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   の比較-2

伝宗尊親王筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 29 伝宗尊親王筆 日向切 紙本(染紙)墨書 27.2×9.6 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一(春歌上)の断簡。胡粉をひき、藍に染めた厚手の料紙に、詞書・作者名・和歌二行の計四行が書かれている。書風は、伝紀貫之筆高野切本第一種によく似ている。しかし、字体は古様であるが、筆に渋滞の感があり、線が弱い。おそらく、高野切第一種の臨書本・模写本ではなかろうか。
 この断簡は、筆者を宗尊親王(1242−1274)といわれている。同親王は後嵯峨天皇の皇子で、歌人として名を謳われた。有栖川切・催馬楽切・神楽歌切などのように、藤原〜鎌倉初期の優秀な古筆が数多く宗尊親王の筆跡とされているが、これもそうした中の一つと思われる。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 30 伝宗尊親王筆 熊野切 紙本墨書 27.4×11.6 鎌倉
 「白氏文集」巻第六・遊悟真寺詩の断簡。もとは巻子本で、淡墨で細く界をひき、細く整斉な和様体で書かれている。また文中には、朱の訓点・送りがな・注の加筆がある。
 熊野切という名は、この手鑑の付箋や「藻塩草」の目録によって知られるぐらいである。その由来は判らない。筆者を宗尊親王と伝えるが、親王の真筆と確認できるものがなく、比較検討する手がかりはない。あるいは、さかのぼって藤原期のものででもあろうか。
 手鑑「藻塩草」・「翰墨城」にも「白氏文集」巻第六の断簡が収録されており、また世に散在する熊野切も、ほとんどこの類切のようである。

藻塩草 表31 白氏文集巻第六断簡(熊野切) 伝宗尊親王筆 飛雲斐紙墨書 26.5×16.0 鎌倉時代
 『白氏文集』巻第六詠懐(拙)の初めの部分の断簡である。宗尊親王の真筆が現在確認されておらず、この「熊野切」についても、比較検討し難い。
 手鑑『見ぬ世の友』も巻第六遊悟真寺の断簡、また手鑑『翰墨城』にも巻第六「朝廻遊城南」の断簡と、三手鑑いずれも巻六の部分の断簡が所収されていて、巻六の接続関係がわかる。

翰墨城 37伝宗尊親王 熊野切
 『白氏文集』巻第六「朝回遊城南」の断簡。もとは巻子本。この切が記録に登揚するのは、明治18年(1885)6月、古筆了仲(1820−1891)の編になる『新撰古筆名葉集』が最初で、それによれば、宗尊親王の項に「巻物切 仙花需詩墨卦片カナ朱墨アリ」とある。天地と行間に墨界を引いた楮紙に墨書し、さらに、淡墨の片仮名訓・朱点を施している。筆管をやや右に傾斜させた側筆書きで、筆力は非常に強く、歯切れのよい明快な書風は、伝紀貫之筆「高野切第二種」に近似する。
 筆者を宗尊親王と伝える。宗尊親王は、「寛平御時后宮歌合」(東京国立博物館蔵)・「深窓秘抄」(藤田美術館蔵)・「催馬楽抄」(鍋島家蔵)など、いずれも平安後期の名筆の筆者に伝称されるが、時代的に齟齬し、誤伝は明白。この「熊野切」も、書風、仮名字訓の字体・種類などからみて、平安末期の遺品と考えられる。「熊野切」の呼称は、手鑑「藻塩草」所収の一葉に貼られた極札に「熊野切」と注記されているのに出発するが、何に由来するのかは不明。あるいは、もと紀州・熊野三山に伝来を記念するのにちなむのか。「見ぬ世の友」「藻塩草」にも同じ巻六の断簡が収められていて、その接続関係がわかる。


藻塩草
藻塩草 表30 催馬楽譜断簡(四辻切) 伝宗尊親王筆 飛雲斐紙墨書 26.5×16.0 平安時代後期
 「催馬楽譜」の「呂歌」の「この殿の西」を書写した大和綴冊子の断簡である。東京の鍋島直要氏に蔵されている国宝の催馬楽譜一冊の目録には、「此殿者」と「此殿乃」があるが本文はなくなっているので、この一葉は、古くにその鍋島本催馬楽譜より流出したものと思われ、国宝鍋島本の欠を補う貴重な資料である。
 「四辻切」の呼称の由来は、四辻大納言家より出たためである。なお、宗尊親王筆と伝える数多くの古筆で、その真筆と確認できるものは一つもない。


翰墨城
翰墨城 37伝宗尊親王 熊野切
 『白氏文集』巻第六「朝回遊城南」の断簡。もとは巻子本。この切が記録に登揚するのは、明治18年(1885)6月、古筆了仲(1820−1891)の編になる『新撰古筆名葉集』が最初で、それによれば、宗尊親王の項に「巻物切 仙花需詩墨卦片カナ朱墨アリ」とある。天地と行間に墨界を引いた楮紙に墨書し、さらに、淡墨の片仮名訓・朱点を施している。筆管をやや右に傾斜させた側筆書きで、筆力は非常に強く、歯切れのよい明快な書風は、伝紀貫之筆「高野切第二種」に近似する。
 筆者を宗尊親王と伝える。宗尊親王は、「寛平御時后宮歌合」(東京国立博物館蔵)・「深窓秘抄」(藤田美術館蔵)・「催馬楽抄」(鍋島家蔵)など、いずれも平安後期の名筆の筆者に伝称されるが、時代的に齟齬し、誤伝は明白。この「熊野切」も、書風、仮名字訓の字体・種類などからみて、平安末期の遺品と考えられる。「熊野切」の呼称は、手鑑「藻塩草」所収の一葉に貼られた極札に「熊野切」と注記されているのに出発するが、何に由来するのかは不明。あるいは、もと紀州・熊野三山に伝来を記念するのにちなむのか。「見ぬ世の友」「藻塩草」にも同じ巻六の断簡が収められていて、その接続関係がわかる。


翰墨城
翰墨城 38伝宗尊親王 拾遺集切
 『拾遺和歌集』巻第九・雑下の断簡。もとは冊子本。料紙は素紙。『新撰古筆名葉集』は「巻物 切拾遺哥二行書貫之二似タリ」というが、たしかに、筆力が充実し文字が一様に傾斜している点は、伝紀貫之筆「高野切第二種」にふんい気が類似する。しかし、同筆ではない。筆者を宗尊親王と伝える。宗尊親王は古筆の中でも特に平安中期の優品の筆者にしばしば伝称されてきたが、時代が合わない。この切は「如意宝集切」と同筆で、11世紀半ばの書写。


伝恒明親王筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 31 伝恒明親王筆 伏見切 紙本黒垂日 16.5×16.2 鎌倉
 「源氏物語」賢木の巻の断簡。料紙は雁皮質の斐紙で、漢字、仮名交りで、和歌の部分は一段さげて二行に書いている。伏見切という名の由来は、不明である。この切は背丈の低いいわゆる桝形本ゆえ、おそらくもとは六半の冊子本であったろう。
 書は、筆が軽快に走っており、円く豊かな線で、よく整った字形である。筆者を亀山天皇の皇子・恒明親王(1303−1351)というが、親王の確証ある筆跡が遣っておらず、断定することはできない。ただ、その書風からして、鎌倉時代の写本であることは認められる。

