呉徴・鄭孝胥

呉徴 ご・ちょう 光緒4年(1878)生〜民国38年(1949)歿
製作年  1924年(47歳)
 呉伯滔の次子。字は待秋、春暉外史・鷺鸞澄人と号し、後、文後山の旧蔵していた漢三斗ミを入手して、褒ミ居士・抱ミと号した。浙江省崇徳の人。詩書画は家学を受け、山水は蒙泉の神髄を得、取逕高古、蒼莽秀潤たりと賞される。早歳よりその妙に通じ、40歳以後は古法を追い、更に気骨堅凝である。筆力は紙背を貫透し、墨彩は紙上を飛舞したという。
 画は呉昌碩を師として海上派にその秀才を謳われた。また花卉・仏像はすこぶる風韻を放った。上海に寓居して終日書画を作り、これにより生計を立てたという。書は蘇東坡の詩や題跋を録すことを好んだ。

   
鄭孝胥 てい・こうしょ 咸豊10年(1860)生〜民国27年(1938)歿
製作年  1925年(66歳)
 字は太夷、蘇龕・海蔵楼主人と号しまた蘇勘・蘇堪とも書く。福建省閩県の人。前清の挙人、かつて西辺防臣に任じ龍州に駐在して四品京堂をうける。1891年に駐日大使館書記官となり、翌年には神戸・大阪総領事になった。帰国後は、光緒23年(1897)に安徽按察使、同年に広東按察使に転じ、間もなく辞して上海にあって自ら公共事業及ぴ実業の発展に力を尽くした。また憲政思想の鼓吹に努めた。その後北京に入って鉄道国有策を建議し、京漢鉄路南段総辮、江南造幣局総辮、湖南布政使などを歴任した。
 1924年、北京政変が起こると、溥儀の逃亡を助け、上海商務印書館董事となった。民国21年(1932)3月に満洲國が成立するや、国務総理大臣、文教部総長に任じた。
 詩を工にし、画を善くした。画松は蒼逸古雋である。書は初め柳宗元を、後に蘇黄を師とした。50歳以後北魏を学んで、卓然として一家を成した。当時陳寶琛とその名を競ったと言われる。用力至勤にして、日々未明に起き、墨を磨き字を写したと言う。行草を得意としたが、その書は碑学の系統を継ぐものではあるが、一種独特な態をなしており、あえて言えば張猛龍碑を換骨脱胎したかの如きものである。
 その著に『海蔵楼詩集』『孔教新編』(民国3年商務印書館)などがある。


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