊後切 古今和歌集巻第十七断簡 伝崇光院(天皇)筆 斐紙墨書 23.9×9.2 南北朝時代
 『増補古筆名葉集」の崇光院(1334−1398)の条に「豊後切、四半、古今、哥二行書」とある。古今和歌集巻第十七雑歌上の断簡である崇光天皇筆と伝えられる通り、その書はみごとでこの時代における宸翰様の格調をよく示しているが、宸翰消息などと比し、なお断定はさけたい。



伝後光厳天皇


見ぬ世の友
見ぬ世の友 27 伝後光厳天皇宸翰兵庫切 打曇紙本墨書 24.7×15.6 南北朝
 紫の雲紙を横に用い、和歌一首二行書きにした歌切である。もとは冊子本。この断簡は何の歌集であるか判らない。書は、忽卒に書いたのであろうが、字形は整斉で、あたたかく落ちついた趣をもっている。かなり練達した人の書であろう。
 筆者を後光厳天皇(1338−1374)と伝えている。天皇は尊円親王に入木道を学び、能書のきこえ高いが、断定はできまい。

藻塩草
藻塩草 表28 葉室切 新古今和歌集巻第十七断簡 伝後光厳院(天皇)筆 斐紙墨書 23.2×13.2 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の後光厳院(1338−1374)の条には「葉室切、四半、新古今、哥二行書」とある。新古今和歌集巻第十七雑歌の断簡である。後光厳天皇の宸翰と伝えるが、闊達でのびやかではあるが同筆とは認め難い。しかし南北朝時代の書風の特徴はよくでている。
 なお、伝後光厳院筆「尾張切古今集」とは同筆と認められる。

翰墨城 31 伝後光厳天皇 源氏物語切
 後光厳天皇(1338−1374)の筆跡と伝えるものは、『新撰古筆名葉集』によると、「葉室切」や「尾張切」をはじめとして十六種の古筆が掲げられているが、この断簡はその中の「六半 物語モノ」とあるものに該当する。もとは冊子本。その物語とは『源氏物語』。この一ページ分は、全五十四帖のうちの巻三十四の「若菜上」である。『源氏物語』の原本はもちろん存在しないが、『河海抄』などによるとすでに平安末期には幾種かの異本が存在していた。その本文の異同を専門的に実行したのが、鎌倉時代に入ってからの源親行(河内本)、藤原定家(青表紙本)である。その後も幾多の転写がくり返され、書陵部本、青蓮院門跡本、穂久遍文庫本、蓬左文庫本などは由緒ある伝本として知られている。この断簡と伝称筆者たる後光厳天皇との関わりであるが、残念ながらこの両者をすぐに結びつける手がかりは見いだせない。宸筆として残るのは、わずかに書状が確認されるばかりで、はたしてこの断簡をすぐにその筆跡と認めるには早計すぎる。が、書風からも書写年代は天皇のころと考えてもなんら不都合もなく、また、好学の天皇が『源氏物語』を写す機会があったとしても、いささかも不思議ではない。現在、この断簡の連れは確認されていないが、『源氏物語』の伝本研究の一助となる貴重な断簡である。


翰墨城 32 伝後光厳天皇 尾張切
 三首の和歌のうち、初めの二首は『後撰和歌集』巻第八・冬歌に、三首めは『古今和歌集』巻第六・冬歌に所収されるもの。もとは四半の冊子本で、断簡は「尾張切」と命名されている。その呼称は、同名の伝二条為氏筆と伝える『源氏物語』の断簡と同じく、これが尾張国の徳川家に伝来したらしいことにちなむ。公卿様式を踏まえるこの書風は、鎌倉時代末期における書写体の特徴をよく表わしており、いかにも手慣れた書きぶりで線が美しい。また、手鑑「藻塩草」に所収される、伝後光厳天皇筆「葉室切」と同筆である。天皇の宸翰としては何通かの書状が現存している。しかし、いずれも率意に書かれ、しかも漢字の作品であり、この断簡のように調度本として清書された歌集とでは比較ができない。したがって、これを後光厳天皇の自筆と断定する確証はなく、伝称としてとどめておくほかはない。




伝後円融天皇


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 28 伝後円融天皇宸翰巻物切金銀泥墨下絵紙本墨書 30.9×37.8 南北朝
 「新古今和歌集」巻第一二(恋歌二)に藤原雅経の歌として収められているが、ここでは家隆の歌となっている。もとは巻子本で、金銀泥や墨で雲・草花・家を大きく描いた料紙に、漢字・仮名交りの大字で散らし書きしている。
 これを後円融天皇(1358−1393)の宸筆と伝えるが、確証を得ることができない。しかし、その書表現は南北朝ごろのものと思われ、豪華美麗な料紙を用いているところから考えても、高貴な方の筆になることは間違いなかろう。後円融天皇は、勅筆流と称されるほど書芸に通じていた。手鑑「藻塩草」・「翰墨城」には、後円融院宸翰と伝える"竹屋切"が所収されるが、竹屋切とこの切の書風はよく類似している。いずれにせよ、南北朝ころの装飾文様を考える絵画資料としても貴重なものである。

翰墨城 33 伝後円融天皇 巻物切
 『増補古筆名葉集』には「巻物切 竹屋切ニ似テ別種ノ類切多シ」とある。この三行の文字の内容は和歌であるが、なお何集を書いた巻物の断簡か明らかでない。料紙には金銀泥で細緻に、千鳥・すすき・波などが描かれており、じつに美しい情趣をかもしている。文字の筆致は伸びやかで絡調高く、後円融院(1358−1393)の「竹屋切」に近い。その書風より推して南北朝を下らないものと推定される。もとは相当に長い巻物であったと思われる。


藻塩草
藻塩草 表29 竹屋切 源氏物語「夕霧」巻断簡 伝後円融院(天皇)筆 金銀箔散下絵打曇楮紙墨書 27.1×12.0 南北朝時代
 『増補古筆名葉集』の後円融院(1358−1393)の条に「竹屋切、巻物、雲帋、金銀下画結構ナリ、哥詞共チラシ書」とある。『源氏物語」のうち「夕霧」の巻の断簡である。楮質の藍の打曇の料紙に、金泥で紅葉、岩、千鳥が、銀泥で青海波風の下絵文様が華麗に描かれており、南北朝時代における装飾文様を考える上に貴重である。
 後円融天皇の筆と伝えるが、比較資料が乏しくなお後考を要する。しかし、その書は、格調高くかつ料紙も豪華で、宸筆の可能性が強い。書風よりみても南北朝時代は下らない。


翰墨城
翰墨城 34 伝後円融天皇 新古今集切
 『新古今和歌集』巻第十六・雑歌上の断簡である。藍・赤などの美しい色紙を斜めに切り継いだ料紙には、金銀砂子を雲や霞形に撒いてある。現状からみるともとは冊子本であったように思われる。『増補古筆名葉集』には「四半 新古金卦哥二行書」「四半 同哥二行書」「六半 同雲帋哥二行書」などあげられているが、そのいずれにも該当しない。書風は後円融院の「竹屋切」や、「巻物切」に類似の筆致で格調高く、料紙もきわめて豪華で、宸筆の可能性が強い。