藻塩草 表32 源氏物語「賢木」巻断簡(伏見切) 伝恒明親王筆 斐紙墨書 16.7×16.3 鎌倉時代
 『源氏物語』の「賢木」の巻の断簡である。亀山天白舌王子常盤井宮恒明親王(1311−1337)筆と伝えるが、その自筆がまだ管見に入らず比較し難い。しかしその書風より鎌倉時代のものと認められる。
 もとは巻子本、欄外には、反切の書き入れ、文中にはカナの朱の訓点の書き入れがある。


翰墨城
翰墨城 39 伝恒明親王 源氏物語切
『増補新撰古筆名葉集』の恒明親王(1303−1351)の項には、四半と六半の「源氏」を掲げる。この一葉は『源氏物語』若菜上の断簡で、前掲の「六半」のそれに該当するもの。「藻塩草」では、同じく伝恒明親王筆で「賢木」の断簡が所収され、「伏見切」の名に呼ぶ。しかし、この一葉は、「伏見切」よりもさらに筆力が強く、直線的な筆線が目だち、明らかに筆を異にする。これら両方の筆跡を、いわゆる寄合書きによる別の書風とみるか、あるいは、まったくの別本とみるか断定しがたいが、書写時期の上では、この一葉が「伏見切」よりも先行する筆と察せられる。本文の内容から、青表紙本の系統と判明する。


伝尊良親王筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 32 伝尊良親王筆 丹後切 紙本墨書 31.6×16.8 鎌倉
 「和漢朗詠集」巻下の断簡で、これは、眺望の後半のところである。もとは巻子本。白地の斐紙に淡墨で界をひき、詩は楷書で、歌は界一行に流麗な筆致で、やや小ぶりに二行に書きこんでいる。漢字・仮名とも文字は整斉で、筆の運び方は素直であるが、いささか変化に乏しい。なにゆえ丹後切というのか、その由を知らない。
 手鑑「藻塩草」・「翰墨城」にも同類切があるが、みな「和漢朗詠集」巻下の断簡である。筆者を後醍醐天皇の皇子・尊良親王と伝えるが、これも何ら確証のないことである。

藻塩草 表33 丹後切 和漢朗詠集巻下断簡 伝尊良親王筆 斐紙墨書 31.9×13.5 鎌倉時代
 和漢朗詠集巻下雑部「閑居」の断簡である。書風等より、鎌倉時代の作品と考えられる。なお、手鑑『見ぬ世の友』、手鑑『翰墨城』に所収の「丹後切」は、同号のもので、いずれも和漢朗詠集巻下の断簡である。


翰墨城 40伝尊良親王 丹後切
 素紙に薄墨の界を引き、漢詩の部分は枠内に一行、和歌は一首を二行書きにし、さらに朱のヲコト点を加筆する。『新撰古筆名葉集』の尊良親王(1311−1337)の項に、「土佐切 巻物朗詠真字墨卦アリ」と記載されるものに相当するらしいが、「藻塩草」では、これを「丹後切」と呼ぶ。いまは、それに従う。この一葉は、『和漢朗詠集』巻下.雲の断簡。もとは、上・下二巻の巻子本であったと思われる。その書は、穏和な楷書体と繊細な仮名書きから成るが、書風から推して、南北朝時代を下らない筆と考えられる。



翰墨城
翰墨城 41伝尊良親王 新古今集切
 尊良親王の御筆といわれるものは、『増補古筆名葉集』によると、「土佐切 巻物朗詠真字墨卦アリ」「四半新古今哥二行書」はじめ、全部で六種がある。書写内容は、『和漢朗詠集』『古今和歌集』『新古今和歌集』『後拾遺和歌集』などである。この断簡は『新古今和歌集』巻第十九・神祇歌の一部であり、『増補古筆名葉集』の「四半新古今哥二行書」に相当するものであろう。丹後切とはよく似た書風であるが、別筆である。また、この断簡も尊良親王の筆跡という確証はない。14世紀後半ころの書写。



伝邦省(看)親王筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 33 伝邦省(看)親王筆 松梅院切 紙本墨書 27.2×27.0 南北朝
 雁皮質の楮紙に、柔らかで整斉な書風が展開している。この筆者を、後二条院の皇子・邦省親王(1302−
1375)と伝えている。親王は出家をされ、入道弾正親王といわれる。
 手鑑「藻塩草」には、巻末部の類切が収められている。そこには入道弾正親王の歌が三行に書かれ、少し間をおいて"元徳二年庚午正月六日於北野宝前詠之畢、竹薗隠侶禅恵(花押)"の奥書がある。禅恵とは、忠房親王の子・彦仁王のことである。したがって、これは「北野社法楽和歌巻」の断簡と判明。巻首と巻末のところに入道弾正親王の歌があるため、筆者を邦省親王になぞらえたものであろう。北野天満宮で詠まれ、松梅院に伝来したので"松梅院切"といわれるが、別に"桂切"とも呼ばれた。

藻塩草 表34 松梅院切 聖廟法楽和歌巻断簡 伝邦省親王(禅恵)筆 斐紙墨書 26.0×29.7 南北朝時代
 奥書によって元徳2年(1330)正月6日、「北野社法楽和歌巻」の断簡とわかる。筆者が竹薗隠侶禅恵とあるのは、邦省親王(後二条天白舌王子)の法誰で花町宮をさす。したがってこの奥書より、伝称通り邦省親王自筆の和歌巻と認められる。
 なお、手鑑『見ぬ世の友』に所収の「松梅院切」には、その切の首題に、夏五十首とあり、これによって季歌、五十首ずつ書かれた巻物であったこと、また、それらの歌はそれぞれ四字句の歌題を有する歌であることなどがわかる。


翰墨城 42伝邦看親王 松梅院切
 『増補古筆名葉集』によると、後二条天皇の皇子邦看(省)親王(1302−1375)には、「桂切巻物哥二行書弾正親王ト名入ノ処御自詠ナリ」とあって、自詠の歌を含めた歌集を書写していることがわかる。「藻塩草」には、この断簡とまったく同一筆跡の奥書のある巻末が「松梅院切」として所収されていて、その奥書から、元徳2年(1330)正月6日の「北野社法楽和歌巻」の断簡であることがわかる。さらに筆者は、「竹薗隠侶禅恵」が、邦看親王の法諱の花町宮を指すことから親王の自筆と考えられる。また、「見ぬ世の友」にある同一断簡から、四季の歌それぞれ五十首ずつを書いた巻物であったこともわかる。この断簡は、歌題からして秋の部に入るもの。切の名は、もと北野の松梅院に伝来したことによるものであろう。



伝護良親王筆


見ぬ世の友

藻塩草

見ぬ世の友 34 伝護良親王筆 播磨切 紙本墨書 31.2×11.0 南北朝
 大きく行草で書かれた三行分の書状断簡で、「増補古筆名葉集」護良親王の条には、わずかに"消息切、杉原帋"とだけ記されている。淡墨を用い、ザラッとした杉原紙にかなり筆を速く走らせているが、点画は豊潤で、筆路は暢達し、堂々たる風格を示している。
 この筆者を後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(1308−1335)というが、はたしてどうであろうか。親王は一度落飾して尊雲と称したが、元弘の乱に僧兵を率いて活躍し、還俗して名を護良と改め、征夷大将軍となった。その後、足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉され、直義に殺された。
 この断簡の紙背に、経文の跡がある。古筆家の間では、護良親王の一生をかんがみ、紙背に版経のある消息は、みな護良親王の筆跡といったという。

藻塩草 表35 書状断簡(播磨切) 伝護良親王筆 杉原楮紙墨書 28.4×9.1 27.4×9.1(書簡のみ) 鎌倉時代
 この二行のみではどんな内容か判断し難い。伝護良親王の筆蹟と伝えるごとく、伝来する親王の真蹟と比し、よく似た筆蹟特徴が認められる。まことにすぐれた雄健な書風ではあるが、なお断定はさけたい。

翰墨城 43伝護良親王 播磨切
 護良親王(1308−1385)は、後醍醐天皇の子で、世に大塔宮と呼ばれる。19歳で落飾したが、元弘の乱(1331)には還俗して活躍。建武新政府では征夷大将軍となる。のち足利尊氏と反目し、28歳の若さで非業の死を遂げた。その悲劇的な生涯ゆえに、彼の筆跡が信仰的な尊崇を受けたのであろう。わずか一行、しかも、下部を切断されたこの断簡一葉から、内容を推定することは不可能だが、彼の真跡との比較において、この書状は別人の書と思われる。南北朝時代の遺品。



伝四辻宮善成筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 35 伝四辻宮善成筆 細川切 紙本墨書 27.3×15.8 南北朝〜室町
 室町前期の四辻宮善成(1326−1402・順徳天皇の曾孫)は、国文学者・歌人として名があるが、博学で、「源氏物語」の注釈書である「河海抄」二〇巻を著わしている。この切はその河海抄巻第一の断簡で、内容は桐壺の巻の前の方に相当する。もとは四半の冊子装で、白地の楮紙一面に九行書き列ねてある。
 現存する「河海抄」は室町末期以後の写本が多いが、この断簡はもっと古そうである。書は力強く、筆はのびのびとしている。本文も書き込みも同筆ゆえ、あるいは、これが四辻宮善成の自筆稿本ということも考えられる。細川切の呼称は、これが細川家に伝来したからなのであろう。

藻塩草 表36 河海抄巻第一断簡(細川切) 伝四辻宮善成筆 楮紙墨書 27.4×13.0 室町時代
 『古筆名葉集』の四辻宮善成の条のうち、河海抄巻第一の断簡、その内容は『源氏物語』の「桐壺」の巻の部分である。
 この切は、室町時代末期のものとは考えられず、むしろ四辻善成(応永9年77歳没)の時代にさかのぼると思われる。書込みが本文と同筆であることから、あるいは、これが河海抄の著者自筆の稿本ということも考えられよう。とすれば、この「細川切」というものは、『源氏物語』の注釈書である河海抄の古い面影を伝える貴重な資料ということができようか。「細川切」の名称は、細川家に伝わったためであろう。


伝藤原鎌足筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 36 伝藤原鎌足筆 多武峯切 金泥雲龍下絵紅斐紙金字 32.6×4.7 高麗
 「妙法蓮華経」巻第七・常不軽菩薩品第二〇の断簡。雁皮質の斐紙を朱で染め、金泥で界を、とくに上下の横罫は子持ち罫をひき、天地に飛龍・雲を描き、経文を書いている。明るい紅紙に、他はすべて金をあしらうという豪華な写経で、文字は普通より少ない一行一四字詰である。その書風は力強く、背すじをのばした写経らしい荘厳さをもっている。ただ、日本にはあまり例を見ない装飾経であり、その書風・下絵紋様・紙質・寸法などを考え合わせると、どうも朝鮮から渡来した、いわゆる高麗経のように思われる。
 この経が大和国の多武峯寺(現在の談山神社)に伝来したために"多武峯切"と呼ばれ、また、同神社の祭神である鎌足公との連想により、鎌足の筆跡であるといい伝えたのであろう。

藻塩草 表37 妙法蓮華経巻第三断簡(多武峯切) 伝大織冠(藤原)鎌足筆 金泥下絵斐紙金字書 33.6×7.3 高麗時代
 妙法蓮華経巻第三薬草喩品第五の断簡。渡来の高麗写経と考えられる。しかるにこれが鎌足筆と伝称されてきたのは、おそらくこの経が、大和の多武峯の談山神社より出たため、そこの祭神である鎌足と結びつけられたのであろう。


翰墨城 56伝藤原鎌足 多武峰切
 大和国多武峰の談山神社に伝えられた写経の断簡。名称の由来は、この伝来にちなむものか。多武峰には、山上の藤の木陰で、藤原鎌足(614−669)が中大兄皇子(626−671)と蘇我氏討伐の謀議を凝らしたので、山と称したという伝説がある。また、談山神社の祭神は大職冠・鎌足。鎌足の子、定慧が、鎌足の墓をつくり、さらに妙楽寺・聖霊院を建立したのに始まる社。これに由来して、この切は鎌足筆と伝称するが、朝鮮の高麗(918−1392)の写経で、11世紀から12世紀にかけての遺品。『新撰古筆名葉集』は、「白赤金字経金横卦ノ上二雲龍艸花アリ」と掲げる。紅紙の天地に金泥で子持の界を一条ずつ引き、上下に金泥で下絵を描いた料紙。経文も金泥で、わきに、同じく金泥で梵字を書いている。

翰墨城 57伝藤原鎌足 多武峰切
 「法華経」巻第八・観世音菩薩普門品第二十五の断簡。ふつうの写経よりも料紙が大きく、上下の金界の外側に金泥で美しい唐草文様が描かれている。手鑑「藻塩草」では、それが雲龍の描文様と知られる。『新撰古筆名葉集』によると、「多武峯切白亦金字経金横卦ノ上二雲龍艸花アリ」と記載されるが、藤原鎌足の筆とするには、あまりにも年代に隔たりがありすぎる。その紙質がやや分厚い雁皮質のもので、その書風や画風から推して、朝鮮(高麗)の作と思われ、原形は折本装であった。12〜13世紀の書写。


伝吉備真備筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 37 伝吉備真備筆 虫喰切 紙本墨書 23.5×20.0 奈良
 称徳天皇の天平神護2年(766)10月8日、吉備由利が天朝のために発願した一切経の断簡。料紙に虫喰いのあとがあるため虫喰切という。もとは巻子本、料紙は黄穀紙で、淡暴で細く界をひいている。書はいわゆる天平経のスタイルで、字形は端正であり、点画は雄健である。
 当時一切経は、写経所において多くの写経生によって書き写されたものであるから、ただ虫穴があり、韓風・紙質が似ているということだけで、虫喰切として誤伝されることが多く、どれが真に吉備由利発願の一切経なのか、確実な判定は誠にむずかしい。
 この虫喰切は吉備真備(694−775)の筆跡と伝えている。それは、由利の発願経ということで、政治家・学者としても著名な父真備の人間を尊んでのことであろう。

藻塩草 表38 〔写経断簡〕(虫喰切) 伝吉備(由利)大臣筆 黄穀紙墨書 23.2×12.0 奈良時代
 『古筆名葉集』の吉備由利(693−775)の条に「虫喰切、香昏、墨字経、昏二虫喰アリ故二云」とあり、『増補古筆名葉集』の記載も全く同じである。
 吉備真備の子由利が天平神護2年(766)10月8日天朝のために発願した一切経は、現在、石山寺に「仏説浄業障経」、西大寺に「神変加持経」として伝わっている。西大寺伝存のものは、その保存の状態が悪くない。ところが法隆寺より出た行信や光覚の願経は虫喰いがひどく、しかもどちらもその紙質や書風が似ているので、これが吉備願経の「虫喰切」として誤伝されることが多い。
 一切経は多数の写経生で書写されるものであるから、どれが実際に吉備由利発願の一切経断簡であるか、確実な判定はむずかしい。この断簡も「虫喰切」写経とはいいえても、吉備由利一切経の断簡には一行一七字が多く、これは一行一六字であり断定しにくいものである。


翰墨城 59伝吉備真備 虫喰切
 『古筆名葉集』には、吉備大臣として「虫喰切香帋墨字経ニ虫喰アリ故ニ云」とある。記載事項は、この断簡に相応する。しかし、奈良時代の写経は、写経所で写経生によって多量に書写されており、虫食いのある写経も数多く伝存するわけで、どれを『古筆名葉集』の「虫喰切」にあてるのかはむずかしい。一般的には、天平神護2年(766)吉備由利の発願した「一切経」の断簡を指すのが妥当である。この一葉は、由利発願の「一切経」であるかは不明であるが、書風は、いわゆる写経生の手になる奈良朝の典型的写経体で、写経所で書写された「一切経」の一つであろう。


翰墨城
翰墨城 58伝吉備真備 写経切
 吉備真備(694−775)は、古来能書家として一般に知られているが、本図は、雄勁で正確な筆法による筆致から、奈良朝の写経生の筆に成るものとみられる。よくみると、紙面に小さな虫食いの穴が散在し、『増補新撰古筆名葉集』に、「虫喰切香番墨字経番二虫喰アリ故ニ云」とあるものに相当するとも考えられる。あるいは、称徳天皇(718−766)天平神護2年(766)10月8日の奥書を有する、吉備由利(真備の子)(693−775)発願になる一切経の片割れとも考えられるが、詳らかでない。一行17字詰めの正規の写経体であり、「藻塩草」の一行16字詰めとは、明らかに書式を異にする。が、光明皇后発願の天平12年(740)5月1日の奥書をもつ「一切経」の例にみるように一行16文字の場合もあり、必ずしも17字詰めでない例外も認められるので、なお、検討の余地はある。


伝近衛道経筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 38 伝近衛道経筆 高雄(尾)切 紙本墨書 23.0×12.0 鎌倉
 「西行物語」下の終りに近い部分の断簡で、「増補古筆名葉集」近衛道経(1184−1238)の条に、"高尾切、巻物、西行物語、哥二行書"とあるのに相当する。もとは巻子本。薄手の楮紙に淡墨で界をひいているが、文字は罫にかかわりなく、細く柔らかい線で、流麗に書かれている。
 筆者を近衛道経と伝えるが、何ら確証を得ることができない。自筆の遺品もなく、道経筆と伝える古筆切も、この高尾切だけである。高尾切という呼称は、京都高尾のあたりに伝来したことによるのであろう。

藻塩草 表39 西行物語断簡(高尾切) 伝近衛道経筆 楮紙墨書 23.2×12.0 鎌倉時代
 西行物語下の断簡。道経筆と伝えるが、その自筆が管見に入らず、なお後考を要する。切名称は京都高雄のどこかに伝わったためかもしれない。各古筆名葉集に、道経筆と伝える古筆切は、この切しか記載されていない。



伝近衛家基筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 39 伝近衛家基筆 書状断簡 紙本墨書 31.9×17.7 鎌倉
 ザラッとした杉原楮紙に、たっぷりと大らかな行草書でかかれた書状の断簡。こうした豊かで大きな書状は、その書風と考え合わせてみても、やはり鎌倉時代のものであろう。筆者は、伝承の通り近衛家基(1261−1296)であったかもしれない。


藻塩草
藻塩草 表40 〔歌巻断簡〕(萱津切) 伝近衛家基筆 金銀箔散下絵斐紙墨書 28.1×14.9 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集」の近衛家基の条に「妙満寺切、巻物、寄チラシ書、金銀砂子切箔アリ」とあるものに適合。この歌の内容は明らかでない。もとは写経の用紙であろうか、界罫が引かれている。保存がよくなかったため、前段あるいは後段の文字が写っている。
 家基筆と伝える通り、その自筆消息(陽明文庫蔵)に比すると、その筆蹟特徴はよく似ているが、なお断定はさけたい。その装飾料紙や、書風よりみて鎌倉時代のものと考えられる。


伝近衛道嗣筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 40 伝近衛道嗣筆 久我切 紙本墨書 21.4×14.0 鎌倉〜南北朝
 「新古今和歌集」巻第八・哀傷歌の断簡。もとは冊子本。雁皮質の料紙に、一面八行書き、歌は二行に書かれている。古くからいろいろと云い伝えのある、やかましい切のようである。
 筆者を近衛道嗣(1332−1387)と伝えているが、断定はできまい。しかし、料紙・書風からみて、鎌倉から南北朝にかけての写本の一つと想像できよう。

藻塩草 表41 新古今和歌集巻第八断簡(久我切) 伝近衛道嗣筆 斐紙墨書 22.6×14.8 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第八哀傷歌の断簡。 近衛道嗣自筆の『後深心院関白記』(陽明文庫蔵)などと比し、その筆蹟特徴は非常によく似ているが、なお断定はさけたい。料紙、書風等より鎌倉時代の作と考えられる。


伝鷹司基忠筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 41 伝鷹司基忠筆 小倉切 紙本墨書 24.0×16.1 鎌倉
 「古今和歌集」巻第六・冬歌の断簡。もとは冊子本で、うすい雁皮質の料紙に、一面八行、和歌一首は二行に書かれている。和歌の書き出しは、いずれもたっぷりと大きいが、二行目は細めに小さくまとめており、この一・二行目の調和がうまく処理されている。
 筆者を鷹司基忠(1247−1313)と伝えるが、何ら確証はない。ただ、右払いの筆の運び方・一種くせのある筆をはたらかせた書風などからみれば、やはり鎌倉時代の作と認められよう。

藻塩草 表42 古今和歌集巻第五断簡(小倉切) 伝鷹司基忠筆 斐紙墨書 24.3×16.5 鎌倉時代
 古今和歌集巻第五下の断簡である。書風などより鎌倉時代と認められる。書写年代は、鎌倉時代よりも南北朝時代とみたほうがよい。『増補古筆名葉集」に「雲需、古今続後撰」とあるが、現在のところ、小倉切本続後撰和歌集にも雲紙の料紙は確認されない。


伝藤原忠通筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 42 伝藤原忠通筆 多々良切 金銀切箔野毛砂子散紙本墨書 23.9×14.2 鎌倉
 「白楽天詩集」巻一七に所収の七言律詩・南湖早春の五句・六句にあたる断簡。もとは巻子本。茶に染めた楮紙に、金銀の切箔・野毛・砂子を山や雲のように絵画的にあしらってまきちらした華麗な料紙で、文字は大字の行書体で、柔らかく温雅な典型的な和様のスタイルである。
 筆者を藤原忠通(1097−1164)と伝えるが、書写年代は鎌倉期のものであろう。平安〜鎌倉時代に愛調された白楽天の詩を、大字で、しかも美麗な料紙を用いているところからみても、高貴な方の調度手本として書かれたもののように思われる。多々良切という名の由来は、明らかでない。

藻塩草 表43 〔漢詩断簡〕(近衛殿切) 伝法性寺(藤原)忠通筆 淡紅ヤキカラ紙墨書 33.5×13.2 鎌倉時代
 何を書いているか明らかでない。忠通の自作のものかもしれないが、『法性寺関白御集」には収められていない。書風は法性寺流のねばりのある筆法ではあるが、忠通の真筆に比し、幾分筆致が弱い。むしろ良経の書風に近く、忠通より若干時期の下る作品ではないかと考えられる。切名称は、これが近衛家に伝来したことによるものであろう。



見ぬ世の友
見ぬ世の友 43 藤原忠通筆 書状断簡 紙本墨書 31.2×13.4 平安
 白地の楮紙にやや淡墨で書かれた、わずか三行分の書状断簡。その内容は定かでないが、忽卒な運筆の中に、勁健な点画・筆力のこもった線条が自然に展開している。古筆家はこの書を、平安後期の政治家藤原忠通(1097−1164)の筆跡と鑑定している。
 忠通は関白・摂政・太政大臣を歴任し、詩歌・書道にも長じていた。ことにその名蹟を謳われ、日本書道史では、法性寺流(晩年、法性寺に隠退したことによる)の祖と仰がれている。今日、忠通の書としては、最も信慧すべき忠通書状案一巻が国宝に指定されていて、その筆勢を知ることができるが、この断簡は右と比較して同一の筆跡と考えることができよう。

翰墨城
翰墨城 61伝藤原忠通 酸漿切
 もと巻子本。わずか一行分の断簡であるが、その料紙が美しい。香色の隈ぼかしを施し、一部に銀の砂子を撒く。さらに、銀泥で描き、緑青で隈取りした、かたばみの葉を散らす。「酸漿切」の名はこの下絵によるもの。『新撰古筆名葉集』の「法性寺関白忠道公」の項には、「近衛殿切」に続いて、「酸漿切同縁起行書緑青ニテカタバミノ紋アリ」とある。この一行から、内容を想定するのはむずかしいが、社寺縁起あるいは高僧伝などというジャンルに入る、絵巻の詞書の断簡であろうか。ここにみえる「延智」という僧名は、明らかでない。藤原忠通(1097−1164)は、詩歌・書をよくした人。当時、一世を風靡していた、行成様に対する彼の新書風は、法性寺流として、鎌倉時代にまで、長く命脈を保つ。この断簡は忠通の書ではないが、法性寺流の影響が強い。12世紀末期の遺品と思われる。小菊を摺り出した呼び継ぎは江戸時代中期のもの。



伝九条兼実筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 44 伝九条兼実筆 中山切 金銀切箔砂子散鳥草下絵紙本墨書 16.0×15.5 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一九・誹譜歌の断簡。料紙は雁皮質で、金銀の切箔・砂子を絵画的に霞様にまき、緑青と朱で小草と鳥を描いている。もとは冊子本で、書は円運動のはげしい、くせのある鋭い筆先を見せているが、やや和らいだ潤いに欠けている。筆者を九条兼実(1149−1201)と伝えるが、断定はできまい。しかし、その書風は鎌倉初期のものであろう。公家・中山家に伝来したので、中山切と呼ぶようになったのであろう。

藻塩草 表44 古今和歌集巻第二断簡(中山切) 伝九条兼実筆 金銀箔散下絵斐紙墨書 16.6×16.1 鎌倉時代
 古今和歌集巻第二春歌下の断簡である。兼実の真筆と認められている願文(前田育徳会蔵)や消息(陽明文庫蔵)などに比し、同筆とは認められない。その書風等より鎌倉時代のものと認められる。

翰墨城 64伝九条兼実 中山切
 『古筆名葉集』に、兼実の筆跡として、三点が載せられている。その中に「六半泥画砂子アリ」とあるのと、『増補古筆名葉集』に載せられた八点のうち「中山切六半古今哥二行書金銀砂子緑青ニテ小艸ノ下画アリ」とあるのは、同じものを指しており、これと一致する。『古今和歌集』巻十五・恋歌五の部分で、金銀の砂子や銀の切箔、野毛、緑青の草が美しく施された美しい料紙に十行写されている。もと六半の冊子本で『古今和歌集』全巻が書写されていたと思われる。なお、手鑑「藻塩草」にも、同筆断簡で『古今和歌集』巻二・春歌下の部分一紙が残されている。


翰墨城
翰墨城 63伝九条兼実 和漢朗詠集切
 九条糞(1149−1209)は・関白藤原蕪の子で、鷹灘・欝轟と呼ばれた。藤原五摂家のである九条家の始祖である。彼は、博覧多識で朝儀典故にも通じており、太政大臣にまで昇った。書は、法性寺流の祖、父忠通の書を学び、法性寺流をよくした。また、彼の日記を『玉葉』というが、当時の政局や社会情勢をよく伝えており、史料的価値が高い。本図は、部分的に彩色を施した巻物に『和漢朗詠集』巻上の十五夜と題する部分を写したもの。原形はかなり長い巻子本であったと思われる。『増補古筆名葉集』月輪殿兼実公の項目にも『和漢朗詠集』を書写した古筆はない。他に例の少ないものである。が、真筆と認められる願文と比較すると同筆とはいえない。


伝九条良経筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 45 伝九条良経筆 九餐既切 金銀箔散金銀泥下絵墨書 29.1×37.5 鎌倉
 この古筆切は、伝称筆者が九条家の良経(1169−1206)の筆跡と云われているためか、あるいはまた九条家に伝来したからというのか、九条殿切と名付けられているが、古くは別に興福寺切と呼んだらしい。この類切が興福寺縁起と見誤られたためであろう。
 もとは巻子本で、料紙は金銀砂子切箔を霞にまき、金銀泥で草花を描いている。書は技術的にすぐれたものではないが、一点一画をおろそかにしない謹直な書きぶりで、強い張りをもっている。その表現が後京極風に近いため、筆者を良経にあてたのであろうが、ともあれ、鎌倉期の書写と思われる。
 平安朝以来、白氏文集の愛訥は盛んであったが、これは、美しい料紙を用いていることでもあり、高貴な方の愛読本として制作されたものかもしれない。

見ぬ世の友
見ぬ世の友 46 伝九条良経筆 豆色紙 墨流染紙本墨書 7.9×7.3 鎌倉
 この色紙は、古筆切の申でも最も小形のいかにも愛らしい姿ゆえ、豆色紙の名で親しまれている。詞書や作者名がないが、もとは冊子本で、和歌一首分だけを小さな色紙形に切りとったものなのであろう。豆色紙はすべて、雁皮質の料紙に墨流しが施され、「拾遺和歌集」の歌が書かれている。これは巻第一六(雑春)に収められる歌で、上の句を三行、下の句を三行にそれぞれ散らし書きにしている。他の切も、散らし方はほぼ一定している。小さな紙面に細字でのびのびと筆をはたらかせ、和歌一首を散らし書きでまとめあげる手腕は、よほど自信のある人でなければ出来ぬわざであろう。
 書風は後京極様で、そのため筆者を能書の藤原良経(1169−1206)にあてたのであろうが、断定はできまい。しかし、鎌倉も早い時期の書写になるものではあろう。

藻塩草 表45 和漢朗詠集巻上断簡内侍切) 伝後京極(藤原)良経筆 金銀箔散打曇斐紙墨書 28.8×10.4 鎌倉時代
 和漢朗詠集巻上秋興の断簡。前の漢詩二行と後の和歌二行の問の四行が逸脱している。下地の装飾文様がつながらないところからみて、真名と仮名各二行分の断簡二枚を継いで編集したものとわかる。もとは巻子本。その書は良経筆と伝えるが、その真蹟である消息文に比し、その書風は、同じく後京極流でよく似ているが、なお断定はさけたい。


伝九条道家筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 47 伝九条道家筆 備中切 紙本墨書 25.1×16.0 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第一四・恋歌四の断簡。もとは冊子本で、雁皮質の料紙に、一面一〇行、歌は二行に書かれている。書は細身の線で統一されている。仮名は縦長な形で、小さくまとまった、華やかさに欠ける書きぶりである。
 筆者を九条道家(1193−1252)と伝えているが、本当のところは判らない。鎌倉時代における写本の一典型であろう。備中切という名の由来は明らかでない。

藻塩草 表46 新古今和歌集巻第十一断簡(備中切) 伝九条道家筆 斐紙墨書 24.5×14.1 鎌倉時代
 新古今和歌集第巻十一恋歌一の断簡。九条道家の自筆告文などと比し、同筆とは認め難い。その書風等より、鎌倉時代の作品と考えられる。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 48 伝九条道家筆 大覚寺切 紙本墨書 29.6×8.5 鎌倉
これは、九条道家の筆跡というが、何も確証はなく、また、書かれた内容が何であるか未詳の断簡である。白地の斐紙に金泥で界をひき、文中には朱点も加えられている。縦長な文字・扁平な文字のまじった行草体で書かれているが、字形は整い、点画の穏やかな、鎌倉期特有の和様のスタイルである。

翰墨城
翰墨城 70 伝九条道家 和漢朗詠集切
 『和漢朗詠集』巻下雑部・懐旧の断簡である。『古筆名葉集』『増補古筆名葉集』には、これに相当する切は記載されていない。鳥の子の料紙に墨界を施した巻物の断簡で、一行14字程度の行書。下欄外には、詩歌の出典などの書きこみがある。筆者を九条道家(1192−1252)と伝えるが、その自筆告文(宮内庁書陵部蔵)などと比し、同筆とはいえない。しかし、書風より鎌倉中期は下らないものと考えられる。


墨城
翰墨城 71 伝九条道家 和漢朗詠集切
 『和漢朗詠集』巻下雑部・雲の断簡である。『増補古筆名葉集』の道家の項に「巻物切朗詠歌二行書朱星墨卦アリ」とあるものに相当しよう。鳥の子に墨界を施し、漢詩は行書で一欄一行書き。和歌は一欄二行書きである。本文が書かれたときよりあまり下らぬ時期の、朱点や訓仮名の書きこみがある。道家の自筆とはいえないが、鎌倉時代、このような書物を浄書する、本格的な書き手によったものと考えられる。


伝九条教家筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 49 伝九条教家筆 尾里切 紙本墨書 23.8×15.4 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第三・夏哥の断簡。白地の斐紙に細身の線で書いた、やはり鎌倉期における写本の一つである。もとは冊子本。筆者は、九条教家(1194−1255)と伝えているが、これも確証のないことである。尾里切というのはあまり耳馴れない名称で、その由来も明らかでない。

藻塩草
藻塩草 表47 和漢朗詠集巻下断簡(山井切) 伝九条教家筆 斐紙墨書 29.0×15.7 鎌倉時代
 和漢朗詠集巻下雑部「饅別」の抄の断簡である。もとは巻子装、楮まじりの雁皮質の料紙に真名一行13ないし14字程度、仮名二行書である。真名から仮名まで五行分を欠いており、抄写したものと思われる。文中ところどころ訓点等の書入れがある。
 教家の自筆である金剛峯寺蔵聖観音造立願文に比し、よく似た書風ではあるが同筆とはいい難い。しかし、その書風、料紙等より、鎌倉時代のものと認められる。
 なお、伝教家筆「尾里切」(小四半、新古今歌)とは同筆と認められる。



翰墨城
翰墨城 72 伝九条教家 願文集断簡
 楮質の素紙に天地に墨で横界を引き、その間に一行14〜15字漢字を書き、片仮名で振り仮名と送り仮名を付したもの。もとは巻子本。わずか三行の断簡ゆえ、にわかにこの内容出典を明らかにしがたいが、願文集のようなものの断簡であろうか。書は筆の抑揚を利かせた、俯伏の線の多い書風で、後京極流の特徴を示している。やはり、鎌倉時代の書写になるものであろう。むろん筆者は不明。この切の極札に「弘誓院教家公」とある。九条(藤原)教家(1194−1255)は後京極良輔の子。院号を弘誓院と称したため世に「弘誓院大納言」と呼ばれた。詩歌に秀で、能書の誉れ高かったが、法性寺流から後京極流へと続く当時の書流の中にあってとくに一風変わった書風を評されており、弘誓院流といわれる一派を成している。しかし、教家の筆という確たる遺作は今日なにも伝わっておらず、古筆家は『古筆名葉集』弘誓院教家卿の条に「山井切」以下七点を掲げているが、いずれも確証のあるものではない。このうち、「巻物切仏書、行字、墨卦、一行十四五字、片カナ付朱星アリ」とあるのが、これを指しているように思われる。


伝一条内経筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 50 伝一条内経筆 玄中切 紙本墨書 31.4×13.1 南北朝
 雁皮質の白紙に、和歌一首二行書き、いかにもおとなしやかな仮名がしたためられている。恋廿首とあり、初めの二首を収める断簡。玄中切の名は、おそらく連歌師玄中が所有していたことに起因するのであろう。
 手鑑「藻塩草」には巻首にあたる断簡が貼付されている。そこには、『夏日詠百首応、製和歌、関白従一位行内大臣兼右近衛大将藤原朝臣内経上』とあり、春廿首のうち初めの二首分までを収めている。したがって、もとは春夏秋冬恋の歌を各二〇首ずつ、計一〇〇首を書いた巻子本であった。元応元年4月19日、後宇多天皇は、群臣にそれぞれ百首和歌を作らしめたが、これはそのとき献上した巻物であったかもしれない。とすれば、一条内経自筆の和歌巻ということになる。

藻塩草 表48 一条内経夏日詠百首応製和歌巻断簡(玄中切) 伝一条内経筆 斐紙墨書 31.7×22.8 南北朝時代
 一条内経夏日詠百首応製和歌巻の巻頭の断簡。右筆特有のあくのある書風でなく署名の下に上とあることなどから、あるいはこれが、内経の自筆の和歌巻ではなかろうか。ただ内経の自筆が管見に入らずなお後考を要する。元応元年4月19日、時の後宇多法皇(1267−1324)が、群臣にそれぞれ百首和歌を作らしめられた。これはその時奉上した巻物そのものと考えられる。
 なお、手鑑『見ぬ世の友』には同じ「玄中切」があり、恋二十首の断簡である。



翰墨城 74 伝一条内経 玄中切
 一条内経(1291−1325)の自詠百首歌の断簡。料紙は素紙で、もとは巻子本。手鑑「藻塩草」に巻頭部分が押されていて、それには「夏日詠百首応製和謌(歌)関白従一位行内大臣兼左近衛大将臣藤原朝臣内経上」とある。元応元年(1319)4月19日、後宇多法皇(1267−1324)が廷臣にそれぞれ百首和歌を下命したが、これはそれに応じたもの。内経が巻頭の官位に在任し、しかも「夏日」という条件を満たすとなると、元応元年の4月、5月しかない。内経は、時に29歳。この切は、筆力が強く、字形は整斉で、謹厳に書写されており、署名の下の「上」の一字からも、法皇への奏上本と考えられる。「玄中切」の名称は、かつて玄中の所蔵になったことに由来する。玄中は玄仲とも書き、連歌師で、里村紹巴(1524−1602)の次男。紹巴は、「紹巴切」の名に呼ばれる定家の『後撰和歌集』を愛蔵していたが、古筆の鑑定にも長じていた。玄中もまた父をしのぐ古筆愛好家であった。


伝二条良基筆


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 51 伝二条良基筆 畠山切 打曇紙本墨書 32.3×9.7 南北朝
 もとは詩と哥とを相前後して書いた巻子本で、藍の雲需を用い、天地に金泥の横罫をひいている。この切は南禅寺の僧全肪の作った五言律詩一首を収めるもので、一行一八字詰、背の低い、小さなかたい楷書で書かれている。まるで宋刊本を見るような書風で、筆者を二条良基(1320−1388)と伝えるが、おそらく禅僧の手になったものであろう。畠山切という呼称は、もと畠山家に伝来したためであろうか。

藻塩草 表49 〔和漢詩歌集断簡〕(畠山切) 伝二条良基筆 打曇斐紙墨書 33.1×14.5 南北朝時代
 この『藻塩草』の断簡はこの通り漢詩の部分であるが、手鑑『見ぬ世の友』には九条前関白左大臣の和歌二行書の同切断簡が貼押されており、その双方の内容から、これは五山僧の詩と公家または武家の和歌を書いた巻物とわかる。室町時代、京では五山僧と公武家の問で、漢詩と和歌の技量を競う会がよく催され、「御和漢」などと呼ばれていた。この巻物も、そういった行事に関係ある資料の一つであろう。
 この断簡中には菊荘有恒とあるが、普通は宥恒とも書かれ、東福寺59世、普門院42世、応永4年(1397)11月莞じた禅僧であり、この巻物の製作された上限が、南北朝後期前にはさかのぼりえないことを知る。良基筆と伝えるが、その自筆である春日社願文草案に見る書風とは異なる。切の呼称の由来は、畠山家に伝来したためであろうか。


翰墨城 75 伝二条良基 畠山切
 『新撰古筆名葉集』が「畠山切巻物雲帋上下全卦真字五山僧ノ詩哥二行書哥ハ今川了俊ノ筆ナリ詩哥両筆ノ処モァリ」と述べる断簡。室町時代、五山文学・連歌の隆盛とともに、五・七・五または七・七の和句と、五言の漢句とをまじえる「和漢連句」が流行したが、同時に、五山僧と公卿の間で、漢詩と和歌の技を競う「御和漢」の会もしばしば開催された。この切は、そのときの詩と歌を書写した巻子本の断簡。打曇の料紙、天地に金泥の横界一条を引く。大振りで端正な文字がのびやかに書かれているが、動きや変化に欠ける。和歌は今川了俊(1325−1420)、漢詩は二条良基(1320−1388)の筆といわれている。しかし、この断簡は和歌ながら良基の極めが付される。良基は、関白・従一位。和歌・連歌をよくし、『筑波問答』『近来風体抄』などを蒼す。彼は「脊社繋草轟難六月七日一巻」を塁として伝えるが、「畠山切」はそれに芒て同筆とは断定しがたい。室町時代の書写。

翰墨城 76 伝二条良基 畠山切
 藍の雲紙の上下に、金界を施し、その枠内に春谷永蘭の七言八句を楷書で書く。もとは、前図と一連の巻子本と思われる。この一葉の連れに、手鑑「藻塩草」所収の四行分があるが、筆致もまさしく同一。同手鑑のそれは「江上夕陽」の題を有しており、この一葉にはそれを欠くが、おそらく同様な題が「七言八句」の前にあったであろう。陽明文庫蔵「大手鑑」には、振巌芝玉(東福寺第53世)の七言絶句の部分が所収され、また、手鑑「見ぬ世の友」にも、和歌二行に書いた九条前関白左大臣の作がみられる。なお、その書風と料紙から、二条良基の筆という確証はないが、14世紀末から15世紀初めころにさかのぼる遺品といえよう。


伝藤原家良筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 52 伝藤原家良筆 御文庫切 紙本墨書 29.6×7.2 鎌倉
 雁皮質の斐紙に、ゴツゴツとした調子で筆が走っている。和歌一首二行書き、字粒は大きく、あまり連綿はない。これは藤原家良(1192−1264)の百首自詠の断簡で、御文庫切と呼ばれるが、その由来は明らかでない。
 手鑑「藻塩草」には、上部に加筆のある断簡が貼付されている。これは定家自筆の書き込みと認めることができ、したがって御文庫切は、古筆家の極めの通り、もとは家良の百首和歌巻で、かつては定家の所蔵本であったかもしれない。

表50 〔家良百首和歌断簡〕(御文庫切) 伝衣笠内大臣(藤原)家良筆 斐紙墨書 29.4×10.2 鎌倉時代
 『増補古筆名葉集』に、かなり具体的に記していること、歌の首の上の加筆の文字は、その書風より『増補古筆名葉集」に記しているごとく、定家の自筆と認められることなどから、この切は伝称通り家良百首和歌の断簡と推察される。加えてこの定家の書込みから、この巻物はもと定家の手持本であったことも考えられる。もとは巻子装、書風などより鎌倉時代初期のものと思われる。


伝三条実重筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 53 伝三条実重筆 但馬切 紙本墨書 31.9×9.5 鎌倉
 これは、いかなる内容のものか詳かでないが、行書と仮名まじりで書いた縁起ものの断簡である。もとは巻子本で、雁皮質の料紙に、大らかで柔らかい書きぶりの美しい書が展開している。
 三条実重(1260−1329)の真蹟か否かは判らない。しかし、鎌倉期の書写になるものであろう。但馬切という名の由来も不明である。

藻塩草 表53 〔縁起断簡〕(但馬切) 伝三条実重筆 斐紙墨書 32.3×9.7 鎌倉時代
 手鑑『見ぬ世の友』所収の「但馬切」の内容は「番匠に件の殿舎を造営すべきよしおほせければ造営」とあって、この『藻塩草』本に、その内容文句が接続するように思われる。この双方の内容から推察し、これは縁起の断簡のように思われる。その書風、料紙等より鎌倉時代のものと推察される。



伝近衛忠嗣筆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 54 伝近衛忠嗣筆 馬場切 紙本墨書 20.3×13.4 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第一〇・羅旅歌の断簡。もとは四半の冊子本で、雁皮質の白紙に、一面九行書き、和歌は一首二行に書かれている。この切は、上下の余臼を断ちおとしたらしく、文字が料紙いっぱいにおかれている。文字は小粒で、細く弱々しいが、鎌倉時代における写本の一つの姿を示すものであろう。
 忠嗣(1253−?)の筆跡という確証はなく、また馬場切という呼称についても、その理由を明らかにしがたい。

藻塩草 表51 新古今和歌集巻第九断簡(馬場切) 伝松殿(藤原)忠嗣筆 斐紙墨書 20.3×13.4 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第九離別歌の断簡である。もとは四半の冊子装、その書風等より鎌倉時代と認められる。


藻塩草
藻塩草 表54 千載和歌集巻第十三断簡(西京切) 伝三条公忠筆 斐紙墨書 16.4×15.6 南北朝時代
 千載和歌集巻第十三恋歌三の断簡である。その書風等より南北朝時代のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 77 伝三条公忠 詩書切
 本紙の天地に藍色の雲形を漉きこんだ雲紙に、比較的大きな六文字を一行に書写する。もとは巻子本。内容は、『白氏文集』巻第三の「五絃弾」の一部と知られ、また、それが『和漢朗詠集』巻下の「管絃」にも所収される。その書きぶりから推して、おそらく、白詩あるいは『朗詠集』の詩を数篇抄書したものと思われる。筆管を斜めにして、筆の腹部を用いて書く独特の筆法であるが、三条公忠(1325−1383)の自筆という確証はない。『新撰古筆名葉集』の公忠の項に、「巻物切雲帋詩一行六七字文字一寸五分許」とみえるものに相当する。書風はもとより、雲紙の状態などから、南北朝時代を下らない筆と思われる。公忠の自筆作品として、「慕帰絵詞」巻二の詞書が知られ、その27歳の作と判明する。その書は、藤原行成あるいは伏見天皇などの上代様を根底にしており、穏和な和様体を示す。それとの比較において、この一葉は同筆とは断定できない。



翰墨城
翰墨城 79 伝三条公忠 後撰集切
 『後撰和歌集』の断簡。もと冊子本。一面十行書き、歌一首を一行に書写する。この一葉は、巻第十九・離別・覊旅の部分1ページ分。『新撰古筆名葉集』の「三条公忠公」の項に、「四半後撰哥一行書稀二朱書入アリ」とあるものに相当する。しかし、この筆者名はあくまでも伝称で、公忠の筆跡であるという確たる証拠はなにもない。書風は変化に乏しいが、写本として正確を期すべく、ていねいに書写しているさまをうかがうことができる。「天福二年藤原定家書写本」系統に属する一伝本。書写年代は公忠の活躍期に合致するころ、すなわち14四世紀後半と思われる。


伝清水谷実秋筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 56 伝清水谷実秋筆 持明院切 紙本墨書 23.4×11.3 室町
 「後拾遺和歌集」冒頭の断簡。もとは冊子本で、和歌一首二行書き。書は細太の差の著しい、もっくりとした書きぶりで、あまりスマートな書きぶりとはいえない。草の仮名の混用が多く目につく。
 筆者を清水谷実秋(?−1420)というが、確証はない。名称の由来も明らかでない。

藻塩草
藻塩草 表57 中宮亮重家朝臣家歌合断簡(若狭切) 伝清水谷実秋筆 斐紙墨書 24.5×15.5 南北朝時代
 「中宮亮重家朝臣家寄合永万二年」のうち、第十四番歌の断簡である。もとは四半とあるが、紙面いっぱいに書かれているところから、巻子本の断簡であろう。その書風等より南北朝時代のものと考えられる。
 なお、手鑑『見ぬ世の友』所収の「持月院切」(後拾遺集第一巻頭)とは同筆と認められる。



伝花山院師賢筆


見ぬ世の友
見ぬ世の友 57 伝花山院師賢筆 佐々木切 紙本墨書 27.7×6.7 鎌倉
 穂先のきいた細い線、小ぶりで円い字形がめんめんとつづいている。和歌は一首一行書き、もと巻子本の断簡である。「増補古筆名葉集」尹大納言師賢卿の条には三つの作品が記載されるが、これはその中の一つ"巻物切、大四半形、杉原需、哥一行書、集未詳"とあるのに相当しよう。釈教歌を抄書したものか、あるいは別集の釈教歌部の写本断簡であろう。
 筆者を花山院師賢(1301−1332)と伝えるが、確証を得ることはできない。佐々木切の名は、もと佐々木某の所有であったということによるのであろうか。

藻塩草
藻塩草 表58 〔源氏物語断簡〕(松尾切) 伝花山院師賢筆 楮紙墨書 26.6×1104 南北朝時代
 源氏物語歌のうち「夕顔」の巻断簡である。もとは巻子本で、その書風より南北朝時代のものと考えられる。